バイブルサロン

礼拝説教、聖書を読んで感じた事

キリストと共に生きる人

2014-04-27 18:36:29 | 礼拝説教

  2014/4/27礼拝説教
【テーマ】  キリストに留まる
【説教題】  「キリストと共に生きる人」
【聖書箇所】 ローマ6:8-11
6:8 もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。
6:9 キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配しないことを、私たちは知っています。
6:10 なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。
6:11 このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。

○ 先週は幸いなイースター礼拝とイースターフェスタを持つことができました。感謝です。イエス様は今も生きておられるのです。信じますか?

Ⅰ.キリストと共に死んだ
  A.信じる
    1.今日のテキストの最初には もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。 とあります。「信じます」という言葉は私たちクリスチャンは普通に使う言葉ですが、往々にして「信じる」というのは見たり触ったりできないものが確かにあると「信じる」わけです。ですから、五感に頼る人、現実主義の方達には、こういう見えない、科学的な実験で証明されないものを「信じる」ということを嫌われます。
    2.では、クリスチャンはどのように信じているのでしょうか? キリストと共に死んだと言いながら現実には生きているわけです。では何が死んだのか? あのイエス様の十字架でキリストと共に死んだものは何でしょうか? 「自我」です。罪をもった自我が死んだのです。
    3. キリストとともに死んだ ということはパウロもローマ教会のクリスチャンたちも共に事実として受け止めていることでした。ですから、まだ自分の復活は体験してはいないけれども、イエス様の復活の事実の上に キリストとともに生きることにもなる と信じるのです。

  B.死ななければ実は結ばない
    1.ニコデモが晩年になって人生に悩みました。ユダヤの人々を教えてきたものの、自分が世を去る日が近づき心配になってきたのです。「私は死んだらどうなるのだろう?(どこに行くのだろう?)」と。彼は神様を信じていますが、イエス様の救いをまだ知らないのです。だから、悩むのです。
    2.そんなニコデモにイエス様が語られたのが ヨハネ3:3イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」 でした。新しく生まれるというのが、自我に死ぬことです。ニコデモはそういうことがわからず、実際にもう一度生まれなおすことはできないと首をかしげるのです。
    3.イエス様は別の箇所でこうも言われています。 ヨハネ12:24 まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。 種の話ですが、死んだような種は地に蒔かれない限り発芽せず、実をつけないのです。私たちは自我に死んで良き地に蒔かれますと豊かな実を結ぶのです。

Ⅱ.神に対して生きている
  A.完全に罪から解放されている
    1.9-10節は、イエス様がどのような方かを言い表しています。私たちとは違って、罪にも死にも支配されていない、神に対して生きておられるお方です。このような生き方を私たちにも望んでおられるのです。
    2.そのために必要だったのが、身代わりの死「十字架」だったのです。 ガラテヤ2:20 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。 と、あるように、私たちは一度限りの十字架の死によって完全に罪から解放されたのです。
   
  B.肉の葛藤
    1.また、 ガラテヤ 5:24 キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。 とあるように、クリスチャンの生き方がここに書かれています。自我に死ぬということはこういうことなのです。
    2.ところが、十字架につけたはずの 自分の肉 さまざまの情欲や欲望 が、なおもまとわりついてくることに、苦しむのも事実です。それは、罪から解放されて自由になったけれども、私たちが習慣的に身につけてしまったためになかなかこの肉体はそれを離れないからです。
    3.クリスチャン生活はこういう肉の葛藤の中にあると言っても良いのかも知れません。そして、それを自分の力で解決しようとすると、あの死んだはずの「自我」が生き生きと活動しようとするのです。自我に生きるのではなく、神に対して生きることを決断することが大事なのです。

Ⅲ.キリストにあって生きる
  A.思いなさい
    1.そこで、パウロは 6:11 このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。 というわけです。「思いなさい」と。現実にはなかなか罪の生活、自我の生活から抜け出られないから「自分は救われていないのではないか?」と思ってしまうわけです。しかし、パウロは「思いなさい」と言ったのです。
    2.「思いなさい」と8節の「信じる」には大きな開きがあるように思えますが、そうでは無いのです。私たちは新しい霊をいただいたという見えない事実を持ちつつも、現実にはまだこの罪の中で生まれ育った肉体をも持っているという厳然たる現実の中にいるのです。だから、「信じる」ことと「思う」ことの両面は大事なのです。
    3.キリスト教は宗教ですから確かに神秘的体験があります。しかし、それだけが強調されると正しい宗教にはなりません。パウロが 思いなさい というように、神秘的体験という見えない霊的な世界と分離すること無く、知性(肉)の分野でも一致していくのがバランスのとれた信仰なのです。
   
  B.信じて歩む
    1.「罪に対して死んだ」と思って生きるのと、「まだ罪の中に生きている」と思って生きるのとでは、生き方に大きな差が出ると思いませんか。
    2.私たちは見えない世界においては確かに信仰をいただいたのです。その信仰を活発に動かしてくださるのは聖霊です。キリストと共に生きるはこういう人です。
    3.自分の努力で救われはしませんが、救っていただいて、信仰をいただき、聖霊がすんでくださっている人(クリスチャン)は、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。 の通り、前向きに信じて進み出すのです。

● 私たちの周りにもキリストと共に生きた人、生きている人がたくさんおられるのではないでしょうか。不思議な明るさ、笑顔、感謝の言葉が溢れている方です。それは、身動きできない障害を持った方であったり、年老いたご老人であったりします。自我に死んで、キリストと共に生きておられる姿に感動を覚えるのではないでしょうか。

★ 私たちも、見えないけれど、この今も生きて働いておられるキリストと共に生きていこうではありませんか。


よみがえりの主と出会う!(岡山志伸師)

2014-04-21 07:02:14 | 礼拝説教

2014/4/20 イースター礼拝説教

■ テーマ:イースターの恵み
■ 説教題:よみがえりの主と出会う!
■ 聖書箇所:マタイ28:1~10

28:1 さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方、マグダラのマリヤと、ほかのマリヤが墓を見に来た。
28:2 すると、大きな地震が起こった。それは、主の使いが天から降りて来て、石をわきへころがして、その上にすわったからである。
28:3 その顔は、いなずまのように輝き、その衣は雪のように白かった。
28:4 番兵たちは、御使いを見て恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。
28:5 すると、御使いは女たちに言った。「恐れてはいけません。あなたがたが十字架につけられたイエスを捜しているのを、私は知っています。
28:6 ここにはおられません。前から言っておられたように、よみがえられたからです。来て、納めてあった場所を見てごらんなさい。
28:7 ですから急いで行って、お弟子たちにこのことを知らせなさい。イエスが死人の中からよみがえられたこと、そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれ、あなたがたは、そこで、お会いできるということです。では、これだけはお伝えしました。」
28:8 そこで、彼女たちは、恐ろしくはあったが大喜びで、急いで墓を離れ、弟子たちに知らせに走って行った。
28:9 すると、イエスが彼女たちに出会って、「おはよう」と言われた。彼女たちは近寄って御足を抱いてイエスを拝んだ。
28:10 すると、イエスは言われた。「恐れてはいけません。行って、わたしの兄弟たちに、ガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会えるのです。」

<はじめに>
今日は、イエス様が死からよみがえったことを感謝し、喜ぶイースターです。日本におきましては、キリスト教と言えば、クリスマスが真っ先に有名ですが、イエス・キリストが死よりよみがえったことを記念するこのイースターも、クリスマスと同じくらい大切な行事の一つです。日本ではイースターと聞くと、「一体それは何でしょうか?」というものでしょう。私も中学の時にある曲名に「イースター」という言葉が使われていて、「イースター」って何かな?と思って辞書で調べました。すると「イースター=復活祭」と出ていました。それ以上深く調べなかった私は、復活のお祭りって何?何が?誰が復活するの?「復活」という言葉が何となく心の中にずっと疑問としてありましたが、クリスチャンになって、その大切な意味がようやく分かりました。

<Ⅰ 日曜日の朝の出来事>
1. 墓へ向かう女たち
(28:1)イエス様が十字架に架けられたその日は金曜日でした。午後3時ごろに息を引き取られ、アリマタヤのヨセフが遺体を取り降ろしたのはすでに午後5時近くだったと言われます。ヨセフはイエス様の遺体に香料、没薬を一緒に亜麻布を巻いたのですが、葬りの処置を十分できないまま急いで墓に葬ったようです。律法の規定では人を葬る時にはその日のうちに、つまり、日没までに葬らなければならなかったようです。(申命記21章22-23節参照)
二人のマリヤが墓を見に来ています。二人は、イエスが十字架につけられているのを見ました。彼女たちは、献身的でイエスがたどられた道のそばにすべて付いて来て、この朝は、墓を見に来ました。

2.墓で起こった出来事
 (28:2~4)マリヤたちは、安息日が終わった日曜日の朝、イエス様を葬ったお墓に行きますが、その時、突然、地震が起き、天の使いが降りてきて、墓の入り口をふさいでいた大きな石を転がしたのです。天使の神々しい姿を「その顔は、いなずまのように輝き、その衣は雪のように白かった。」と記しています。御使いは、主の力だけではなく、主の栄光も反映しています。その天使を見て、番兵たちは「恐ろしさのあまり、死人のようになった」とあります。天使を見たのはこの女たちにとっても人生はじめての経験だったことでしょう。番兵たちと同じように震え恐れました。しかし、天使がマリヤたちに告げた言葉は素晴らしい良き知らせであり、人間理解を超えた驚くべき事でした。

<Ⅱ 空っぽの墓>
1.天使による空の墓の告知 
(28:5~6)ルカ24:5には、「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。」とあります。「ここにはおられません。」お墓の中には、遺体はない!と言うのです。御使いの言った通り、墓の中は空っぽでした。イエス様の遺体は、ローマ兵が配置され、厳重に見張られていました。弟子たちがやってきて運び出すかもしれないからという訳です。(マタイ27:64~66)こんなに厳重であったのに、葬られた主イエスの遺体はどこにも見当たりません。残されていたのはイエス様の遺体に巻いてあった亜麻布だけでした。イスラエルに行ったとき、イエス様の遺体が収められたかもしれないという園の墓というところに行ってきました。このお墓の扉には「HE IS NOT HEAR. FOR HE IS RISEN.」と、英語で書かれています。(彼はここにはいない。なぜなら彼はよみがえったからである)という意味です。私はこれを聞いたとき、すごく感動しました。多くの観光客が、イエス様のお墓を見に来るのですが、遺体の骨は、安置されていないのです。
また、天使のよる御告げは重要です。天使の告知の場面は聖書の中で数箇所ありますが、大変重要な場面で天使は登場しています。イエス様がお生まれになる時に、マリヤにガブリエルが登場して救い主の生まれる良き訪れを告げました。天使は、天から使者です。天とこの地を繋げる役割を持つのです。この地に天の良き訪れがもたらされる時の彼らの告知は、全地を喜びで満たします。

2.キリストの復活預言
イエス様の復活は、何も知らされずにこの時に起こったわけではありません。実は、弟子たちに前もって語られていたのです。イエス様ご自身が受けられる十字架の死と、よみがえりを預言されました。しかし、ここに来た女たちも弟子たちも、皆、この復活の預言を理解することは出来ませんでした。(マタイ20:19)望んで残酷な処刑法であった十字架に架かる人はいません。イエス様が、キリスト(救い主)であるからこそ、「十字架に架かり、よみがえる」と預言することが出来たのです。イエス様に関することは、旧約聖書でも誕生について、十字架の死について預言されています。いかに神様が人類にキリストにおける私たちへの愛と恵みを伝えたいかがよく分かります。イエス様に関するいっさいの出来事は神様の私たちへの愛を示すものです。復活も愛故です。私たちを滅びへと引き渡したくないのです。
「空っぽのお墓」、イエス様のお墓が空っぽであるということは、大切な意味を含んでいると思います。「空っぽ」という言葉を聞くと、世の中のイメージは、空虚で空しいものです。しかし、今日のこのイエス様の遺体はないという「空っぽ」には、空虚さはありません。むしろ「空っぽの墓」と聞くと心が神の御思いで満たされてくるような感じがあります。「イエス様の痛いなき空っぽの墓」、そこには、何もないように見えても、神の愛があります。神の臨在を感じます。神様は私たちを霊的な墓へと送りこみたくない方です。永遠に命ある者とされたいのです。

<Ⅲ よみがえりの主!>
1.イエス様はよみがえられた!
天使による「空っぽのお墓」の告知、それは、キリストの遺体がないと事の宣言であり、それは、「イエス・キリストのよみがえり」の宣言でした。6節には、「ここにはおられません。前から言っておられたように、よみがえられたからです。」と天使が現れて語ります。イエス様が遺体からよみがえったシーンそのものは、聖書には書かれていません。身体は元のような状態でしょうか?イエスの身体は以前の肉的な身体ではなく、霊的な身体であったと言われます、しかし、明らかに身体をもっておられましたので、イエスは人間の姿をとって復活されたことが分かります。ルカ24:41~43には、食事をするお姿があります。イエス様は幽霊でもなく、これは現実だというわけです。
 
2.現れたイエス様!
 さて、驚きつつもマリヤたちは、御使いのことばを聞いて、喜びで満たされ始めました。死んだイエスがよみがえったことを、彼女は信じることが出来たのです。イエス様は確かに、「三日目によみがえる、そう仰っていた!」思い出してきました。そして、そんなマリヤたちの前にとうとうイエス様が現れます。(28:9)御使いの次は、イエスご自身が復活の証しをされています。「おはよう。」という言葉は、「喜びなさい。」と言い換えられます。イエス様は、その事実を心いっぱい受け止めてほしかったのです。死んでいたと思っていた人が生きていた!どれほどの驚きと喜びでしょうか?私も近くの薬局のご主人が長い間、姿を見せなかったので勝手に、病気で亡くなられたのかもしれないと思い込んでいたことがありましたが、その薬局で10年ぶりくらいにこのご主人の姿を見て、驚きと良かった~という気持ちでいっぱいになりました。この女たちは、それ以上の喜びだったことでしょう。主にお会いした女たちは、近寄って御足を抱いてイエス様を礼拝しました。ただイエス様のそばにいたかったのです。そして大事なのは、イエスのよみがえリに対する彼女たちの最初の応答が、礼拝でした。イエス様は、礼拝を受けるにふさわしい王キリストであります。また、弟子たちも天使やイエス様の言葉通り、ガリラヤでイエス様にお会いすることが出来ました。(マタイ28:16~17)彼らはこうして生きた主にもう一度お会いし、多くの人々に伝える力を得ました。教会がイエス様を伝えられるのは、ここからなのです。

<Ⅳ 復活の主と出会おう!>
1.復活の主の喜びと力
 皆さんは、このマリヤや弟子たちのように、よみがえった実際のイエス様にお会いしてはいないでしょう。しかし、私たちは今も生きておられるイエス様にお会いすることが出来るのです。どうやって?この聖書を通してお会いすることが出来ます。また、クリスチャンたちの証言によってもお会いすることが出来るのです。聖書の中の人物たちは、よみがえられたイエス様とお会いして、燃えるような思いを頂きました。大きな喜びと力を頂いたのです。彼らはよみがえられたイエス様を証ししました。イエス様と会ったという、多くの証言を残したのです。それが、この聖書でもあるのです。聖書を読んでいくと、神のいのちに触れて心に喜びや力がきます。その時、私たちは生ける神とお会いしているのです。マリヤたちは生けるキリストご自信に本当に会いました。本当の意味においてイエス様にお会いすることが大切です。その時、人は変えられるからです。

2.主の復活は、人類の希望!
 イエス様が生きておられるこの希望はこの地に住む全ての人への希望です。①イエス・キリストがよみがえられたなら、私たちには、今も生きておられる救い主がいるのです。もしも、キリストがよみがえらなかったなら、私たちには罪の赦しと救いがありません。②イエス・キリストがよみがえられたなら、私たちも死んだ後によみがえりがあるのです。それは天国と再臨の時の希望です。もし、キリストがよみがえらなかったなら、私たちのよみがえりもありません。天国へ行く希望はないということです。死んで葬られてそれで終わりのむなしい人生です。イエス様は、罪と死に打ち勝った勝利の主です。
イエス様が、十字架を背負われた受難の時、そして十字架に掛かられた苦しみは、暗黒状態でした。長いトンネルの中に入れられた状態でした。それは、人類にとっても長い長い暗黒の時だったのです。しかし、今や、この暗黒なるトンネルは主の勝利と共に、私たちも一緒に抜け出したということなのです。トンネルから光へと脱出したのです。人類に救いがもたらされ、天国の希望が約束されました。


  
<結び>
 イエス様は、「わたしはよみがえりであり、いのちです。」(ヨハネ11:1~44)と言われました。罪と死を滅ぼされた勝利の主であります。十字架の受難を歩まれた主は、今や主ご自信の栄光に包まれ、また私たちへの愛を永遠に示されるためによみがえられました。キリストの復活は過去の出来事ではなく今、この時代においてもよみがえりの主として、私たちと共におられます。「まだイエス様にお会いしていません」そう仰る方は、ぜひとも聖書を通して、クリスチャンたちを通して、生けるキリストにお会いして下さい。よみがえりの主の素晴らしい喜びに満たされて頂きたいと思います。


キリストと共に葬られた人

2014-04-13 17:57:43 | 礼拝説教

  2014/4/13礼拝説教
【テーマ】  キリストに留まる
【説教題】 「キリストと共に葬られた人」
【聖書箇所】 ローマ6:4-7
6:4 私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。
6:5 もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。
6:6 私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。
6:7 死んでしまった者は、罪から解放されているのです。

○ 今週は受難週です。私たちのためにイエス様が十字架に死んでくださった事を思い起こし、感謝する週でありたいと思います。

Ⅰ.新しい歩みをする人
  A.イエス様は死ぬ体をもたれた
    1.イエス様が十字架で死なれたということは、イエス様の復活を信じない人でも信じてくださる方は多いと思います。イエス様の存在そのものを否定される方もあるようですが・・・イエス様は歴史的にも存在された人物であることと、そのイエス様が十字架で死なれた事は事実という前提でお話しをします。
    2.イエス様は人間としてお生まれになったので、この地上における法則に従って、肉体の死も体験してくださいました。私たちにとっては当たり前の「死」ですが、イエス様にとっては当たり前ではありませんでした。
    3.イエス様は罪を犯されなかったので、死に支配されてはおられなかったからです。ところが敢えてイエス様は死ぬ体をもって私たちのところに来てくださったのです。
   
  B.イエス様と一緒に死に、生きる
    1.前の復習になりますが、 私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。 という言葉は重みがあります。私たちは、死ぬことの無かったはずの方と共に葬られたのです。人は一人で死んで行くのですが、クリスチャンはイエス様と一緒に葬られたのです。
    2.だから、 キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。 と続くように、私たちもイエス様と同じようによみがえる、復活することをも保証しているのです。
    3.今この地上にあっては、復活の体は無いですが、新しい霊をいただいています。滅びない霊です。ですから、この地上にあって、死ぬべき体を持ち、悪しき事を考えてしまう頭を持ちつつも、新しい歩みをすることができるのです。

Ⅱ.理不尽を越えた生き方
  A.全ての人は罪の奴隷
    1.確かに私は罪人です。しかし、自分の意識の中では罪人になろうと努力したわけでも無く、気がついたら罪人であったわけです。そんな私のためにイエス様が「身代わりに十字架にかかってあげたよ」と言われても、自分の知らないところで起こったこと、「元はと言えば罪を犯すようなアダムを造ったのは神様じゃないですか」と言いたくなる自分がいるのです。「イエス様がいくら私を愛してくださっているとはいえ、2000年前に勝手に十字架にかかったんじゃ無いですか」と言いたくなるのです。
    2.しかし、かつて黒人霊歌を聴いて感動した時、彼らが「黒人である」というだけで人間扱いされず、奴隷としてこき使われてきた話に心痛みました。彼らは自分で何か悪いことをしたわけでもなく、ただ黒人として生まれただけです。貧しくとも幸せに暮らしていたのに、突然奴隷にされて過酷な労働を強いられたのです。長い年月、彼らは白人の罪のために苦しめられてきたのです。いくら奴隷解放がなされても黒人差別はなかなか無くなりはしませんでした。奴隷の子どもとして生まれた黒人の子どもはそのまま奴隷の身分なのです。ところが、その彼らが神様を恨みもしないで、神様を信じて、イエス様を愛して多くの賛美を残したことに私は大感動したのです。
    3.私は「私が罪人にされたのはアダムのせいだ」と言っておりましたし、奴隷生活を余儀なくされた黒人のことを思うと、その理不尽さに怒りを覚えたのですが、彼らは奴隷でありながらも神様に感謝の賛美をしていたのです。
   
  B.口を開かないイエス様
    1.イエス様の十字架刑はその当時の権力者たちによって引き起こされた理不尽なものでした。しかし、イエス様がその理不尽さを訴えておられないのです。私は自分が罪人であることはわかっていても、「アダムのせいじゃないか。私が悪いわけでは無い」などと「理不尽だ!」と叫んでいるのに、イエス様は全くそういうことを言わず、十字架を受け入れていらっしゃったのです。それは旧約聖書に預言されていました。  イザヤ53:7 彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。  です。
    2.この御言葉をルカは使徒行伝に引用し、この御言葉を理解できなかったエチオピアの宦官にピリポが解き明かして、宦官は一気にクリスチャンになり洗礼を受けたことが書かれています。イエス様は理不尽さを訴えず、私たちのために黙々と十字架に進まれました。エチオピアの宦官はそのことを知った時、私が黒人奴隷の話で感動した以上に感動し、イエス様を信じたのです。

  C.罪の奴隷からの解放
    1.イエス様は罪をよくよく理解しておられました。私のように「理不尽だ!」と叫び、自分の罪を認めつつも、「罪人」呼ばわりされたくなくて、なんとかちょっとでも「藤井さんは善い人だ」と人々に言われたくて、自分で自分をかばっている人間とは大違いでした。
    2.イエス様はそんな自己中心的な罪人の私のことも理解してくださいました。もちろん、かわいそうな黒人奴隷のこともです。この世は罪に支配されており、どんな善人でも罪人であるわけで、どんなに格好良いことを言ったところで罪は消えません。イエス様はそのことを理解しておられたから、理不尽を訴えずに、人々の罪を解決するために黙々と十字架を目指されたのです。

Ⅲ.罪の奴隷では無くなった
  A.十字架以外に方法は無かった
    1.私は福音書の十字架の場面を読む度に、イエス様が十字架刑で殺されない方法は無かったのだろうかと思ってしまうのです。それはあまりに十字架刑がむごいからです。いや、それだけではありません。そのむごい十字架刑が私のための身代わりだからです。私がイエス様を十字架につけたことになるからです。そんなにも私は悪くないと、思いたいのです。
    2.しかし、私の罪は罪の無いイエス様を十字架で身代わりにしなければ解決しないほど大きなものだったのです。私を罪の奴隷から解放するためにはこれしか無かったのです。
   
  B.イエス様と一体の喜び
    1.奴隷だった黒人の方々もそのことを知って、イエス様に感謝したのです。自分たちが奴隷を味わったことで罪の奴隷の恐ろしさを理解されたのでしょう。罪の奴隷であることをなかなか認めない私と違って、彼らは奴隷の苦しみを知っているのです。それ以上に恐ろしい罪。彼らは罪からの解放を味わったのです。そうです、  6:6 私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています  と。イエス様と共に死ぬことの素晴らしさを知ったのです。
    2.この地上では奴隷の身分であっても、彼らは罪の奴隷では無いことを喜んだのです。イエス様と完全に一緒になっている喜びです。イエス様と一緒に死んだのです。  6:7 死んでしまった者は、罪から解放されているのです。  の通り、彼らは罪から解放されているのです。

★ 私たちはキリストと共に葬られました。ですからキリストと同じ復活のいのちをもいただくのです。それは罪の奴隷では無くなっているからです。


あわれみを受ける人

2014-04-06 18:20:14 | 礼拝説教

                2014/4/6WS礼拝説教
【テーマ】  あわれみ深いイエス
【説教題】 「あわれみを受ける人」
【聖書箇所】 マタイ5:7
5:7 あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるから。

○ あわれみ深い者が幸いなのはわかる気がします。「情けは人のためならず」ということわざがありますが、まさに人にかけた情けは自分に返ってくるというようなイエス様のお言葉です。

Ⅰ.「あわれみ」と「かわいそう」
  A.私はあわれみ深いのか?
    1.「あわれみ」の心というのは、人が普通に育てば、普通に心の中に育ってくるものだと思います。「あわれみ」の心の無い人はないと思います。
    2.ただ、イエス様が言われる「あわれみ深い者」とはどういう人のことなのでしょう。果たして私はどうなのか、あわれみ深いのか、イエス様のお言葉だけに考えてしまいます。。
    3.私は子どもの頃から可哀想な状況に置かれている人のことを思うと心が苦しくなるタイプでした。ですから、クリスチャンになっても「私はあわれみ深い人間だ」と思い上がっていた恥ずかしい人間です。
   
  B.「かわいそう」と思ってよいのか?
    1.私にもあわれみの心はあるかも知れないけれど、病気の人や、障害をお持ちの方を目の前にしても「かわいそう」という気持ちが満ちてくるだけで、その人の為に何かできるかというと、実際のところ何もできないのです。
    2.あわれみ深いというのは確かに「かわいそうに」と思える心を持つことだと思います。ところが、同和教育を受けてきた私は「かわいそう、と思うのは思い上がっているんだ」と言われてきました。ですからいつしか「かわいそう」と思わないように努力していた自分があるのです。
    3.しかし今は、「かわいそう」という気持ちを持つことは大事な事と思っています。そういう気持ちが起こるように神様は人間の心をお造りになっていると思うのです。もちろん、そこで留まらないことも大事なのでしょう。

Ⅱ.イエス様にあわれみを求める人
  A.彼らは実際的なことを求めている
    1.聖書の中であわれみを求めている人がいます。その一人は盲人でした。 ルカ 18:38 彼は大声で、「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください」と言った。 また別のところには マタイ15:22 すると、その地方のカナン人の女が出て来て、叫び声をあげて言った。「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が、ひどく悪霊に取りつかれているのです。」 と、娘のために叫んだ母親です。どちらも「あわれんでください」と叫んでいます。「かわいそうに」と思って欲しいと言っているのでしょうか? いいえ、癒して欲しいのです。
    2.彼らが叫んでいる「あわれんでください」は問題を直に解決して欲しいということなのです。そして、イエス様にはその力があると信じています。もし、私に「あわれんでください」と言って来ても、私には「かわいそうに」と思う心しか無いのです。もちろん心から深く「かわいそうに」と思うでしょう。でも彼らの求める「あわれみ」はそれではないのです。
 
  B.イエス様はあわれんで癒される
    1.重い皮膚病の人が癒しを求めたところではこう書いてあります。 マルコ1:40-42 さて、ツァラアトに冒された人がイエスのみもとにお願いに来て、ひざまずいて言った。「お心一つで、私をきよくしていただけます。」 イエスは深くあわれみ、手を伸ばして、彼にさわって言われた。「わたしの心だ。きよくなれ。」  すると、すぐに、そのツァラアトが消えて、その人はきよくなった。 と。イエス様は深くあわれみ、病気を癒されるのです。
    2.あの 「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください」 と叫んだ盲人も 「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が、ひどく悪霊に取りつかれているのです。」 と叫んだカナン人の悪霊につかれた娘も癒されました。彼ら、あわれみを求めた人達はイエス様によって癒されました。あわれみを受けたのです。
   
  C.あわれみを受ける者はあわれみ深いか?
    1.では、今日のテキストに当てはめて考えてみましょう。 あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるから。 なのですから、このイエス様からあわれみを受けた人達は あわれみ深い者 だったのでしょうか?
    2.あわれみを受けたから、その人達があわれみ深いとは限らないでしょう。ルカの福音書17章に出てくる10人のツァラアトに冒された人、全員癒されましたが、イエス様のところにお礼を言いに来たのは一人でした。イエス様は彼らが(私たちが)まだあわれみ深く無くてもあわれんでくださるお方です。ですからなおさら、あわれみ深い人は、あわれみを受けるのです。

Ⅲ.神のあわれみを受ける人
  A.イエス様があわれむ人々とは・・・
    1.イエス様の「あわれみ」の心は単に「病気でかわいそう、治してあげよう」というだけのものではありません。 マルコ 6:34 イエスは、舟から上がられると、多くの群衆をご覧になった。そして彼らが羊飼いのいない羊のようであるのを深くあわれみ、いろいろと教え始められた。 とありますように、宗教的な部分に焦点を合わせておられます。
    2.人間は魂の幸福を得ない限りは、いくら病気が治り、金銭問題や、人間関係のトラブルが解決しても、真に幸福にはなれないし、真の満足も得られないのです。
    3.イエス様があわれまれているのはここです。「かわいそうに」ではすませられない、永遠の問題です。人々の心が「愛」に飢えていることにあわれみを感じられたのです。そして、神様の愛を語られたのです。
   
  B.私たちにもできることがある
    1.私はイエス様のようにあわれみをもって病気を癒すことはできません。そんな私にも、イエス様のお言葉 ルカ6:36 あなたがたの天の父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くしなさい。 は、心に響きます。
    2.私には病気を癒すこととか、金銭的に援助することはできませんが、「福音」を伝える事ならできます。イエス様が あわれみ深くしなさい。 と言われた中心は、魂の平安を得ていない人達に「福音」を伝える事です。
    3.そして、イエス様は私たちが福音を伝える時、イエス様ご自身はそこにおられますから、イエス様ご自身が、癒しを行われたり、問題の解決を与えたりなさることがあります。私にはできないけれどもイエス様にはできるからです。
   
  C.あわれみを受ける
    1.イエス様は、何もできなくて、使徒行伝を開き「イエス様、使徒たちも癒したではないですか。私も祈れば癒されるようにしてください!」と訴えるクリスチャンの祈りをよく知っておられます。自分の事では無いのに必死でその人のために祈っているではありませんか。
    2.イエス様はそのような無力極まりない人達をもあわれんでくださるお方です。かれらの「あわれみ深さ」を知っておられるのです。そして、その人たちに その人たちはあわれみを受けるから。 と言ってくださるのです。
   
● 

★ 人の魂のことを深く思う人が神様から見すてられるはずがありません。何もできなくてもあわれみ深い心は神様に喜ばれており、その人自身が神様のあわれみを受けます。