バイブルサロン

礼拝説教、聖書を読んで感じた事

パウロのペンテコステ 目から鱗の人生

2013-05-26 18:05:31 | 礼拝説教

  2013/5/26礼拝説教
【説教題】  「目から鱗の人生」
【聖書箇所】 使徒9:1-20
  9:1 さてサウロは、なおも主の弟子たちに対する脅かしと殺害の意に燃えて、大祭司のところに行き、
9:2 ダマスコの諸会堂あての手紙を書いてくれるよう頼んだ。それは、この道の者であれば男でも女でも、見つけ次第縛り上げてエルサレムに引いて来るためであった。
9:3 ところが、道を進んで行って、ダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼を巡り照らした。
9:4 彼は地に倒れて、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」という声を聞いた。
9:5 彼が、「主よ。あなたはどなたですか」と言うと、お答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。
9:6 立ち上がって、町に入りなさい。そうすれば、あなたのしなければならないことが告げられるはずです。」
9:7 同行していた人たちは、声は聞こえても、だれも見えないので、ものも言えずに立っていた。
9:8 サウロは地面から立ち上がったが、目は開いていても何も見えなかった。そこで人々は彼の手を引いて、ダマスコへ連れて行った。
9:9 彼は三日の間、目が見えず、また飲み食いもしなかった。
  9:10 さて、ダマスコにアナニヤという弟子がいた。主が彼に幻の中で、「アナニヤよ」と言われたので、「主よ。ここにおります」と答えた。
9:11 すると主はこう言われた。「立って、『まっすぐ』という街路に行き、サウロというタルソ人をユダの家に尋ねなさい。そこで、彼は祈っています。
9:12 彼は、アナニヤという者が入って来て、自分の上に手を置くと、目が再び見えるようになるのを、幻で見たのです。」
9:13 しかし、アナニヤはこう答えた。「主よ。私は多くの人々から、この人がエルサレムで、あなたの聖徒たちにどんなにひどいことをしたかを聞きました。
9:14 彼はここでも、あなたの御名を呼ぶ者たちをみな捕縛する権限を、祭司長たちから授けられているのです。」
9:15 しかし、主はこう言われた。「行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、わたしの選びの器です。
9:16 彼がわたしの名のために、どんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に示すつもりです。」
9:17 そこでアナニヤは出かけて行って、その家に入り、サウロの上に手を置いてこう言った。「兄弟サウロ。あなたの来る途中、あなたに現れた主イエス・キリストが、私を遣わされました。あなたが再び見えるようになり、聖霊に満たされるためです。」
9:18 するとただちに、サウロの目からうろこのような物が落ちて、目が見えるようになった。彼は立ち上がって、バプテスマを受け、
9:19 食事をして元気づいた。
 サウロは数日の間、ダマスコの弟子たちとともにいた。
9:20 そしてただちに、諸会堂で、イエスは神の子であると宣べ伝え始めた。

○ 先週がペンテコステでした。今日はペンテコステ後に大きく人生を変えられた、目から鱗が落ちた人の話をします。パウロです。

Ⅰ.何を見ていたんだ!パウロ!
  A.すごい罪人が赦される
    1.神様は本当にすごいなあと思います。パウロ(当時はまだサウロ)のような、イエス様を嫌い、クリスチャンを迫害していた人をも愛され、救われるというのですから。だから私も救っていただけたのだと思います。
    2.パウロは熱心な人でした。でもその熱心は迫害することにも大変熱心で、彼のしていたことは大変な罪だったわけです。これだけでも、どんな罪人も赦していただけることがわかります。
    3.彼は自分のしていること、考えていることが絶対正しいと思い込んでいました。だから、クリスチャンを迫害することも殺すことにも熱心になれたのです。この時のパウロの肉の目は見えていたのですが、一体何を見ていたのでしょうか?
   
  B.クリスチャンでは無いのに神の声が聞こえる
    1.パウロはいつものように迫害をしに出かけたのですが、その途中で大変なことになってしまいました。 突然、天からの光が彼を巡り照らした。 というのです。そして、彼はイエス様の声を聞くのです。人生には時としてとんでもないことが起こるものです。
    2.クリスチャンでもなかなか直にイエス様の声、神の声を聞くことができないのに、彼はクリスチャンでは無かった時に聞いたのです。とは言え、彼にとっては何が何だかさっぱりわからない状態です。
    3.そして、彼の目は見えなくなって、友人に手を引かれていかねばならなくなりました。予定通りダマスコに来たのですが、彼には迫害の元気も無くなってしまいました。あのイエス様の声は、彼の頭を混乱させ、人生を揺るがしてしまったのです。
   
  C.キリスト教をバカにした私
    1.私は18才でクリスチャンになりましたが、中高生時代の私はクリスチャンである母を見下していました。そして、「絶対に神はいない」と信じていました。
    2.私の肉の目もこの時は見えていました。理科の教科書で覚えた進化論は私をますます神の存在を信じることから引き離しました。科学万能のように思えた時期でした。宗教を信じる人のことをバカ呼ばわりしていました。
    3.そんな私も目が見えにくくなる経験をしたのが18才の大学受験前でした。視神経がすでに半分死んでしまうという状態になったのです。

Ⅱ.見えない時に見えたもの
  A.人生最大のショック
    1.パウロはダマスコの町で3日間、目が見えないまま食事もとりませんでした。そりゃ、ショックでしたから食事もできなくなって当然です。彼にとっては神様というお方は遠い方では無いのですが、彼が普段どれほど神の声を聞いていたかわかりません。きっとイエス様が来られた時代にはユダヤ人の指導者、宗教家達も神の声は聞けなくなっていたのでしょう。その彼が、突然天からの声を聞いたのです。それもイエス様の声です。
    2.彼にとっての3日間はあの声を思い出し、自分が正しいと思い込んでしてきた迫害が間違っていたのだと気付いていく期間でした。しかもあの声の主であるイエス様は、ユダヤ人指導者達が言っていたような罪人ではなくて、本当に待ち望んだ救い主だったということに気付いていくのです。
    3.パウロにとって目が見えなくなったショックもですが、見えないことでよけいに考える時間ができたパウロはイエス様に関してのショックを受けたのです。
   
  B.こんな人が助けてくれる?!
    1.そんな時にパウロの前に現れたのはアナニヤという人物です。アナニヤも神のお声を聞いてパウロの所に来たのです。本来ならば、アナニヤは迫害される立場ですから、パウロによって捕らえられ牢獄に放り込まれるはずの人でした。そんな相対する人が、パウロを助けに来たのです。
    2.アナニヤはパウロに手を置いて祈ったのです。 「兄弟サウロ。あなたの来る途中、あなたに現れた主イエスが、私を遣わされました。あなたが再び見えるようになり、聖霊に満たされるためです。」 と。 するとただちに、サウロの目からうろこのような物が落ちて、目が見えるようになった。 と、パウロは 目からうろこのような物が落ちて 目が見えるようになりました。アナニヤが自分のことをあのイエス様から教えられているとは驚きだったでしょう。
    3.3日間の黙想はイエス様を受け入れるに十分な時間でした。彼は 彼は立ち上がって、バプテスマを受け、食事をして元気づいた。 のです。洗礼を受けたのです。そして、彼は聖霊のバプテスマも受けたのでしょう。彼の人生は大きく変わりました。そして、彼の変化は世界の変化にもなったのです。一人の人が聖霊に満たされると世界まで変化するものなのです。
   
  C.私の「目からうろこ」事件
    1.私の右目の視神経がすでに半分死んでいることを目医者から告げられ、大学病院に紹介状を書いてもらった私は、大学病院に行くのです。が、その前に母が私の目に手を置いて祈りました。そして、予約した3日後、大学病院に行くとなんと視神経が正常に戻っているのです。
    2.パウロのように見えなくなったわけでは無いですが、この癒しを通して、私は神の存在を認めて、教会に行くようになったのです。すぐにイエス様を信じ3ヶ月後には洗礼も受けました。そして、1年後に聖霊のバプテスマを受けました。

Ⅲ.心の目が開眼した
  A.殺す人から生かす人に変わる
    1. 9:18 するとただちに、サウロの目からうろこのような物が落ちて、目が見えるようになった。 とありますが、肉の目が見えるようになったパウロです。しかし、もっと大事だったのは彼の霊の目が見えるようになっていたことです。
    2.9:19 食事をして元気づいた。 サウロは数日の間、ダマスコの弟子たちとともにいた。 と、元気を得ました。食事をしたから元気になったのでしょうか? いえ、食事ができる元気を得たのです。私も食事ができないくらい不調になった経験が何度もあります。心が元気にならないと食事もできません。
    3.パウロは敵であったイエス様の弟子たちと数日間過ごします。 9:20 そしてただちに、諸会堂で、イエスは神の子であると宣べ伝え始めた。 今度は迫害のために立ち上がったのではなく、イエス様を伝えるために立ち上がったのです。心の目が開かれるとはこういう人生なのです。
   
  B.霊的開眼
    1.パウロはイエス様やクリスチャンを肉の目で見ていたかも知れないけれど、それは肉です。私達は霊的な動物です。その霊の目はイエス様を見なくてはなりません。
    2.霊の目が開かれなくてはならないのです。霊的開眼です。霊の目から鱗が落ちて、イエス様を直視するのです。
    3.パウロは聖霊が遣わされるところどこへでも行きました。霊的開眼というのはそういう聖霊の働き、導きに敏感になるのです。

★ あなたのペンテコステは? あなたの人生は聖霊によって変わりましたか? あなたの目はどこを、何を見ているのですか? あなたの目から鱗が落ちましたか?


ペンテコステの出来事(岡山伝道師)

2013-05-22 12:52:59 | 礼拝説教

2013年5月19日

■ テーマ:聖霊の時代
■ 説教題:ペンテコステの出来事
■ 聖書箇所:使徒の働き2:1~ 21

2:1  五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。
2:2 すると突然、天から、激しい風が吹いてくるような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。
2:3 また、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。
2:4 すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。
2:5 さて、エルサレムには、敬虔なユダヤ人たちが、天下のあらゆる国から来て住んでいたが、
2:6 この物音が起こると、大ぜいの人々が集まって来た。彼らは、それぞれ自分の国のことばで弟子たちが話すのを聞いて、驚きあきれてしまった。
2:7 彼らは驚き怪しんで言った。「どうでしょう。いま話しているこの人たちは、みなガリラヤの人ではありませんか。
2:8 それなのに、私たちめいめいの国の国語で話すのを聞くとは、いったいどうしたことでしょう。
2:9 私たちは、パルテヤ人、メジヤ人、エラム人、またメソポタミヤ、ユダヤ、カパドキヤ、ポントとアジヤ、
2:10 フルギヤとパンフリヤ、エジプトとクレネに近いリビヤ地方などに住む者たち、また滞在中のローマ人たちで、
2:11 ユダヤ人もいれば改宗者もいる。またクレテ人とアラビヤ人なのに、あの人たちが、私たちのいろいろな国ことばで神の大きなみわざを語るのを聞こうとは。」
2:12 人々はみな、驚き惑って、互いに「いったいこれはどうしたことか。」と言った。
2:13 しかし、ほかに「彼らは甘いぶどう酒に酔っているのだ。」と言ってあざける者たちもいた。
2:14 そこで、ペテロは十一人とともに立って、声を張り上げ、人々にはっきりとこう言った。「ユダヤの人々、ならびにエルサレムに住むすべての人々。あなたがたに知っていただきたいことがあります。どうか、私のことばに耳を貸してください。
2:15 今は朝の九時ですから、あなたがたの思っているようにこの人たちは酔っているのではありません。
2:16 これは、預言者ヨエルによって語られた事です。
2:17 『神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。
2:18 その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。
2:19 また、わたしは、上は天に不思議なわざを示し、下は地にしるしを示す。それは、血と火と立ち上る煙である。
2:20 主の大いなる輝かしい日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。
2:21 しかし、主の名を呼ぶ者は、みな救われる。』

<はじめに>
今日はペンテコステです。このペンテコステの日は、イスラエルにおいては、主の三大例祭の一つでもあります。第一は「過越の祭り」、第二は「五旬節、ペンテコステ」、そして第三は「仮庵の祭り」です。そして、キリスト教会にとっては、大切な記念日です。聖霊降臨日とも言います。教会においては、一年に三つの大きなお祝い事があります。一つは、クリスマスです。真の神であり、救い主であるイエス様がこの地にお生まれになったことを祝います。そして、イースターです。これは、イエス様が十字架で死なれ、その三日目によみがえられ、勝利したことをお祝いします。そして、三つ目が、今日のこのペンテコステであります。

 
<本論1:教会の始まり>
このペンテコステの日に、聖霊が下って、エルサレムに教会が始まりました。ですから、ペンテコステの日は教会のお誕生日でもあるわけです。今日のみ言葉の前に、ペンテコステの日に際しての十日間の祈りの箇所があります。教会の始まりは祈りから始まっていると言えます。そして、エルサレムでイエス様が語った、聖霊が臨むという約束の成就を待っていたのです。ただ、何もしないで指をくわえてボーと待っていたのでなく、この聖霊の約束を信じて、ひたすら祈って待っていたのです。(1:14)教会は、「聖霊が臨む」というイエス様の言葉を信じて、祈って待ったのです。人々の祈りがなくては、教会はスタート出来なかったと言えるのです。イエス様の約束の言葉と、聖霊が下るというその間には、祈りがありました。教会は祈りの家と言われるわけです。教会には、イエス様を信じる人々の祈りによる献身が必要です。私も祈祷部の部長でありながら、朝の祈りの時など、眠くて仕方がないです。しかしながら、祈りは嫌だなんて言ってられないことを教えられます。聖書から見ても教会は祈りを通して生み出されており、教会はクリスチャンたちの祈りなくしては、維持できないのですから。イエス様の言葉を信じて十日間祈って待って、とうとう聖霊が下って、教会はスタート地点に立ったのです。

<本論2:聖霊の驚くべきわざ>
祈りによって備えた十日間を終えて、待望の聖霊が下りますが、聖霊は彼らの考えもしない形で下られます。そこには、超自然的な三つのしるしが伴っていました。

1.激しい風が吹くような響き/2:2激しい風が吹くような響きです。ここでは、実際に激しい風が吹いているわけではなく、風のような大きな響きなのです。「風」は御霊の象徴の一つとして聖書では表されています。旧約においては、旧約において聖書の民は、「風」を「神の息」として考えたようです。「息」として語られる旧約の箇所には、エゼキエル書37章の枯れた骨の回復預言が有名です。エゼキエルが神様に導かれて見た幻です。ある谷へと導かれました。幻の中でその谷は骨で満ちていました。その命は失われ、もはや動くことも見ることも語ることもない、命の営みの一切が失われた抜け殻、それが枯れた骨です。エゼキエルは、神様からこの枯れた骨に「預言せよ」と言われます。エゼキエルがその通りすると、最後には、息が入って人は生き返り、立ち上がりました。御霊によって人はいのちを得たのです。ペンテコステのときの風のような激しい響きは、イエス様を信じる人々に神のいのちをもたらすものでした。これが、ペンテコステの時の最初の超自然的な出来事です。
それは聖霊が風のような響きとして、そして神の息として、人々に臨んだのです。人間のわざによらない、神様のわざであります。

2.炎のような舌/二番目のしるしは、2:3です。ここでは、「炎のような」聖霊が下って人々に留まっておられます。このところでは炎として聖霊は現れています。(マタイ3:11)「聖霊の火」、それは、人間の罪や汚れを「焼き尽くす火」として表されています。
そのような聖霊の炎が人々に留まりました。また、聖霊の火は、旧約では、出エジプト記でモーセが出会った神さまの火があります。(出エ3:2朗読)神の火が、柴を燃やしていましたが、柴は決して燃え尽きない不思議な火でした。神様が下さった火は、決して燃え尽きなかったのです。ペンテコステのこのところでの炎のような聖霊のわざも、神様からの炎であり、『焼け尽きることのない火』であると言えます。ここに集まった人々は、決して燃え尽きない聖霊の火を受け取りました。私たちの内なる聖霊の火は種火のようになっていないでしょうか?風をもって、油を注いで聖霊の火を燃え立たせて頂きたいと思います。

3.他国の言葉で話し出した/三番目のしるしとして、「聖霊に満たされた人々」が、「他国の言葉で話し出した」というのです。(2:4)炎のような舌が留まったことで、他国の言葉を語りだしたのです。(2:7)そして、その言葉で神のみわざを語り、神をほめたたえていました。人々が自分の知らない国の言葉で突然に話し出す、あまりにも人間の常識を超えた超自然的な出来事です。聖書では、このような言葉を「異言」と呼んでいます。イエス様を信じた後に、この聖霊のバプテスマは与えられます。異言は、神様が与える言葉です。聖霊が、その舌を支配して、本人の理解できない言葉を語らせるのです。ですから、異言での祈りや賛美は、非常に大切です。肉による舌が制御されて、聖霊による炎の舌で制御して頂きましょう。

以上、ペンテコステの時に起きた聖霊による、三つの点からの超自然的な現れというものをました。神様は神にしか出来ないという、偉大かつ、超自然的なことをされます。この自然や宇宙をも支配される偉大なる神は現実に生きて私たちと共におられるのです。

 
<本論3:人々の驚き>
(2:12~13)聖霊が臨んで、他国の言葉で話し出した彼らを見て、周りの人々は、あまりにも不思議な症状を現します。「驚きあきれて」「驚き惑怪しんで」「驚き惑って」とあります。この驚くべき状況に思わず、お酒を飲んで酔っているんだとあざける人もいました。聖霊に満たされて、他国の言葉を語りだし、神の言葉で賛美をしているのです。
私たちが所属する、アッセンブリー教団は、「ペンテコステ派」と言われる教団です。この使徒の働き2章の出来事が今も同じように働くことを信じています。私は、最初この教会に来たとき、「異言」を伴う聖霊のバプテスマという教えに驚きましたし、奇妙に思いました。まるで、この聖書に出てくる人々のようです。しかし、超自然的に働く神様の存在というものが、非常によく分かりました。「この天地を造られた神様の素晴らしさ、驚異は、実際にあるのだ、神は生きている!」と、心からの感動を覚えました。それで、この異言を伴う聖霊のバプテスマを求めて祈るようになりました。そして、とうとうアッセンブリーの全国聖会でメッセージが語られている途中で受霊しました。その後は、異言での祈りによって、神様との交わりの時が充実してきました。感謝です。

<本論4:ペテロのメッセージ>
▲さて、「甘いぶどう酒に酔っているのだ。」という発言に反応して、ペテロが発言をします。(2:14~16)ペテロの最初の説教の語りだしです。朝の九時というと、朝の祈りのときであり、敬虔なユダヤ人は祈りの前に飲食をしないのが習慣であったといいます。ですから、お酒に酔ってはいないのだと理解できるということです。そして、ペテロはどんどんと説教へと突入していくわけですが、これは、ペテロが力強い証し人に変えられたためです。ここに、聖霊が臨むと、イエス様の証し人となることの約束が表れてきているのが分かります。(使徒1:8)聖霊のバプテスマを受けることによって、私たちも、イエス・キリストの証し人として、主の望まれるままに、イエス様の福音を伝える力を与えられます。ペテロは、聖霊が彼の上に下って燃えるような思いで預言の成就を宣言しました。彼は、もはや以前のペテロではありません。私たちも以前の自分とは違う聖霊の力によって、

 
<本論5:ヨエル書の預言の成就>
 ペテロは、この出来事はヨエル書の成就であると語ります。(2:17~21)これは、終わりの時代についての預言です。ヨエルは、紀元前800年ごろに生きていた預言者で、この終わりの日に、イエス様が再び来られる前に、信じる人々に聖霊が注がれるという預言を語りました。
これはこのペンテコステの日に成就し、明確な終わりの時代が来ました。エルサレムでペンテコステの日から多くの人たちがイエス・キリストを信じ救われました。聖霊が臨む終わりの時代には、2:21にあるように、「主の名を呼ぶ者は、みな救われる。」のです。聖霊の時代に入り、全ての信じる人々に聖霊が住まわれる時代になりました。この終わりの時代は、分け隔てない神の全ての人々への恵みの時代です。どうか、まだ、イエス様を信じていない方は、今すぐイエス様を信じて受け入れてください。万物の支配者なる神が、あなたの内に住まわれます。聖霊によって全く新しい人にされます。そして、神様との素晴らしい人生の歩みに入ってください。

<結び>
私たちは終わりの時代に生きている人間です。イエス様の再臨も意識に入れつつ、信仰生活を送る必要があります。いつ主が来られてもいいように、揺るがない信仰生活を一緒に送りたいと思います。そのためには聖霊にしっかりと導かれて、イエス様の教えの内を歩んでいきたいと思います。ペンテコステのときの出来事は、この当時の人々だけの体験ではありません。今を生きる私たちにも同じように働く神の恵みです。聖霊が臨んで多くの人々が変えられました。このペンテコステの時、皆さんで聖霊の恵みを心から感謝して、聖霊ご自身を求めていきましょう。 


少年の差し出した弁当

2013-05-05 22:46:33 | 礼拝説教

2013/5/5ウエルカムサンデー礼拝説教

【説教題】  「少年の差し出した弁当」
【聖書箇所】 ヨハネ6:5-14
6:5 イエスは目を上げて、大ぜいの人の群れがご自分のほうに来るのを見て、ピリポに言われた。「どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか。」
6:6 もっとも、イエスは、ピリポをためしてこう言われたのであった。イエスは、ご自分では、しようとしていることを知っておられたからである。
6:7 ピリポはイエスに答えた。「めいめいが少しずつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りません。」
6:8 弟子のひとりシモン・ペテロの兄弟アンデレがイエスに言った。
6:9 「ここに少年が大麦のパンを五つと小さい魚を二匹持っています。しかし、こんなに大ぜいの人々では、それが何になりましょう。」
6:10 イエスは言われた。「人々をすわらせなさい。」その場所には草が多かった。そこで男たちはすわった。その数はおよそ五千人であった。
6:11 そこで、イエスはパンを取り、感謝をささげてから、すわっている人々に分けてやられた。また、小さい魚も同じようにして、彼らにほしいだけ分けられた。
6:12 そして、彼らが十分食べたとき、弟子たちに言われた。「余ったパン切れを、一つもむだに捨てないように集めなさい。」
6:13 彼らは集めてみた。すると、大麦のパン五つから出て来たパン切れを、人々が食べたうえ、なお余ったもので十二のかごがいっぱいになった。
6:14 人々は、イエスのなさったしるしを見て、「まことに、この方こそ、世に来られるはずの預言者だ」と言った。

○ 今日は「こどもの日」です。新中野キリスト教会では子どもたちを大事にしています。大事というのは愛しているということです。日本の国が「こどもの日」を制定したのは、子どもを大事にするためでした。教会はそれ以上に思っているのです。

Ⅰ.お腹を空かせた人々
  A.イエス様のところに集まる人々
    1.聖書の時代には一般的に女性と子どもは数に数えられなかったといいます。現代から見れば差別です。そんな時代にイエス様のお話を聞きに集まった人がたくさんいました。10節に、その数はおよそ五千人であった。 とありますが、それが大人の男性だけだというのですから、女性も子どもも入れれば2万人位いたのではないかというのです。
    2.2万人がどれくらいの数かというと、今日の礼拝の400倍です。今私はこの人数でマイクを使っていますが、2万人の聴衆にイエス様はどんな大声でお話をなさったのでしょう。子どもたちは静かにしていたのでしょうか? トイレはどうしたのでしょうか? どうもそんなことばっかり考えてしまいます。
    3.かつてアフリカで大伝道集会が持たれた時、何十万人という人が集まり、たくさんの人が救われたという報告がありましたが、大きな天幕だけではとても足りなかったというのは当然でしょうね。でも、イエス様のことを知りたくて遠くからも集まったのです。
   
  B.対策は十分していても・・・
    1.先ほど、トイレはどうしたのだろうか? と言いましたが、まさしく、大きな集会を開く時には、安全対策とトイレ対策、飲み水はじめ食事対策は大事な事です。
    2.新中野教会で行う100人くらいのイベントでもそうしたことは大変なのです。数十名でバーベキュー大会に出かけた時も、安全対策、トイレの確認、肉の分量確認をしました。思わぬ早く雨が降ってきて、ブルーシートをテントにして、片付けを急いだことは懐かしい思い出です。
    3.ですから、このガリラヤ湖周辺の小高い山に集まった人々への食事対策は弟子たちも気がかりだったかも知れません。そんな時、イエス様は 大ぜいの人の群れがご自分のほうに来るのを見て、ピリポに言われた。「どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか。」 なんて言われるのですから、弟子たちも困惑して当たり前でしょう。

Ⅱ.頭を使った弟子たち
  A.足りません
    1.大勢の人を見て、弟子たちは、イエス様から差し出された問題に取り組みます。「どこからパンを買ってくるか?」「どれだけのパンが必要になるか?」「お金はいくらかかるのか?」必死で考えたことでしょう。
    2.ピリポは素早く答えます。 「めいめいが少しずつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りません。」 と。つまり、「私達でこの大勢の人のためにパンを与えるのは無理です」という結論なのです。200デナリとは、200日分の賃金に当たるということです。仮に一日1万円で計算すると、200万円で、2万人いるのですから、一人200円分ということです。これはあくまでも現代の金額ですから、セブンイレブンでおにぎり100円セールの時に、一人あたり2コという計算です。果たして、会計をしていたユダの財布には200デナリも入っていたのでしょうか?
   
  B.こんなに大勢では・・・
    1.そんな時、アンデレは 「ここに少年が大麦のパンを五つと小さい魚を二匹持っています。しかし、こんなに大ぜいの人々では、それが何になりましょう。」 と、言います。彼は頭から自分たちの財布の中身が無いことを知ってか、集まっている民衆の持ち物に関心があったのではないでしょうか。
    2.あちこち見渡しても、みんな大して何も持たないで来たような雰囲気です。そんな時、一人の少年が自分のお弁当を持って来たようなのです。この少年が持っていたということは、他にも持っていたかも知れません。ですから、みんなが出し合えば何とかなるかなとアンデレは思ったのかも知れないのです。
    3.みんなに向かって「持っている食べ物を出せ!」と言えば、結構集まるのではないかと思ったかも知れないのですが、実際は彼が絶望するほどに食料は無かったようです。だから、しかし、こんなに大ぜいの人々では、それが何になりましょう。 という羽目になったのでしょう。
   
  C.無理です
    1.弟子たちはしっかり考えたのです。きっと、イエス様が行くところにはいつも大勢の人が集まったので、安全対策、トイレ対策はしてきたでしょう。しかし、食料対策はしてこなかった。だからマニュアルに無いので、必死で考えるのです。誰も祈らなかった。
    2.その上で、彼らは結論を出しました。「無理!」 彼らは湖を見て魚のいそうな所を見つけられるような漁師であったり、お金に詳しい取税人であったりしたのです。その専門分野の知識と知恵を結集して出した結論が「無理!」だったのです。

Ⅲ.心を差し出した少年
  A.イエス様、どうぞ!
    1.弟子たちの結論を聞くまでも無く、普通は無理です。ところが、子どもというのは、無理とか考えない。トトト、と一人の少年がお弁当を持って来たのです。イエス様と弟子たちの話が聞こえたのか、自分はお腹が空いてもいいから、イエス様に食べていただこうと思ったのか、彼は持って来たのです。彼だって、幼児で無ければ、たった5つのパンでみんなのお腹を膨らせるなんて思ってないでしょう。彼はみんなのことより、自分のことより、イエス様の空腹を思ったのです。
    2.ですから、その弁当をイエス様が「ありがとう。おいしいよ。」と食べてしまっても少年は嬉しかったと思うのです。ところが、イエス様は食べなかったのです。そして、少年の目の前で少年にすごいことを見せたのです。自分でイエス様に持って来たから、少年は目の前でパンが一杯に増える奇跡を見るのです。「わーお!すごい、イエス様、最高!」って叫んだと思います。
   
  B.祈りは愛がこもっている
    1.少年はお弁当を差し出したのですが、それはイエス様に差し上げたものです。彼は彼の心をイエス様に差し出したということなのです。
    2.心を注ぎだしたところには神様の奇跡が起こるのです。祈りで奇跡が起こると言いますが、それは祈りが神と人とを愛するものだからなのです。
    3.イエス様が願われることは何でも実現したのは、イエス様が神様と直結しており、人々を100%愛されたからです。天の父なる神様はこのイエス様の願いを聞きたくてたまらないという感じです。

● イギリスの孤児院を創ったジョージ・ミューラーは祈りの人でした。何度も何度も子どもたちへのパンに困りそうになるのですが、ある時は小切手が届き、ある時はパンを積んだ馬車が到着するのです。みんな不思議がったそうです。

★ あなたもこの少年のようにイエス様に心を差し出しませんか?! ジョージ・ミューラーのようにイエス様に期待して祈ってみませんか。