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礼拝説教、聖書を読んで感じた事

平和をつくる人

2019-11-24 18:31:21 | 礼拝説教
2019/11/24 礼拝説教
【テーマ】  平和に過ごすために
【説教題】 「平和をつくる人」
【聖書箇所】 マルコ9:42-50
9:42 また、わたしを信じるこの小さい者たちの一人をつまずかせる者は、むしろ、大きな石臼を首に結び付けられて、海に投げ込まれてしまうほうがよいのです。
9:43 もし、あなたの手があなたをつまずかせるなら、それを切り捨てなさい。両手がそろっていて、ゲヘナに、その消えない火の中に落ちるより、片手でいのちに入るほうがよいのです。
9:44 【本節欠如】
9:45 もし、あなたの足があなたをつまずかせるなら、それを切り捨てなさい。両足がそろっていてゲヘナに投げ込まれるより、片足でいのちに入るほうがよいのです。
9:46 【本節欠如】
9:47 もし、あなたの目があなたをつまずかせるなら、それをえぐり出しなさい。両目がそろっていてゲヘナに投げ込まれるより、片目で神の国に入るほうがよいのです。
9:48 ゲヘナでは、彼らを食らううじ虫が尽きることがなく、火も消えることがありません。
9:49 人はみな、火によって塩気をつけられます。
9:50 塩は良いものです。しかし、塩に塩気がなくなったら、あなたがたは何によってそれに味をつけるでしょうか。あなたがたは自分自身のうちに塩気を保ち、互いに平和に過ごしなさい。」

○ 私が小学生の頃、もう55年も前の事になりますが、ちょっとした悪い遊びが流行りました。校庭に落とし穴を作るというものです。子どもですから大きな落とし穴は作れません。せいぜい足が入るくらいです。とは言え、転んでしまいますからひどい場合は捻挫したりします。当然中止になりました。でも、子どもというのはよく考えるものです。今度は校庭に草っ原があったのですが、そこにはスーッと伸びた草がたくさんあって、この草を束ねてわっかを作りそこに足を引っかけさせるというものです。校庭で走り回っている子ども達がよくこれにひっかかって転びました。これを見て大笑いするのです。もちろんこれも中止されましたが、私も転んだ一人です。思いがけないところにそんなわっかがあるのです。気がつきません。これはひっかかるということでつまずくというのと少し違いますが、転ばせるという点で同じです。今日のテキストにも人々をつまずかせる話が出てきます。今日の話は「人をつまずかせてはいけません」という道徳的な話なのでしょうか?

Ⅰ.つまずかせる者の行くところ
A.つまずきを与える者は上がって来れない
1.イエスは、「つまずかせる人」を断罪されています。 わたしを信じるこの小さい者たちの一人をつまずかせる者は、むしろ、大きな石臼を首に結び付けられて、海に投げ込まれてしまうほうがよいのです。 と、二度と海の底から上がって来れないようにしてやるというような言い方です。
2.この石臼は人が手でひく程度の石臼ではなくてロバがひく大きな石臼のことですから、二度と上がって来れないということを意味しています。

B.小さい者とは
1.では わたしを信じるこの小さい者たちの一人 とはいったい誰のことなのでしょうか? この 小さい者 とは、「子ども」というより「価値の無い者」という意味です。当時、人々から見下げられていた社会的弱者であり、取税人や遊女という人達も含まれていました。イエスの弟子にはそういう人達も多くいたのです。しかし、マルコ9:36-37からも子どもも当然含まれるでしょう。
2.私は「小さい者」という言葉を聞くとかつて出会った何人もの障がいのある子達を思い出します。彼らは多くの場合見下されていました。悪い言い方をすればバカにされていました。「勉強ができない」「変なことを言う」「話が通じない」「汚い」等々言われ、彼らの心はズタズタにされていました。
3.彼らにこうしたことを言ったり思ったりすれば、イエスから 大きな石臼を首に結び付けられて、海に投げ込まれてしまうほうがよい と言われてしまうことになるんだなあと思いました。そして、イエスは本当にこのような障がいのある子達を愛しているんだなあと痛感したのです。

Ⅱ.つまずかせることの恐ろしさ
A.つまずかせる者はゲヘナに落ちる
1.次に あなたの手 あなたの足 あなたの目 が出てきます。42節は他の人をつまずかせる問題でしたが、今度は自分で自分をつまずかせる問題です。 あなたの手があなたをつまずかせるなら、それを切り捨てなさい。 と。45節は足、47節は目です。地獄に行くよりは手足などが切り捨てられた方が良いというのです。とても厳しい言葉です。
2.また、 ゲヘナに、その消えない火の中に落ちるより の「ゲヘナ」とは何でしょうか? これを「地獄」と言ってしまいやすいのですが、これはベン・ヒノムというエルサレムの端にある谷でゴミ処理場です。このベン・ヒノムのギリシャ語名がゲヘナなのです。
3.ここはかつてバアルを拝んだ王たちが自分の息子達を火で焼いてバアルへの献げ物にしたのですが、それが行われたのがこのベン・ヒノムの谷です。イエスの時代にはここがゴミ処理場となり、人の死体を処理する場所でもあったのです。ここはずっと火が燃えているので、やがて神の審判の場所である地獄の代名詞になったのです。

B.真の解決のために
1.では、実際に手や足を切り捨てることができるでしょうか? また、切り捨てたところで、本当に解決に至るのでしょうか? いえ、それは無理です。イエスはそんなことで解決しないのが「罪」であることを教えておられます。体をどこまで切り捨てても罪は消えはしません。
2.私たちがこの身を滅びに至らせても罪の解決は無いということです。同じく、動物を生贄に捧げ続けても真の解決は無いということです。だから本当に私たちの罪を解決できる生贄が必要だったのです。それがイエス・キリストです。


Ⅲ.平和に過ごす教会
A.塩けを持つ人
1.とすれば、 火によって塩気をつけられます というのがまたわかりにくいですね。塩けは良いものです。そして「火」を試練や迫害と捕らえる人もいます。確かに人は試練や迫害で塩けをもつでしょう。
2.しかし、「火」をさばきととらえるなら、イエスの受けてくださったさばき、つまり十字架の死ではないでしょうか。これによって私たちに塩けをつけるのです。つまり、イエスを信じる者は皆「地の塩」にしていただき、塩けをもつと言うことでは無いでしょうか。

B.塩けが平和をつくる
1.塩は必需品であり、昔は高価な物でした。お金の代わりにさえなりました。しかし、その塩が塩けを失ったら価値が無くなります。私たちクリスチャンも塩けを失ったら価値が無いのです。
2.イエスは あなたがたは自分自身のうちに塩気を保ち、互いに平和に過ごしなさい。 と言われました。教会は平和を保つ場所なのです。それはイエスの受けてくださったさばき・十字架によって私たちが塩けをもつことによってできるのです。
3.人をつまずかせないという道徳的なことは当たり前でしょう。しかし、人の持つ罪は恐ろしいのです。罪の代わりに塩けを持つ人になってこそ平和を保つことができるのです。 9:50 塩は良いものです。しかし、塩に塩気がなくなったら、あなたがたは何によってそれに味をつけるでしょうか。 イエスに従い続けてこそ塩けが保たれるのです。

★ 手や足を切り捨てるのでは無く、すでに十字架で自分を捨ててくださったイエス・キリストによって私たちは地の塩になりました。この塩けを保って互いに平和に過ごそうではありませんか。


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