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礼拝説教、聖書を読んで感じた事

赦されない罪

2018-08-26 17:29:37 | 礼拝説教
2018/8/26礼拝説教
【テーマ】  イエスを愛して生きる
【説教題】 「赦されない罪」
【聖書箇所】 マルコ3:20-30
【新改訳2017】
3:20 さて、イエスは家に戻られた。すると群衆が再び集まって来たので、イエスと弟子たちは食事をする暇もなかった。
3:21 これを聞いて、イエスの身内の者たちはイエスを連れ戻しに出かけた。人々が「イエスはおかしくなった」と言っていたからである。
3:22 また、エルサレムから下って来た律法学者たちも、「彼はベルゼブルにつかれている」とか、「悪霊どものかしらによって、悪霊どもを追い出している」と言っていた。
3:23 そこでイエスは彼らを呼び寄せて、たとえで語られた。「どうしてサタンがサタンを追い出せるのですか。
3:24 もし国が内部で分裂したら、その国は立ち行きません。
3:25 もし家が内部で分裂したら、その家は立ち行きません。
3:26 もし、サタンが自らに敵対して立ち、分裂したら、立ち行かずに滅んでしまいます。
3:27 まず強い者を縛り上げなければ、だれも、強い者の家に入って、家財を略奪することはできません。縛り上げれば、その家を略奪できます。
3:28 まことに、あなたがたに言います。人の子らは、どんな罪も赦していただけます。また、どれほど神を冒涜することを言っても、赦していただけます。
3:29 しかし聖霊を冒涜する者は、だれも永遠に赦されず、永遠の罪に定められます。」
3:30 このように言われたのは、彼らが、「イエスは汚れた霊につかれている」と言っていたからである。

○ 皆さんは赦されない罪があると思いますか? もしその罪を犯したなら、クリスチャンでも赦されず、天国へは行けないというような罪があるでしょうか? 今日のテキストで 3:29 しかし聖霊を冒涜する者は、だれも永遠に赦されず、永遠の罪に定められます。」  のところが、長くクリスチャンを悩ませてきた聖書箇所です。聖霊を冒涜する罪とは? あなたは大丈夫なのか? 考えてみましょう。

Ⅰ.身内の者に理解されないイエス
A.食事をする暇もないほど
1.最初に今日のテキストの最初から見ていきましょう。 3:20 さて、イエスは家に戻られた のですが、 すると群衆が再び集まって来たので、イエスと弟子たちは食事をする暇もなかった。 と、くつろげるはずの家でも群衆が押し寄せてきたのでゆっくりできませんでした。それはどれほどイエスが多くの人に好かれたかがわかる言葉です。
2.この家はアンデレの家と考える人もあれば、イエスの家と考える人もあります。イエスの家だとすれば興味深いですね。30歳まで父ヨセフの後を継いで大工をしておられたようですから、そこはイエスが一番慣れ親しんだ落ち着く場所ではなかったでしょうか。

B.イエスはおかしくなったのか?
1.そんな家に 3:21 これを聞いて、イエスの身内の者たちはイエスを連れ戻しに出かけた。人々が「イエスはおかしくなった」と言っていたからである。 と、身内がやって来るのです。身内の者は本当にイエスがおかしくなったと思っているのでしょうか?
2.イエス様を求めてやって来る群衆がいる反面、イエスに反感を抱く人たちがいました。律法学者達、当時の宗教的リーダーです。その人たちからイエスを悪く言われると、身内の者もそちらの言い分を信じてしまったのでしょう。イエスは身内からも理解されなかったのです。

Ⅱ.悪霊呼ばわりされるイエス
A.イエスは悪霊の親玉なのか
1.イエスは律法学者達からとんでもないことを言われます。 「彼はベルゼブルにつかれている」とか、「悪霊どものかしらによって、悪霊どもを追い出している」と言っていた と。つまり、イエスを悪霊につかれているとか、悪霊呼ばわりしているのです。それは律法学者もイエスが悪霊を追い出していることは認めざるを得なかったからです。そこで、イエスを陥れるために苦し紛れに考え出した話です。
2.それに対するイエスの答はごく当然の話です。悪霊同士で追い出し合いなどするようなことはあり得ないのです。悪霊どもはイエスをなき者とすることで一致しています。彼らが仲間割れしたのではイエスを倒すことはできないのです。

B.イエスを拒み続ける人たち
1.律法学者達はイエスが悪霊を追い出している事実を認めているのですが、ただ認めてしまうと人々は益々イエスに着いていき、自分たちの教えを聞かなくなってしまうと危機感を感じて、イエスをおとしめようとしているわけです。
2.しかし、こうしたことから、イエスには律法学者達に無い不思議な権威があることを人々が知るのです。そして、律法学者はイエスに対する敵意を丸出しにしてきます。イエスは後にご自身に代わる聖霊を約束されているのですが、彼らがイエスを拒むということは聖霊を拒むことにもなるのです。

Ⅲ.聖霊を冒涜する罪
A.あなたは大丈夫!
1.この律法学者達との話から、イエスの語られた言葉 3:28 まことに、あなたがたに言います。人の子らは、どんな罪も赦していただけます。また、どれほど神を冒涜することを言っても、赦していただけます。3:29 しかし聖霊を冒涜する者は、だれも永遠に赦されず、永遠の罪に定められます。」 が続き、それが今まで多くのクリスチャンを悩ませてきました。つまり、「私は聖霊を冒涜しなかっただろうか?」「私は永遠に赦されない罪を犯していないか?」ということです。
2.私たちも親の悪口くらい言います。それで親子の関係が永遠に切れることはありません。当然神様と私たちの関係も切れるはずがありません。この言葉で悩む人はむしろイエスによって救われているから悩むのです。改めて言いますが、イエスを愛している人はこの罪を犯していません。

B.赦されない罪は不信仰
1.神を冒涜しても赦されるが、聖霊を冒涜すると赦されないというのが理解を苦しめるのです。なぜなら聖霊は神ですから。ただこれは当時、イエス様と聖霊が一致して働かれたのが顕著なのにもかかわらず、その聖霊の働きを冒涜した当時の律法学者たちの罪と言えます。
2.今私たちはどんな罪も赦していただけます。イエスを信じる(イエスを愛する)人はどんな罪も赦されています。イエスを信じた瞬間に聖霊は私たちの内に住まわれます。そのお方を追い出すようなことをすれば赦されない、つまり、聖霊を自分の意志で追い出し、心から嫌悪するなら赦されないということです。
3.律法学者達も悪霊を追い出すイエスの権威を知っていながら、イエスを信じなかった、聖霊(神の霊)の働きを認めなかったので赦されないと言われているのです。自分の意志でイエスを受け入れないことが死に至る罪です。

★ イエス・キリストを信じる人に赦されない罪はありません。だからといって罪を犯そうというのはイエス・キリストを愛していることにはなりません。積極的に神を愛することが大事なのです。


使徒と呼ばれた人たち

2018-08-12 15:43:00 | 礼拝説教
2018/8/12礼拝説教
【テーマ】  12使徒
【説教題】 「使徒と呼ばれた人たち」
【聖書箇所】 マルコ3:13-19
【新改訳2017】
3:13 さて、イエスが山に登り、ご自分が望む者たちを呼び寄せられると、彼らはみもとに来た。
3:14 イエスは十二人を任命し、彼らを使徒と呼ばれた。それは、彼らをご自分のそばに置くため、また彼らを遣わして宣教をさせ、
3:15 彼らに悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。
3:16 こうしてイエスは十二人を任命された。シモンにはペテロという名をつけ、
3:17 ゼベダイの子ヤコブと、ヤコブの兄弟ヨハネ、この二人にはボアネルゲ、すなわち、雷の子という名をつけられた。
3:18 さらに、アンデレ、ピリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルパヨの子ヤコブ、タダイ、熱心党のシモン、
3:19 イスカリオテのユダを任命された。このユダがイエスを裏切ったのである。

○ イエス様の弟子は12人だけではなく、70名、あるいはもっと多くいたことが聖書を読んでいく内にわかってきます。しかし、その中から12人を選んで「使徒(ギリシャ語:アポストロス)」と呼ばれました。12使徒は何のために選ばれたのでしょうか。

Ⅰ.使徒が選ばれた
A.使徒とは
1.現代的には「派遣されたもの」または「使者」という意味で用いられていますが、イエス様がどのような意味で「使徒」と呼ばれたかは明確ではないのです。聖書辞典でも「使者、大使、特別な使命を帯びて派遣された者」と書かれています。
2.今日のテキストではイエス様の宣教初期の12人が使徒と呼ばれていますが、後にはパウロも自ら使徒と名乗っています。それは復活のイエス様から直接選ばれて使徒に任じられたとあります。
3.初代教会ではバルナバも使徒として記録されています(使徒14:14)。しかし、どうしてバルナバだけが使徒と呼ばれたのかは不明です。

B.選ばれた12人
1.今日のテキストで12使徒が選ばれていますが、まずそれはイエス様が任命されたこと、そしてイエス様が彼らを使徒と呼ばれたことです。 ご自分が望む者たち という言葉は決して立派な人たちを選んだという言葉ではなくて、特に理由が考えられない、イエス様がただ選んだだけという意味合いです。
2.ユダがイエスを裏切ったために使徒1章ではマッティア(マッテヤ)が選ばれて12人に調整されています。12という数字が大事と考える人たちも多く、そうなるとパウロ達は使徒と考えないようです。
3.しかし、使徒を広い意味でとらえる人たちは現代にも「使徒職」はあるとして、自らを使徒と名乗る方があります。

Ⅱ.イエスと共に
A.イエスのそばに置く
1.では、今日のテキストから使徒について見ていきます。最初に ご自分のそばに置くため とあります。そばに置くのは訓練のためというのが一番に考えられます。日本でも、職人さんは自分のそばに弟子を置いて生活を共にして、自分のしていることを見せて訓練しました。
2.私たちも使徒と呼べるか否かは別として、イエス様のそばに置いていただいてイエス様と共に生活し、訓練されることが必要なのではないでしょうか?

B.イエスを裏切ったユダ
1.この12人の中に選ばれた一人ユダは「裏切り者ユダ」と言われて有名です。イエス様の選びに間違いがあったのかと問われる人です。裏切るというのは信頼に応えないこと、イエス様の願いである「人を愛する」ことをしないことです。
2.使徒というのは愛の使命をイエス様から委託されて実行する人といえます。それを裏切るのですから大変なことです。しかし、果たして私たちはどうなのでしょうか? 裏切ったことはないと言えるでしょうか?

Ⅲ.使徒に与えられた権威
A.宣教の働き
1.宣教はもちろん福音を伝えることです。これはどのクリスチャンもしていることです。12使徒だけのことではないです。しかし、まずイエス様のそばに置いてもらって直に福音であるイエス様を体験する必要があります。
2.福音というのは語るだけのものではありません。イエス様ご自身が福音であったように、私たちも私たちの存在が福音となっていくわけです。イエス様のそばに置いてもらっているので、私たちのそばに人が来ると福音が伝わるというわけです。もちろん言葉でもです。

B.悪霊を追い出させる
1.イエス様は悪霊を追い出し、病気を癒やされました。悪霊の大きな働きに、病気があります(悪霊による病気もあるという意味です)。ですから悪霊を追い出すことで病気が治るのです。
2.悪霊の支配を断ち切るのがイエス様の福音であり、神の支配の中に属することが福音です。ですからイエス様の権威を使徒にも託されました。今は私たちが使徒と呼ばれなくても聖霊の働きによって、イエスの名によって悪霊を追い出すことができます。


★ イエス様は福音宣教のために12使徒を選ばれ、ご自分のそばに置いて訓練されました。私たちはいつもイエス様のそばにいます。私たちも使徒のように福音宣教に励みたいものです。

イエス・キリストは神? 人?

2018-08-05 17:51:15 | 礼拝説教
2018/8/5礼拝説教
【テーマ】  イエス・キリストとは
【説教題】 「イエス・キリストは神? 人?」
【聖書箇所】 ピリピ2:6-8
【新改訳2017】
2:6 キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、
2:7 ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、
2:8 自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。

○ もう何十年も前に「イエス・キリスト宇宙人説」という本を本屋さんで見かけたことがあります。少しだけ立ち読みしましたが、変な話だなあと思った本でした。今も昔もイエス・キリストに関しては色々な考えが渦巻いているようです。本当のイエス・キリストはどのようなお方なのでしょうか?

Ⅰ.イエス・キリストは神
A.偶像を嫌うユダヤ人
1.私たち日本人は偶像に慣れていますが、ユダヤ人は「偶像を造ってはならない」「偶像を拝んではならない」という十戒の教えに忠実です。偶像は神ではないのです。
2.人間だって偶像になります。英語のアイドルは「偶像」という意味です。偶像を嫌うユダヤ人にとって人間であるイエスを神とは呼べなかったのです。

B.人の姿をとられた神
1.しかし、今日のテキストにあるようにイエスは 神の御姿であられる つまり、イエス様は神です。聖書はユダヤ人にイエスが神であることを教えるために旧約聖書の預言の成就であることを教えます。
2.また異邦人には、イエスがまことの神であることを教えるためにイエスのなさった奇跡の業などを語ります。そして、何と言っても、高尚な罪の解決をなさるお方であること、つまり神であることを語っています。

Ⅱ.イエス・キリストは人
A.罪の無い人
1.そして、 人としての姿をもって現れ とあるように人間の姿を取ってくださったのです。つまりイエスは人の姿をとった神なのです。本質は神ですが、この地上にあってイエスは人でした。ですから、イエスには罪がありません。
2.ではなぜ神であるイエスが人間の姿を取らねばならなかったのか? 神は霊ですから死ねません。イエスは死ぬ必要があったわけです。罪が人を神から切り離しました。この罪を解決するためにはイエス様が私たちのために身代わりの死を遂げる必要があったからです。

B.完全な人
1.イエスには罪が無いということは神に対して完全であったということです。つまり、人としてのイエスは神を心から愛しておられたということです。罪を犯す前のアダムも神を心から愛したと思われます。
2.どんなに立派と言われる人でも罪の無い人はいません。十戒を完璧に守れた人も無いということです。しかし、イエスは十戒を完全に守られたのです。しかも、その律法の真髄さえも理解しておられたのです。つまり「愛」です。この姿、このイエスの言葉や行動は私たちの完全な模範でもあります。

Ⅲ.イエス・キリストは救い主
A.あがない主
1.神であり、人であるイエスだからこそ私たち人間の救い主になることができたのです。神に造られた最高の被造物は人間です。その人間と神との間に亀裂が生じました。それは人間の罪の結果です。
2.その罪を赦していただくためには当然償いが必要です。しかし最高の被造物が犯した罪を赦せる償いはお金でも、動物でも有り得ません。人間と同等以上のもので無ければなりません。それは人間であり、神であるイエス・キリスト以外に無いのです。

B.イエス・キリストだけが救い主
1.イエスは償いのことをわかっておられたので、人となることも、罪の結果が死であるので、自らが殺されることも受け入れられました。すべての人の罪の償いができるのは人間以上の方で無ければなりません。それは最高の被造物以上の方、神だけです。
2.イエスだけが人を救う力をもった方でした。つまりイエスは神であるけれども人でもあったのです。その神である方が人となってくださったお陰で私たちは救われる道が開けました。


★ 人の救いのために神が人となられましたが、なかなか人には理解してもらえないようです。しかし、 キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。 イエス様は神です。そして、完全な人です。それはあなたの救い主となるためでした。あなたもこのイエス様を救い主として心に受け入れてください。