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礼拝説教、聖書を読んで感じた事

神の国はどこに?

2018-10-28 17:50:18 | 礼拝説教
2018/10/28礼拝説教
【テーマ】  神の国
【説教題】 「神の国はどこに?」
【聖書箇所】 マルコ4:26-34
【新改訳2017】
4:26 またイエスは言われた。「神の国はこのようなものです。人が地に種を蒔くと、
4:27 夜昼、寝たり起きたりしているうちに種は芽を出して育ちますが、どのようにしてそうなるのか、その人は知りません。
4:28 地はひとりでに実をならせ、初めに苗、次に穂、次に多くの実が穂にできます。
4:29 実が熟すと、すぐに鎌を入れます。収穫の時が来たからです。」
4:30 またイエスは言われた。「神の国はどのようにたとえたらよいでしょうか。どんなたとえで説明できるでしょうか。
4:31 それはからし種のようなものです。地に蒔かれるときは、地の上のどんな種よりも小さいのですが、
4:32 蒔かれると、生長してどんな野菜よりも大きくなり、大きな枝を張って、その陰に空の鳥が巣を作れるほどになります。」
4:33 イエスは、このような多くのたとえをもって、彼らの聞く力に応じてみことばを話された。
4:34 たとえを使わずに話されることはなかった。ただ、ご自分の弟子たちには、彼らだけがいるときに、すべてのことを解き明かされた。

○ 今日の午後は青年会が中心になって「ホーム・パーティ」なるものを計画してくださいました。単に楽しいというだけでなく、ここに神の国を見るようなひとときとなると思います。神の国とはどのようなものでしょうか? 

Ⅰ.神の国
A.神の国はどこに?
1.「神の国」というと「天国」と考えやすく、いつか死んだら行く世界のように思う人がいます。しかし、イエスの語られる話からはそういう場所的なものではないことが感じ取れます。
2.また、ユダヤ人はこの地上に神の国が形成されると思っていました。ところが、イエスは ルカ 17:20 パリサイ人たちが、神の国はいつ来るのかと尋ねたとき、イエスは彼らに答えられた。「神の国は、目に見える形で来るものではありません。 と、このように言われました。

B.神の国の王は?
1.神の国というのは神が王として支配されることを言います。そして、イスラエルの人々が「神の国はいつ来るのか?」と考えていたということはまだ神の支配が無かったということです。
2.又その考えの背景にはローマ帝国の支配があり、イスラエルはその属州として組み込まれてしまっていたからです。ローマ帝国という大きな国から独立して、あるいはローマ帝国を滅ぼして神の国が成立することを待ち望んでいたのです。
3.イスラエルの人々はローマ帝国以上の国ができ、ダビデのような王が君臨するということを考えたでしょう。しかし、イエスはそのような目に見えるものではないと言われるのです。

Ⅱ.からし種
A.勝手に大きくなる
1.そこで、イエスは種のたとえを語られました。種を蒔いておけば勝手に育っていく、そして、最後に刈り入れがあるという話です。農民にとってこの話自体はわかるでしょうが、これが神の国とどのように繋がっているのかはなかなかわからないことではないでしょうか?
2. 4:26-27 神の国はこのようなものです。人が地に種を蒔くと、夜昼、寝たり起きたりしているうちに種は芽を出して育ちますが、どのようにしてそうなるのか、その人は知りません。 と、人にはわからないが勝手に育つように、神の国は私たちにはわからないが、勝手に大きくなるのです。

B.からし種の成長
1.イエスは神の国を「からし種」にたとえられました。それは農民達にとってよくわかる一つの種だったのです。どの野菜の種よりも小さい「からし種」ですが、一旦蒔けば、どんどん成長し、どんな野菜よりも大きくなるというのです。
2.からし種は「からし」の種ですが、私が知っているのは「からしな」というアブラナ科のものでそんなに大きくはならないです。しかし、ある種類のブラックマスタードは、種は1mmもなく、蒔くとどんどん大きくなり、5mくらいになるそうです。そして、その陰も大きいので地面にしっかりと鳥が巣を作ることができるようです。鳥も安らぐことができるのです。安らげるのが神の国でしょう。

Ⅲ.聖霊の働き
A.聖霊の自由な働き
1.人々は神の国を場所的なもの、人間が王として存在する場所を考えました。が、神の御言葉が蒔かれればひとりでに成長するのであって、人にはわからないことだとイエスは言われています。
2. ヨハネ3:8 風は思いのままに吹きます。その音を聞いても、それがどこから来てどこへ行くのか分かりません。御霊によって生まれた者もみな、それと同じです。 と、イエスはニコデモに言われましたが、ニコデモには理解できませんでした。理解できなくても後に復活の主に会い、聖霊に満たされると律法の支配を超えて自由になっていったのです。

B.私たちは知らないものです
1.私たちは神様のお考えや、世の中の現象に対して、あまりにも「どうしてこうなるのですか?」と言い過ぎます。ある人は「クリスチャンの心配性」と言いました。信仰によらず、自分の頭でわかることを信じようとするのです。
2.わからないことはいっぱいあるのです。しかし、からし種が蒔かれると勝手に成長して大きな木になり、鳥でさえその陰に安らぐのです。私たちのいただいた御言葉は蒔かれると勝手に成長するのです。どのようにしたら成長するのかではないのです。

● 理論、理屈、そしてそのためにセミナーが開かれ、ある人は勉強することに燃えます。聖会信者、キャンプ信者と言われて、そうした集会が大好きで行く人がいます。悪い事では無いのです。正しい知識を持つことは必要ですから。しかし、蒔かないなら何も起こらないのです。「どうして神の国は来ないのか?」と、また分析はするけれど蒔こうとしない。御言葉は大丈夫だから、良い地に蒔くべきです。良い地に耕す仕事は大事なのかも知れません。しかし、神がどんなことをなさるのか私たちがわかるはずが無いのです。死後の世界さえ知らないのです。 ルカ 17:21 『見よ、ここだ』とか、『あそこだ』とか言えるようなものではありません。見なさい。神の国はあなたがたのただ中にあるのです。」 とイエスは言われました。

★ 神の国は私たちの中にあることを信じますか? 御言葉が蒔かれ、イエスが王としておられる私たちの心が神の国です。同時に私たちの集まりは神の国です。

不思議な秤

2018-10-14 16:55:50 | 礼拝説教
2018/10/14礼拝説教
【テーマ】  神の恵みを受け入れる
【説教題】 「不思議な秤」
【聖書箇所】 マルコ4:21-25
【新改訳2017】
4:21 イエスはまた彼らに言われた。「明かりを持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためでしょうか。燭台の上に置くためではありませんか。
4:22 隠れているもので、あらわにされないものはなく、秘められたもので、明らかにされないものはありません。
4:23 聞く耳があるなら、聞きなさい。」
4:24 また彼らに言われた。「聞いていることに注意しなさい。あなたがたは、自分が量るその秤で自分にも量り与えられ、その上に増し加えられます。
4:25 持っている人はさらに与えられ、持っていない人は、持っているものまで取り上げられてしまうからです。」

○ 中学生の時に鳩を飼っていました。かわいいし外に飛ばしても帰ってくるので楽しかったのですが、問題は餌代でした。お小遣い全部が消えるのです。どうしてもエサが少なめになってしまい、私の飼っていた鳩はだいたいみんな飢餓状態でした。エサを買いに行くとリンゴ箱にトウモロコシやサフラワー、オノミなどがあり、それを混ぜてもらいます。その時に店の人は升で量るのですが、キチッと量ってしまいます。いつも山盛りにしてくれれば良いのにと思っていました。今日のテキストにもこんな升が出てきます。

Ⅰ.明かりは燭台の上に
A.明かりを持ってくる意味
1.このイエスのたとえ話もそのまま聞けばわかる話です。当時の明かりは器に油を入れて灯心に火をともしたものが中心です。今のような明るい懐中電灯などはありません。もちろん電灯のようなものはありません。
2.それでもそれは明るく、部屋を照らすものであり、探し物さえできたでしょう。その明るい明かりをわざわざ隠すことは考えられません。部屋を明るくしたいから持ってくるわけですから。当然燭台の上に置くのが普通です。

B明かりを隠すはずがない
1.しかし、もしそれを 升の下や寝台の下に置く としたらどうなるでしょうか? 升は完全にランプを覆います。光がこぼれないばかりか、火を消してしまいます。火を消すために升を被せたとも言われますから。
2.寝台の下、ベッドの下というのは火は消えないにしても部屋を照らすことはできません。地べたの一部を明るくしている程度でしょう。この話はまさにこういうわかりやすい話であり、明かりを持ってきたら、そんな風に扱うわけがないというものです。

Ⅱ.明かりはすべてを露わにする
A.明かりを消す人
1.ところで、イエスのたとえ話ですが、「明かり」とは何を表しているのでしょうか? それはイエス・キリストです。この世に光としてきてくださったお方です。
2.その明かりであるイエス・キリストを升の下に入れてしまうとは、つまり火を消してしまおうとするのは、イエスの命を狙う律法学者や祭司長たちではないでしょうか。
3. 明かりを持って来るのは という訳になっていますが、ある訳では「明かりが来るのは」というのがあるそうです。この訳だと誰かが持ってくると言うより、明かりそのものが来る、まさに明かりであるイエスが来ることをそのまま表しています。この闇の世に光であるイエスが来てくださったのです。そのイエスを升の下に入れて殺してしまう人たちがいるのです。

B.明かりを隠す人
1.一方、弟子達はそんなことはしませんが、ベッドの下に置くようなことがあったのではないでしょうか? イエスの光を輝かせないのです。
2.明かりが燭台の上で照り輝けば、闇の中なら隠れていたものが全て見えるようになると言うわけです。罪や悪事は闇の中に隠しておきたいものでしょう。しかし、イエスは恐ろしいばかりにこれらの罪も悪も露わにしてしまわれるのです。
3.私たちの罪や悪は隠しておきたいものです。しかし、イエス様はそれを暴かれ、私たちに悔い改めを求められるのです。 聞く耳があるなら、聞きなさい。 と、この話を聞き、心を開き、悔い改めることをイエスは求めておられます。

Ⅲ.明かりの恵みを受け入れる秤
A.自分が量るその秤
1. 4:24 また彼らに言われた。「聞いていることに注意しなさい。あなたがたは、自分が量るその秤で自分にも量り与えられ、その上に増し加えられます。 自分が量るその秤 とありますが、最初に出てきた「升」は穀物や油を量る秤です。もしその升が小さければ少ない分量しか量れません。そこに少ししか入らないということです。反対に大きな升ならたくさん入ります。
2. 自分が量るその秤で自分にも量り与えられ とありますから、大きな升だとたくさん入る、つまり、神の恵みがたくさん入るのです。自分の信仰がどの程度なのかが問われそうです。

B.不思議な秤
1.秤、升とはキチッと量るためのものです。しかし、私たちは自分の秤では神の恵みをキチッと量れるのでしょうか? もし不思議な秤があって、恵みに合わせて大きくなる秤ならどうでしょうか? パリサイ人は小さなキチッと量れる秤しか持っていませんでした。神の恵みをそれくらいしか感じられないのです。
2.しかし、神に愛されていることを感じた異邦人や取税人、遊女達はその秤が広げられていくのです。これが信仰です。膨れるパンのたとえのように、からしだねがどんどん成長するたとえのように、私たちの信仰は神から与えられた不思議な秤であり、増えていくのです。
3.明かりであるイエスを、悔い改めた心で迎えるなら、その心は無限大のイエスを受け入れる秤である信仰をいただくのです。私の秤が膨張して欲しいと思います。

● 宇宙は膨張していると言われます。私にはその意味がよくわかりません。しかし、その膨張しているという宇宙の中に生きています。その中の小さな星「地球」に生きています。この地球のことですらほとんど知りません。それほどに神様の恵みもすごいのですが、この宇宙を造られた神の偉大さを思うと神の私たちに対する恵みも量りきれないものなのではないでしょうか。

★ あなたの秤はパリサイ人のようにキチッとした自分の枠組みだけの秤ですか? それともそれを悔い改めて神からいただいた不思議な秤を持っていますか? 無限大の神の恵みを受け入れてください。

神はあなたを捜しておられる

2018-10-07 17:48:47 | 礼拝説教
2018/10/7礼拝説教
【テーマ】  捜し回る神
【説教題】 「神はあなたを捜しておられる」
【聖書箇所】 ルカ15:1-7
【新改訳2017】
15:1 さて、取税人たちや罪人たちがみな、話を聞こうとしてイエスの近くにやって来た。
15:2 すると、パリサイ人たち、律法学者たちが、「この人は罪人たちを受け入れて、一緒に食事をしている」と文句を言った。
15:3 そこでイエスは、彼らにこのようなたとえを話された。
15:4 「あなたがたのうちのだれかが羊を百匹持っていて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。
15:5 見つけたら、喜んで羊を肩に担ぎ、
15:6 家に戻って、友だちや近所の人たちを呼び集め、『一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と言うでしょう。
15:7 あなたがたに言います。それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人のためよりも、大きな喜びが天にあるのです。

○ イエスは、取税人や罪人たちと親しくされ、食事さえも一緒にされました。しかし、パリサイ人や律法学者たちは、そのことが気に入りませんでした。彼らは、律法を守っている自分たちだけが、神に受け入れられるにふさわしいと思っていたからです。しかし、イエスは、そんな自信満々な彼らに、例え話をして、間違いを指摘しました。

Ⅰ.神から離れた人間(これが罪)
A.人間は神のもの
1.あるところに、100匹の羊を飼っている羊飼いがいました。そのうちの1匹がいなくなってしまいました。ここでの羊は人間を表しています。
2.100匹の羊をもっていた羊飼いとは、神のことです。もともと人間は、神に造られたので、神のものでした。羊が羊飼いのものであるように、人間は神のものでした(参照:エゼキエル34:11–16)。

B.羊のようにさ迷った人間
1.羊は、羊飼いに愛されていて、えさをもらったり、安全に休ませてもらったりします。それなのに、1匹の羊が羊飼いのところから、いなくなってしまいました。人間(アダムとエバ)も、はじめはエデンの園で、創り主である神との自由で平和な交わりの中に生かされていました。
2.しかし、人間は、神に反抗して、罪を犯し、神から離れてしまいました。人間は、神中心ではなく、自己中心に生きるようになったのです。預言者イザヤはこのように言っています。 イザヤ 53:6 私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。 と。
3.神を離れたことの結果として、 ローマ 3:23 すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、 とあるように、すべての人が罪人となりました。アダムとエバだけではありません。人間はみんな罪人なのです。

Ⅱ.人間に近づく神
A.捜しまわる羊飼い
1.1匹の羊を失った羊飼いは、どうしたでしょうか。他の99匹の羊たちを野原に残して1匹の羊を捜しに出かけたのです。
2.羊飼いは「谷に落ちてケガをしていないだろうか」「オオカミに食べられはしないだろうか」「お腹がすいただろう」「寒くて眠れないのでは」と逃げていった羊のことを心配したことでしょう。危険も気にせず、時間も体力も犠牲にして、一生懸命見つけるまで捜し歩いたのです。それは、羊飼いにとって、1匹1匹どの羊も大切だったからです。

B.捜しておられる神
1.神は、私たちを愛してくださっています。1匹のために99匹を置いていくなんて、不釣合いと思うかもしれません。しかし、神にとっては、それほどまでに、ひとりひとりが特別に大切なのです。それはイザヤ書にも 【新改訳2017】イザヤ 43:4 わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。 と書いてあるとおりです。
2.人間は、罪人です。しかし神は、律法学者たちのように「そんな自分勝手な罪人は、放っておけばいい」「言うことを聞かない羊が谷に落ちて死ぬのは当然の報いだ」というような非情なお方ではありません。神は、神から離れてしまったひとりの罪人を、助けるために、捜してくださっているのです。

Ⅲ.喜ばれる神
A.悔い改める者を喜ばれる
1.羊を見つけた羊飼いは、大喜びでその羊をかついで帰り、友だちや近所の人たちを呼び集め、 『一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』 と言います。
2.イエスは、 一人の罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人のためよりも、大きな喜びが天にあるのです。 とおっしゃいました。律法学者たちは驚いたでしょう。イエスは正しい人と一緒にいて喜ばれるのではなく、罪人がイエスのところに帰ってくることを喜ぶとおっしゃったのです。
3.イエスは、こう言われています。 ルカ5:31 そこでイエスは彼らに答えられた。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人です。5:32 わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためです。」

B.悔い改めるとは神に方向転換すること
1.「悔い改める」とは、罪からはなれて、神に立ち返ることです。私たちは、みんな罪人です。神に造られたのに、神から離れて自己中心に生きてきました。それを神に赦していただき、神のところに帰ることです。
2.私たちが悔い改めるとき、神は、必ず罪を赦してくださいます。それどころか、大喜びで迎えてくださいます。 エゼキエル33:11 わたしは決して悪しき者の死を喜ばない。悪しき者がその道から立ち返り、生きることを喜ぶ。立ち返れ。悪の道から立ち返れ。 とあるとおりです。

● 私たちも一人の人がイエス様を信じてクリスチャンになると決められる時、それはそれは大きな喜びです。7節に 大きな喜びが天にあるのです とありますが、私たちも天と通じていることを思います。一方、こうしたことを喜ばないパリサイ人達、律法学者達というのは天の喜びを感じない、天に通じていない人たちだということではないでしょうか。

★ 人間は皆罪人です。それは、神から離れているということです。その罪人を神は捜してくださり、神の手に抱かれる羊のように悔い改めて神に立ち返る者を神は喜ばれるのです。あなたはもう神の手の中に抱かれている羊ですか? それともまださ迷っている羊ですか?
 

種蒔く人

2018-10-01 06:57:52 | 礼拝説教
2018/9/30礼拝説教
【テーマ】  キリストにある人生
【説教題】 「種蒔く人」
【聖書箇所】 マルコ4:3-20
【新改訳2017】
4:3 「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出かけた。
4:4 蒔いていると、ある種が道端に落ちた。すると、鳥が来て食べてしまった。
4:5 また、別の種は土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったのですぐに芽を出したが、
4:6 日が昇るとしおれ、根づかずに枯れてしまった。
4:7 また、別の種は茨の中に落ちた。すると、茨が伸びてふさいでしまったので、実を結ばなかった。
4:8 また、別の種は良い地に落ちた。すると芽生え、育って実を結び、三十倍、六十倍、百倍になった。」
4:9 そしてイエスは言われた。「聞く耳のある者は聞きなさい。」
4:10 さて、イエスだけになったとき、イエスの周りにいた人たちが、十二人とともに、これらのたとえのことを尋ねた。
4:11 そこで、イエスは言われた。「あなたがたには神の国の奥義が与えられていますが、外の人たちには、すべてがたとえで語られるのです。
4:12 それはこうあるからです。『彼らは、見るには見るが知ることはなく、聞くには聞くが悟ることはない。彼らが立ち返って赦されることのないように。』」
4:13 そして、彼らにこう言われた。「このたとえが分からないのですか。そんなことで、どうしてすべてのたとえが理解できるでしょうか。
4:14 種蒔く人は、みことばを蒔くのです。
4:15 道端に蒔かれたものとは、こういう人たちのことです。みことばが蒔かれて彼らが聞くと、すぐにサタンが来て、彼らに蒔かれたみことばを取り去ります。
4:16 岩地に蒔かれたものとは、こういう人たちのことです。みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れますが、
4:17 自分の中に根がなく、しばらく続くだけです。後で、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。
4:18 もう一つの、茨の中に蒔かれたものとは、こういう人たちのことです。みことばを聞いたのに、
4:19 この世の思い煩いや、富の惑わし、そのほかいろいろな欲望が入り込んでみことばをふさぐので、実を結ぶことができません。
4:20 良い地に蒔かれたものとは、みことばを聞いて受け入れ、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ人たちのことです。」

○ 16日の「シルバー祝福式で語った所ですが、今度は少し観点を変えて見てみたいと思います。前は土地と種を見ましたが、今回は種蒔く人と、前に読まなかった9節~13節も見てみましょう。

Ⅰ.種と種を蒔く人
A.種と種蒔く人に問題は無い
1.実を結ぶのに種には問題はありません。種蒔く人はいかがでしょうか? 現代日本の農法ならまず土地を改良、耕してから種を蒔きますが、聖書時代の農法はまず種を蒔いてそれから耕して種に土をかけていくというものです。ですから道端があったり、岩地であったり、後に茨が生えてくる土地であったりしたわけです。種蒔く人も当時の農法に従ったまでです。
2.種にも種蒔く人にも問題は無いのですが、結果的に蒔かれた土地の様子によって種の生長に影響が出てくるのです。しかし、ある人は畑作のプロなら、大事な種を蒔く時、良い地を見極めて蒔くのではないかと言います。

B.種蒔く人とは誰のこと?
1.種にたとえられているのは御言葉、神の言葉です。では、 種を蒔く人 とは誰のことでしょうか? この地上に神が人としてお出でになったイエス・キリストでしょうか。もちろんそうだと言えます。
2.しかし、「神の言葉」は神が語った言葉という意味、あるいは神がある時、あるところで一回だけ語ったという意味の言葉ではなくて、伝道者や説教者によって常に語り続けられている神の言葉を意味するそうです。
3.つまり種蒔く人は「私」なのです。「私」には問題もあるかも知れないし、力がないかも知れません。しかし、種に力があるのです。

Ⅱ.たとえと謎
A.たとえは謎だらけ
1.私はイエスの語られたたとえ話を読んで、いつも難しく感じるのです。たとえというのは普通難しいことを易しく語るものだと思います。しかし、返って難しく感じるのです。
2.イエスの使っておられたアラム語では「たとえ」に「謎」という意味があったと言います。 4:11 あなたがたには神の国の奥義が与えられていますが、外の人たちには、すべてがたとえで語られるのです。 とありますが、弟子達と外の人たちに対して語り方が違うわけです。
3.ある先生がこんなことを言われました。「あの人は氷のように冷たい」というのは当然たとえです。これを文字通りとれば体温計で熱を計り「36度もあって氷ではないよ」と言うかも知れません。しかし、これはたとえです。それはたとえを語る人と心が通い合っているからそのたとえを理解できるのです。
4.イエスと心が通い合っているならたとえが理解できるということになります。通い合っていない時、それは謎なのです。

B.聞く耳の無い人には謎の御言葉
1.ここにも 4:9「聞く耳のある者は聞きなさい。」 という言葉があります。肉の耳ではないのです。心を開いて聞いて欲しいというのがイエス様の願いです。イエスの言葉は謎であり続けたのです。それは頑なな人々の心のためです。
2.皆さんもイエス・キリストを語る時、聖書の話を語る時によく聞いてくれる人にはとても話しやすかったことを経験されていると思います。反面、キリスト教に難癖つけようとしている人には何を言っても入っていかないという経験もされたことと思います。イエスの言葉に対して律法学者達がそうだったのです。

Ⅲ.種蒔く人
A.無駄と思える種蒔き
1.聞く人、聞かない人がいることを思うと御言葉という尊い種を蒔くのに 伝道者11:1 あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後の日になって、あなたはそれを見出す。 の御言葉を思い出します。無駄と思えるような伝道ですね。
2.御言葉を蒔く人、伝道する人にも問題は無いといえるでしょう。実を結ばないのは種蒔く人の責任では無いということです。ただし、種を蒔かない限りは芽を出すことはありません。つまり、伝道しなければ救いも無いということです。

B.御言葉に命と力がある
1.多くの実を結ぶというのはどういう人生でしょうか? 多くの人を救いに導いた、教会で多くの奉仕をした、教会外でも人々のために働いた、というようなことはもちろんそうだと思います。
2.しかし、 ヨハネ12:24 まことに、まことに、あなたがたに言います。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。 というイエスの言葉から考えると、私たちの良い地にイエスがお出でくださったので、私たちの中で御言葉は実を結んだということです。
3.御言葉には命があり、力があります。私たちの心が良い地であれば、御言葉にある命や力が 三十倍、六十倍、百倍 に増えるのです。

● 詩篇126:5 涙とともに種を蒔く者は喜び叫びながら刈り取る。126:6 種入れを抱え泣きながら出て行く者は束を抱え喜び叫びながら帰って来る。 を覚えるのです。

★ 御言葉に力があります。私たちはそれを受け入れ、信じて語るだけです。私たちも涙と共に種蒔く人になろうではありませんか。