バイブルサロン

礼拝説教、聖書を読んで感じた事

その水を私にください

2021-07-31 06:32:22 | 礼拝説教
2021/8/1 礼拝説教
【テーマ】  本当に必要なもの
【説教題】 「その水を私にください」
【聖書箇所】 ヨハネ4:10-15
4:10 イエスは答えられた。「もしあなたが神の賜物を知り、また、水を飲ませてくださいとあなたに言っているのがだれなのかを知っていたら、あなたのほうからその人に求めていたでしょう。そして、その人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」
4:11 その女は言った。「主よ。あなたは汲む物を持っておられませんし、この井戸は深いのです。その生ける水を、どこから手に入れられるのでしょうか。
4:12 あなたは、私たちの父ヤコブより偉いのでしょうか。ヤコブは私たちにこの井戸を下さって、彼自身も、その子たちも家畜も、この井戸から飲みました。」
4:13 イエスは答えられた。「この水を飲む人はみな、また渇きます。
4:14 しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」
4:15 彼女はイエスに言った。「主よ。私が渇くことのないように、ここに汲みに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」

○ 「何でも欲しいものを言ってごらん」と言われたら皆さんは何と答えますか? 私たちの欲しいものというのはどれほど本当に必要なものなのでしょうか? また、本当に必要なものを求めているのでしょうか?
 
Ⅰ.イエスが来られた目的
A.その人に会うため
1.イエスはサマリヤ地方のスカルという町に立ち寄られました。そこで、イエスは一人井戸のかたわらに腰を下ろしておられました。一人の女が水汲みに来たので、イエスは「私に水をください」と言われました。
2.実はこのことは珍しい話らしいのです。ラビと呼ばれるユダヤの教師が往来で女性と話をすること自体が禁じられていたらしいのに、イエスは平気で話しかけられたのです。というのも、イエスがこの町に立ち寄られたのはこの女性に会うためだったからです。

B.サマリヤの救いのため
1.イエスはサマリヤ地方の人々の救いのためにこの女性と会うことを願われたのです。では、この女性はすごく立派な人であったかというと、そうではなく、男性関係で問題のある女性でした。そのためにこの井戸に水を汲みに来るのも、朝の涼しい時間帯ではありませんでした。その時間帯には町の女性がたくさん来ますから、恥ずかしい彼女は昼間の暑い誰も来ない時間に来ていたのです。
2.イエスは彼女の来る時間をご存知でした。そして、彼女の罪も問題も何もかもご存知でした。しかし、イエスは彼女の罪を指摘するために来られたのではありません。彼女の当面の問題を解決するために来られたのでもありません。
3.では、何のために来られたのか? 彼女の永遠の問題を解決するために、そして彼女を通してサマリヤの人々が聖書の真実を知るために来られたのです。つまり、彼等も待ち望んでいるメシヤはこのイエスであることを教えるためでした。

C.あなたに会うために
1.イエスがわざわざサマリヤに来られたのにそのようなわけがあったように、神のひとり子であるイエスが天国からわざわざこの地上にお出くださったのにもわけがありました。それは「あなた(私たち)」と出会うためです。私たちは罪人で恥ずかしくてまともに神の前に出られない者ですが、イエスはそんな私たちに会うために来てくださいました。
2.そして、私たちの罪を裁くために来られたのではなく、私たちを救うためにおいでになったのです。しかも、私たちだけではなく、私たちを通してより多くの人々の救いのためにまずあなたの救いを実現するためにお出でになりました。

Ⅱ.イエスと出会う事で変化する
A.イエスと出会って嬉しくなる
1.この女の人はどのようにしてイエスをメシヤと理解していくのでしょうか? それは彼女の男性関係を言い当てたけれど、決してそのことを裁かなかったことからです。イエスが普通の人ではない事を知りました。まだまだ良くわかっていませんが、神から遣わされた尊いお方だという点までは理解したみたいです。
2.それは彼女のその後の行動でわかります。彼女はイエスに出会って嬉しくなったのです。真実なるものを求めている人はイエスと出会って、イエスの言葉に触れると嬉しくなるものなのです。そして、このイエスを信じる気持ちをもつものなのです。

B.嬉しくなる理由
1.なぜ嬉しいのでしょうか? それは私たちの持ち合わせていない、しかし、私たちが本当に必要としているものをイエスがお持ちで、それを私たちにもくださるからです。
2.私たちは必要なものがありながら、その大事なものを持っていないために不安であり、生きがいを感じなかったりします。例えば死後の行き先を知っていないと不安です。また自分の罪が解決できないでいることも気になって仕方がないです。これらのことをイエスは解決してくださいました。ですから平安をいただき、感謝し、喜べるのです。

Ⅲ.イエスに求める
A.「水」に関心を持った彼女
1.彼女の場合、とりあえず求めていたのは「水」でした。日本はほとんどのところで水道の水をそのまま飲めるというすばらしい国です。彼女の家にもちろん水道はありません。毎日水を汲みに来るのは大変な仕事でした。イエスの言葉から彼女はそういう水が簡単に手に入ると勘違いしました。
2.彼女は 「この水を飲む人はみな、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」 というイエスの言葉がわかっていませんから、勘違いしているもののその「水」に関心をもちました。

B.素直に「私にもください」と言うべき
1.人間は水を必要としています。しかし、魂の水を必要としていることにあまり気づいていないようです。これを飲まないと生きていけない、天国へ行けないのです。その水は その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます という不思議な水です。
2.彼女はわかっていないものの その水を私に下さい と言いました。私たちもすぐには分からないかも知れません。しかし、この水のすばらしさを感じたら、彼女と同じように その水を私に下さい とイエスに言うべきです。

★ イエスが与える水を飲む人は永遠に渇くことがありません。天国から直接流れてくる水、神ご自身である聖霊をいただくことができます。まずはイエスに その水を私に下さい と言うことです。

  イエスがどのようなお方かまだ十分わかっていなくても、このお方が救い主なら「信じてみたい」と思うところからスタートしてください。
さらにこのお方が神様であり、私の罪の解決をしてくださり、天国へと導いてくださるお方だと信じる決心をされたなら、ぜひ、「イエスを信じます」と告白してください。


神の武具で身を固めよ!

2021-07-24 07:00:47 | 礼拝説教
2021/7/25 礼拝説教
【テーマ】  クリスチャンの生き方
【説教題】 「神の武具で身を固めよ!」
【聖書箇所】 エペソ6:13-17
6:13 ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、一切を成し遂げて堅く立つことができるように、神のすべての武具を取りなさい。
6:14 そして、堅く立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、
6:15 足には平和の福音の備えをはきなさい。
6:16 これらすべての上に、信仰の盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢をすべて消すことができます。
6:17 救いのかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち神のことばを取りなさい。

○ オリンピックが無観客で始まりました。選手にとってはどんな感じなのでしょうか? 選手の皆さんはあらゆる努力をして「勝利」を目指してこられたので、最善が尽くせたらと思います。
  今日のテキストは前回の続きで、悪魔との戦いに必要な武具について書かれています。
 
Ⅰ.悪魔の攻撃に備えよう
A.悪魔の巧妙な働き
1.悪魔は私たちに様々な形で攻撃してきますし、誘惑してきます。全てはクリスチャンを骨抜きにしたいからです。どのように骨抜きにするかというと、私たちの一番弱い部分に働きかける攻撃や誘惑、また各教会に対してもそのようにしてきます。
2.キリスト教の歴史は宣教と救いによる喜びの歴史ですが、同時に迫害の歴史を多分に含んでいます。また、異端、カルト化の問題も含んでいます。そして、正しい教派、教会であっても神学論争などでクリスチャン同士が一つになれないなどの問題もあり続けました。これらは悪魔の巧妙な働きと言えます。

B.悪魔の働きに対抗しなければならない
1.様々な問題に対して 邪悪な日に際して対抗できるように とパウロが言うように、私たちはこうした様々な問題に対して対抗できるようにしていなければなりません。対抗しないということは負けを意味しているのでしょう。勝つためにパウロは武具が必要だと言っています。
2.かつて戦国時代の武将達は勝つために、鎧・兜で身を守りましたが、その重さは20~40kgもあったそうです。転ぶと一人で起き上がれないことも多々あったそうです。ヨーロッパの鎧も同じように重かったようです。これで身を守り、敵の刀や飛んでくる矢をはねのけたのです。クリスチャンには肉の身を守る武具ではなく、信仰を守るための武具が必要です。

Ⅱ.神の武具をいただこう
A.武具で身を固めよう
1.パウロはクリスチャンの武具をこうした鎧・兜で説明しています。 腰には真理の帯を締め と、腰に帯とは、着物に帯が無ければまとまりません。また、この帯はベルトと言ってもいいかと思います。ズボンがピッタリならいいですが、ちょっと大きめだとベルトで締めないとずり落ちます。真理とは私たちの生き方をしっかり締めるものです。
2. 胸には正義の胸当て 胸当ては胸を守るもの、心臓・肺という大事な部分をしっかりガードするのが胸当てですから、私たちの信仰の心臓部分をガードするのは正義です。神は義ですから、この義で私たちは守られるのです。
3. 足には平和の福音の備え 足の備えはサンダル、今で言えば靴でしょう。靴もピッタリ足に合っていると歩けますし、走れます。同じく、福音をはいてこそ私たちはしっかりと歩ける、走れるのです。
4. 信仰の盾 盾は 悪い者が放つ火矢をすべて消すことができます とあるように、火矢をはね返し自分を守れます。イエスを信じる信仰は私たちをあらゆる問題から守ります。盾で火矢を消すことができるように問題の火が広がらないように消すことができるというのです。
5. 救いのかぶとをかぶり かぶとが頭を守る、脳を守るのですが、体は動いても、頭が働かなくなったのではどんな動きをするでしょうか? あるいは動けなくなるでしょう。救われているということは私たちの人生に、活動に力を与えるのです。

B.御言葉で攻撃する
1.身を守る武具が色々ありますが、相手に対して攻める武器は 御霊の剣 と、剣だけです。そしてこの 御霊の剣 は すなわち神のことばを取りなさい。 と御言葉であると言っています。
2.イエスは宣教活動に出る前、40日40夜の断食の後、悪魔は誘惑してきました。この悪魔に立ち向かわれたイエスはすべて御言葉で勝ちました。マタイの福音書4章の記事はイエスが申命記の御言葉で悪魔に完全勝利されているところです。
3.イエスが悪魔と対決なさったように、私たちも悪魔と対決することになります。アダムとエバに悪魔が誘惑を仕掛けてきて、悪魔が勝ってしまいました。なぜ悪魔が勝ったのでしょうか? エバが神の言葉を正しく悪魔に使わなかったからです。私たちも御言葉を正しく使わないなら、私たちも悪魔に負けるのです。

Ⅲ.必ず勝利がある
A.手強い相手だが勝てる!
1. 邪悪な日に際して対抗できるように、また、一切を成し遂げて堅く立つことができるように、神のすべての武具を取りなさい。 とあるように 神のすべての武具 が必要なのだということを覚えなければなりません。しかもそれは神が全て備えてくだっさるのです。つまりこの戦いは必ず勝利するということです。
2.ペテロはⅠペテロ5:8-9でこのように言っています。 5:8 身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、吼えたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。5:9 堅く信仰に立って、この悪魔に対抗しなさい。 と。悪魔も必死で私たちを食い尽くそうとねらっているといます。ペテロはその悪魔に対抗するように言っています。つまり、私たちは勝てるからです。
3.全ての武具で身を固めて対抗するのですから、真理、正義、福音、信仰、救いで身を固め、御言葉で切りつけるのです。これらのものが人間の努力で得られるでしょうか。神からいただくしか無いのです。

B.神の勝利を私たちが勝ち取る
1.神は私たちをただ守ってくださるのでは無いです。アダムとエバが悪魔に負けたために罪が入り込んで、人間は大変な苦しみの中で過ごすことになりました。そこで、救い主イエスを使わしてくださって罪からの救い、悪魔からの解放を決めてくださり、それが2000年前に実行されました。
2.イエスを信じる者は罪が赦され、聖霊が住まわれることで私たちはイエスに似た者となりました。そして、もちろん悪魔からも守ってくださるのですが、私たちには御霊の剣、神の言葉が与えられているのです。戦うのです。

★ 神は私たちをただ悪魔から守ってくださるだけでは無く、私たちが悪魔に立ち向かっていく力を与えてくださっているのです。無謀な攻撃はやられるだけです。御霊の剣である御言葉をしっかり握って立ち向かうのです。

クリスチャンよ、強められよ!

2021-07-17 06:44:40 | 礼拝説教
2021/7/18 礼拝説教
【テーマ】  クリスチャンの生き方
【説教題】 「クリスチャンよ、強められよ!」
【聖書箇所】 エペソ6:10-12
6:10 終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。
6:11 悪魔の策略に対して堅く立つことができるように、神のすべての武具を身に着けなさい。
6:12 私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものです。

○ オリンピックがいよいよ始まります。世界の平和のためにという目的もあるオリンピックも今年はコロナとの戦いが一番大きな戦いのようです。平和のために世界の人が集まれる大会ということで「参加することに意義がある」オリンピックですが、選手にとっては「勝つこと」のための戦いでもあります。クリスチャンも戦いがありますが、皆さんはどんな戦いをされていますか?
 
Ⅰ.大能の力によって強められよ
A.「強くなれ」ではなく「強められなさい」
1. 6:10 終わりに言います。 と、いよいよ手紙の最後になってきました。 主にあって、その大能の力によって強められなさい。 は 強められなさい であって、「強くなれ」でありません。私たちは強くなるようにと教えられてきた感があります。しかし、聖書が教えるのは神に強めていただくことなのです。人は自分で強くなろうとし、その強さは腕力・学力、大きなところでは国力・戦力などの強さを考えます。
2.コロサイ書ではこのように書かれています。 コロサイ1:11 神の栄光の支配により、あらゆる力をもって強くされ、どんなことにも忍耐し、寛容でいられますように。 と、その強さは忍耐、寛容という強さのようです。
3. その大能の力 というのは、キリストをよみがえらせた神の力です。その同じ復活の力が信じる者に与えられています。

B.キリストが戦われた敵は?
1.キリストはこの世においでくださって、何と戦われたでしょうか? ローマ帝国でもなければ、十字架につけるように叫んだ祭司長達でもありません。まともに戦うなら、天の軍勢をもって簡単にやっつけてしまわれたことでしょう。
2.赤ちゃんイエスを殺そうとしたヘロデ王の背後に働いたのは悪魔です。また、40日40夜の断食の後誘惑してきたのも悪魔です。キリストは悪魔との戦いをされていますが、これもまともに戦うなら一発で勝ってしまいますが、人間として立ち向かってくださいました。
3.この地上において私たち人間の信仰のために悪魔の働きを許されました。人間は悪魔に打ち勝てません。しかし、人間となってくださったイエスご自身は悪魔に打ち勝っておられます。そこで、私たちも悪魔に打ち勝つようにしてくださるのです。

Ⅱ.悪魔の策略に打ち勝つ力を得よ
A.人間界は悪に満ちている
1.世界ではどうしてこうも戦いが多いのでしょうか? 不思議に思いませんか。進化論を信じる多くの人たちがいますが、あらゆる動物の中で最高に進化したという人間だけが戦争をするのです。しかも、戦争の無かった時がほとんど無いくらいに人類の歴史は血まみれです。「全ての人は罪を犯した」という聖書の言葉は事実だと思いませんか。
2.戦争だけではありません。人間界はどれほど悪に満ちていることでしょうか。幸せになるために結婚があるはずなのに、その夫婦で争いがあり、幸せな家庭をつくろうと努力しているはずなのにその家庭が破壊され、善きことを教えるはずの学校でいじめや教師の暴力などがあります。言い出したらキリが無いのです。教会も気をつけないといけないのが現状です。

B.私たちの戦いは悪魔・悪霊に対する戦い
1.悪の根源は罪ですが、罪を犯させるように人間につけいったのが悪魔です。人類史の最初にアダムとエバを誘惑して罪に陥れたのは悪魔です。この悪魔は人類の歴史を血塗ってきました。悪魔はどんな策略を練っているのでしょうか。人間や国家が太刀打ちできるような相手ではありません。
2.クリスチャンにも戦いがあります。どんな戦いなのかというと、聖さに向かう戦いです。 6:12 私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものです。 と、悪魔と悪霊に対する戦いなのです。どんな人間も国家も太刀打ちできない相手との戦いを強いられています。
3.しかもその戦いを神は私たちにさせておられます。かつてイエスが弟子達を二人ずつあちこちの村や町に派遣したとき、彼等はイエスから権威を授かったので、悪霊どもが追い出されました。 ルカ10:17 さて、七十二人が喜んで帰って来て言った。「主よ。あなたの御名を用いると、悪霊どもでさえ私たちに服従します。」10:18 イエスは彼らに言われた。「サタンが稲妻のように天から落ちるのを、わたしは見ました。 とあります。 その大能の力によって強められなさい。 とは、まさにこのイエスの権威を授かることです。

Ⅲ.悪魔に打ち勝つために
A.悪魔は勝ち誇っているか?
1.道徳的な清さを求めてそれで悪魔に打ち勝つ力を身につけることはできません。もちろん、正しく生きるということで神は喜ばれますが、キリストに信頼して、キリストに委ねて霊的な聖さをいただいて悪魔に打ち勝つ力をいただいて、そこから道徳的にも清くあることが望ましいわけです。
2 6:12 私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものです。 私たちは戦いの相手を間違ってはいけません。犯罪に関しても冤罪がなくなりませんが、犯人で無い人を犯人としてしまったり、敵で無いところに爆弾を落としたり、間違えていることが人間には多いものです。
3.悪魔は勝ち誇っていることでしょう。人間界をこんなにも混乱させ悪に悪を満ちさせて神を困らせることで喜びを感じているのでしょう。

B.悪魔に打ち勝つ力は「愛」
1.悪魔に敵対するということは、私たちが愛し合うことで表すのです。悪魔は愛が嫌いです。なぜなら「神は愛」だからです。しかし、それも道徳的清さと同じように、人間的な愛では悪魔はいくらでも自分の土俵に入れ込んで用いてしまいます。神の愛で対抗するしかありません。
2.この戦いは 主にあって、その大能の力によって強められ ることで勝つことのできる戦いなのです。私たちはまず強められる必要があります。最初に語ったように、自分で強くなるのではありません。神に強めていただくのです。
3.悪魔に打ち勝つために 6:11 悪魔の策略に対して堅く立つことができるように、神のすべての武具を身に着けなさい。 と言っていますが、実際の武具についてはこの次のところに書かれています。

★ 私たちは戦わねばなりませんが、戦いの相手も方法も間違えてはいけません。悪魔に打ち勝つには 主にあって、その大能の力によって強められ ることです。そして聖霊の愛に満たされることです。


奴隷たちよ、主人たちよ

2021-07-10 07:26:23 | 礼拝説教
2021/7/11 礼拝説教
【テーマ】  クリスチャンの生き方
【説教題】 「奴隷たちよ、主人たちよ」
【聖書箇所】 エペソ6:5-9
6:5 奴隷たちよ。キリストに従うように、恐れおののいて真心から地上の主人に従いなさい。
6:6 ご機嫌取りのような、うわべだけの仕え方ではなく、キリストのしもべとして心から神のみこころを行い、
6:7 人にではなく主に仕えるように、喜んで仕えなさい。
6:8 奴隷であっても自由人であっても、良いことを行えば、それぞれ主からその報いを受けることを、あなたがたは知っています。
6:9 主人たちよ。あなたがたも奴隷に対して同じようにしなさい。脅すことはやめなさい。あなたがたは、彼らの主、またあなたがたの主が天におられ、主は人を差別なさらないことを知っているのです。

○ 奴隷という言葉が出てきますが、だからといってキリスト教が奴隷制を認めているわけではありません。むしろキリスト教は奴隷制の撤廃のために働きかけてきたほどです。パウロのいたこのローマ帝国では奴隷制が当たり前の社会でした。その現実の中でパウロは奴隷とその主人のあり方も教えています。
 
Ⅰ.奴隷達よ
A.奴隷も主人も共にクリスチャン
1. 奴隷たちよ。キリストに従うように、恐れおののいて真心から地上の主人に従いなさい。 という言葉を見ますと、奴隷もクリスチャンになっていたことがわかります。奴隷がどのように教会に属し、礼拝出席していたのかわかりませんが、その奴隷の主人もクリスチャンであったでしょう。
2.同じ教会に主人と奴隷が共に出席していたのかも知れません。あるいはクリスチャンである主人の家が教会となって集会をしていて、その奴隷もクリスチャンになったということも考えられます。

B.主に仕えるように
1.パウロはそういう現実を見据えながら、クリスチャンとなった奴隷達に主人に対する仕え方を教えています。 6:6 ご機嫌取りのような、うわべだけの仕え方ではなく、キリストのしもべとして心から神のみこころを行い、6:7 人にではなく主に仕えるように、喜んで仕えなさい。 ということです。 うわべだけの仕え方ではなく ということは、奴隷達の中には仕方がないから主人の言うように働こうという人がいたのでしょう。
2.そういう奴隷に対してパウロは キリストのしもべとして 仕えることを教えています。ということは聖書を教えられてキリストのしもべがどのようなものなのかがわかっているということです。 6:7 人にではなく主に仕えるように、喜んで仕えなさい。 と、 主に仕える 生き方ということがクリスチャンになった奴隷にもわかっていたということでしょう。

Ⅱ.主人達よ
A.主人達も変えられた
1.続けてパウロは主人達に言います。 6:9 主人たちよ。あなたがたも奴隷に対して同じようにしなさい。脅すことはやめなさい。あなたがたは、彼らの主、またあなたがたの主が天におられ、主は人を差別なさらないことを知っているのです。 主人もクリスチャンになって聖書を教えていただき、その生き方が変わりました。どう変わったかというと、倫理的に良い生き方、正しい生き方、人に親切な生き方というのでしょうか。そういう生き方に変わったようです。
2.ですから、キリストを知らなかった時のような奴隷を脅かすような生き方は止めるようにとパウロは言うのです。キリストを知らなかった時の生き方は奴隷を脅すような生き方をしていたのでしょうか。

B.キリストこそ主人だと
1.主人達はキリストを信じて、キリストこそ主人であることを覚えたのです。そしてキリストのことを教えられる内に自分たちの生き方、あり方までも学んだことになります。
2.キリストは徹底して父なる神に従われました。この地上で立場的に上になる者である主人達はそのキリストの歩みを模範とすべきであることを学んだのでしょう。

Ⅲ.キリストのしもべ達よ
A.主に仕えることがわかっていた
1. 6:7 人にではなく主に仕えるように、喜んで仕えなさい。 という御言葉。これは当然「人に仕えてはいけない」と言っているのではありません。私たちは目に見える人に仕えるのは仕えやすいです。しかし、そこには見えるが故に上辺だけの仕え方をしてそれでよしと思うところがあります。
2.主に仕えるというは、見えないお方に仕えることですから、上辺なんて通用しません。そういう心からの仕え方をパウロは言っているわけです。当時のクリスチャン達、奴隷であっても主人であっても、 主に仕えるように という生き方がわかっていたと言うことです。私たちは主に仕えているでしょうか? 

B.人に仕えることで学ぶ
1.主に仕えることを学ぶには、人に仕えることを学ばねばなりません。私たちは社会に出てそういう学びをしてきたと思います。人に仕える学びです。ある教会ではホテルマンを呼んで人に対する良い接し方を学んだと聞きました。
2.私も教師時代に学ばせていただきましたが、どちらかというと教師というのは若くても一国一城の主のように見られます。ですから、神学校で仕えることを学ばせていただいた気がします。

★ 世の中では色々な立場があるでしょう。しかし、全ての人が神の前に神の僕として平等です。私たちは主に仕えるように互いに仕え合うのです。

あなたの信じたとおりに

2021-07-03 07:35:56 | 礼拝説教
2021/7/4 礼拝説教
【テーマ】  イエスの言葉の力
【説教題】 「あなたの信じたとおりに」
【聖書箇所】 マタイ8:5-13
8:5 イエスがカペナウムに入られると、一人の百人隊長がみもとに来て懇願し、
8:6 「主よ、私のしもべが中風のために家で寝込んでいます。ひどく苦しんでいます」と言った。
8:7 イエスは彼に「行って彼を治そう」と言われた。
8:8 しかし、百人隊長は答えた。「主よ、あなた様を私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばを下さい。そうすれば私のしもべは癒やされます。
8:9 と申しますのは、私も権威の下にある者だからです。私自身の下にも兵士たちがいて、その一人に『行け』と言えば行きますし、別の者に『来い』と言えば来ます。また、しもべに『これをしろ』と言えば、そのようにします。」
8:10 イエスはこれを聞いて驚き、ついて来た人たちに言われた。「まことに、あなたがたに言います。わたしはイスラエルのうちのだれにも、これほどの信仰を見たことがありません。
8:11 あなたがたに言いますが、多くの人が東からも西からも来て、天の御国でアブラハム、イサク、ヤコブと一緒に食卓に着きます。
8:12 しかし、御国の子らは外の暗闇に放り出されます。そこで泣いて歯ぎしりするのです。」
8:13 それからイエスは百人隊長に言われた。「行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。」すると、ちょうどそのとき、そのしもべは癒やされた。

○ 今の時代のようにスマホで何でもできそうな時代でなく、携帯電話が出回って間のない頃の漫才で、こんなのがありました。「オレの携帯で風呂も沸かせるんだぜ」「それはすごいなあ!」「おい、今から帰るから、風呂沸かしといて」「なんやねん、それお前のかみさんが沸かすんやないか!」と。でも言葉というのはすごいということです。
 
Ⅰ.言葉の力
A.生かしも殺しもする言葉
1.言葉はとても大きな力を持っています。人を生かしもすれば殺しもします。現代ではSNSの書き込みという言葉で心に大きな傷を負い、死んでしまった人もたくさんいます。言葉に力があるのですから、人を生かす良い言葉を使うことが望ましいのは当然です。
2.子どもが言葉をどうやって覚えるか? それは未だ究明しきれていない部分が多いのですが、見て、聞いて、触ってという五感を通して、物とその名前・意味を覚え込んで、脳で整理していくのだそうです。言葉が出始めると急激に語彙数が増え、一語だったのが二語になり、さらに助詞が入って文章になるというのはすごいことです。すでに頭の中にその言葉の元があるということです。

B.創り出す言葉
1.神は言葉で世界を創造されました。 創世記1:3 神は仰せられた。「光、あれ。」すると光があった。 に始まって、30節まで神は言葉で全てのものをお造りになりました。 神は仰せられた と、言葉で全宇宙、地球、動植物、人間も言葉で創られました。神の言葉にはそういう無いところから生み出す力があるのです。
2.わかり合った仲では「おい、あれ持って来てくれ」と「あれ」と言っただけでそれが何かわかって持って来てもらえるのです。これは「あれ」という物があるわけではなく、それを語った人の頭にある物です。それを理解している人が「あれ」だけでそのものを持ってこれるのです。
3.神が 「光、あれ。」 と言われた「光」は神のお考えの中にあったものなのです。そして、神の超自然的な力は何も無いところから光を生み出せるのです。そして、私たち人間も神のお考えの中にある姿をいただいて、見える形にしていただいたのです。

Ⅱ.権威ある言葉の力
A.百人隊長は上官の言葉に従っていた
1.今日のテキストでは、イエスが 「行って彼を治そう」 と言われたのに、百人隊長は 「主よ、あなた様を私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばを下さい。 と言いました。私なら即座に「来てください!」と叫んだことでしょう。なのに、この百人隊長はなぜ「来なくていい」と言ったのでしょうか? それはイエスの言葉の力、イエスの権威を信じていたからです。
2.彼は、イエスに来ていただく資格が無いと言っています。彼は軍人として上官の権威ある言葉に命をかけて仕事をしてきた人です。上官はいちいち出向いて来ません。命令があるだけです。
3.イエスが「治れ」と言われるなら、イエスのお考えの中にあるその人の健康というものが現実に現れるのです。それを百人隊長は信じたのです。

B.百人隊長は権威ある言葉に従う習慣があった
1.百人隊長には、その上官の言葉に従うという習慣が身についていたのです。このことはまた習慣がいかに重要かということを教えています。もちろん正しい習慣でなければ困ります。私たちは聖書を読むとか祈るとか、礼拝を守るとかそういう正しい習慣を身に着けることが大事です。
2.時には、百人隊長は上官の間違っていると思える命令にも従わざるを得なかったでしょう。でも上からの権威ある命令には従わざるを得ませんでした。しかし、彼はユダヤの神、イエスの言葉は絶対に正しいと信じていたので、イエスを迎えずともその言葉さえいただければ癒されると信じたのです。

Ⅲ.イエスの言葉の通りになる
A.信仰告白の力
1.最後のところに 8:13 それからイエスは百人隊長に言われた。「行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。」すると、ちょうどそのとき、そのしもべは癒やされた。 とありますが、イエスの言葉の通り、百人隊長のしもべは癒されるのです。が、ここで気になる言葉は あなたの信じたとおりになるように という言葉です。
2.これは私たちの信仰告白にも力があるという事です。つまり私たちがイエスを信じているなら、イエスが見えるお方でなくても、イエスの言葉は私たちの信仰を通して実現するのです。私たちはイエスの言葉を信じる者、また語る者でありたいのです。

B.信じる者は救われる
1.「イエスを見たら信じる」と言う人が多い中で、百人隊長はイエスの言葉を信じました。私たちは今イエスをこの目で見ることはできませんが、イエスの言葉を信じることはできます。 ヨハネ11:25 わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。 と、言われています。このイエスの言葉を信じるならその通りになるということです。
2.他にもまだあります。 ヨハネ11:26 また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。あなたは、このことを信じますか。」 等々。どうですか? 百人隊長のように、あなたも、イエスの言葉だから信じるという信仰を持ちませんか。

● イエスの十字架の場面で二人の犯罪人が共に十字架刑に処せられましたが、一人はイエスを神の子と信じました。その犯罪人に向かってイエスは「あなたは今日私と共に天国にいます」と言われました。犯罪人は「地獄に行く」と信じていたのですが、イエスを信じたことで彼は天国に行くことになりました。イエスがそう言われたからです。

★ 人の言葉でも大きな力があるのですから、ましてや神の言葉は完全です。この全宇宙をお造りになった神の言葉をあなたも信じてください。イエスが今見えなくても、イエスの言葉は今も皆さんのそばにあります。