バイブルサロン

礼拝説教、聖書を読んで感じた事

低きに下る愛

2016-01-31 17:51:50 | 礼拝説教
2016/1/31礼拝説教
【テーマ】  教会の一致のために
【説教題】 「低きに下る愛」
【聖書箇所】 ローマ12:9-10
  12:9 愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善に親しみなさい。
12:10 兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。

○ 先週、キリストのからだである教会を建て上げていくために神様は信徒みんなに賜物を与えておられる事を語りました。

Ⅰ.アガペーをいただこう!
A.賜物と愛のバランス
1.パウロは一連の賜物の話をした後、「愛」について語ります。そのことはコリント人への手紙第一でも同じように「愛」の重要性を語ります。Ⅰコリント12章では「賜物」のことを書き、その直後の13章では「愛」のことを書いています。またこのⅠコリント13章は「愛の章」とも言われる有名な章です。
2.賜物と愛は切り離せないのです。それは、賜物を与えるのは聖霊で、聖霊は愛だからです。しかし、私たちは神ではありませんので、賜物と愛をバランスよく使えるとは限りません。だから、聖書はこの大事なバランスを訴えているのです。

B.アガペーの愛
1.聖書でよく使われる「愛・アガペー」は、神様の愛とも言われます。アガペーの愛は何でも包み込んでしまう感情ではありません。私たちは「愛」を持っているのですが、「アガペー」はもともと持っていません。そのため、どうしても人間的な基準で愛してしまいがちです。
2.アガペーの愛は神様からいただく以外にありません。賜物は突然でも頂くことができますが、愛は時間をかけて熟成されるものです。「御霊の実」とも言われるように、時間をかけて実を結ぶものなのです。

C.人は愛されて愛を学ぶ
1.アガペーを持つためには神様と親しくすることです。人と親しくして愛するようになっても、悪さえ混じり込んでだ愛をもってしまいます。自己中心な愛等です。子どもを愛している親にありがちな「溺愛」もそうです。
2.アガペーを持ち得ない私たちはアガペーそのものである神様から学ぶのです。赤ちゃんは愛を親から学びます。愛されてをもつようになるということです。私たちは神様に愛されていますので、神様から愛を学んでいるのです。とは言え、見えない神様から学ぶので、聖書から神を知り、善に親しむのです。

Ⅱ.互いに尊敬し合おう!
A.兄弟愛
1.10節に出てくる「兄弟愛」、これはもちろんクリスチャン達のことを言っています。肉の兄弟では無く、霊の兄弟です。クリスチャンは互いに「兄弟・姉妹」と呼び合う習慣があります。
2.私は最初教会に行って「●●兄弟」「●●姉妹」と言っているのを聞いて不思議な気がしました。すごい数の家族だなあと。そして、自分も「藤井兄弟」と言われるようになり、なじむとなんら不思議な気がせず、友達を教会に呼ぶと今度はそれを聞いて友達が変な顔をしていました。
3.教会は兄弟愛を持つ人が集まって来るから教会には愛が満ちるのではなく、神様からの愛によって愛の人になっていくのです。

B.尊敬する
1.教会は神の家族だから、「兄弟・姉妹」と呼び合うのですが、それが呼びかけだけでは問題です。 兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。 と言われているように、 尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思 うのです。ここは、 思いなさい と命令形です。自分が尊敬されるから他の人をも尊敬するのではなく、真っ先に自分から人を尊敬するのです。
2.教会の中で目だった賜物を持つ人、牧師等々は尊敬されやすいです。しかし、賜物の目だたない人に尊敬の念を持つということです。
3.権力を好む人が教会を支配して後の人はおとなしくついていけば教会が成り立つというのではないのです。

Ⅲ.教会を愛で建て上げよう!
A.潤滑油としての愛
1.賜物は何のために与えられるのでしょうか? 聖霊が内住されるということは、その人たちに恵みに応じて賜物が与えられ、キリストの証人として力強くさせ、キリストの体を建て上げていくために与えられます。
2.様々な働きがあると同時に、それらの働きの潤滑油が必要です。どんなに良い歯車でもその間に潤滑油・グリスを入れないとガチガチでまともに動きません。私は自転車が好きで、かつては全部ばらして元どおりにすることができました。自転車屋になりたいとさえ思ったことがあります。その時、車輪をばらすと、ベアリングがあって、小さな鉄の玉があるのです。きれいに磨き上げたのですが、グリスを持っていなかったので、そのまま入れてみたのですが、なんとも走りにくいし、途中でガタガタいいだしました。もう一度ばらすとベアリングの鉄の玉が割れていたのです。今度は鉄の玉が1個無くなりましたが、グリスを入れて走ったところ、とてもスムーズに走るのです。
3.賜物だけでは教会はガタガタ、ギスギスすると思います。愛は潤滑油・グリスのようなところがあります。

B.偽りの無い愛
1. 愛には偽りがあってはなりません とは、偽善ではいけないということです。「偽り」という言葉は「仮面」を意味する言葉です。皆さんはミッキーマウスの中の人を見たことがありますか? くまモン、ふなっしー、等々。仮面では良い笑顔でも、中では怒っているかも・・・。
2.愛は心の底から笑顔を出させます。出産なさったお母さんは激痛の中で赤ちゃんを生みます。いわば、赤ちゃんはお母さんを痛めつけているのですが、生まれるとお母さんは心の底から嬉しくて笑顔で赤ちゃんを見ます。

C.聖霊によって可能になる兄弟愛
1.一人の人がイエス・キリストを信じるのも同じでイエス様は十字架の苦しみを味わっても、私たちを心底喜んでくださるのです。ここに最も低きに下った愛があります。
2.私たちの中に住まわれる聖霊はそういう愛のお方です。ですから、聖霊に満たされることで 兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。 が可能になるのです。

★ あなたもイエス様と共に低きに下って、兄弟姉妹を愛してください。


与えられた恵みに従って

2016-01-24 18:48:38 | 礼拝説教
2016/1/24礼拝説教
【テーマ】  教会の一致のために
【説教題】 「与えられた恵みに従って」
【聖書箇所】 ローマ12:6-8
  12:6 私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っているので、もしそれが預言であれば、その信仰に応じて預言しなさい。
12:7 奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教えなさい。
12:8 勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は喜んでそれをしなさい。

○ 神様はユダヤ人によって神様のことを教えようとされましたが、ユダヤ人は神様の思いを理解せず、失敗してしまいました。イエス様による救いを決められた神様はイエス様によって救われた人々によって、その仕事をすることを考えられました。教会が一致してその働きをすることを願っておられます。

Ⅰ.神様は大事な賜物をくださった
A.賜物を持っている
1.神様は教会がキリストの体として機能するよう、一致することを願っておられます。そこで、 私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っている とあるように、みんなに賜物が与えられました。これは 持っている であって、「持て」ではありません。
2.それが 与えられた恵みに従って とあるように、神様は私たちに恵みを与えてくださいました。恵みはみんなに同じではなく、それぞれにふさわしいものです。そして、その恵みに従って、各自に違う賜物を与えてくださったのです。

B.預言は大事な賜物
1.その賜物の中で、パウロはまず「預言」を挙げました。 もしそれが預言であれば、その信仰に応じて預言しなさい。 と言っています。神様はみんなに「預言」の賜物を与えたのではなく、「預言」の賜物を与えられた人は預言するようにというのです。
2.預言というのは「予言」ではなく「預言」です。未来を言い当てるというような「予言」ではなく、神様からの言葉を預かって語るので「預言」なのです。
3.パウロはコリントの教会にこう書き送っています。 Ⅰコリント14:1 愛を追い求めなさい。また、御霊の賜物、特に預言することを熱心に求めなさい。 と。特に預言を求めるように言っているのです。まだ、新約聖書の無い時代です。旧約聖書はいくら大事であっても、イエス様によって救いが成就したことを書いた聖書は無いのです。そのためには神様から言葉を預かって語ることはとても大事だったわけです。

C.預言の扱いには注意も必要
1.パウロはここ(ローマ人への手紙)でも「預言」の重要性を思い、真っ先に預言の賜物を挙げたと思われます。現代ではこのことは注意が必要です。先週のメッセージで語ったように「神様が私にこう語られました」とか言って、それが教会全体を動かすような内容である場合、特に注意が必要です。
2.個人的なディボーションの中で、神様から教えられることがあるかと思います。時にはそれが強く感じられて神様からの「預言の言葉」と思えることもあるかも知れません。しかし、それはあくまでも個人的な事であって、教会全体に語られるべきものかどうかはしっかりと吟味が必要です。
3.今は聖書があるとは言え、歴史、文化、さまざまな違いがあるため、決して聖書を読むだけで理解できるとは限りません。神様が牧師や教師の賜物を与えられたのは、聖書から人々に神様のお心を教えるためと考えられます。実際のところ、聖書は間違った理解をされることが多いものです。

Ⅱ.賜物は教会の成長のため
A.さまざまの賜物
1.7節の 奉仕 という言葉も、私たちは一般的な「奉仕」と読みやすいです。新中野教会では毎年「奉仕アンケート」をとります。みんなが何らかの奉仕をして、教会を建て上げようというものです。しかし、ここで言われている 奉仕 「ディアコニア」は、テーブルで接待することを意味しています。そこから教会全体の奉仕もありますが、弱い者、貧しいものに対する奉仕を示す言葉でもあるのです。
2. 教える人 というのは、キリストの福音と、それにふさわしいクリスチャンの生活の仕方を他のクリスチャンに教える奉仕です。これはかなり大きな奉仕です。新中野教会は今年この点を重視しています。教育部と信徒部で協力して、信徒の皆さんが正しく福音を理解し、福音的な生活をすること、そしてキリストの体を建て上げることを目指すのです。
3. 勧めをする人 とは、生きる気力を失ったり、信仰の弱さに悩んでいる人を慰めたり、励ましたりして元気を与える奉仕です。こうした働きは日本の教会では特に必要とされていると思います。
4. 分け与える人 とは、自分の財を教会の働きのため、貧しい人のために愛をもって惜しげ無く与える人です。社会的な制度も確立していなくて、経済的に厳しい生活をしている人たちが教会にいたわけです。単に気前よく振る舞うのではありません。教会の前進のためです。
5. 指導する人 とは、その言葉の通りです。霊的にも一般的な生き方においても指導する人です。教会ではこれもとても大事な賜物・奉仕です。現代では役員や長老級の方々かもしれませんし、子どもたちに対しては子ども教会の先生方とも言えます。家庭にあっては一家の長でもあります。
6. 慈善を行う人 とは、あわれみをもって、貧しい人を助け、困っている人を援助する人です。

B.必要な賜物が与えられる
1.私はざっとこれらの賜物を見て、当時のローマ教会には「教え、訓練する」賜物と「助ける」賜物が必要だったのだなあと感じました。「預言」「教え」「勧め」「指導」と「奉仕」「分け与える」「慈善」に大きく分かれるように思います。
2.コリント教会では Ⅰコリント12:8 ある人には御霊によって知恵のことばが与えられ、ほかの人には同じ御霊にかなう知識のことばが与えられ、 12:9 またある人には同じ御霊による信仰が与えられ、ある人には同一の御霊によって、いやしの賜物が与えられ、 12:10 ある人には奇蹟を行う力、ある人には預言、ある人には霊を見分ける力、ある人には異言、ある人には異言を解き明かす力が与えられています。 とあります。
3.教会には、その時その時、それぞれの教会によって必要が違います。そのように必要な賜物も違うということです。神様は恵みに従ってそれぞれの教会に必要な賜物を与えられます。

Ⅲ.新中野キリスト教会も賜物で成長する
A.みんなで教会を建て上げよう
1.私は新中野教会において、今年の方向性は「聖書に聞き耳を立てよう」の通り、聖書を深く知ることと、信徒みんなが奉仕をしてキリストのからだである教会を建て上げることです。
2.私たちはすでに多くの恵みを受けています。その恵みに従って、神様はまた私たちに賜物を与えてくださっています。皆さんにその実感があるかどうかは別として、神様は与えてくださっているのです。
3.その賜物を用いて、互いに聖書を教え、分かち合い、そこから教えられて奉仕をするのです。

B.新中野教会に必要な賜物は?
1.新中野教会において説教するのは牧師だけで良いのでしょうか? 教える人 勧めをする人 指導する人 は誰でしょうか? 新中野教会にはこういう人たちが必要です。
2.そして、 奉仕 勧めをする人 分け与える人 慈善を行う人 も必要です。いえ、それだけでは無さそうですね。今の時代はパウロの時代とは違います。必要な賜物も違うかも知れません。
3.私たちは神様から恵みを得ました。その 与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っているので す。恵みを受けなかった人がいないように、賜物を持っていない人もいません。

★ あなたの賜物を正しく用いてください。

あなたは大事な存在です

2016-01-17 16:26:15 | 礼拝説教
2016/1/17礼拝説教
【テーマ】  教会の一致のために
【説教題】 「あなたは大事な存在です」
【聖書箇所】 ローマ12:3-5
12:3 私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。
12:4 一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、
12:5 大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。

○ ローマ人への手紙の12章からクリスチャンの生き方、実践編に入ったと言いました。そして、その12章1-2節で早速大事な礼拝、霊的礼拝ということを語りました。今日のところからパウロは更にクリスチャンの生き方、教会の姿を語ります。

Ⅰ.トップを勘違いしないこと
A.謙遜がカギ
1.ユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンが混在する教会は私たちが思う以上に難しさがあったのではないでしょうか? 現代は価値観が多様化した時代と言われ、たとえ日本人だけの教会であっても色々な難しさがあります。教会といえども人の集まりだからです。
2.パウロは だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。 と言います。「謙遜」を訴えています。教会が教会としてしっかり機能するのは「謙遜」がカギです。

B.教会の一致
1.先の12:1-2で、パウロは「自分をささげること」「心の一新によって自分を変えること」を教えています。そして、それが私たちの肉的な努力によるのではなく、聖霊の助けによってなされることが必要なのです。
2.教会は一致が望まれます。企業でも、学校でも、クラスでも、家族でも「一致」は望むものです。しかし、多くの場合、同じ事をするとか、上司や上に立つ者の考えに従うことで一致していくと思いがちです。確かに心からそうできれば美しい一致になるのかも知れません。
3.私たちはそういう世の中での一致を学んできたり、体験したため、「一致」をそのレベルで考えてしまいます。しかし、教会にはトップの人間がいるわけではなく、みんな賜物に応じて働いており、最高の権威者は神様です。

C.権威者は神様だけ!
1.時として「神様はこう言われました」「神様からこう教えられました」という言い方をして、みんなを引っ張って行こうとする人があります。これがひどくなるとカルトです。
2.パウロは だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。 と言っています。私たちは奉仕者ですが、権威者ではありません。自分の思いを神様の思いとすり替えてはいけないのです。
3. いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。 とパウロが言うように、私たちはみんな神様から信仰をいただいています。ただ、信仰は一つでも、そこから始まる一人一人の生き方や考え方には違いがあるものです。大事なのは 慎み深い考え方 をする事です。

Ⅱ.みんなキリストの体
A.私たちは各器官である
1. 12:4 一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、12:5 大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。 と、教会がキリストの身体で、私たち一人一人が各器官であるというのは聖書を貫いて教えていることです。
2.つまり、各器官であるということは、例えば「口」であって「目」ではないというようなことです。「口」は「口」の働きをしてこそ、体全体は機能するのです。「口」が「目」になろうとしたら大変です。また、「口」以外に「目」の分まで働こうとしても困るのです。反対に「目」が「口」になろうとしても困るのです。ただ、「目は口ほどにものを言い」ということわざはありますが。

B.みんなが大切な存在
1.教会は礼拝者がいないと成り立ちませんが、実は奉仕者無しでも成り立たないのです。そして、全ての礼拝者が奉仕者であることが大事なのです。
2.その時に、誰かの働きまで入り込んでは困ることがあるのです。私が奏楽者になりたいと思っても、それを実行すればみんなが困ると思います。 だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。 と、そういうことなのです。
3. 12:5 大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。 とありますが、 大ぜいいる私たち と、大勢かも知れませんが、みんな同じ器官では無いわけですから、みんなが必要なのです。不必要な器官がないのと同じように、教会において、不必要な人はいません。

C.境界線を越えない
1.ただ、 だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。 とあるように、思い上がらないこと、慎み深い考えを持っていることが大事なのです。自分が大事な器官であるように、他の信徒も大事な器官です。
2.「境界線」という本が大売れに売れました。多様化した時代にあって、人々は自分と他の人との境目に苦しんでいます。離れすぎてはコミュニケーションがありません。しかし、ずかずか入りこみ過ぎたとき、人の心を壊します。
3.イエス様は無理矢理あなたの心に入り込みはなさいませんでした。それはあなたを愛しているからです。あなたを尊重しておられるのです。あなたはイエス様に愛されている大事なキリストの存在です。

★ あなたはキリストの体なのです。神様にものすごーく愛されているのです。あなたは教会の大事な存在なのです。そして、他の兄弟姉妹も大事な存在なのです。


聖書に聞き耳を立てよう 2

2016-01-10 19:16:12 | 礼拝説教
2016/1/10礼拝説教
【テーマ】  整えられる人
【説教題】 「聖書に聞き耳を立てよう 2」
【聖書箇所】 Ⅱテモテ3:16-17
  3:16 聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。
3:17 それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。

○ 先週に引き続き今年の教会標語の元となる御言葉を見ていきましょう。聖書がどのような書(本)であるのか、ということが16節にあったわけです。今日はその次の17節を見ましょう。

Ⅰ.あなたは神の人である
A.神の人とは誰か?
1. それは、神の人が、 とパウロが言いますが、神の人とは誰のことでしょうか? 旧約聖書では、モーセやサムエル、エリシャ、ダビデ達が「神の人」と呼ばれています。旧約時代はやはりこうした特別な人を「神の人」と呼んでいます。
2.しかし、新約聖書では2回用いられており、どちらもこのパウロがテモテに宛てて書いた手紙にあるのです。 Ⅰテモテ6:11 しかし、神の人よ。あなたは、これらのことを避け、正しさ、敬虔、信仰、愛、忍耐、柔和を熱心に求めなさい。 と、テモテのことを言っていますが、今日のテキストでは、全てのクリスチャンを言っています。

B.神の人は聖書に聞き耳を立てる人
1. それは、神の人が、 とパウロが言うように、私たちは神の人なのです。神の人とは特別な人を言うのではないのです。私たちみんなが神の人です。その自覚が有るか無いかは、聖書をどのように読んでいるか、つまり「聞き耳を立てて」読んでいるかどうかで決まるかも知れません。
2.私たちが すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるため に聖書はありますし、神の霊感によるのもそのためです。人の意見や人の学んできたことだけが書かれているのでしたら、それは神の人にはなり得ないのです。「善い人」止まりかもしれません。

Ⅱ.あなたは良い働きをすべきである
A.良い働きとは
1. すべての良い働きのために すべての良い働き とは何でしょうか? もちろん すべて ですので、生活のすべてです。私たちは教会にいるときだけクリスチャンなのではありません。全ての時間、どこにいるときもクリスチャンです。教会にいる時も、家にいる時も、学校や職場にいる時も、友人といる時もクリスチャンです。まわりに流されず、しっかりとした「神の人」としてのアイデンティティーを持っていることです。
2. すべての良い働き ですから、当然私たちは「悪い働き」をしてはならないのです。そんなことはクリスチャンでなくても当たり前ですが。ただ、ここでの 良い働き は、単に悪いことはしないとかではなく、神様のための働きなのです。
3.私たちは世に属しつつも神の世界(領域)に属しています。世においても良い働きをすべきですが、神の世界において良い働きをする事がクリスチャンの最も大事な事です。

B.私たちに与えられた使命
1.教会は何のためにあるのか? いずれ天に帰った時のために天国の礼拝になじむためでしょうか? それもあるかも知れませんが、もっと大事な使命が教会にはあります。
2.その使命とは、かつてユダヤ人を通してなさろうとしたこと、神様のことを正しく伝える事と、人として正しい生き方を教える事です。この働きが教会に与えられた使命です。私たちはその使命を果たしているでしょうか?
3.いわゆる世では良い働きをしていても、教会では何もしていないというのは問題です。ただ、教会の使命は教会の中でするだけのものでは無いので、教会という場所に来れない人にも「エクレシア」としての働きはできるのです。

Ⅲ.あなたは整えられた者になるべきである
A.世の人ではなく、神の人だから
1.そこで、 神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となる ことが求められるのです。私たちはその良い働きのために 整えられた者 にならねばならないのです。整えてくださるのは神様です。
2.大学や専門学校などでそれぞれの職業にふさわしい学びをします。その領域で「良い働き」をするためです。しかし、人として生まれたということは、神の人として生きることが大事なのです。「世の人」ではありません。私たちはそのままでは「世の人」です。必要な学び・訓練を受けて「神の人」として成長すべきなのです。

B.神の深い愛を知る勉強がある
1.そこで、神様が用意されたのが「聖書」です。私たちは学校でも「教科書」を読みます。そして、知識を蓄えます。さらにその知識を生かして実践に持ち込みます。
2.聖書は知識を得るための書物ではありません。もっと実践的な書物です。というのも、聖書は私たちに起こることが書かれているのです。また、私たちのすべき事が書かれているのです。私たちの姿が書かれているのです。
3.イエス様を信じて真の命を得、神の人と変えられ、天国人となりますと、さらに訓練・試練もあります。しかし、それを通して私たちが知り得なかった神様の奥深い愛を知るのです。試練を受けて教会を去って行く人がありますが、もう少し我慢して欲しいと思います。その先に神様の深い愛を必ず発見できるからです。

C.聖書にある聖霊の働きを体験する
1.さらに世の人では味わうことのできなかった、聖霊の働きを知ることになります。聖霊に満たされる、聖霊の力が溢れるという神の人ならではの体験をするのです。それらのことが聖書には書かれているのです。
2.決して体験主義ではいけないのですが、体験の無い宗教もダメです。聖書に書かれている救いを体験すること。そして、聖霊の働きを体験することです。すると、イエス様の救いと神様の素晴らしさが、神の人である私達から人々に伝わっていくのです。


● 私はクリスチャン生活を時々「リハビリです」と言います。それはこの世の生き方に染まり、神の国の生き方ができなくなっている私たちが神の国の行き方へと変えられていくためのリハビリなのです。病院でもリハビリを軽んじることはありません。

★ あなたは「神の人」です。神様があなたに求めておられるのは、全ての良い働きをすることです。そのためには訓練が必要だということです。その全てが聖書にあるのです。聖書に聞き耳を立てようではありませんか。


聖書に聞き耳を立てよう

2016-01-03 18:28:48 | 礼拝説教
2016/1/3礼拝説教
【テーマ】  聖書
【説教題】 「聖書に聞き耳を立てよう」
【聖書箇所】 Ⅱテモテ3:16-17
  3:16 聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。
3:17 それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。

○ 今年の教会標語は「聖書に聞き耳を立てよう」としました。「聖書を読もう」でも、「聖書を勉強しよう」でもありません。もちろん、それらのことは当然のことだからです。

Ⅰ.聖書は全て、神の霊感による
A.聖書は神の言葉
1.聖書の霊感説には色々あります。そして、その捉え方によって私たちの生き方まで変わってきます。霊感説の中には、「聖書記者が自分の意志に関係無く、筆を持つ手が動いて聖書を書いた」というものもあります。また、「十戒のように神様が語った言葉だけが霊感されている」というのもあります。
2.私たちは、パウロがテモテに書き送ったように 聖書はすべて、神の霊感によるもの と信じています。一字一句、全体的な思想において、神様の霊感を受けているということです。しかし、それが現代の科学的という意味ではありません。
3.聖書は神様の言葉であるというのは正しいのですが、注意が必要なのは聖書の中には人間の言葉も悪魔の言葉も書かれているという点です。それらのもの全てを含んで「神の言葉」というのは全体が神様の御計画を示しているからです。

B.旧約聖書と新約聖書
1.パウロが言うこの場合の「聖書」とは旧約聖書です。まだ新約聖書はまとめられておりませんし、完成していないからです。旧約聖書に関しては神の霊感を受けていることを認めることは案外簡単です。それはイエス様が旧約聖書を神の言葉として認め、尊ばれ、その預言がイエス様に成就したことからもはっきり言えます。
2.新約聖書はこの旧約聖書の成立の仕方と合わせてみても認められますし、またイエス様と共に過ごした弟子やその弟子から直に聞いて来たパウロが書いたことなどからも、神の霊感を受けて書かれたことが認められます。

C.聞き耳を立てて読む
1.人となられたイエス様が旧約聖書を大事にし、覚え込み、その律法を全て守り、旧約聖書にある正しい生き方をなさったということは、私たちもイエス様に倣って、聖書に忠実に生きる必要があるということです。
2.ですから、今年、単に「聖書を読もう」とか、「聖書を勉強しよう」とはしなかったのです。いわばもっと深く、神様のお声を聞くように読みたいし、神様の御計画や愛をもっと深く学びたいのです。
3.聖書は私たちに語りかける神様の言葉です。しかし、よく言われることですが、それは「細き御声」なのです。だから「聞き耳を立てる」のです。

Ⅱ.聖書は教えと戒めと矯正と義の訓練に有益
A.イエス様の生き方は聖書そのもの
1.パウロは愛するテモテに聖書がどんなに大切かを教えています。「イエス様を信じるだけで救われる」ということははっきりしており、パウロもそのことを強調してきました。それはローマ人への手紙でよくわかります。
2.信じるだけで救われるという、旧約聖書を超えた新しい道がイエス様によってできたのです。ですから、もう旧約聖書は必要は無いと思う人々もいたでしょう。現代も旧約聖書を軽く見て、新約聖書だけを重んじる人がいます(その反対の方々もいます)。
3.聖書は旧約聖書によって預言されたイエス様がお出でになり、その働きが実現したことを記した新約聖書との両方で完璧なのです。つまり旧約聖書の生き方に従われたイエス様が実際になさったことを記した新約聖書を私たちは実行するように努力するのは当然と言えるのです。

B.私たちは神様の訓練を受けなくてはならない
1.私たちは 教えと戒めと矯正と義の訓練 を受ける必要があるのです。学校で子どもが勉強するのは、独り立ちできるだけで無く、人のためにも働ける人になるためです。そのためにさまざまな教えを受けています。ですから、私たちクリスチャンが神様の教え・教育を軽んじることができるでしょうか?
2.「幼子はほめて育てろ」と言われます。もちろんそれは正しいのですが、闇雲に(気持ちのこもっていないマニュアルのように)ほめて育てると自分勝手な子どもになるとも言われています。善悪の判断ができるように、愛をもって正しく教え戒めるのが躾・教育です。
3.神様は私たちを聖書を通して訓練してくださっています。その教育は「試練」という厳しさがあります。しかし、皆さんわかるのではないでしょうか。厳しいだけの神様ではないということがです。神様は本当に優しいお方ではありませんか!

C.神様は私たちにしっかりと付き合ってくださっている
1.神様が私たちを訓練される理由は、17節の それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。 なのです。このところは次週もう少し見てみます。
2.私も教育者として中学校にいた一人です。まだ中学生はなかなか教師の気持ちを理解してくれません。しかし、しっかり付き合っていくとわかってくれるのです。私たちはなかなか神様の気持ちを理解できない者だと思います。生徒が教師の持つ理念などをなかなか理解しないようにです。
3.神様は聖書を通して私たちにしっかり付き合ってくださっています。そして、不思議ですが、大人には大人にわかるように、子どもには子どもにわかるように、赤ちゃんには赤ちゃんにわかるように神様は付き合い、聖書を教えておられます。

● 私はアッセンブリー教団の教会教育部(CE部)の部員です。ここは大人から子どもまですべてのクリスチャンの教育のために働く部なのですが、なかなかそうはいかず、いまだ小学生以上が対象になっています。しかも、この教案を使って教師自身がアレンジしなくてはなりません。でも、そこが大事だと思っています。書かれていることをそのまま語ったのでは教師が神様のお気持ちを理解しないままで語り、知識より、気持ちで動く子どもたちには通じないのです。
  私は子ども担当者、子ども教会の先生方に心から感謝しています。尊い仕事です。そして、それはまた、お父さん・お母さんです。わが子が赤ちゃんの時から、神様のお気持ちを伝えていく大事な使命を担っているからです。だから、みんなでみんなのために神様のお気持ちをもっともっと知っていくために聖書に聞き耳を立てたいと思うのです。

★ 今日の御言葉をお読みしましょう。 3:16-17 聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。 それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。 さあ、今年、聖書を通して訓練されましょう。聖書に聞き耳を立てましょう。