バイブルサロン

礼拝説教、聖書を読んで感じた事

礼拝はライブで

2015-10-25 17:26:36 | 礼拝説教
2015/10/25礼拝説教
【テーマ】  霊的礼拝
【説教題】 「礼拝はライブで」
【聖書箇所】 ローマ12:1-2
12:1 そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。
12:2 この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。

○ ついにローマ人への手紙も12章に入りました。雰囲気は大きく変わります。しかし、その最初に そういうわけですから と、今まで徹底的に語られたユダヤ人の選びや恵みによる救いが元となって、「私たちの生き方はこうしましょう」となるのです。その最初が「礼拝」です。

Ⅰ.からだをささげよ
A.神に受け入れられる
1.私たちは、決まりだから「礼拝」をしているのでしょうか? 大事なのは私たちが満足する礼拝ではなく、神様が満足される礼拝です。神様が喜ばれる、神様が受け入れてくださる礼拝です。ところが私たちは罪人ですから、どうしても自己中心になりやすく、「自分が好む礼拝」を望んでしまうのです。
2.礼拝の中心は神様ですが、私たち抜きの礼拝も有り得ません。親は、子どもがお誕生日を祝ってくれると喜ぶものです。下手な「ハッピー・バースデー・トゥ・ユー」が歌われても喜びます。下手な絵や、安物のプレゼントでも喜びます。そして一緒に食事をすることを喜ぶのです。子どもたちが喜んでしてくれるからです。神様は私たちの親ですから、私たちの喜んで献げる礼拝を喜んでくださるのです。

B.霊的
1.この1節は「霊的な礼拝」を訴えています。「霊的」という言葉は大変誤解されやすい言葉だと思います。神秘的と言いますか、預言や異言、癒しや奇跡がどんどん起こるようなものを想像したり、さらには参加者が特別な雰囲気に包まれたり、倒れたり、笑い出したり、泣き出したり、会堂が不思議に輝いたり、という不思議な現象を考える人もいるかと思います(こうした事も有り得ますが)。こうしたことを「霊的」とい考える人があります。
2.しかし、この1節の「霊的」は「理性的」とも訳せる言葉です。そうなると大きな違いを感じませんか? 人間が肉体と精神と霊をもって造られていることから考えれば、感情をも超えた奥深い自分自身、自分の人格、自分の全存在でする礼拝が「霊的礼拝」ではないでしょうか。
3.つまり、神様の望まれる礼拝は私たちの上辺のことではないのです。賛美が美しいとか、元気がいいとか、祈りの言葉がすばらしいとか、説教が良いとか(もちろんそれに越したことはありませんが)、神様の望まれているのは、私たちの奥の奥から、イエス様によって救われた喜びが満ち溢れてくる感謝でささげる礼拝なのです。

C.聖い、生きた供え物
1.旧約時代の供え物は生け贄が中心でした。それは人々の罪を赦していただくためにささげたのです。そして、その規定も神様が決めてくださいました。つまり、赦されるためにする事が礼拝の中心的なことであったとも言えるのです。
2.しかし、新約時代はイエス様が完璧な生け贄となってくださったので、赦されるための殺された「供え物」はありません。私たちが「生きた供え物」なのです。イエス様の十字架によって私たちは聖められたので、「聖い、生きた供え物」なのです。
3.供え物というのは神様の前に出されなくてはならないのです。ですから「礼拝出席」が重んじられるのかも知れません。でも、出席することだけが重んじられたら問題です。このことは更に2節との関わりで見てみましょう。

Ⅱ.世と調子を合わせない
A.神様との関係はライブで!
1.あなたがたのからだを・・・ささげなさい。 と言われるように、私たち自身を献げるのが礼拝ですが、教会での礼拝だけが礼拝ではありません。日々の生活がものを言います。パウロは この世と調子を合わせてはいけません。 と言っています。それは「この世」が、神様の領域から外れたところだからです。私たちは「この世」に属していますが、決して「この世」に仕えてはいけないのです。礼拝とは この世と調子を合わせ ないものです。だから霊的礼拝であり、世的礼拝ではないのです。
2. あなたがたのからだを・・・ささげなさい。 と言っているのですから、「体は家にいても、心は教会でみんなと礼拝をささげています」というような言い方は成り立ちません。幼い子どもの運動会で考えてみましょう。子どもは、親に運動会を見に来てもらいたいのです。ところが、もし親の方が、「毎日仕事で忙しく疲れているから、今日は家で休んでいたい」と思って、子どもに「お父さんは家にいたけど、心は◯◯ちゃん頑張れって言っていたからね」ということで子どもは納得するでしょうか?
3.ライブでなければならないのです。CDやユーチューブもいいけれど、生で見る、聞くというのはやはり違います。

B.良いことは何かを学ぶ
1.出エジプトをしたユダヤ人は神様のことがわからなくなっていました。エジプトを出て神様の示す地に行って、礼拝をしようというのですが、彼らは神様がわからないので、神様はモーセを用いて、神様がどのようなお方か教えたのです。奇跡的な出来事などを通して実物レッスンされたわけです。紅海が真っ二つに分かれて、その中をユダヤ人は実際に歩いたのです。不思議な食べ物「マナ」を実際に集めて食べたのです。このようにしてユダヤ人は神様を学んだのです。
2.クリスチャン生活というのは自分自身のからだをもって神に仕えることです。霊的な礼拝をするためには、日常の生活自体が大事です。神のものとされた私たちは「この世」の考え方ではなく、「神のみこころ」で考えるのです。しかし、私たちはどうしても「この世」で学んできたので、この世の考え方に流されやすいのです。神様のみこころは聖書を通して学びます。そして、それを自分のからだをもって実行するのです。

C.心の一新によって自分を変える
1.世的生活に埋没して、知的にだけ神様を知ろうとしても本当には何もわからないのです。 この世と調子を合わせてはいけません という「この世」には家族や友人、テレビやインターネット、さまざまなものがあると思います。知識は必要です。この世から学ぶことは多いのですが、調子を合わせてはいけないのです。
2.みんなが「いじめ」をしているから、自分も一緒になっていじめた、というようなことがどれほどたくさんあることでしょうか。「いじめが犯罪だ」ということを学んでいないばかりか「この世」と調子を合わせているのです。そんなもののどこに福音があるでしょうか?
3.この世と調子を合わせないためには、自分の大きな決断が必要になります。孤独を味わうこともあるかも知れません。でも神様を知らない人生は最悪だとわかれば、この努力も耐えられるのではないでしょうか。心の一新によって自分を変えるのです。

● 子どもに勉強を教えるのに、良い教材だということでビデオ教材を見せても効果がいまいち出なかったそうです。赤ちゃんは動くものに関心がありますから、ビデオの映像にも関心は示し、おとなしく見ていてくれるかも知れませんが、勉強効果が無いそうです。外国語講師がテレビ画面で語りかけるのと全く同じ事をテレビでなく、生で赤ちゃんの前で行うと、全く同じ内容の授業なのに、赤ちゃんの反応は違い、脳の使われ方も全く違ったそうです。生でなければ身につかないのです。つまり赤ちゃんは生のコミュニケーションでしか学ばないということです。

★ 私たちもこの世と調子を合わせず、真に霊的な礼拝、神様をライブで感じるような礼拝を献げようではありませんか。

熱い神の思い

2015-10-12 05:31:17 | 礼拝説教
2015/10/11礼拝説教
【テーマ】  召命
【説教題】 「熱い神の思い」
【聖書箇所】 ローマ11:25-36
  11:25 兄弟たち。私はあなたがたに、ぜひこの奥義を知っていていただきたい。それは、あなたがたが自分で自分を賢いと思うことがないようにするためです。その奥義とは、イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであり、
11:26 こうして、イスラエルはみな救われる、ということです。こう書かれているとおりです。
  「救う者がシオンから出て、
  ヤコブから不敬虔を取り払う。
11:27 これこそ、彼らに与えたわたしの契約である。
  それは、わたしが彼らの罪を取り除く時である。」
11:28 彼らは、福音によれば、あなたがたのゆえに、神に敵対している者ですが、選びによれば、父祖たちのゆえに、愛されている者なのです。
11:29 神の賜物と召命とは変わることがありません。
11:30 ちょうどあなたがたが、かつては神に不従順であったが、今は、彼らの不従順のゆえに、あわれみを受けているのと同様に、
11:31 彼らも、今は不従順になっていますが、それは、あなたがたの受けたあわれみによって、今や、彼ら自身もあわれみを受けるためなのです。
11:32 なぜなら、神は、すべての人をあわれもうとして、すべての人を不従順のうちに閉じ込められたからです。
  11:33 ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。
11:34 なぜなら、だれが主のみこころを知ったのですか。また、だれが主のご計画にあずかったのですか。
11:35 また、だれが、まず主に与えて報いを受けるのですか。
11:36 というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。

○ 神学生になって何度か「私は牧師にふさわしくない。神学校をやめよう」と思って、弓山校長の家に向かいました。その時、いつも心に響いたのが、 11:29 神の賜物と召命とは変わることがありません。 でした。これはユダヤ人に対して言われた言葉ですが、私もこの言葉で励まされたのです。

Ⅰ.神様の愛は深すぎる
A.ユダヤ人は愛されている
1.ある人たちは「新約の時代は異邦人の時代・教会の時代で、もうユダヤ人は関係無い」というようなことを言いましたが、今日のテキストを見ると、パウロは 11:26 こうして、イスラエルはみな救われる、 と言っているのです。神様はユダヤ人を見放してはおられないのです。
2.パウロは面白い言い方をします。 11:28 彼らは、福音によれば、あなたがたのゆえに、神に敵対している者ですが、選びによれば、父祖たちのゆえに、愛されている者なのです。 律法によって生きてきたユダヤ人にとって、イエス様の十字架による救いという福音はあり得ないことになり、敵対関係でした。
3.しかし、そんなユダヤ人もアブラハムの子孫であり、神様の選んだ民族なのです。神様に愛されているのであって、決して見放されてはいません。

B.私たちも愛されている
1.では、私たちはどうなのでしょうか? 異邦人ですから、選ばれた民ではありません。しかし、私たちも神様に愛されています。それはユダヤ人が特別に選ばれた理由を考えればわかります。全ての人を救うために神様は神様と神様のお考えを教えるためにユダヤ人を選ばれたのです。つまり、私たちを救うためにユダヤ人を用意してくださったわけです。
2.ところが、ユダヤ人までもが不信仰に陥ったのです。このままでは、またノアの大洪水のようなことが起こるところでしたが、神様は二度とそういうことは行わないと約束されたので、少数でも信仰を持ち続けている者を用いてくださいました。
3.それによって私たちのところにまで福音が届いたのです。そして、その福音は「イエス様を信じることで救われる」というものですから、異邦人は信じて救われたのです。

C.賜物が与えられ、召命がある
1.神の賜物と召命とは変わることがありません。 と、神様が言われたということは、ユダヤ人は神様から賜物をいただいていることですし、その働きのために召されているということで、それは神様がユダヤ人を信じておられるということではないでしょうか。
2.親が子どもを信じるように、神様はユダヤ人を信じておられます。それが愛です。ユダヤ人には神様からの賜物が与えられており、それは消え去りも、取り去られてもいないのです。賜物は信仰と共に働くのです。
3.異邦人も救われたということは、私たち異邦人にも「賜物」が与えられており、神様の「召命」もあるということです。私たちも愛されており、信仰によって「賜物」が与えられているのです。そして、神様の召命もあるのです。

Ⅱ.神様の計画は偉大すぎる
A.疑問だらけの神
1.神様が全知全能だということはほぼ誰もが知っていることです。また、全知全能で無ければ神では無いのです。ただ私たちはその偉大な神を、小さな私たちの頭で理解できる程度に小さくしてしまうのが常です。
2.「神が何でもできるなら、最初から人間を罪を犯さないようにつくるべきだった。なぜ、罪を犯してしまうようにつくったんだ?」とか、「神がいるなら戦争なんて起こるはずが無い」とか、「神がいるならどうして格差、差別がおこるようなことをしたんだ」とかいう疑問は昔から消えることがありません。
3.それは神様のことを知らないから出てくる言葉です。しかし、神様を理解できる人もいないので、こうした疑問が続くのも仕方が無いと思います。また、こうした疑問に答えることのできる人が果たしているのでしょうか?

B.あわれみ深い神
1.11:30 ちょうどあなたがたが、かつては神に不従順であったが、今は、彼らの不従順のゆえに、あわれみを受けているのと同様に、 とありますように、「不従順」という良くないことを引き起こしてしまったユダヤ人ですが、それによって神様は私たち異邦人をあわれむことにされました。
2.これはあわれみですから、異邦人が神様の基準に達したので、救われたというわけではありません。ユダヤ人から異邦人に神様が愛の乗り換えをなさったのでもありません。異邦人はやはり、全く基準外でした。しかし、異邦人はイエス様を信じたのです。
3.前にパウロが異邦人クリスチャンに「誇ってはならない」と言いましたが、確かに誇れるようなことは何も無いのです。ただ、一方的な神のあわれみだったのです。

C.愛だらけの神
1.今日のキー聖句である 11:29 神の賜物と召命とは変わることがありません。 は、ユダヤ人が不従順(不信仰)になろうが、神様の愛は全く変わらないことを意味しています。
2.神様は不従順になったユダヤ人も、不従順だった異邦人も共に愛し続けておられたのです。「わが子だから」という親のように、信じて、見捨てはされなかったのです。

● 最初に私のことを言いましたが、こんな私に 神の賜物と召命 といったものがあるのでしょうか? 弓山喜代馬校長の家に向かう時にこの御言葉が私の心に迫ったのですが、その時の私には、私にどんな「賜物」があるのかはわかっていませんでした。いや、未だにわかっていない気がします。しかし、あの時「召命」はわかったのです。「確かに間違い無く、神様は私を牧師として召しておられる」ということです。私は 11:33 ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。 の御言葉をそのまま感じます。

★ 神様は、イエス様を信じるあなたにも間違い無く「賜物」を与え、神様の働きのために召しておられるのです。

あなたの目は明るいですか?

2015-10-05 06:44:48 | 礼拝説教
2015/10/4WS礼拝説教
【テーマ】  イエス様を迎える健全な心
【説教題】 「あなたの目は明るいですか?」
【聖書箇所】 マタイ6:22-24
6:22 からだのあかりは目です。それで、もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るいが、
6:23 もし、目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう。それなら、もしあなたのうちの光が暗ければ、その暗さはどんなでしょう。
6:24 だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。

○ 「目は口ほどにものを言う」「目から鱗が落ちる」「目は心の鏡」等と「目」がつくことわざがあります。物言わぬ目がそれだけで十分語っていたり、目を見てその人の心が見抜けたりすることがあるわけです。イエス様も「目」は心の奥底を映し出していると言われています。

Ⅰ.健全な目が必要
A.清い目
1.目は心の窓です。実際、悪いことを考えている人の目が澄んでいて美しいことは無いと言います。私も教師時代、生徒の目を見て、「この子は何か問題をかかえている」とかいくらかわかるようになったものです。
2.ですから、澄んだ目をしている人はその心が清いのでしょう。前に世界一幸せな国はブータンらしいということでその話もしましたが、取材に行った方が、「ブータンの子どもたちの目は澄んでいた。日本の子どもたちの目は生き生きとしていない」と言っていました。
3.しかし、本当に清い目は、聖いお方がその心の王座にしっかりとお座りになっている人が持つことができます。心の王座に誰が座るかで人生は決まります。

B.清い心が欲しい
1.私は目が悪いです。少し前の検査で、右目は裸眼視力0.03でした。前が0.01だったので、「少し上がりましたね」と言われたものの、すごく嬉しいとは言えません。矯正すると0.6まで上がったので、これも前より少し上がったみたいです。
2.目が悪いと正しいものがわからないのです。私の目はちょっと特殊な目で、ひどい乱視と言った方がよいのかも知れません。あるはずの線が見えなかったり、無い影が見えたり、満月がドーナツに見えたり、正しくものを見ていないので困りものです。
3、それ以上に心の目が気になります。多くの人の心の目は悪くなっていると思うのです。お金自体は何もできない紙切れなのに、それが何でもできるように思ってしまう。まさに「お金は神様です」になっており、正しいことが見えなくなっているのです。お金に目がくらむと人間はどんどんダメになります。人間にとって何が最も大事なのかが見えなくなっていくのです。ですから、お金を持っても持ってももっと欲しいと思うのです。

Ⅱ.心の主人によって生き方が決まる
A.人のために生きる
1.なぜ、私たちは勉強するのでしょうか? 知識を増やして、自分はじめ、他の多くの人の役に立つことをするためです。自分の利益だけのために生きていると最終的に虚しくなります。
2.「テルマエロマエ」の映画の漫画原作者ヤマザキマリさんはローマなど海外に住んだことで色々な教養を身につけられたそうです。そこで、「世界平和を望むと口で言うのは簡単だけど、本当に望むなら教養から固めていくことが肝心」と言われていました。「教養」が大切だと。
3.リコーの創立者、市村清さんは「もうける商売ともうかる商売」ということを言っています。儲けよう儲けようと思ってする商売、儲けることを目的とした商売ではいけない、人を喜ばせよう、社会が明るくなるような仕事をしようと努力することによって、その結果気がついたら儲かっていたという商売で無ければ長続きしないと言うのです。松下幸之助さんも同じような精神でした。

B.何を心に取り込むか
1.私たちは脳に入っていない情報で考えること、動くことは無いのです。勉強するということは、より正しい考えを持ち、より良い行動がとれる人間になるためにしているのです。ですから、悪い情報がいっぱい入り込めば、悪い考え、悪い行動になります。反対に良い情報がいっぱい入っていれば、良い考え、良い行動になるのです。
2.そのように、心の王座に誰がいるのかで人の目は変わるのです。私たちの心の王座に誰を置くか、それが人生を左右するのです。つまり、心の王座に置くものによって私たちは支配され、私たちはそれに仕えることになるからです。
3.しかも、主人は一人なのです。何人もの主人に仕えることは出来ないのです。 6:24 だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。 とあるとおりです。神様に仕えるか、お金に仕えるか?

C.美しい心を
1.もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るい とありますが、心の中にあるものが目に現れるとしたら、心が悪ければ、目に出るだけで無く、その行動も当然悪い行動を共にするわけです。まさに目が暗ければ全身が暗いということです。
2.恋人、あるいは伴侶を選ぶとき、美人(ハンサム)だけれど心の汚い人を選ぶでしょうか? 心の美しい人を選ぶはずです。誰もが意識すべきは心の美しい人になることです。
3.人は心の美しい人になりたい、心が明るい人になりたいのではないでしょうか。それが心の王座をイエス様に明け渡すことでできるのです。

Ⅲ.目は受け入れる
A.良いものを見つめること
1.心の中にあるものが目に現れ、外に出てくると言ってきましたが、心の中に迎えるのも目です。 もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るい とは、健全な目は良いものを見るのです。そして良いものを取り込むのです。
2.人は見続けるもの、聞き続けるものが心に蓄えられ、結果それが出てくるのです。イエス様を見続けることが大事なのです。
3.赤ちゃんはお母さんを見つめます。そして、お母さんの笑顔をまねるというのです。赤ちゃんにとって良いものはお母さんの笑顔なのです。それさえ見ていればよいと言われます。

B.人を明るくするイエス様
1.赤ちゃんがお母さんの笑顔をまねるように、私たちもイエス様を見つめて生きるとイエス様のようになるというわけです。イエス様は「世界の光」ですから、イエス様を心に受け入れることは、私たちの心に真の光が点るのです。
2. もしあなたのうちの光が暗ければ、その暗さはどんなでしょう と、イエス様無しの心は暗いのです。イエス様は真の光ですから、私たち自身を明るくします。
3.知識だけでは人は変わり切りません。「愛」が人を動かす原動力です。イエス様を知るというのは単に知識を得ることではありません。イエス様は今も生きて、私たちを愛しておられるのです。その現実の神の愛を得るわけです。平安の王、イエス様は私たちの心を平安にし、人に対して愛を生み出すのです。

★ あなたの目は心の王座に誰を置いているかで決まります。美しい目であることを!