バイブルサロン

礼拝説教、聖書を読んで感じた事

『好き』から『一致』へ

2014-01-26 18:28:33 | 礼拝説教

   2014/1/26礼拝説教
【テーマ】  一致への努力
【説教題】  「『好き』から『一致』へ」
【聖書箇所】 エペソ4:1-3
4:1 さて、主の囚人である私はあなたがたに勧めます。召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい。
4:2 謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、
4:3 平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。

○ 今日は教会会議をします。皆さんに是非、新中野キリスト教会を愛しいただきたい、好きになって頂きたいのです。

Ⅰ.好きが原動力になる
  A.嫌いから好きに
    1.私は小学生の時、音楽の授業が大嫌いでした。できなかったからです。6年生の時、音楽のテストで0点を取った時はさすがに参りましたね。
    2.その私が音楽を好きになったのは、中学の音楽の先生のお陰です。中学に入学して部活はサッカーか剣道かと思っていたところ、友人が「一緒にブラスバンド部に入ってくれ」と頼むので、とりあえず見学に行きました。顧問はあの楽しい音楽の先生でした。それで入部したのです。この先生は音楽の授業中叱ったことが無いのです。ある日、私は先生に聞きに行きました。「どうして先生は叱らないのですか?」「藤井、叱られて楽しく歌えるか?音楽は音を楽しむのだから、楽しくなければ歌えない!だから叱らないんだ」と。それで私は音楽が好きになりました。
   
  B.好きがもたらすこと
    1.好きになるということは、心理学的にも大きな力が出ることを証明しています。好きな先生の科目では成績が上がったり、好きな人の前では頑張れたりするのです。好きになると自ら成長しようという力が湧いてくるのです。
    2.私はアッセンブリー教団に入る前、福音派の教会に6年間所属していました。教会が好きになった私は、時間があれば教会に行き、掃除したり、トラクト配布したりしていました。教会の向かいの家のおじさんは恐くて、「うるさい!」など度々文句を言ってきました。私は教会の前とその家の前をいつも掃除していました。ある日、おじさんが出てきて、「いつも、ありがとう」と言ってくれ、おじさんの文句が無くなりました。私はただ教会が好きでしていただけなんですが。
   
  C.教会を好きになる
    1.先生を好きになると勉強ができたり、好きな人が出来るときれいになったり、頑張ったりと、「好きになる」ということは大変大きな力を発揮します。
    2.教会に対しても同じ事が言えます。自分の所属する教会を好きになると、教会に対する関わり方が変わります。生き方、考え方、性格まで変わるものです。

Ⅱ.「好き」を超えるところに・・・
  A.好きから一致に向かう
    1.「好き」の力は大きいのですが、それだけでは教会の一致には繋がりません。高南中学校の合唱祭を見に行きましたが、とても美しいハーモニーでした。そして、クラスの代表者が努力したことを語るのです。練習中なかなか一致できない、真面目に取り組んでくれない、音が合わないなど一致の困難さでした。しかし、それを乗り越えて、こんなに立派に歌えるようになったという喜びを語るのです。彼らは輝いていましたし、PTAも感動して聞いていました。
    2.合唱やオーケストラには一致無しに良い音楽はありません。指揮者を無視して歌ったり演奏したらめちゃくちゃです。技術力も成長しなければなりませんが、同じ方向を見るということが必要です。
   
  B.賛美に見る一致
    1.旧約聖書には Ⅱ歴代 5:13 ラッパを吹き鳴らす者、歌うたいたちが、まるでひとりででもあるかのように一致して歌声を響かせ、【主】を賛美し、ほめたたえた。そして、ラッパとシンバルとさまざまの楽器をかなでて声をあげ、「主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで」と【主】に向かって賛美した。そのとき、その宮、すなわち【主】の宮は雲で満ちた。 と書いてあります。神様への賛美には一致はなおさら必要で、その一致の中に神様の臨在があるというのです。
    2.私たちは神様が大好きだから歌うのです。それはそれで良いのですが、賛美は神様への生け贄と言われています。神様が喜ばれなくてはなりません。上手な歌を求めてはおられません。みんなが一つになって賛美することを願っていらっしゃるのです。
    3.旧約聖書に出てくる聖歌隊は一致していたようです。私たちも神様が好き、教会が好き、賛美が好きという段階からさらに一致に向かうことが大事なようです。

Ⅲ.一致に向かう努力
  A.一致に必要なもの・赦し
    1.一致するためにはかなりの努力を必要とします。しかし好きであればその努力自体も楽しくなるものです。それ自体は世の中も教会も変わらないと思います。しかし、教会が世の中と違うのは、聖霊によって一致するという点でしょう。それは、イエス様が好きとか教会が好きとかを超えて、イエス様を愛し、教会を愛するからこそです。
    2. コロサイ3:14 そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全なものです。 とあるように、愛こそが教会の一人一人を結び合わせるのです。この部分の前後を見てみましょう。コロサイ3:12 それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。 3:13 互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。 3:14 そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全なものです。 3:15 キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのためにこそあなたがたも召されて一体となったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。 とあります。
    3.このパウロの教えは 深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着け 感謝の心を持つ人 になるように努力すること、赦し合うことが教会に求められているのです。こうした姿こそがクリスチャンの姿だというのです。
   
  B.聖霊から来る赦しの力
    1.赦し合うという言葉は教会ですからよく使います。最近はこの「赦す」ということが教会外でも大事な事として使われています。しかし、赦すのも自力で赦すというのはなかなか大変なものです。
    2.「イエス様の十字架の赦しを思えば私たちの赦しなんて当たり前の事」と言いますが、理屈ではわかっていてもなかなかできるものではありません。これこそ聖霊に導かれないと赦せないのかも知れません。

● 意地悪なお姑さんを愛せなかったある姉妹。寝付いたお姑さんのおむつを強烈に冷たい水で洗いながら、過去のお姑さんからの嫌なことがいっぱい浮かんでいました。ところが、その日、洗い始めると、感謝ばかり湧いて、過去の嫌なこと自体が思い出せなくなったのです。聖霊が姑さんを愛する力をくださったようです。

★ 神様の赦しがみんなに必要なように、教会も互いの赦しを必要としている場合が多いのです。一致の霊である聖霊は私たちの心に働いて赦しをくださいます。
 


ヨハネの指し示す人は? 

2014-01-23 07:55:04 | 礼拝説教

2014/1/19礼拝説教(岡山伝道師)
■ テーマ:荒野で叫ぶ者
■ 説教題:ヨハネの指し示す人は? 
■ 聖書箇所:マタイ3:1~12

3:1 そのころ、バプテスマのヨハネが現れ、ユダヤの荒野で教えを宣べて、言った。
3:2 「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」
3:3 この人は預言者イザヤによって、
「荒野で叫ぶ者の声がする。
『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ』」と言われたその人である。
3:4 このヨハネは、らくだの毛の着物を着、腰には皮の帯を締め、その食べ物はいなごと野蜜であった。
3:5 さて、エルサレム、ユダヤ全土、ヨルダン川沿いの全地域の人々がヨハネのところへ出て行き、3:6 自分の罪を告白して、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けた。
3:7 しかし、パリサイ人やサドカイ人が大ぜいバプテスマを受けに来るのを見たとき、ヨハネは彼らに言った。「まむしのすえたち。だれが必ず来る御怒りをのがれるように教えたのか。
3:8 それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。
3:9 『われわれの父はアブラハムだ』と心の中で言うような考えではいけない。あなたがたに言っておくが、神は、この石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。
3:10 斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。
3:11 私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。私はその方のはきものを脱がせてあげる値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。
3:12 手に箕を持っておられ、ご自分の脱穀場をすみずみまできよめられます。麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。」

<はじめに>
 今年のメッセージは、まずマタイの福音書から語ることになりました。マタイの福音書は、ユダヤ人のための書物です。まず第一に、ユダヤ人のためにマタイはこの福音書を書きました。イエス様が約束されたメシアであることをユダヤ人に理解してもらうために、マタイは旧約聖書の預言が成就したことを語ります。クリスマスの出来事から簡単に見ると、①イエスが正当なダビデの家系によるメシアの家系であること。②おとめマリヤから生まれ、イザヤの預言を成就していること。④ベツレヘムでの誕生等、多くのメシア預言が成就していること。こういったメシヤの話しから、ユダヤ人たちにまず、福音を伝えようとしました。今日は、このクリスマスの出来事の続きにあたる三章の前半から語ります。

<Ⅰバプテスマのヨハネ>
3:1から、「そのころ、バプテスマのヨハネが現れ、ユダヤの荒野で教えを宣べて、言った。」バプテスマのヨハネについて、簡単に見ておきます。
1.祭司ザカリヤの息子
 ルカの福音書では、年老いた司祭ザカリヤと妻エリサベツの息子として生まれたことが書かれています。(ルカ1:14)(ルカ1:41)エリザベツのお腹の中にいた頃から母エリザベツと共に、聖霊に満たされていた人です。神様の働きのために、神様はこんな風に生まれる前から人を備えられる方なのです。神様の人に対するご計画は、私たちが世に生まれる以前からあることを教えられます。皆さんの人生も神様は、この世に誕生する前からご計画を持っておられるのです。

2.ヨハネの人物像
また、イエス様はヨハネについて次のように話されました。(ルカ 7:28)言うなれば、人類の中でもっとも偉大な人だというのです。ヨハネの偉大さはその働きの中に見られます。いなごや野蜜を食べるなど野外で暮らし、世と分離した質素な生活をしています。キリストに対するへりくだった態度、それでいて人々にはへつらわない。彼の訴えは、多くの人々の心の中に突き刺さり、悔い改めさせ、バプテスマ、つまり洗礼を受けに来させました。こういったところから、ヨハネは神様の栄光だけを求めた人だと言えるでしょう。

2.ヨハネの使命
ヨハネはメシアの前に遣わされる預言者として特別な存在でした。旧約時代の最後の預言者として立てられ、新しい時代への橋渡しをする人でした。イエスがメシアであることを証明するために、無くてはならない預言が旧約聖書の最後にあります。それはエリヤの来臨です。(マラキ 4:5)ヨハネは、エリヤのような存在として登場すると予告されています。また、エリヤの姿と言われる理由として、Ⅱ列王記1章に出てくるエリヤの姿に似ているというわけです。エリヤも「毛衣を着て、腰に皮帯を締めた人でした。」とあります。また、ヨハネもエリヤのように、妥協のない説教をして、腐敗していた支配者に立ち向かった人でした。

ヨハネという人物が、いかに、重要な使命を神様から委ねられていたかが、分かります。バプテスマイエス様が来られることを預言者たちは、何百年も前から語ってきました。バプテスマのヨハネがキリストの来られることを前もって布告する先駆者でした。
彼は、イザヤの預言にある通り、語る者、荒野で叫ぶ声として、人々の心を真っ直ぐにしなければならなかったのです。悪の道から立ち返って、主の道を歩むために、メシヤへと橋渡しをする役割だったのです。バプテスマのヨハネが旧約の預言者たちと違うのは、イエス様と直接出会っているということです。そのため、ヨハネは本当のメシヤを現実に指し示すことが出来たのです。

<Ⅱヨハネのメッセージ>
バプテスマのヨハネという人物を見ましたが、このヨハネには、人々へのメッセージがありました。どのようなメッセージを語ったのでしょうか?

1.悔い改めよ、天の御国が近づいた!
3:2には、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」と、ユダヤの人々に叫んでいます。
彼は、人々に悔い改めることを呼びかけました。「悔い改める」とは、「思いを変える」という意味です。つまり、自分が今まで行ってきたことを悔いて、思いを変えて、行いを改めることです。先ほどヨハネはエリヤのような人物として現れることを語りましたが、しかし、聖書から読むと、エリヤのように天から火を呼んだり、人を生き返らせた箇所は見られません。ヨハネは説教を通して人々に悔い改めを迫る使命を持っていました。また、3:5~6から、ユダヤ全土から人々がヨハネのもとに来たというのですから、これは一つのリバイバルという型を見ます。人々をヨハネのもとに導いたのは、神様であります。神の霊と力、神の言葉で満たされて、それを高らかに発する時に、主は人々をそのところへと導かれるのだと分かります。また、「天の御国が近づいたから」という言葉には、「神の国」「神の国の福音」の訪れであり、メシヤの到来を指しています。御国は悔い改める者のすぐそば近くにあるのです。ヨハネの「悔い改め」とは、主を迎えるための備えなのです。

2.パリサイ人たちに対して
 (3:7)
・パリサイ人;律法に熱心で、律法を守ることを主張し、律法を守らない者を罪人として非難した人々。
・サドカイ人;大部分が祭司階級や上層階級出身。ユダヤ最高議会サンへドリンの多数派でもあった。

ここを読みつつ、ヨハネは何故、ここまで避難するのかと思いますが、このパリサイ人たちは、バプテスマを受けるためではなく、ヨハネを偵察するために、エルサレムの指導者たちから遣わされて、群衆に交じって来ていたと思われます。つまり、純粋な神への回心者ではないと行っているのです。(ルカ3:7)また、アブラハムの子孫、選民であることにあぐらをかき、神の前にへりくだろうとせず、彼らが人々を滅びへと導いているからです。ヨハネもイエス様も、彼らの心の内側にある高慢と愚かな考え違いを徹底的に非難しておられるのです。
神を知り、神を信じる人々の内からまず、悔い改めの言葉が語られているのです。神を信じる者は、いつしか神様のご愛を忘れて、自分は素晴らしい者だという高慢さが出てくるのです。ですから、私たちクリスチャンたちも心の内をいつも探られていなければなりません。

3.キリストの証し人
 (3:11)ここでヨハネは、「その方」という人物を紹介しています。「その方」とはイエス様のことです。民衆は、ヨハネをメシヤではないかと思ったとされますが、しかし、ヨハネはメシヤとは全く違う存在であると言っています。ヨハネは神のことばを語る預言者であり、メシヤを人々に指し示す存在であり、主の道備えをする人でした。「自分よりも力ある方であり、その方のはきものを脱がせてあげる値打ちもない」とも言いました。これは、イエス・キリストが私たち人間の次元をはるかに超えた存在であることを表しています。
そして、「その方は、あなたがたに聖霊と火のバプテスマをお授けになります。」と言って、ヨハネはイエス様のことを「聖霊と火によるバプテスマを授けるかた」と紹介しています。ヨハネは水でバプテスマを授けましたが、イエス・キリストは聖霊と火でバプテスマを授けられます。バプテスマとは、「浸す」という意味があり、「火のバプテスマ」とは、神の霊が注がれることを意味します。私たちは、イエス様を信じると聖霊が内在して下さいますが、この聖霊によって強められ、火によって罪を燃やし清めていただくのです。聖霊降臨の時に人々の上に炎の舌のような聖霊がくだり、イエス様を信じる者は、聖霊を宿し、三位一体の神との積極的な交わりへと招き入れられました。その時から、私たちはヨハネのようにイエス様の証し人として、世に向かって十字架による救いの宣言が委ねられたのです。ですから、私たちも荒野における主の十字架へと人々を導く声でありたいと思います。

*

<Ⅲさばきについて>
(3:12)ここには、神のさばきが書き示されています。これは、神様を信じない人々への警告を語っているものです。悔い改めない者には神のさばきがあるのだということ、これは聖書が明確に教えていることです。麦を倉に収め、もみがらを激しい火で焼き尽くすのです。恐ろしいさばきのたとえです。ヨハネのこの言葉はさばきということが大きくクローズアップされた内容であり、これは、バプテスマのヨハネの説教の大きな特徴と言えます。しかし、単に神様のさばきだけに目を留めず、神様はさばき以前に神の赦しという神の愛へ私たちを導きたいのだということを知る必要があります。キリストへの信仰は、私たちを愛してやまない神をまず知らなければならないということです。(ヨハネ3:16)神様との関係の回復こそが、私たちの永遠なる祝福の扉なのです。

<結び>
 神様の言葉は、荒野で叫ばれました。荒れ野を経験しない人生はありえないのです。この荒野に入ったとき、むしろ荒れ野によって「悔い改め」があり「神の救い」があるのではないでしょうか。私たちは、荒れ野で言葉を掛けてくださる神によって生きるのです。
また、我々、クリスチャンたちの指は、いつも人々に対して、イエス様を指し示していなければならないのだと教えられます。私たちが指し示し続ける方はイエス様なのです。指し示す指を作ってみてください。たった一本の指です。二本も三本の指でもありません。この一本だけの指が示すその方、イエス様に私たちの心はいつも集中しなければならないのです。クリスチャンも、まだイエス様が十分に信じられない人も皆、神様の指が指し示す方、イエス様への信仰を揺るがないものにして頂きたいと思いましょう。荒野で叫ぶ声と、主がいつも指し示したお方に霊において敏感な者でありたいと思います。神様への心からの悔い改めとは、生きた神へと向かうこと、神さまの働きかけによって回復された関係へと招かれることであります。悔い改めの呼びかけによって、神様との積極的な交わりに迎え入れられます。そして一層、神様に信頼をしてイエス様と共に今年も前進していきましょう。


成人よ、大志を抱け!

2014-01-12 06:18:21 | 礼拝説教

    2014/1/12礼拝説教
【テーマ】  正しい考え方で生きる
【説教題】  「成人よ、大志を抱け!」
【聖書箇所】 ピリピ3:13-15
3:13 兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、
3:14 キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。
3:15 ですから、成人である者はみな、このような考え方をしましょう。もし、あなたがたがどこかでこれと違った考え方をしているなら、神はそのこともあなたがたに明らかにしてくださいます。

○ 明日は「成人の日」。教区では藤沢オリーブチャペルでウインターセレブレーションが行われ、新教区長の藤村良彦先生が新成人のために祝福の祈りをされます。新中野キリスト教会でも独自に祝福の時をもちました。成人、大人と見なされることは喜ばしいことですが、社会的責任も生じます。つまりその人の生き方が問われるわけです。

Ⅰ.燃えよう!
  A.熱中して良いのか?
    1.果たして成人、大人とはどういう人を言うのでしょうか? 男は生涯子どもの心を持っているとも言われます。それが男のロマンとか言って女性には理解できないことに熱中したり、はまり込んだりします。同時にそれが文明・文化を発展させてきたとも言えます。
    2.しかし、間違った道に熱中したり、はまり込んだのでは困ります。パウロも熱中した人です。  私は、自分はすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。  と言っています。キリスト教が間違っていたらパウロは大変なことになっていたでしょう。
    3.多くの人は宗教に熱中したり、はまり込んだりすることを嫌います。しかし、宗教は本来人を幸せにするものですから熱中して良いのです。宗教というより、イエス様を愛する信仰生活がしっかりするということなのです。
   
  B.自分で判断できるか?
    1.現代の若者はモラトリアム世代、指示待ち青年、夢が無いと言われたりして、酷評されることが多いです。いつの時代でも「最近の若い者は」と言われてきました。確かに実社会を生き抜いてきた大人から見ると青いでしょう。
    2.しかし、若い世代だけの問題では無く、若い世代に希望のもてる世の中を用意できなかった大人の問題もあります。そうは言っても成人した以上は、自分で判断し、さらに決断することが大事です。
    3.なかなか決断できず、くすぶってしまう若者が多いようです。しかし、聖書は熱心で燃えるように教えています。若者は燃えるものなのです。燃えようではありませんか。

Ⅱ.静まろう!
  A.求道者である自覚を持とう
    1.しかし、火事のような燃え方は周りに迷惑をかけます。パウロは闇雲に燃えることを教えてはいません。  私は、自分はすでに捕らえたなどと考えてはいません。  と、私たち人間は生涯求道者と言っています。自分が正しいと悟ったかのように燃えるのでは無いのです。
    2.「わたしが道」(ヨハネ14:6)と言われたイエス様を求めるのです。だから求道者です。イエス様が正しいお方ですので、イエス様を追求するのです。
      
  B.自己義を捨てよう
    1.また、このパウロはテモテに Ⅱテモ2:22 それで、あなたは、若い時の情欲を避け、きよい心で主を呼び求める人たちとともに、義と信仰と愛と平和を追い求めなさい。  と教えました。若い人はこの情欲との戦いが大変なのです。ただ燃えれば良いのでは無く、静まってきよい心を持つのです。
    2.つまり、私たちの罪の問題「自分中心」「自己義」を捨てて生きることが大事なのです。成長して自己を確立してきたばかりの若い人が「自己義」を捨てるのは大変なのですが、ここがツボです。
   
  C.思慮深くあろう
    1.また、パウロは、テトスに  テトス 2:6 若い人々には、思慮深くあるように勧めなさい。 と言っています。伝道者の書には  伝 4:13 貧しくても知恵のある若者は、もう忠言を受けつけない年とった愚かな王にまさる。 とあり、若者に思慮深さ、知恵を持つように教えています。
    2.若者を堕落させるようなもの、若者を食い物にするような悪がはびこっています。男女交際でも危なっしいことだらけです。人間の知恵の限界を感じるはずです。まさに神様の知恵をいただき、思慮深く判断できるようになる必要があります。神の前に静まるのです。

Ⅲ.目標目指して一心に走ろう!
  A.ゴールを目指そう
    1.こうした上で、 3:14 キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。  神の栄冠を得ることを目指すのです。ゴールがわからない走り方は変です。私たちはイエス様というゴールを目指します。
   
  B.一心に走ろう
    1.走る以上は一心に走らねばなりません。長距離走の場合、「これが終わったらおいしいもの食べよう」とか考えることも出来るかも知れませんが、まず、そんなことを考えないで、一心に走ります。
    2.正しい道がわかっていなければ一心に走れません。私たちはイエス様という正しい道を知っていますから、イエス様に熱心になって良いのです。むしろ、他のものを忘れるほどにイエス様に熱心になるのでする。大勢に飲み込まれる必要は無いのです。

● 星野富弘さんの「まつたけ」
  がんばれ まつたけ
  まつたけ がんばれ
  おまえは 山にしか出るな
  松の根もとしか 出るな
  一年に一度しか 出るな
 
  どんなに金をつまれても
  甘いことばで誘われても
  おまえは 自分の生き方を変えるな
  大安売りのしいたけを見ろ
  エノキはビンの中で まるでモヤシだ
  頼りにしていた マイタケも落ちた
 
  がんばれ まつたけ
  まつたけ がんばれ
  おまえは 自分の生き方に 誇りを持て

    私はクリスチャンになって大学に入りましたが、酒、タバコ、麻雀、パチンコ、・・・色々な誘惑がありました。それが一般的なのかも知れません。しかし、「まつたけ」のようであるべきなのです。
    パウロは  コロ 1:28 私たちは、このキリストを宣べ伝え、知恵を尽くして、あらゆる人を戒め、あらゆる人を教えています。それは、すべての人を、キリストにある成人として立たせるためです。 とも言っています。 すべての人を、キリストにある成人として立たせる という働きを若い人にして頂きたいです。

★ 「成人よ、大志を抱け!」Boys, be ambitious.にはin Christ が付いていたと言います。主にあって大志を抱くのです。


主の教会を建てよう!

2014-01-05 20:24:38 | 礼拝説教

                  2014/1/5礼拝説教
【テーマ】  みんなが成長する
【説教題】  「主の教会を建てよう!」
【聖書箇所】 エペソ4:12(11-16)
4:11 こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。
4:12 それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、
4:13 ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。
4:14 それは、私たちがもはや、子どもではなくて、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく、
4:15 むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。
4:16 キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。

○ 新年最初の日曜礼拝です。毎年この最初の礼拝では新しい年の教会標語を語るようにしています。今年は「主の教会を建てよう」という標語です。

Ⅰ.教会が教会になるために
  A.教会は会堂のことでは無い
    1.「教会を建てる」と言うと、「会堂建築」を思い浮かべるかと思いますが、「主の教会を建てよう」とすると、きっと会堂のことでは無く、私たちのこの集まりが、イエス様の似姿としての教会となっていくことだとわかっていただけるでしょう。
    2.「教会」という言葉は私たちの団体「アッセンブリー」がまさにその意味で、原語の「エクレシア(集められた者)」は神によって集められたので、「アッセンブリー」となっています。「教会」の本来の意味は建物のことでは無いのです。
   
  B.神が牧師を立てた
    1.ですから、パウロはこのエペソ教会への手紙で こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。 と言っており、設計士、大工をお立てになったとは言わないのです。
    2.教会と言っても色々な教派、団体があります。もっと言うならば、みんな教会は違うというか個性があると言いましょうか。それは神様が人それぞれ個性をお与えになったように違うのかも知れません。この教会を導くのに牧師を立てられたのです。ですから牧師にも個性があって、みんな違うのです。
   
  C.牧師の働きは聖徒を整えること
    1.その牧師の働きが 4:12 それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、 とパウロは言うのです。牧師の仕事は、皆さんのお世話をすることや、訪問すること、週報を作ること、掃除すること、礼拝で報告すること等といったことでは無いのです。(もちろん、しなければなりませんが、それが本筋では無いということです)信徒を整えて、信徒全員が他の方のお世話をし、色々な奉仕をするようにするのです。
    2.目的もはっきり書いてあります。 4:13 ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。 と。牧師は、皆さんをキリストの身丈にまで導く仕事が、神様から託された奉仕ということになるでしょうか。

Ⅱ.信仰と知識の一致のために
  A.違うということでの平等と一致
    1.一致という言葉は「平等」という言葉と同じく誤解をしやすい言葉です。男女平等、みんな平等という時に、なんでもなかんでも同じにするのが真の平等では無いことはもう分かっておられると思います。
    2.「一致」と言う時にも、みんなが同じ考えをもち、同じ事をするのが一致だと思う人がいます。もちろん、根幹においては同じ考えが必要でしょう。その根幹が 信仰の一致と神の御子に関する知識の一致 ということです。
    3.信徒みんな違うのですが、違うように造られたのは神様です。みんなが牧師では無いわけです。それは各自がそれぞれキリストの身体の各部分を担う必要があるからです。違うからこそ各部分を担うことが出来るのです。
   
  B.成長するのはかき回されないため
    1.私が大阪にいた時、教会員が大学入学して東京に来ました。その時彼が、青年の多い、とても活気のある教会に行っていると言ったので、よかったと思ったのですが、「先生、ぼくの受けた洗礼はどんな洗礼ですか?」と電話してきました。彼は私の授けた洗礼は無効だと言われたらしいのです。それで「ここでもう一度洗礼を受ける」とまで言うのです。その教会を辞めさせました。調べるとカルトっぽい団体でした。彼も「そうですよね」と危なかった自分に気付いたのです。
    2.4:14 それは、私たちがもはや、子どもではなくて、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく、 にあるように、正しい信仰をかき回す者がいるのです。多くの場合は悪意では無く、善意からです。真面目に聖書を実践しようとしてのことですが・・・
    3.キリスト教は多くの教派・団体があると言いましたが、救いの点で一致していれば問題無いのです。が、教えにも色々違いがあるのです。単に静かな賛美と祈りの教会、元気な賛美と大きな声で祈る教会というような違いが問題なのでは無いのです。
   
  C.正しい信仰と知識を蓄える
    1.黒崎幸吉先生は、「信仰の一致とは信仰箇条の一致にあらず。心を一つにしてキリストに信頼すること、キリストに依り頼まない者のないことを意味す。キリストを知るの知識の一致はキリストの本質、使命、および教会に対する関係等につきて理解の一致を指す。この一致を欠く時教会は分裂する。」と言っています。
    2.救いに関する教え、神様に関してそのあるべき玉座から引き下ろしてしまうような教えでは困るのです。つまり「イエス様は神では無い」とか「イエスの十字架は失敗だった」とかいうのは困るのです。
    3.こうした進行と知識の一致には、聖書を共に学ぶ必要が出てきます。今年、学びの機会を持ちたいと願っているのです。

Ⅲ.しっかり組み合わされるために
  A.聖書を実践する
    1.聖書をなにも神学者のように勉強しなければならないのでは無いです。本当に大事な事を学ぶのです。そして、さらに実践です。皆さん、奉仕をされていますか?主の教会を建てるのに「奉仕」が欠かせないのはおわかりだと思います。ただ、勘違いしないでください。みんな同じ奉仕をするのではないということです。
    2.前にも言ったことですが、「私は年をとったので何の奉仕も出来ません」というのはあり得ないのです。反対に年をとった人だからこそ出来る奉仕があるのです。若い人生経験の浅い人達には出来ないことがあるのです。もちろん、若い人で無いと出来ない奉仕もあります。
   
  B.全員が奉仕する
    1.目標は全員が何らかの奉仕をすることなのです。それは何か奉仕をすれば良いと言うのでは無くて、 4:15 むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。 4:16 キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。 にあるように、愛を基盤として、神様から与えられた賜物を用いることによる奉仕です。
    2.賜物と愛は密接な関係にあります。賜物を用いなければ意味がありませんが、愛に満ちて賜物を用いることが出来るように成長したいのです。それは聖霊のなせるわざです。
    3.神様は全ての人に賜物を与えておられます。奉仕をする決断をして実行することによって磨きがかかり、愛も増し加わるのです。そこに教会が出来ます。

 

★ あなたも賜物を活かして、奉仕をする決断をしてください。


ここから行くのです

2014-01-01 13:17:38 | 礼拝説教

  2014/1/1元旦礼拝説教
【テーマ】  聖霊に押し出されて進む
【説教題】  「ここから行くのです」
【聖書箇所】 ヨハネ14:27-31
14:27 わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。
14:28 『わたしは去って行き、また、あなたがたのところに来る』とわたしが言ったのを、あなたがたは聞きました。あなたがたは、もしわたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くことを喜ぶはずです。父はわたしよりも偉大な方だからです。
14:29 そして今わたしは、そのことの起こる前にあなたがたに話しました。それが起こったときに、あなたがたが信じるためです。
14:30 わたしは、もう、あなたがたに多くは話すまい。この世を支配する者が来るからです。彼はわたしに対して何もすることはできません。
14:31 しかしそのことは、わたしが父を愛しており、父の命じられたとおりに行っていることを世が知るためです。立ちなさい。さあ、ここから行くのです。

○ つい先日2013年12月29日、三日前ですが、昨年最後の礼拝をしたところです。その時に「ここまで神様が守ってくださった」と語りました。そして、「ここまで」ということは「これからも」守りがあることだと申し上げました。今日は、元旦礼拝。説教題は「ここから行くのです」と「ここから」にいたしました。

Ⅰ.平安
  A.弟子を不安にさせたイエス様
    1.ヨハネの14章をお読みしたわけですが、イエス様がいよいよ十字架を前にして、弟子たちに語られたその一部です。
    2.イエス様がご自身の十字架の死を理解しておられたようには弟子たちは理解しておりませんでした。そのために、弟子たちはあの奇跡をいっぱい起こした力強いイエス様が弱々しく変わってしまったと不安になっています。
    3.しかも、イエス様ははっきりとご自身の死を語られるので、たまらないわけです。ユダヤの王になってくださると思い込んでエルサレム入城を果たしたのに、ここに来て、イエス様はなんと弱気になっておられるのかと思ったでしょう。
   
  B.弟子に平安を与えると言われたイエス様
    1.不安になっている弟子たちに対してイエス様は わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。 と言われました。弟子たちはイエス様と一緒にいたのですが、自分の平安、人間的な平安を求めるだけでした。そこでイエス様はイエス様の平安を与えると言われました。
    2. わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。 と言われたように、イエス様が与える平安は世の平安ではありません。十字架にかけられる事がわかっていても持っておられる平安です。
    3.イエス様は弟子たちに「与える」と約束されたのです。何とすばらしいことでしょう。イエス様の持っておられる平安をそのままいただけるなんて。事実、ペンテコステ以後の弟子たちにそれを見ることができます。

Ⅱ.戦い
  A.サタンに向かって進軍
    1. さあ、ここから行くのです。 という言葉の原語(?γωμεν)の意味は確かに「行く」という単語なのですが、軍隊用語で「行進する」「進軍する」という意味があります。そこで、ここは「近づく敵を迎え撃とう」という意味もあると言われます。
    2.この世を支配する者が来るからです。 とありますように、この世を支配する者はサタンです。イエスを亡き者とし、サタンは勝利を得ようとしているのです。しかも、サタンは自分の勝利がもう間近にあると思い込んでいるのです。
    3.イエス様が「行こう」と言われるのはまさにそのサタンに向かって進軍しようというわけです。この世に罪を入れ込んで、この世の支配者となっているサタンをやっつけるというわけです。
   
  B.人の思いを超える方法
    1.弟子たちはイエス様が「自分は死ぬ」などと力を失ったような状態に感じられるわけですが、イエス様が言われているのは違うのです。弟子たちの思いと反対です。敵に向かっていくのです。勝利を得るのです。
    2.弟子たちはまさに旧約から新約への過渡期にいたので、わからないわけですが、映画やドラマの結末を見て安心している人のように、私たちは新約聖書を知っているので安心しています。
    3.確かにイエス様は死にに行かれるのです。十字架刑で殺されるのです。しかし、それしか私たち人間の罪を贖える方法が無いのです。
   
  C.サタンは完敗
    1.イエス様は死にました。サタンはその瞬間勝ち誇ったでしょう。しかし、サタンはラザロを生き返らせたことを忘れたのでしょうか? イエス様が復活するなどとは考えてもみなかったのでしょう。
    2.イエス様は三日目に復活されました。人間の罪はすべて解決済みであることを証明され、しかも、イエス様は約束通り、聖霊を送り、信じる者と共にずっとおられるのです。
    3.サタンの完敗です。

Ⅲ.宣教
  A.救われて終わりでは無い
    1.イエス様が弟子たちに 立ちなさい。さあ、ここから行くのです。 と言われたのは、最後の晩餐の2階の部屋からゲッセマネに行き、ゴルゴダの丘へ行くことだけを言っているのでは無いのです。
    2.時が来たのです。それはとても大事な時です。ゴルゴダの丘は終わりを示す丘ではありません。十字架で人々の罪が赦されて完結したのでは無いのです。
   
  B.全世界へ出て行く
    1.ここから始まるのです。2013年12月31日で2013年の終わりを締めくくりましたが、同時に2014年の始まりに繋がるように、十字架で終わりはしなかったのです。
    2.イエス様は3日目に復活され、さらにペンテコステの日に聖霊を与えられ、教会が始まったのです。「ここから行くのです」。どこへ? 全世界へです。
    3.私たちは「ここから行くのです」私たちに与えられた全世界に出て行って福音を宣べ伝えるのです。それは人々を弟子としなさいと言われた、イエス様の宣教命令を実行するためです。
   
  C.平安を持って「ここから」行く
    1.その時、イエス様が、あの不安の塊になってしまった弟子たちに「私の平安を与える」と言われたように、私たちもイエス様から平安をいただくのです。
    2.この平安というのは、子どもが親に愛されていることを実感している時に平安を持っているように、神様の愛に満たされているところから来る平安です。世の平安とは全く違う平安です。

★ 2014年も私たちは神様に愛されて過ごすのです。イエス様の愛から来る平安をいただいて、出て行くのです。さあ、ここから行こうではありませんか! サタンはすでに勝利を奪われているのです。楽な道では無いかも知れませんが、主が共におられる道です。