バイブルサロン

礼拝説教、聖書を読んで感じた事

向こう岸へ渡ろう

2018-12-30 16:40:23 | 礼拝説教
2018/12/30 感謝礼拝説教
【テーマ】  一年の感謝と翌年への希望
【説教題】 「向こう岸へ渡ろう」
【聖書箇所】 マルコ4:35-41
4:35 さてその日、夕方になって、イエスは弟子たちに「向こう岸へ渡ろう」と言われた。
4:36 そこで弟子たちは群衆を後に残して、イエスを舟に乗せたままお連れした。ほかの舟も一緒に行った。
4:37 すると、激しい突風が起こって波が舟の中にまで入り、舟は水でいっぱいになった。
4:38 ところがイエスは、船尾で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生。私たちが死んでも、かまわないのですか」と言った。
4:39 イエスは起き上がって風を叱りつけ、湖に「黙れ、静まれ」と言われた。すると風はやみ、すっかり凪になった。
4:40 イエスは彼らに言われた。「どうして怖がるのですか。まだ信仰がないのですか。」
4:41 彼らは非常に恐れて、互いに言った。「風や湖までが言うことを聞くとは、いったいこの方はどなたなのだろうか。」

○ 今年も最後の礼拝となりました。明後日は2019年元日。今日の御言葉でイエスは弟子達に 「向こう岸へ渡ろう」 と言われました。今年から来年という向こう岸へ私たちも渡ります。日本人はとてもこういう「日」を大事に考えます。

Ⅰ.イエスは寝ている
A.嵐の中で眠るイエス
1.向こう岸へ渡る途中で嵐になりました。この時はイエスが船に乗っておられます。別の箇所ではイエスが弟子達を舟に乗せて向こう岸へ渡らせて、ご自分は後で行かれた話があります。嵐で弟子達の舟が沈みそうになって、弟子達は恐れていたところ、幽霊とも思える誰かが湖を歩いてくるではありませんか。イエスです。その時はイエスは彼らの舟におられず、湖の上を歩いてお出でになりました。
2.今回、イエスは舟に乗っておられる話ですが、イエスは何をしておられたかというと、嵐になっても寝ておられたというのです。いわゆる弟子達が大変なのに何もしてくれず、眠っているだけだというのです。

B.何もしてくださらさない
1.エリヤとバアルの預言者たちとの対決の時、バアルの預言者たちがどんなに祈り、歌い、踊っても何も起こりませんでした。あの時、 一列王18:27 エリヤは彼らをあざけって言った。「もっと大きな声で呼んでみよ。彼は神なのだから。きっと何かに没頭しているか、席をはずしているか、旅に出ているのだろう。もしかすると、寝ているのかもしれないから、起こしたらよかろう。」 とエリヤが言っています。ここにはイエスという神がおられるのですが、まさに寝ておいでになるのです。変に感じる話です。
2.私たちには神が何もなさらないというじれったく感じる事が何度となくあると思うのです。その度に聖書時代、イエスは即時に奇跡を行い、病を癒やすということもなさったのにと。しかし、何もしてくださらないとはどうしてなのか?と。

Ⅱ.イエスが起き上がられる
A.弟子達がイエスを起こす
1. 弟子たちはイエスを起こして、「先生。私たちが死んでも、かまわないのですか」と言った。 と弟子達は自分たちの安全のためにイエスを起こしました。「主よ、危ないですよ」とイエスの安全を考えたわけでは無かったのです。
2.彼らはイエスは自分で助かると思っていたかも知れません。しかし、自分たちはイエスによって助けてもらわないとどうにもならないと思ったのかも知れないのです。確かにその通り、私たちは神無しには生きていけないのです。

B.嵐を静めるイエス
1.イエスはどうしてこんな状態で寝ておられたのでしょう? この後、嵐を静めるのを見せることで弟子達にイエスの力を知らせるためのタヌキ寝入りだったのでしょうか?
2.どちらにしてもイエスは嵐を静めてしまわれました。弟子達がどんなに心配しても嵐に何の影響も与えないのですが、イエスの一言は人にだけでなく、嵐にも、全ての被造物に影響を与えます。

Ⅲ.私たちが恐れるべきは
A.いったいこの方は?
1.嵐や湖までもがイエスの言うことを聞くのです。「この方をどなたとこころえおろう! 先の副将軍、水戸光圀公にあらせられるぞ!」「ははーっ!」という有名なドラマがありましたが、 4:41 彼らは非常に恐れて、互いに言った。「風や湖までが言うことを聞くとは、いったいこの方はどなたなのだろうか。」 という言葉はそれ以上の言葉です。
2.いつも身近にいた弟子達が いったいこの方はどなたなのだろうか とキョトンとします。そばにいたのにわからないお方がイエスなのです。私たちもまだまだわかっていないのではないでしょうか。

B.イエスの言葉に従う
1.私たちは神の言葉で生きているのです。嵐も湖もですが、悪霊でさえイエスの言葉に従います。私たちはイエスの言葉に従っているでしょうか?
2. いったいこの方はどなたなのだろうか と不思議に思い、恐れを感じた弟子達。イエスが神であるので、私たちはイエスを恐れ、その言葉に従わねばならないのです。

● 私たちはイエスの言うことを聞いているでしょうか? 小さな子ども達には「お父さんとお母さんの言うことをよく聞くんですよ」と指導します。この一年、果たしてイエスの言うことをしっかり聞いてきたでしょうか? イエスは 「向こう岸へ渡ろう」 と言われています。そこが伝道の場所だからです。そこにまだイエスを知らない人がいるからです。救われるべき人がいるからです。

★ 新しい年を迎えるので必然的に今年から来年という向こう岸へ行くのですが、イエスの言葉は「この地」から「向こう岸」へ行くことを願われています。

ヨセフとマリア

2018-12-23 17:24:42 | 礼拝説教
2018/12/23クリスマス礼拝説教
【テーマ】  神を愛する人、神に愛される人
【説教題】 「ヨセフとマリア」
【聖書箇所】 ルカ2:1-10
2:1 そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストゥスから出た。
2:2 これは、キリニウスがシリアの総督であったときの、最初の住民登録であった。
2:3 人々はみな登録のために、それぞれ自分の町に帰って行った。
2:4 ヨセフも、ダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。
2:5 身重になっていた、いいなずけの妻マリアとともに登録するためであった。
2:6 ところが、彼らがそこにいる間に、マリアは月が満ちて、
2:7 男子の初子を産んだ。そして、その子を布にくるんで飼葉桶に寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。
2:8 さて、その地方で、羊飼いたちが野宿をしながら、羊の群れの夜番をしていた。
2:9 すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。
2:10 御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。

○ いよいよクリスマスですね。クリスマスには必ずといってよいほど読まれる聖書の箇所の一つを今日見てみましょう。今年、母が亡くなって色々な手続きをしました。その際、戸籍抄本が必要と言われ、本籍地である高槻に行って取ってきたのです。またしばらくすると別の手続きで今度は戸籍謄本が必要といわれ、また高槻に行って取ってきました。面倒くさいものでした。ヨセフとマリヤはもっと面倒くさいことだったでしょう。何日かけてベツレヘムに行ったのでしょう。直線距離で130kmくらいあります。

Ⅰ.世の中の動きに動かされて
A.予想外のメシア誕生
1.イエス様の誕生は、イスラエルの国がしっかり安定していた時代ではありません。むしろ、ローマ帝国の支配下にあり、ユダヤ人たちはずっと救い主の誕生を待ち望んでいる状態でした。
2.そんな時に誰もが思いもよらない、ナザレの田舎娘に天使が現れて、結婚もしていないマリアに神の子が与えられることを告げたわけです。

B.予想外の移動
1.そのマリアの臨月が近づいていた時にローマ帝国の皇帝アウグストから住民登録をするようにとの勅令が出ました。ただでさえ面倒くさいことなのに、出産間近のマリアを連れてヨセフはベツレヘムまで行かなければなりませんでした。
2.ここで「神が不思議に私たちには行かなくてよいという道を開いてくださったのです」というような証しができると「神様ってすごい」と言えるのですが、神からは何の助けも無く、二人はベツレヘムに大変な旅を強いられるのです。

Ⅱ.特別な場所も無く
A.宿屋には泊まる場所が無い
1.ベツレヘムに着いたものの遅くなってしまったがため、宿屋には場所が無く、家畜小屋に泊まることになりました。そして、こともあろうにその日にマリアは出産となったのです。
2.ベツレヘムまで来たのだから、イエスの誕生のために神の不思議で特別すばらしい場所が用意されていても良さそうなものです。「ベツレヘムに着くと、不思議によい宿屋が空いていて、しかも赤ちゃん用のベッドまであったのです」なんて言えると証しとしてすごいじゃないですか。なのに、そんな場所が無く、家畜小屋でイエスの寝かされたのは飼葉おけでした。

B.これでも神に愛されているのか?
1.本当にヨセフとマリアは神から導かれたのでしょうか? 何か違うんじゃないか? と思わせるような、特別な恵みを感じない話です。いわゆる私たちが「証しはありませんか?」と言われて、「〇〇の恵みをいただきました」と言えるような状態になく、「何も証しできるものがない」という状況なのです。
2.ヨセフとマリアは神に愛されているのでしょうか? クリスマスということで、私たちはことさらにイエスの誕生物語を美化したがります。しかし、あの天使のお告げがあった後、特に何もないのです。神の沈黙があっても、彼らはマリアが聖霊によって身ごもったことは信じていました。

Ⅲ.天が地に降りてきた日
A.神に愛されている羊飼いたち
1.ヨセフとマリアは家畜小屋でのイエス出産という大変な状況でした。周りも住民登録のために移動してきた人たちで落ち着かない様子です。そんな時、静かな野原で大変なことが起こっていました。
2.天使が羊飼い達に現れて、救い主誕生を告げていたのです。この羊飼い達も毎日何ら変わらない日々を過ごしていました。その彼らは神に愛されていました。救い主誕生をいち早く知らされるのです。それもアッと驚くような天使によって知らされるという方法でです。

B.イエスと天使がやって来た
1.マリヤとヨセフはまだ羊飼い達が来ることも知らないで、大変な中にもイエス誕生の喜びを味わっていました。まさか、羊飼い達がお祝いに駆けつけるなんて考えもしていなかったのです。
2.一方羊飼い達も何年もずっと変化の無い生活の中で、こんな日が来るとは思ってもみませんでした。一生に一度だけ天使を見ることができたのです。いや、それ以上に「救い主」を見ることができたのです。

★ 神を愛するヨセフとマリア、そして羊飼い達、彼らは神に愛されています。私たちも愛されています。毎日大きな変化が無いとしても神に愛されているのです。天は確実に私たちの所に降りてきているのです。


口がきけなくなったザカリヤ

2018-12-09 16:38:26 | 礼拝説教
2018/12/9礼拝説教
【テーマ】  神を愛する人、神に愛される人
【説教題】 「口がきけなくなったザカリヤ」
【聖書箇所】 ルカ1:18-25
1:18 ザカリヤは御使いに言った。「私はそのようなことを、何によって知ることができるでしょうか。この私は年寄りですし、妻ももう年をとっています。」
1:19 御使いは彼に答えた。「この私は神の前に立つガブリエルです。あなたに話をし、この良い知らせを伝えるために遣わされたのです。
1:20 見なさい。これらのことが起こる日まで、あなたは口がきけなくなり、話せなくなります。その時が来れば実現する私のことばを、あなたが信じなかったからです。」
1:21 民はザカリヤを待っていたが、神殿で手間取っているので、不思議に思っていた。
1:22 やがて彼は出て来たが、彼らに話をすることができなかった。それで、彼が神殿で幻を見たことが分かった。ザカリヤは彼らに合図をするだけで、口がきけないままであった。
1:23 やがて務めの期間が終わり、彼は自分の家に帰った。
1:24 25 しばらくして、妻エリサベツは身ごもった。そして、「主は今このようにして私に目を留め、人々の間から私の恥を取り除いてくださいました」と言い、五か月の間、安静にしていた。

○ 私は子どもの頃、「〇〇が欲しいなあ」と言うと、父は「オー、買ったろう」と言うので、嬉しくて「やったー!絶対買ってや」と頼むと「あー、儲かったらな」が付け加えられました。父が死ぬまで、結局願ったものは一つも買ってもらえませんでした。父は間違ったことは言っていないのですが、希望ももらえませんでした。
  しかし、神は言われたことは必ず成し遂げられます。ところが、人はそれをなかなか信じられないようです。

Ⅰ.なかなか信じられない私たち
A.しるしを求めたくなる
1.人々は神様の約束をどのようにして知ることができるかが気になります。ギデオンは神に用いられることを疑いましたが、それを知るために神様に願って羊の毛を用いていただきました。最初は羊の毛だけが濡れること、次は土だけが濡れることでした。(士師記6章)彼の願ったとおりに神はなさいましたので、彼は信じてリーダーとなりました。
2.さて、今日のテキストのザカリヤの場合。老夫婦に男の子・ヨハネが誕生する証拠はザカリヤが口がきけなくなるということでした。

B.「信じる」の三段階
1.ザカリヤは信じることができなかったとあります。しかし、彼は神を信じています。「信じる」には大きく三つ、「神の存在を信じる」という程度のものと「神の言葉は必ず実現すると信じる」というもの、そして、「神の言葉を自分のものとして信じる」というものがあると思います。
2.ザカリヤは真面目な祭司として神の存在も、神の言葉も信じる人でしたが、自分に子どもが与えられるということはどうしても常識的な判断が働いて信じられなかったのです。

Ⅱ.なぜか辛いことが起こる
A.色々な辛さ
1.口がきけないというのは大変辛いものです。いや、口がきけないだけでなく、目が見えない、手が使えない。どんなことでも不自由になることは大変辛いことです。
2.辛いことと言えば色々あると思います。私は痛みでの辛さをかなり味わっています。経済的な辛さ、人間関係の辛さ、精神的な辛さ、仕事上の辛さ等々。クリスチャンであろうと無かろうと平等なまでにあるのではないでしょうか。

B.クリスチャンなのに
1.どうして、クリスチャンになったのに苦しいこと辛いことがあるのか、というのは昔からの課題でした。クリスチャンでなくても大変良い人、立派な人がいらっしゃいます。そうした人の中には大変辛い人生を歩まれる方があります。「どうして?」と多くの人を悩ませた課題です。
2.いつか必ずその辛さなどが消えるとわかっていればまだいいのですが、そういう良き時を見ないで死んでしまうとするとどうでしょうか?

Ⅲ.辛さが信仰を深めさせる
A.罰ではない
1. あなたが信じなかったからです と言われたザカリヤ。彼は神から罰を受けたのでしょうか? 彼は真面目な敬虔な祭司だったのです。不信仰な人ではありません。ただ、常識的に信じられない話を信じるように言われたのです。
2.神は時に私たち人間の常識を超えて(非常識では無く、超常識)、働かれます。そのために私たちは信じられないという思いを持ってしまいます。それは私たちが常識の方を神よりも正しいと思い込んでいるからではないでしょうか?

B.試練は訓練
1.イエス様を信じていても私たちはこの地上で生きているため、この世で学んだ知識が私たちの頭に刻み込まれ、いつしかこの知識だけが全てであるかのように錯覚を起こします。それはザカリヤのような長年の信仰者であってもそうなのです。
2.神は私たちがその辛さの中から神への信仰を深めるように計画されていることが多々あるように思われます。罰のように思えることもあるかも知れません。しかし、神は信じる者に罰を与えることはなさいません。むしろ私たちの信仰の成長のための試練です。それが信仰に深みを増させるのです。

● 風邪から喉をやられてしゃべっても声が出なくなったことがあります。と言ってもザカリヤのように完全に声が出なくなったわけではないのですが。それでも大変でした。一生懸命話をするのですが、なかなか伝わらないし、こちらもしんどくなってきます。このままで日曜日を迎えたら説教できないと気持ちも焦りました。ここで、神にこのことも感謝できたら、私の信仰も立派だったのだと思うのですが、焦りだけで感謝がなかったように思います。試練に会う時はむしろ 【新改訳2017】ヤコブ 1:2 私の兄弟たち。様々な試練にあうときはいつでも、この上もない喜びと思いなさい。 とあるように喜ぶのがいいのかも知れません。ザカリヤは口がきけなくなったことがヨハネ誕生の証拠でしたから、それは喜びだったのです。

★ 信仰生活に試練はつきものです。試練無しの信仰生活はむしろ神の愛がないのかも知れません。試練は私たちに対する罰ではありません。むしろ、神に対する信仰の成長のために与えられるものです。

聖霊に満たされたヨハネ

2018-12-02 19:20:35 | 礼拝説教
2018/12/2礼拝説教
【テーマ】  神を愛する人、神に愛される人
【説教題】 「聖霊に満たされたヨハネ」
【聖書箇所】 ルカ1:14-17
1:14 その子はあなたにとって、あふれるばかりの喜びとなり、多くの人もその誕生を喜びます。
1:15 その子は主の御前に大いなる者となるからです。彼はぶどう酒や強い酒を決して飲まず、まだ母の胎にいるときから聖霊に満たされ、
1:16 イスラエルの子らの多くを、彼らの神である主に立ち返らせます。
1:17 彼はエリヤの霊と力で、主に先立って歩みます。父たちの心を子どもたちに向けさせ、不従順な者たちを義人の思いに立ち返らせて、主のために、整えられた民を用意します。」

○ 今日からアドベントに入ります。クリスマスを待ち望んで過ごす4週間です。世の中も、子ども達も何かしら嬉しい時期ではないでしょうか。今も私たちがクリスマスを待ち望むのとはまた違った思いで、救い主の誕生を待ち望んだのが2000年前のイスラエルの人々でした。そのイエス・キリストの誕生の前にヨハネが誕生しますが、ヨハネとはどのような人なのでしょうか?

Ⅰ.ヨハネは喜びを与える人
A.溢れるばかりの喜び
1.不思議にもザカリヤとエリサベツという老夫婦に男の子が生まれるという預言が与えられました。その子はザカリヤにとって あふれるばかりの喜び です。子どもが欲しくてずっと祈ってきたザカリヤ夫婦ですが、やっと与えられたのは老人になってからでした。喜びというよりも戸惑いだったでしょう。
2.しかし、アブラハムとサラを思い出すとやはり嬉しいことでした。しかも、天使が告げた言葉がひっかかります。息子は特別な働きをするというのです。それは真面目に生きてきたゼカリヤとエリサベツにとって あふれるばかりの喜び でした。

B.主の御前に大いなる者
1.ヨハネの誕生はザカリヤ夫婦にとって あふれるばかりの喜び ですが、イエス・キリストの誕生は全世界の喜びです。ヨハネは 主の御前に大いなる者となる と預言されましたが、イエス・キリストは全世界の全ての人の救い主として預言されてきました。
2.子どもは神からの贈りものです。同時に神から与えられた子どもを親は大切に育てる義務があります。大切に育てることの第一は祈って育てること、神を礼拝する者、神と人を愛する者に育てることです。ザカリヤとエリサベツはそのように育てたと思います。

Ⅱ.ヨハネは聖霊に満たされた人
A.聖霊に満たされた人生
1.ヨハネは ぶどう酒や強い酒を決して飲ま ない、と預言されました。当時の献身者の姿です(ナジル人と呼ばれた人たちでサムソンもそうでした)。ヨハネは神のために働く人、預言者のような人になるべく定められていました。
2.パウロは全ての人に エペソ 5:18 また、ぶどう酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。むしろ、御霊に満たされなさい。 と、言っています。聖霊に満たされることが人にとって大事な生き方なのです。

B.母の胎にいる時から
1.しかも、ヨハネは 母の胎にいるときから聖霊に満たされ ていたというのです。お母さんが妊娠中にアルコール、タバコ、薬物などを使っていると胎児に大きな影響を与えることは明白になっていますが、反対にお母さんが聖霊に満たされているとどうなのでしょう。子どもも聖霊に満たされるかも知れません。
2.一方、イエス・キリストは聖霊によって誕生しました。神であり、人間であるイエスはさらにバプテスマを受けた時に聖霊が鳩のように下ってこられたとあります。

Ⅲ.ヨハネは人々を神に立ち返らせる人
A.エリヤのようなヨハネの働き
1.ヨハネの大事な仕事は イスラエルの子らの多くを、彼らの神である主に立ち返らせ るという働きです。人は神に立ち返らねばなりません。ヨハネは人々に悔い改めを迫りました。そして、悔い改めのバプテスマを授けていました。
2.ヨハネは 彼はエリヤの霊と力で、主に先立って歩みます という、ちょっと私たち日本人にはわからない話ですが、ユダヤ人にとってはとても大事な旧約の預言者エリヤが再来すると思われていました。まさにエリヤのように働くのがヨハネだと天使は語ったのです。
3.ヨハネは 父たちの心を子どもたちに向けさせ、不従順な者たちを義人の思いに立ち返らせて、主のために、整えられた民を用意します。 と、今までの人々の間違った生き方、歩みを悔い改めさせる働きをするために生まれてくるのです。

B.イエス・キリストのために働くヨハネ
1.すばらしい立派な預言者ヨハネですが、それでも彼は人々を神に立ち返らせる働きをするに過ぎません。ヨハネは人を救えないのです。
2.救うことができるのはイエス・キリストだけです。そのことを知っていたヨハネは自らを低くし、イエス・キリストの救いの仕事が速やかに進むように備えた人です。

● お腹の中にいるときから聖霊に満たされていたヨハネ。すばらしいです。ヨハネは神を愛する人になりました。全ての人が神を愛する人になることが神の願いです。なぜなら神は全ての人を愛しておられるからです。イエス・キリストのために働いた人はたくさんいます。その一人に佐藤信子先生というこの新中野キリスト教会で1966年から10年間副牧師をしてこられた先生です。先生はその後台湾に、そして香港に宣教師として行かれました。が、1996年10月15日に53歳で召天されました。先生は子どもからお年寄りまで暖かく愛されたので、誰からも好かれ、一人一人に福音を語ってこられました。なにしろ、公然と伝道できない地域で伝道されたので、一人一人に語るしかなかったのです。それでもそれで人々はイエス・キリストを知り、救われていったのです。しかし、佐藤信子先生が救えるのではなかったのです。佐藤先生もヨハネと同じく、聖霊に満たされてイエス・キリストを伝えるだけだったのです。

★ 私たちも人を救うことはできません。でもヨハネのようにイエス・キリストのために働くことができます。あなたも神に愛されています。あなたもイエス・キリストのために働きませんか。