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礼拝説教、聖書を読んで感じた事

この人をも愛したイエス

2019-01-20 18:11:33 | 礼拝説教
2019/1/20礼拝説教
【テーマ】  人を愛し、救うイエス
【説教題】 「この人をも愛したイエス」
【聖書箇所】 マルコ5:11-20
【新改訳2017】
5:11 ところで、そこの山腹では、おびただしい豚の群れが飼われていた。
5:12 彼らはイエスに懇願して言った。「私たちが豚に入れるように、豚の中に送ってください。」
5:13 イエスはそれを許された。そこで、汚れた霊どもは出て行って豚に入った。すると、二千匹ほどの豚の群れが崖を下って湖へなだれ込み、その湖でおぼれて死んだ。
5:14 豚を飼っていた人たちは逃げ出して、町や里でこのことを伝えた。人々は、何が起こったのかを見ようとやって来た。
5:15 そしてイエスのところに来ると、悪霊につかれていた人、すなわち、レギオンを宿していた人が服を着て、正気に返って座っているのを見て、恐ろしくなった。
5:16 見ていた人たちは、悪霊につかれていた人に起こったことや豚のことを、人々に詳しく話して聞かせた。
5:17 すると人々はイエスに、この地方から出て行ってほしいと懇願した。
5:18 イエスが舟に乗ろうとされると、悪霊につかれていた人がお供させてほしいとイエスに願った。
5:19 しかし、イエスはお許しにならず、彼にこう言われた。「あなたの家、あなたの家族のところに帰りなさい。そして、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを知らせなさい。」
5:20 それで彼は立ち去り、イエスが自分にどれほど大きなことをしてくださったかを、デカポリス地方で言い広め始めた。人々はみな驚いた。

○ 今日のテキストは先週の続きです。悪霊に支配されていた男の人から、イエスは悪霊を追い出します。

Ⅰ.神無しに生きる人
A.レギオン
1.今も悪霊の問題を精神的な病としてとらえようという考え方があります。しかし、私は聖書通り悪霊が存在し、この男の人は悪霊につかれて苦しめられていたととらえています。
2.悪霊にも色々なのがおり、色々な悪しきことをしていることがわかります。今回の悪霊は「レギオン」と自称し、大勢だと言っています。レギオンというのはローマの軍隊の単位で一師団約6000人です。 マタイ26:53 それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今すぐわたしの配下に置いていただくことが、できないと思うのですか。 というイエスの言葉の 十二軍団 がレギオンです。
3.つまり、この悪霊どもは強力だということを誇示していますが、イエスの前に何もできないでいるのです。

B.私を苦しめないで・・・
1.イエスがこの地に来られたとき、誰よりも早くこの男の人がイエスの所に来ました。 5:6 彼は遠くからイエスを見つけ、走って来て拝した。5:7 そして大声で叫んで言った。「いと高き神の子イエスよ、私とあなたに何の関係があるのですか。神によってお願いします。私を苦しめないでください。」 とあるように、イエスのことを神の子と認めているのですが、これは悪霊の知識によるのでしょう。
2.そして、 私とあなたに何の関係があるのですか。 というのは、「私はあなた(神)無しで生きていくのだ」と言っているのと同じです。そして、 神によってお願いします。私を苦しめないでください。 というのも、神に従う生き方を望むと悪霊に苦しめられることをこの男の人は言っているのです。
3.悪霊に苦しめられるのも、罪に苦しめられるのも、神無しに生きる人というのは何か別のものの虜になっているのです。

Ⅱ.神より他のものを愛する人
A.悪霊は追い出された
1.イエスはこの男の人の本心(救って欲しい)を見抜き、助けるのです。つまり、悪霊を追い出します。悪霊はイエスに逆らえないためにこの人から出て行かざるを得ません。そこで、まだ神の支配の無いか、少ないか、罪に満ちたこの地方に留まりたいようで、たくさんいる豚に住まわせてくれと願うのです。
2.イエスは悪霊の願いを聞くようなお方ではありませんが、ここは神のご計画の中でそれが許されました。悪霊は豚に入るのですが、 すると、二千匹ほどの豚の群れが崖を下って湖へなだれ込み、その湖でおぼれて死んだ。 となって悪霊は消えます。

B.人々の大事なのは財産なのか?
1.問題なのはその豚の所有者です。大事な財産を失ったのです。そして伝え聞いた人々がやって来ると レギオンを宿していた人が服を着て、正気に返って座っているのを見 ました。事情を聞いて人々はイエスを受け入れたか、歓迎したかというとそうでは無かったのです。 5:17 すると人々はイエスに、この地方から出て行ってほしいと懇願した。 のです。
2.人々にとってこの悪霊につかれていた人の救いよりも自分たちの財産である豚のことが心配だったのです。目の前に正気に戻った男の人がいるにも関わらず、彼の救いよりも豚のことの方が気になっているのです。2000匹の豚の方が、この男の人より価値があるということになります。私たちも人々の救いよりも自分のお金や財産のことの方が最優先ということはないでしょうか?

Ⅲ.宣教する人
A.生き方を変えていただいた
1.この男の人生はイエスに出会わなければどうなっていたでしょうか? 一生悪霊どもの住まいとして彼は使われていたでしょう。それは人間としての豊かな人生が無いということです。しかも、彼の体は傷だらけで、痛み、苦しみ、命の危険もあったことでしょう。
2.人はみんな罪人ですから、イエスに会わなければ一生罪を持ち続け、その苦しみの中を生きるのです。
3.悪霊につかれていた男の人は、悪霊が出て行くと、本来神が彼に用意した彼の生き方が始まりました。彼はイエス様に着いていきたい、弟子にして欲しいと言うのです。

B.イエスを語る
1. 5:19 しかし、イエスはお許しにならず、彼にこう言われた。「あなたの家、あなたの家族のところに帰りなさい。そして、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを知らせなさい。」5:20 それで彼は立ち去り、イエスが自分にどれほど大きなことをしてくださったかを、デカポリス地方で言い広め始めた。 と、イエスは彼をそこに残るように言われました。その結果、彼は デカポリス地方で言い広め始めた のです。この 言い広め という言葉は「宣教する」「説教する」という言葉です。彼は宣教師、説教家となったわけです。
2.私たちも自分の身に起こったことをお話しする、証しするわけですが、それは宣教師であり、説教家なのです。私たちもイエスからどこで語るのか教えられるのではないでしょうか。

● この男の人の話で私はヨブを思い出しました。しかし、ヨブとどこが違うのでしょうか? ヨブも悪魔によって散々な目に遭い、体もボロボロでした。しかし、ヨブは悪霊につかれたわけではありません。愚痴は出ましたが、神を信じて苦しみの中を歩みました。そこは大きな違いです。ヨブは大きな試練を受けたのですが、彼は神と生きた人です。大変な苦しみ、試練を受けましたが、神がいるのと悪霊によるのとでは、その後の人生が違います。

★ この男の人はイエスに愛されました。そして、変えられた彼は、 イエスが自分にどれほど大きなことをしてくださったかを、デカポリス地方で言い広め始めた。 私たちもイエスに愛されて変えられました。私たちも私たちに与えられた場所でイエスを語る人になろうではありませんか。


この人から出て行け!

2019-01-13 16:04:13 | 礼拝説教
2019/1/13礼拝説教
【テーマ】  罪の支配を断ち切るイエス
【説教題】 「この人から出て行け!」
【聖書箇所】 マルコ5:1-10
【新改訳2017】
5:1 こうして一行は、湖の向こう岸、ゲラサ人の地に着いた。
5:2 イエスが舟から上がられるとすぐに、汚れた霊につかれた人が、墓場から出て来てイエスを迎えた。
5:3 この人は墓場に住みついていて、もはやだれも、鎖を使ってでも、彼を縛っておくことができなかった。
5:4 彼はたびたび足かせと鎖でつながれたが、鎖を引きちぎり、足かせも砕いてしまい、だれにも彼を押さえることはできなかった。
5:5 それで、夜も昼も墓場や山で叫び続け、石で自分のからだを傷つけていたのである。
5:6 彼は遠くからイエスを見つけ、走って来て拝した。
5:7 そして大声で叫んで言った。「いと高き神の子イエスよ、私とあなたに何の関係があるのですか。神によってお願いします。私を苦しめないでください。」
5:8 イエスが、「汚れた霊よ、この人から出て行け」と言われたからである。
5:9 イエスが「おまえの名は何か」とお尋ねになると、彼は「私の名はレギオンです。私たちは大勢ですから」と言った。
5:10 そして、自分たちをこの地方から追い出さないでください、と懇願した。

○ 昨年12月30日の礼拝で「向こう岸へ渡ろう」と言われたイエスと同行した弟子達は、今日(この説教のテキストとして今日)向こう岸、ゲラサ人のに着きました。弟子達は何故このゲラサ人の地に行かねばならないのかよくわからなかったことと思います。

Ⅰ.ゲラサ人の地
A.救われなければならない人がいる
1.では、その「向こう岸」とはどういう所なのでしょうか? 豚を飼っていることからも異邦人の土地であることがわかります。普通ならユダヤ人が行きたいとは思わないところです。
2.そんな場所へイエスは行かれます。何故か? 救われなくてはならない人がいるからです。サマリヤの女もそうでした。 ヨハネ4:4 しかし、サマリヤを通って行かなければならなかった。 とあります。普通ユダヤ人はそのルートを通らなかったのですが、イエスは行かれました。何故か? その女性を救う必要があったからです。

B.ゲラサ
1.ゲラサ人の地と考えられるのはどんなところであったかと言いますと、広大なデカポリス地方の湖の東岸中央やや北寄りの地域と考えられます。実際に学者がこの辺りを調べて、湖に豚が落ち込んでいくような急な斜面があり、その近くには岩壁を横に掘って作った墓も発見されています。
2.そして、その町には幾つかの神殿、劇場、浴場、競技場、集会所などがあったということが発掘でわかっています。砂漠地帯のオアシス都市として栄え、2世紀に絶頂期を迎えていたそうです。その後キリスト教時代を迎えて聖堂も建てられたそうですが、7世紀にはイスラム教徒に占領され、8世紀には地震などのために衰亡していくのです。しかし、キリスト教時代を迎えたことがあったというのはこの男のお陰ではないでしょうか。

Ⅱ.悪霊に支配される人
A.墓場に住みついていた人
1.この異邦人の地にイエスが到着されましたが、ガリラヤ地方のように大勢の人の歓迎を受けたわけではありませんでした。イエスを迎えたのは 汚れた霊につかれた人 でした。それも歓迎しているわけではありません。
2. この人は墓場に住みついていて と、彼の住まいは墓場です。町の人々とは一緒に生活ができなかったのです。それは悪霊につかれていたからであり、奇声を発したり、恐ろしい行動をとったりしたからでしょう。鎖でつないでもそれを引きちぎってしまうほどの力を持っていたのですから、人々も恐くてたまらなかったと思います。
3.この男は悪霊に支配されてどうにもなりませんでした。彼自身はこんな生き方を望んだとは思えません。しかし、悪霊は人間よりも強く人を支配できるのです。悪霊に支配された彼はこういう状況になって初めて神を求めたかもしれません。しかし、悪霊もそう簡単に神に助けを求める言葉を言わせません。

B.イエスにひれ伏す悪霊
1.しかし、いくら悪霊が人より強いとは言え、イエスには勝てません。 彼は遠くからイエスを見つけ、走って来て拝した。 と、しっかりイエスを礼拝しているように見えますが、これは礼拝ではありません。彼の中に住み着いている悪霊がイエスに願い事を言っているだけです。
2.では、この男性はというと、彼も正しく神を礼拝する人ではなかったのです。彼が悪魔崇拝をしていたとか、悪霊を呼び寄せたとかはわかりませんが、悪霊と関わりのあるものを好んだのでしょう。神を礼拝する人であれば、悪霊につかれることはありませんでしたから。

Ⅲ.罪に支配される人
A.全ての人は罪を犯した
1.私たちは悪霊に支配された経験はなかったとしても、罪に支配された経験はあるのではないですか。全ての人が罪の支配を経験しています。 ロマ 3:23 すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、 とあるとおりです。全ての人が罪人です。
2.この男の人はこんな状態から抜け出たいと思っていたのです。しかし悪霊は出て行かないのです。そのように罪の支配から逃れたいと思っても罪は私たちの方法では何をもってしても消えはしません。

B.イエスだけが罪を取り去ることができる
1.イエスだけが罪に対して勝利を治められた方です。悪霊はイエスの一言で出て行きますが、私たちを支配してきた罪はイエスの十字架による身代わりの死によらねば解決しませんでした。
2.しかし、イエスは私たち罪人を放っておけず、ゲラサ人の地に向かわれたようにこの地上に来られ、彼を救いたくて彼から悪霊を追い出されたように、私たちを救いたくてその罪を自らが受けてくださいました。

● ある会議室を借りて集会をしたときに暑くて冷房を入れたかったのですが、冷房のスイッチを押しても動かないのです。部屋のあちこち他にスイッチがあるか探して手当たり次第押すのですが、的外ればかり。これが罪みたいなものです。遂に事務室へ走ると事務員さんが来てくださいました。そして、誰も気がつかなかったボックスを空けてそこの電源を入れられたのです。すると動き出しました。このように、罪を一生懸命取り除きたくて色々なスイッチを押すのですが全部ダメ。知っている方を呼ぶしかないように、罪の解決はイエス様にしかできないのです。このお方の名を呼ぶしか無いのです。

★ 「罪よ、出て行け」と言っても出て行きません。「罪を悔い改めます」と言っても出て行きません。「イエス様、あなたは私の救い主です」と信じて心にイエスを受け入れるとき、あなたの悔い改めは聞き入れられ、罪は取り去られます。



愛が見える教会

2019-01-06 18:33:04 | 礼拝説教
2019/1/6礼拝説教
【テーマ】  愛し合う教会
【説教題】 「愛が見える教会」
【聖書箇所】 Ⅰヨハネ4:12
【新改訳2017】
4:12 いまだかつて神を見た者はいません。私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにとどまり、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。

○ 2019年最初の日曜礼拝。今年の教会標語と、その聖書箇所です。
かつてロシアのある博物館にガガーリンの写真がかかっていて、その下に「彼は宇宙へ行った最初の人間である。彼はそこで周囲を見わたしたが神は見えなかった。故に、我々は神が存在しないと確信する」と書いてあったそうです。見えないから存在しない、というのはどうでしょうか? 今日のテキストにも いまだかつて神を見た者はいません。 とあるのですから。この見えないお方を伝えるのは確かに難しく感じます。

Ⅰ.人を愛して伝道する
A.伝道は楽しい
1.伝道することは教会の使命です。福音を語らなければなりません。語る人がいなくては聞くことができないからです。 ロマ 10:17 ですから、信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです。 とありますように、伝道によって福音が伝わるからです。 
2.先日、S・C先生とお話をしました。新中野教会でキッズゴスペルをしていただいた事がありましたが、先生もとても楽しかったと言ってくださいました。先生に今どうしているのか尋ねましたところ、御茶ノ水駅近くのビルで開拓しているS教会のお手伝いをしているとのことでした。とても楽しいと言われていました。
3.かつてF先生が「伝道は楽しいよ」と言われていたのを思い出しました。果たして私はそこまで伝道を楽しいと思っているだろうかと反省させられた次第です。

B.笑顔で伝道したい
1.伝道することは私たちの使命ですが、昔聞いたこの話を思い出すのです。あるおばあさんが「イエス・キリストを信じないと地獄に行くよ!」と恐い顔をして伝道するので、誰も教会に来ないでそのおばあさんを「地獄ばあさん」と呼んだのです。ある時、このおばあさんは悔い改めて言葉を変えました「イエス・キリストを信じると天国に行けるよ」と。すると顔も笑顔になったそうです。人々はそのおばあさんを「天国ばあさん」と呼び名を変えたそうです。
2.伝道は義務ですが、色々な方法論があるように、どのように語るかで聞く人の気持ちも変わるのです。人を愛して伝道していくと笑顔になるのではないでしょうか。

Ⅱ.神の愛が全うされるために
A.受け入れられること
1.見えない神、イエスを伝えるのは決して楽なことではありません。 私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにとどまり、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。 とあるように、見えない愛の神は、私たちが互いに愛し合うその姿でわかるようになるというのです。私たちの言葉は大事ですが、同時に私たちの生き方が大事なのです。
2.かつて高槻キリスト教会、いや伝道所という時代、私がまだ教師の時ですが、なぜたくさんの中学生が伝道所に来たのでしょうか? 最初に来た数名の陸上部の男子が次の日に「教会、楽しいぞ」と学校で言いふらしたからです。そして次々来だして毎週礼拝に20-30名来ていました。彼らにとっては楽しいだけだったかも知れません。でも、彼らを受け入れたことは事実です。
3.神は私たちを受け入れてくださったので、その愛がわかって私たちは神を信じたのです。

B.神が私たちの内におられること
1.イエスが私たちを愛してくださったように、私たちが他の人を愛することができたらどうでしょうか? 人はみんな愛されたいし、人を愛したいものです。それが正しく実行できると幸せだと思うのです。
2.教会が互いに愛し合っているなら自ずとその平安な姿に人は引き寄せられます。反対のことを聞いたことがあります。教会が内部でいがみあっているので人が去って行ったという話です。悲しいことです。
3.もう一度テキストを見てみましょう。 私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにとどまり、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。 愛し合うなら、神が私たちの内に留まってくださるのです。そして、神の愛が全うされるのです。

Ⅲ.愛が見えるために
A.赤ちゃんが親に愛されるように
1.よく教育講演会・子育て講演会で語られ、また私も語ることですが、「愛」ということを知らない赤ちゃんが成長して「愛」を覚えるのはお母さん、お父さんに愛されて育てられるからです。しかし、「愛しているよ」と赤ちゃんに言ってもわかりません。赤ちゃんは抱っこしてもらったり、おしめを替えてもらったり、おっぱいをもらったりして心地よさから「愛されている」ことを覚え始めるのです。
2.神は赤ちゃんが生まれる時にお母さんに凄いことをされています。赤ちゃんがいとおしいと思えるホルモンがあるのだそうです。妊娠中ももちろんそのホルモンが出るのですが、出産のときにこのホルモンがとんでもない量出るそうです。そのためにお母さんは赤ちゃんがいとおしくてたまらないという気持ちになるのです。父親にもこのホルモンは出るそうですが、母親とは比べものにならないそうです。
3.こうしていとおしくてたまらないという感情から湧くさまざまな行動で赤ちゃんは「愛されている」ことを覚えるのです。最初「愛」はそういった行動など見えるもの、体験することで理解していくのです。

B.信徒が互いに愛し合うことで
1.信仰の赤ちゃんも最初は見えるものを通して神の愛を知り、成長して見えない神がわかっていくのです。そのためには知識として伝えるために伝道していかねばなりませんが、教会が愛し合っている姿を見せなくては伝わらないのです。
2.愛し合っている姿を見せるのだからとお芝居・演劇のようにしても意味がありません。神が私たちにとどまっておられることで私たちは神の愛が全うされるのですから、私たちと神との関係をしっかりと持ち続けることです。

● お芝居のようにしては意味が無いといいましたが、親子関係の修復をしている団体の話を聞いて「演劇療法」というのを知りました。幼い時に親から受けてトラウマとなっていることをもう一度子どもになって演じ、その時の気持ちを表すのだそうです。そして、その時に言えなかった気持ちを言い表すのだそうです。次に親を演じて、どうして子どもにそんなことを言ったのか、したのかを演じながら考えるのだそうです。多くの人がそれをし続ける事で変わってくるそうです。私たちも互いに愛することを演じていくのも最初は必要なのかもしれません。

★ 昨年掲げた「相互牧会」は昨年だけのものでは無く、続けなければ意味がありません。そして、その愛が教会から外にまで見えていく、つまりキリストが見える教会をつくっていきたいのです。さあ、互いに愛し合いましょう。

いのちのことば

2019-01-04 05:24:11 | 礼拝説教
2019/1/1 元旦礼拝説教
【テーマ】  神であるイエス・キリスト
【説教題】 「いのちのことば」
【聖書箇所】 Ⅰヨハネ1:1-2
 1:1 初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、
1:2 ──このいのちが現れ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。すなわち、御父とともにあって、私たちに現された永遠のいのちです。──

【新改訳2017】
 1:1 初めからあったもの、私たちが聞いたもの、自分の目で見たもの、じっと見つめ、自分の手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて。
1:2 このいのちが現れました。御父とともにあり、私たちに現れたこの永遠のいのちを、私たちは見たので証しして、あなたがたに伝えます。

○ 今年もよろしくお願いいたします。私たちは決して人生をリセットできませんが、何かしら新しい年を迎えると昨年のことが消されて、新たなスタートを切ることができるような気がするものです。
キリスト教もイエスが天に帰られ、教会ができて間も無く、間違った教えを説く人やグループが出てきました。使徒達は迫害を受けると共に、間違った教えで混乱したり、信仰を失ったりしないように、原点に戻ってイエス・キリストを伝え、クリスチャンを励まし、教えてきました。
イエスの弟子、使徒ヨハネもその一人です。そのヨハネが書いた手紙の最初を見てみます。

Ⅰ.初めからあったもの
A.初めからおられるのが神
1.歴史や宇宙の途中からできたような神は神ではありません。最初からおられるのが神です。ヨハネは全ての初めからあったものについて語ります。
2.ヨハネの福音書の初めでも 1:1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。 と、初めからおられたお方、イエスを紹介し、そのイエスは神であることを言っています。

B.「もの」という表現は「福音」だから
1. もの という言葉が気になる方がおられるかも知れません。これがイエス・キリストなら、「初めからおられた方」という言い方にすべきだと思われるでしょうから。
2.この もの はギリシャ語では中性関係代名詞ですから、聖書翻訳者も忠実に もの と訳したと思います。神であり、イエス・キリストであるのですが、ここは特にこのお方からいただいた「福音」に重点が置かれていると思われます。

Ⅱ.聞いた、見た、さわったもの
A.弟子達は実体験した
1.ヨハネは続けて 私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの と言います。「私たちが聞いた福音」とも読めるところです。しかし、福音はイエス・キリストですから、目で見たイエス・キリスト、さわったイエス・キリストなのです。
2.ヨハネは、当時の間違った教え、イエスは霊的に来たので肉体を持っていなかったという教えに対して、見た、さわったと言うのです。これは正にイエスの弟子達ならではの体験です。今の私たちはその彼らの体験を聖書から聞き、聖霊によって信じるのです。

B.イエスの教えを忠実に守ること
1.ヨハネはイエスと共に生活し、活動しました。一緒に食事もしました。すぐ近くでイエスのお話を聞いてきた人です。彼はイエスが病気を癒やすところを見ましたし、様々な奇跡を見てきました。
2.私たちにとっては羨ましく感じる体験です。しかし、逆にそのように親しくしてきたイエスが天に帰られて地上におられなくなるというさみしい体験もしたのです。大事なのは、昔も今もこのイエスから教えられたことを忠実に守ることです。ヨハネはそれを教えています。

Ⅲ.いのちのことば
A.私たちの光であるイエス・キリスト
1.ヨハネは、この福音であるイエス・キリストは いのちのことば だというのです。最初に見たヨハネの福音書をもう一度見ましょう。今度は4節まで見てみます。 1:1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。 1:2 この方は、初めに神とともにおられた。 1:3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。 1:4 この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。 とあります。イエス・キリストが いのちのことば であり、イエス・キリストが私たちの人生の光だというのです。
2.この寒い冬は日の出が恋しいです。日の出前が一番暗いとも、寒いとも言われます。日の出と共に一気に暖かくなります。光についてはいちいち説明しなくてもそのありがたさ、「いのち」であることはわかるように、イエス・キリストは私たちの光です。

B.いのちのことばは永遠のいのち
1.そして、イエスは神の言葉であり、神の言葉によって全宇宙もこの地球も、生物もできたのです。イエスの語られた言葉は虚しい言葉ではなく、いのちの言葉なのです。
2.しかも、イエスの語られた言葉によって私たちは救われたのです。イエスの言葉で悪魔・悪霊は退きます。イエスの裁きの言葉が私たちに与えられたら私たちは死ですが、イエスは私たちを生かす言葉を語られました。

● 十字架の上で語られた言葉はわずかだったかも知れませんが、その言葉は大きな意味を持ちます。 ルカ 23:34 「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」 は私たちにとってもどれほど大きな意味を持つことでしょうか。何をしているかわからないような私たちのために父なる神にこのように祈ってくださったので、私たちは赦されたのです。
誰か人からでも「あなたを赦します」という一言で救われる体験をした人も多くいらっしゃると思います。子どもの時などなおのことでしょう。大変悪い事をして親から叱られて、「ごめんなさい」を繰り返し言っても「赦さない」と言われたらどうだったでしょうか? しかし、最後は「もう二度としちゃダメだよ」とか言われて赦してもらい心が平安になったのではないでしょうか。言葉は大きな力を持っています。

★ 今年も私たちは光であり、いのちのことばであるイエスによって生かせていただき、その言葉に従っていこうではありませんか。