バイブルサロン

礼拝説教、聖書を読んで感じた事

私に力を与える言葉

2020-10-31 07:33:06 | 礼拝説教
2020/11/1 礼拝説教
【テーマ】  人を生かす言葉
【説教題】 「私に力を与える言葉」
【聖書箇所】 Ⅰコリント1:18
1:18 十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。

○ 私は何か考える時、日本語で考えます。というより、私にはそれしかないのです。英語の堪能な方は英語で考えるといいます。それぞれ母語があり、基本的には母語で考えるのです。
 
Ⅰ.御言葉を蓄える
A.安心できる音声
1.赤ちゃんはお腹の中にいる時から言葉を聞いて蓄えていると言われます。お腹の中でお母さんの声を一番よく聞いています。寝付かない赤ちゃんにお腹の中で聞いていた音を聞かせると落ち着いてすぐ寝付くといいます。一番安心できるところで聞いてきた音だからでしょう。
2.語る言葉も音ですが、その音には気持ちがこもっています。ですから私は時々活字調のメールで困ることがあります。気持ちを表し切れていないからです。最近は絵文字、スタンプなどで表すことができるのかもしれませんが、まだまだ限界があります。

B.良い言葉を蓄える
1.子どもは成長していく中で、良い言葉も悪い言葉もわからずどんどん蓄えます。人間は脳に蓄えた言葉でしか考えることはできないのですから、悪い言葉を蓄えると悪いことを考えます。良い言葉を蓄えると良いことを考えます。だから子どもには良い言葉を与えるのが大事なのです。良い言葉の宝庫は聖書です。大人も子どもも聖書の言葉、つまり神の言葉を蓄えると良い考えができるようになります。
2.今日のテキストに 十字架のことば とありますが、これはイエスの言葉です。イエスの言葉で救いを得た人がたくさんいます。聖書の言葉を少しでもいいから蓄えると人生に大きな変化があるのは間違いの無いことです。

Ⅱ.御言葉を使う
A.言葉を正しく使えるように
1.言葉を覚えて、その言葉と実際の「もの」が繋がることで言葉に意味が出てきて話が通じます。「水」という言葉と「水」そのものが一致していると「みず」と言っただけで「水が欲しいんだな」とかわかるわけです。言葉と実物を違って覚え込んだら通じないばかりか、後々の思考にも影響します。言葉を蓄えて正しく使えるようになることが必要なわけです。
2.聖書の言葉、つまり神の言葉も同じで、正しく理解していないと人生そのものがおかしくなります。昔、アメリカ映画の中で犯罪人が警察に捕まった時に、警官から「名前は?」と聞かれて、彼は「カイン」と答えました。警官は「珍しいな」と。すると彼は「両親が聖書をよく知らなくて、良い人物の名前(アベル)を付けたつもりだったらしい。だからこんな人間になっちまったよ」と言うのです。聖書を正しく知っておくことが大事です。

B.言葉で神の思いを知る
1.人とのコミュニケーションに言葉が必要なことは当然です。言葉を豊かにすることで自分の気持ちをより的確に表現できますし、頭の中で整理できます。そして、言葉で自分の気持ちを神に言い表すこともできるのです。それが祈りですね。祈りというのは神との会話とも言われています。
2.そして、同時に神の言葉である聖書を通して、神の思いを知ることができるようになっていきます。神の言葉を多く蓄えることで、聖書の全体像を掴み、神のお考えが見えるようになって来ます。そうして聖書の言葉を思い巡らすことで、自分の正しい生き方を決めることができるようになるのです。
3.神は今も生きて働いておられますから、私たちが祈る時、神も話しかけてくださるのです。多くの場合、それが聖書を通して語られるのです。

Ⅲ.御言葉で生きる
A.大きな力を持つ言葉
1.人の言葉は他の人にイヤな思いをさせることもありますし、反対に励ましたり慰めたりすることもあります。言葉が人を生かしもし、殺しもするということです。傷つける言葉、辱める言葉、結構悪い言葉は多いものです。近年のネット環境は多くの人を苦しめる言葉が多すぎるのではないでしょうか?
2.イエスはそういう人間の内側をこのように言われました。 マルコ7:20 イエスはまた言われた。「人から出て来るもの、それが人を汚すのです。7:21 内側から、すなわち人の心の中から、悪い考えが出て来ます。淫らな行い、盗み、殺人、7:22 姦淫、貪欲、悪行、欺き、好色、ねたみ、ののしり、高慢、愚かさで、7:23 これらの悪は、みな内側から出て来て、人を汚すのです。」 人の内側には良い言葉もありながら、悪い事を言いやすいようです。
3.ですから、言葉で人を生かすことができたらどんなに嬉しいでしょうか。自殺を考えた人がいのちの電話に電話して生きることにした人が多くおられます。人の言葉でも大きな力を持っています。ならば、神の言葉はもっと大きな力をもっていると思いませんか。

B.十字架の言葉
1.今日の聖書にある 十字架のことば に力があるのです。十字架の上での言葉を一つ取り上げてみたいと思います。 ルカ23:34 「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」 このイエスの言葉は当然神の言葉です。自分の罪を認めて悔い改める人にこのイエスの言葉は実行されます。つまりイエスを十字架につけるほどの罪が神に赦されるのです。
2.イエスを信じる者には 十字架のことば 聖書の言葉は神の力となるのです。 ヨハネ1:1 初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。 とあるように、イエス・キリストが神の言葉です。イエス・キリストを私たちの心に迎えることが救いで 救われる私たち と言えるわけです。 十字架のことばは、救われる私たちには神の力です。 と言えるのです。

★ あなたにも十字架の言葉で救いがすでに用意されています。ぜひ、イエス・キリストをあなたの救い主として信じてください。そして、神の言葉

召しにふさわしく歩む人

2020-10-24 07:20:47 | 礼拝説教
2020/10/25 礼拝説教
【テーマ】  一つとされた教会
【説教題】 「召しにふさわしく歩む人」
【聖書箇所】 エペソ4:1-6
4:1 さて、主にある囚人の私はあなたがたに勧めます。あなたがたは、召されたその召しにふさわしく歩みなさい。
4:2 謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに耐え忍び、
4:3 平和の絆で結ばれて、御霊による一致を熱心に保ちなさい。
4:4 あなたがたが召された、その召しの望みが一つであったのと同じように、からだは一つ、御霊は一つです。
4:5 主はひとり、信仰は一つ、バプテスマは一つです。
4:6 すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父である神はただひとりです。

○ エペソ人への手紙でパウロは教会はキリストの体であると言っています。その教会はユダヤ人と異邦人も同等の家族として構成されています。奥義であったキリストの十字架の贖いは人々を救うだけで無く、教会を生み出し、教会は悪魔も怖れる存在となっているのです。その教会には当然神のご計画があります。ここ4章からはいよいよその教会を建て上げていくための実践的な部分に入ります。
 
Ⅰ.私たちは召されている
A.囚人という召し
1.今日のテキストの最初は さて と、「話は変わって」という感じに聞こえますが、ここはむしろ、「というわけで」「それゆえ」という言葉の方が良いでしょう。また、パウロは 主にある囚人 と「囚人」という言葉で自分を紹介します。それは彼が主に召されているという自覚からくるのです。
2.彼は異邦人のために召され、異邦人のために囚人とされているというのです。彼は あなたがたに勧めます と柔らかく言っていますが、囚人じゃなくて監督なら「あなた方に命じる!」と厳しく言ったかも知れません。しかし、謙遜に語るパウロの言葉を聞いて、自ら実行しようとしてくれる事を望んでいるのです。

B.召しとは?
1.彼は召しを感じているのですが、召しとは何かを知らねばならないと思います。多くの人は「召し」は牧師にだけ与えられたものと思いがちです。もちろん「牧師として召された」「宣教師に召された」と言いますが、本来召しは全てのクリスチャンに与えられたものです。
2.罪の世界から召し出されたということです。つまり救いが召しです。そして、救われた者には神の願う生き方をするのが当然なので、神の望まれる生き方をすることが召しなのです。

Ⅱ.召しにふさわしく歩め
A.聖い生き方が望まれている
1.召しが全てのクリスチャンに対してあるのですから、 あなたがたは、召されたその召しにふさわしく歩みなさい というのは当然全てのクリスチャンのことで、「私は関係ない」という人はいません。
2.救われたということは、未信者に対して模範となる生き方をするということです。しかし、何も人間として完全であることをいうのではありません。罪に対して敏感で、罪を嫌う生き方をし、神を愛して生きることで良いのです。つまり、神を礼拝する、賛美する、祈るなどといったことです。
3.そしてパウロはクリスチャンの品性を言います。 謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに耐え忍び、平和の絆で結ばれ と書いていますが、この言葉はガラテヤ5:22-23に出てくる「御霊の実」と合致するではありませんか。このような品性をもつようにといいますか、クリスチャンはすでにその品性の種を持っていると言います。それを芽生えさせ成長させることを願っているのです。

B.信仰は歩くこと
1.イエスを信じて洗礼を受ければ何かしら天国が保証されて安心という人がいます。果たしてそうなのでしょうか? 洗礼を受けるかどうかは別として、イエスを信じれば救われるのですが、勘違いしないで欲しいです。信じるというのはイエスの言うことを聞くということであり、いのちをかけてイエスに着いていくということです。
2.信仰とはそこでゴールしたのでは無く、スタートしたのです。歩き始めたのであり、信仰はてくてく歩き続けるものなのです。やめないことです。聖書通読が上手くいかなくてもまた読み出せばいいのです。あまり祈ってなかったなら、また祈ればいいのです。そうする内にあなたの信仰は人にも見えてくるのです。あなたからキリストが見えるようになるのです。歩き続けることです。

Ⅲ.御霊による一致を保て
A.一つ、一人
1.4-5節には 一つ という言葉が5回も出てきます。何が一つなのか確認しましょう。 召しの望み からだ 御霊 信仰 バプテスマ です。そして、 主はひとり すべてのものの父である神はただひとり と主は「ひとり」だと言っています。だから 御霊による一致を熱心に保ちなさい となるのです。
2.ユダヤ人も異邦人もなく、皆同じ神の家族として召され(救われ)一つのからだ、教会とされたのです。色々な人、立場や社会的地位、学歴などそういうものは違うのに、信仰もバプテスマもなんら変わらない、平等に一つです。これが教会であり、4-6節に 御霊は一つです 主はひとり 父である神はただひとり と三位一体の神が語られています。神はお一人、教会も一つ、神と教会に一致があるように、教会の横の繋がりも一致があるのです。

B.一致を保つ
1.神のそうした原則はみんなに与えられていますが、この世に長らく染まってきた私たちはそう簡単に一つになれないのも事実です。何しろ、みんな違うのですから。夫婦が一つだと聖書で言われてもそこには互いを受け入れ、愛し、尊敬するという努力があって実現するように、教会も同じです。
2.三位一体の神である父なる神と子なる神、聖霊なる神はそれぞれ働きが違うのに、完全にお互いを受け入れ、愛し、尊敬しておられるのです。だからこそ三位一体なのです。私たちは信仰によって、聖霊に助けられて努力することでこのすばらしい一致を持つのです。パウロは 御霊による一致を熱心に保ちなさい と言っています。

★ 神が私たちを救ってくださったことでできた教会はすでに霊的に一致が与えられています。私たちは聖霊に助けられてその一致を保っていくのです。そのために互いに仕え合うのです。

必要なことは一つだけ

2020-10-18 16:49:21 | 礼拝説教
†2020/10/18 礼拝説教  (Y師)
【テーマ】 最も大切なもの
【説教題】 「必要なことは一つだけ」
【聖書箇所】 ルカ10:38~42

【新改訳2017】
ルカ
10:38 さて、一行が進んで行くうちに、イエスはある村に入られた。すると、マルタという女の人がイエスを家に迎え入れた。
10:39 彼女にはマリアという姉妹がいたが、主の足もとに座って、主のことばに聞き入っていた。
10:40 ところが、マルタはいろいろなもてなしのために心が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。私の姉妹が私だけにもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのですか。私の手伝いをするように、おっしゃってください。」
10:41 主は答えられた。「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています。
10:42 しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました。それが彼女から取り上げられることはありません。」

① 律法主義者への反論
ベタニヤでのこの出来事は、おそらくその前節:25-37にあるユダヤ教の律法主義に対する反論に加えて書かれたのだろうと言われている。律法主義者たちは、律法を守り行うことで自分の信仰の素晴らしさ、正しさを示そうとした。:25すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスをためそうとして言った。「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるのでしょうか。」これに対して、二つの問答が続く。一つ目は、:25-28、イエスの「律法には何と書かれているか。あなたはどう読んでいるか」という質問に対して、彼は、心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くしてあなたの神である主を愛することと、あなたの隣人をあなた自身のように愛することであると答える(:26,27)。それに対してイエスはその通りであるから、それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ますと言われた(:28)。二つ目の:29-37は有名な「良きサマリヤ人」の箇所である。強盗に襲われたユダヤ人を助けたのは、ユダヤ教の祭司でも、レビ人でもなく、ユダヤ人から嫌われていたサマリヤ人であったというお話しだ。イエスはこのようなたとえを話して、律法学者たちは律法の遵守と自分の正しさを主張するばかりで、真に律法を実践できずにいることを示した。
そして、ベタニヤにいたマルタとマリヤを対比することで、こうしたユダヤ教の律法主義に反論する姿勢が表れている。

② マルタにとって必要なこと
ベタニヤのマルタ、ラザロ、マリヤのきょうだいは福音書に何度か登場する。きょうだいのラザロは病気で死ぬが、イエスによってよみがえらされる(ヨハネ11:1)。また妹のマリヤは、高価な香油をイエスの足に塗り、「葬りの日のために」用意してくれたとイエスからたたえられた(ヨハネ12:3~8)。それぞれの福音書によって、彼らの伝承は異なるが、イエスは彼らの家庭と親しくされ、時々訪れていた。
この時点では、初めてイエスを迎えたのかはわからないが、マルタは「喜んで」家に迎えたとある(:38)。イエスの教えや業によって、イエスを敬い、もてなしたいという気持ちから、喜んで迎え入れたのだろう。そこには、マルタの純粋な信仰が表れている。
いつからの付き合いかは不明だが、イエス様と親しい関係とはうらやましいことだ。もし、自分だったらできるだろうか?こんな所に(このような自分のところに)来ていただくとは申し訳ない。どこかの高級ホテルの綺麗な部屋で、最高の食事を召し上がられては、と思ってしまう。
マルタは、彼女なりに精一杯のおもてなしをしようと懸命に働く。彼女の行動を見ると、妹のマリヤと違って活動的な性格のようである。
マルタは、「心が落ち着かず」(:40)(心があちこちに引かれ分散すること)にいた。「いろいろなもてなし」は直訳「多くの奉仕」で、次の「おもてなし」も「奉仕する、仕える」という語である(:40)。マルタは台所にいる自分だけが「奉仕している」と思っているようである。マルタは自分で考え出した接待に心乱され、かってに「いろいろな(多くの)こと」が「どうしても必要なこと」のように考えてしまっていたのである。(:41,42)料理をつくるには、色々な食材が必要になる。肉に野菜、またパンや果物、飲み物の準備や、料理を創る手順も考えなくてはならない。しかし、そのような表面的な数々の行動に心を惑わされてはならない。
:41では、「マルタ、マルタ」と二度名前を呼んでいるが、これは特別な感情を表している。マルタは過度に心配して思い煩い、心を乱している。彼女は感情的にいらだっていたのである。そうではなくて、イエスはマルタが気にかける「いろいろなこと」(:41)よりも、どうしても「必要なこと」は一つなのだとやさしく諭される。

③ マリヤにとって必要なこと
イエスへの歓迎はマルタに限っていたのではなく、マリヤも彼女なりにイエスを歓迎した。マリヤは「主の足もとに座」ったが、それは弟子入りの姿勢であった。通常、ラビ(イエスもラビ〈先生〉であった)は、女性に教えることはなかった。しかし、イエスは誰でも分け隔てなく、女性であってもみ言葉を語ってくれたのである。
こうした態度を見ると、彼女はマルタとは対照的に静かな性格だったようである。イエスの教えに聞き入り理解する態度によって、彼女は賞賛された。マリヤは「主の足もとに座って、みことばに聞き入る」(:39)ことで、マリヤは必要な「その良い方を選んだ」のである。それがマリヤの主に対する最高の「もてなし」すなわち「奉仕」だった。イエスをもてなすのに必要な事は一つだけなのだ。これを欠くならば本当の意味でイエスをもてなすことにならない。私はまだ信仰をもって間もない頃、この箇所を読んで、なぜマルタの態度は悪いのかと思ってしまったが、最も必要なことは、神の言葉を聞くことであった。だから、たとい姉であってもマリヤからそれを取り上げることはできない。
この記事は「良きサマリヤ人のたとえ」の直後に置かれている。隣人愛の実践には、愛なる主を愛し、御言葉に耳を傾けることが「どうしても必要なこと」だからである。

結び)
マルタは、イエスのもてなしに必要なことを色々と考え行動した。それは、彼女なりにイエスのためと思って懸命に奉仕したのである。しかし、そうではなくて、必要なことは一つであり、まずすべきことは、神の御言葉に耳を傾けることだった。


人知をはるかに超えた愛

2020-10-10 06:46:36 | 礼拝説教
2020/10/11 礼拝説教
【テーマ】  神を知る喜び
【説教題】 「人知をはるかに超えた愛」
【聖書箇所】 エペソ3:17-21
3:17 信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように。そして、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、
3:18 すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、
3:19 人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように。
3:20 どうか、私たちのうちに働く御力によって、私たちが願うところ、思うところのすべてをはるかに超えて行うことのできる方に、
3:21 教会において、またキリスト・イエスにあって、栄光が、世々限りなく、とこしえまでもありますように。アーメン。

○ パウロの祈りは14節から始まっていますが、その後半を観ていきます。パウロがエペソ教会の人々、さらに全てのクリスチャンに対して祈る力強い祈りの中身です。祈る私たちの参考にもなり、何と言ってもこの祈りで私たちが励まされます。
  どなたかの祈りを聞いていると心から「アーメン」と言いたくなる祈りの言葉があります。時には自分の祈りの足りない部分を祈ってくださっているような言葉に出会うこともあります。また、祈りを聞いて励まされたりもします。説教ではないのに、人の祈りなのにそれを聞いているだけで励まされるのです。パウロの祈りの言葉にもそういうものを感じます。
 
Ⅰ.神を理解する力を得るように
A.キリストに住みついていただくよう祈る
1.パウロが信徒のために祈るのは、まず 信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように です。イエスを信じる人には誰にでもイエスはその人のところに来てくださいます。聖霊はその人の内に住まわれます。全ての人がまずイエスを宿すというのは私たちの祈りでもあります。
2.この キリストを住まわせてくださいますように はキリストを「住みつかせてくださいますように」という強い言葉です。私たちは自分の内にキリストに住みついていただいているでしょうか? 

B.愛を実践できるように祈る
1.キリストが私たちの内に住みついてくださったら、私たちは神を慕い求めるのです。それがパウロの祈りです。 その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つように と願っています。「すんばらしき主イエスの愛は広く、深い、お!」という賛美がありますが、神の愛はすごい愛です。その愛は理屈では無く、実践です。
2.ユダヤ人は異邦人を蔑んだけれども神はユダヤ人も異邦人も同様に愛されるまさに広い愛をお持ちでした。そして、その愛の永遠さという長さにおいても、その愛の高尚さにおいても、私たちを真に愛してくださるその深さにおいても実感できるものです。神を知ることはまず、この神の愛を理屈では無く、実感として味わうことでしょう。私たち異邦人も愛されているんだと。
3.親の愛、夫婦の愛は聖書の中で神の愛を現すことに用いられています。それは理屈を超える愛であることは誰もがわかることです。子どもは「愛されている」という意味がわからなくても親の愛を感じています。私たちは未熟な内は神の厳しさに「愛されていない」と思い込んだりすることがあるかもしれませんが、信仰が成長してくると不思議なまでに神の愛がわかってくるではありませんか。

Ⅱ.人知を超えた愛を知る
A.聖霊によって知ることができる
1.パウロの祈りはさらに 人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。 です。が、人知を超えたものをどうして人間が知ることができるでしょうか? それが聖霊によるのです。聖霊によらなければ神の愛、キリストの愛はわからないのです。
2.神の愛がわかってくる時というのは自分の罪がわかる時でもあります。こんな罪深い自分がイエスの十字架によって赦していただいたということに感動するのです。それは時にはイエスを信じた時に起こるだけでは無く、信じてしばらくして自分の罪深さを感じることがあったりするのです。それは聖霊の働きなのです。そして改めて十字架による救い、イエスの命が自分のために捨てられたことをズッキーンと感じて神の前にひれ伏してしまうのです。

B.なおも深い愛を知ることができる
1.こうしたところに 人知をはるかに超えたキリストの愛 を覚えるのです。そのような感動は自分の知恵や知識で感じたりできるものでは無いのです。聖霊によって知るのです。
2. そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように と祈るパウロの祈り。私たちは満たしていただけるのです。パウロは満たされたのです。少し前の彼が知っていた神の愛よりもなお深い愛を、また新たに知ったのです。歳をとったからといって神の愛に満たされるのが終わったわけではなく、さらに深い神の愛が感じられて驚き、感謝したのです。その喜びを人々が得ることができるようにとパウロは祈ります。私たちも祈るのです。

Ⅲ.神を讃えるのは教会だけ
A.頌栄としての祈り
1.20,21節は頌栄。神を讃えています。祈りは願い事と思っている人はこういう祈りが無いのかも知れません。たとえ願いであっても、自分の願いが神の御心にかなっているかどうかもわかっていないことが多く、自分のわがままを願っているかも知れないのです。そういう時にも聖霊は働いてくださって、私たちに「みこころを行ってください」と言わしめるのです。
2.そして更には祈っていくうちに喜びと感謝が湧いてくるのです。そして神を讃えるようになるのです。「この願いを聞いてくださいよ。でないと恨みますよ」じゃないのです。あるいはそこまで言わなくても「頼みますよ。じゃ!」というような祈りは何ら神社で鈴を鳴らし賽銭を投げ入れるのと変わらないのではないでしょうか? 

B.真に神に感謝する者の祈り
1.マルコ12:41-44 あのレプタ銅貨2枚を献げたやもめは何を祈ったのか知りませが、彼女の中にはすでに神への感謝が沸き起こっていたのではないでしょうか? 彼女は 私たちが願うところ、思うところのすべてをはるかに超えて行うことのできる方 を信じていたのです。
2.それに対して金持ち達はたくさん献金していることを見てもらうようにと、お金に目が行っています。彼らには神を見ようとする目が無く、神の愛の広さも長さも高さも深さもわからないのです。
3. 教会において とパウロが言うように、神の栄光を表すのも、神を讃えるのも、この地上においては教会だけです。教会は地の塩、世の光ですから、教会はこの世に神の栄光を表し、人々にまことの神を示すことができるのです。私たちの集まりはそのようなものなのです。

★ パウロの祈りから祈りの知識を学ぶだけでは無く、彼が神に触れ、聖霊に満たされ、感謝に溢れて祈りが溢れてきたことを私たちも実体験したいのです。祈りは聖霊が助けてくださいます。

神に似せられた私たち

2020-10-03 15:19:31 | 礼拝説教
2020/10/4 礼拝説教
【テーマ】  神は私たちを愛している
【説教題】 「神に似せられた私たち」
【聖書箇所】 創世記1:27、2:7、18、24
1:27 神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。

2:7 神である【主】は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった。

2:18 また、神である【主】は言われた。「人がひとりでいるのは良くない。わたしは人のために、ふさわしい助け手を造ろう。」

2:24 それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである。

○ 「こんなに色々なことが起こるのは神が人間を愛していないのではないか?」など思う方もいらっしゃるでしょう。今日はまず、神が人間をお造りになった時のことを見てみましょう。
 
Ⅰ.神のかたちに人を造られた
A.神は全ての環境を整えられた
1.このコロナ禍の中、学校はなかなか学校再開ができませんでした。子ども達の安全が確認されて始めて再開しました。そのように環境を整えないと安全に過ごせないからです。神は人間をお造りになる前に全ての環境を整えられました。
2.創世記の1章は昔から多くの議論を呼んだところです。それは1日、2日というふうに書いてあるのですが、この一日は24時間なのか、1000年なのか、単に一区切りを意味するのかなどと問われたからです。それは確かにわからないことですが、ここは科学的に地球がどのようにできたのかを説明しているわけではなく、人間のために秩序正しく神は環境を整えてくださったことを意味しています。
3.こうして環境を整えて、食べ物となる植物も、また動物も造られた後に人間を造られました。初めに人間を造って、共同で他の被造物を造られたわけではありません。つまり、人間はやはり被造物に過ぎないのです。しかし、最高の被造物として造ってくださったのです。動植物・全宇宙は私たち人間の為に造られたのです。それは神が私たちを愛しておられることの表れです。
4.1日、2日と時間的に進むのであれば、7日目に休まれた後、8日目に神は何をされたのかということになります。

B.人間は神に似せられている
1.その人間だけは他の被造物と違って神に似せて造られました。 神のかたちとして人を創造し とあるので、「神に形があるのか?」と問う人がありますが、神は見えませんので、これは見える形を表しているわけではありません。見えない神の性質・人格ということです。
2.とすれば、神とはどのようなお方かということを別の項目で学ぶ必要があるでしょう。そういうことを調べているのが神学というものなのです。神の性質の中心は「愛」であり「義」です。私たちはそうした神の性質に似せて造られました。まさに神に私たちは愛されています。

Ⅱ.命の息を吹き込まれた
A.人は大地のちりで造られた
1.人間は その大地のちりで 造られました。「ちり」と言うと「ちりとり」の「ちり」でゴミを想像したりしますが、この原語はとても小さなものを意味し、現代では「原子」などと言えます。また、 大地のちり ですので、土、粘土ともとれるでしょう。ですから死ねば土に返るとも言われるのです。
2.人間の体が実に見事にできていることはどなたにもわかることだと思います。体には色々な器官がありますが、それが実に見事に連携プレーをとっています。全知全能の神だからこそ、このようなすばらしい体を造っていただけたのです。これも神に愛されている証拠です。

B.人にいのちの息を吹き込まれた
1.いくら体がすばらしい構造であったとしても理性が働かないようならロボットに過ぎないかも知れません。聖書は その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった。 と言っています。神のかたちとして造られたわけですので、人間は神から いのちの息 をいただきました。ここの部分は赤ちゃんの誕生を思わせます。赤ちゃんは生まれるまで肺呼吸をしていません。出産と同時に「オギャー」と泣くのは肺呼吸が始まったからです。狭い産道を通って赤ちゃんの肺が押しつぶされ生まれ出ると同時に一気に肺が膨らんで外気が入ってくるのです。最初の人間アダムもそんな感じだったのでしょうか。神の息をいただきました。愛されていますね。
2.しかし、この「息」という言葉は原語では「風」とも「霊」ともいう言葉です。「霊」を吹き込まれたとも言えるのです。これは他の動物には書かれていません。人間だけに書かれていることです。人間が神に似せて造られた意味であると思います。

Ⅲ.男と女に造られた
A.神は男女を同等に造られた
1.最初の人間は一人だけでした。赤ちゃんとして生まれたのではないのです。赤ちゃんだったら誰かに育ててもらわないと死んでしまいます。一体アダムは何才として造られたのでしょう? それはわかりませんが、神はアダムという男性をお造りになりましたが、 2:18 また、神である【主】は言われた。「人がひとりでいるのは良くない。わたしは人のために、ふさわしい助け手を造ろう。」 と、女性をも造られました。
2.ここで 助け手 とあるのを「ヘルパーさん」「お手伝いさん」と読んではなりません。人格的に同等です。なぜならこの二人を 男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである。 と特別な男女を夫婦とし、 一体となる とされたのです。

B.神の愛を表す夫婦
1.神が愛であるように、神は人間にもちろん愛を与えてくださいました。それは親が子を愛するような愛もあれば、友を愛するような愛、ペットをかわいがるような愛などありますが、最も高尚な愛は神が人を愛する愛です。それに近い愛を夫婦が持つようにしてくださいました。その上で、親子愛なども形成されてきます。
2.夫婦が愛することで神の愛を現すのです。特に子どもが愛を覚えるのは親に愛されてです。私たちも親に愛されて大きくなったように、私たちも神に愛されているのです。

★ 全ての人が神に愛されています。神に愛されていない人はいません。神は私たちを神に似せて造ってくださったのです。似ていますか?