2014/4/27礼拝説教
【テーマ】 キリストに留まる
【説教題】 「キリストと共に生きる人」
【聖書箇所】 ローマ6:8-11
6:8 もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。
6:9 キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配しないことを、私たちは知っています。
6:10 なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。
6:11 このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。
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○ 先週は幸いなイースター礼拝とイースターフェスタを持つことができました。感謝です。イエス様は今も生きておられるのです。信じますか?
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Ⅰ.キリストと共に死んだ
A.信じる
1.今日のテキストの最初には もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。 とあります。「信じます」という言葉は私たちクリスチャンは普通に使う言葉ですが、往々にして「信じる」というのは見たり触ったりできないものが確かにあると「信じる」わけです。ですから、五感に頼る人、現実主義の方達には、こういう見えない、科学的な実験で証明されないものを「信じる」ということを嫌われます。
2.では、クリスチャンはどのように信じているのでしょうか? キリストと共に死んだと言いながら現実には生きているわけです。では何が死んだのか? あのイエス様の十字架でキリストと共に死んだものは何でしょうか? 「自我」です。罪をもった自我が死んだのです。
3. キリストとともに死んだ ということはパウロもローマ教会のクリスチャンたちも共に事実として受け止めていることでした。ですから、まだ自分の復活は体験してはいないけれども、イエス様の復活の事実の上に キリストとともに生きることにもなる と信じるのです。
B.死ななければ実は結ばない
1.ニコデモが晩年になって人生に悩みました。ユダヤの人々を教えてきたものの、自分が世を去る日が近づき心配になってきたのです。「私は死んだらどうなるのだろう?(どこに行くのだろう?)」と。彼は神様を信じていますが、イエス様の救いをまだ知らないのです。だから、悩むのです。
2.そんなニコデモにイエス様が語られたのが ヨハネ3:3イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」 でした。新しく生まれるというのが、自我に死ぬことです。ニコデモはそういうことがわからず、実際にもう一度生まれなおすことはできないと首をかしげるのです。
3.イエス様は別の箇所でこうも言われています。 ヨハネ12:24 まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。 種の話ですが、死んだような種は地に蒔かれない限り発芽せず、実をつけないのです。私たちは自我に死んで良き地に蒔かれますと豊かな実を結ぶのです。
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Ⅱ.神に対して生きている
A.完全に罪から解放されている
1.9-10節は、イエス様がどのような方かを言い表しています。私たちとは違って、罪にも死にも支配されていない、神に対して生きておられるお方です。このような生き方を私たちにも望んでおられるのです。
2.そのために必要だったのが、身代わりの死「十字架」だったのです。 ガラテヤ2:20 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。 と、あるように、私たちは一度限りの十字架の死によって完全に罪から解放されたのです。
B.肉の葛藤
1.また、 ガラテヤ 5:24 キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。 とあるように、クリスチャンの生き方がここに書かれています。自我に死ぬということはこういうことなのです。
2.ところが、十字架につけたはずの 自分の肉 さまざまの情欲や欲望 が、なおもまとわりついてくることに、苦しむのも事実です。それは、罪から解放されて自由になったけれども、私たちが習慣的に身につけてしまったためになかなかこの肉体はそれを離れないからです。
3.クリスチャン生活はこういう肉の葛藤の中にあると言っても良いのかも知れません。そして、それを自分の力で解決しようとすると、あの死んだはずの「自我」が生き生きと活動しようとするのです。自我に生きるのではなく、神に対して生きることを決断することが大事なのです。
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Ⅲ.キリストにあって生きる
A.思いなさい
1.そこで、パウロは 6:11 このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。 というわけです。「思いなさい」と。現実にはなかなか罪の生活、自我の生活から抜け出られないから「自分は救われていないのではないか?」と思ってしまうわけです。しかし、パウロは「思いなさい」と言ったのです。
2.「思いなさい」と8節の「信じる」には大きな開きがあるように思えますが、そうでは無いのです。私たちは新しい霊をいただいたという見えない事実を持ちつつも、現実にはまだこの罪の中で生まれ育った肉体をも持っているという厳然たる現実の中にいるのです。だから、「信じる」ことと「思う」ことの両面は大事なのです。
3.キリスト教は宗教ですから確かに神秘的体験があります。しかし、それだけが強調されると正しい宗教にはなりません。パウロが 思いなさい というように、神秘的体験という見えない霊的な世界と分離すること無く、知性(肉)の分野でも一致していくのがバランスのとれた信仰なのです。
B.信じて歩む
1.「罪に対して死んだ」と思って生きるのと、「まだ罪の中に生きている」と思って生きるのとでは、生き方に大きな差が出ると思いませんか。
2.私たちは見えない世界においては確かに信仰をいただいたのです。その信仰を活発に動かしてくださるのは聖霊です。キリストと共に生きるはこういう人です。
3.自分の努力で救われはしませんが、救っていただいて、信仰をいただき、聖霊がすんでくださっている人(クリスチャン)は、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。 の通り、前向きに信じて進み出すのです。
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● 私たちの周りにもキリストと共に生きた人、生きている人がたくさんおられるのではないでしょうか。不思議な明るさ、笑顔、感謝の言葉が溢れている方です。それは、身動きできない障害を持った方であったり、年老いたご老人であったりします。自我に死んで、キリストと共に生きておられる姿に感動を覚えるのではないでしょうか。
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★ 私たちも、見えないけれど、この今も生きて働いておられるキリストと共に生きていこうではありませんか。