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礼拝説教、聖書を読んで感じた事

すべてを益とされる神

2014-10-26 18:03:02 | 礼拝説教
2014/10/26礼拝説教
【テーマ】  神の計画
【説教題】 「すべてを益とされる神」
【聖書箇所】 ローマ8:28
  8:28 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。

○ 今日はオータムフェスタの日となりました。礼拝後、バタバタすると思いますが、この礼拝の時間は心静めましょう。
そして、クリスマスまで2ヶ月を切りました。一番最初に行うクリスマス会、エンジェルクリスマスは12月5日なので、後41日です。

Ⅰ.神様はあなたのために準備しておられる
A.私たちの知らないところで準備が進んでいる
1.世界で一番最初のクリスマスの時(今から2000年前のクリスマス、つまりイエス様がお生まれになった時)まで後2ヶ月という時、人々はどうしていたのでしょうか?
2.東京では6年後の東京オリンピックのために、私たちの知るところ、知らないところでどんどん準備がなされています。会場準備、交通網の整備、宿泊施設の準備等々です。一般人にはあまりわからなくても多くの関係者が6年後の完成のために働いておられます。
3.50年前の東京オリンピックの年、1964年10月1日に新幹線が開業しました。その時私は小学4年生でした。テレビで新幹線とオリンピックを観て感動したのです。あの新幹線が長い年月かけて開発されたことは、皆さんもテレビや新聞などの情報でご存知のことと思います。しかし、私は9歳の時にテレビで観て初めて知ったのです。高槻に新幹線の線路があるので、友達と見に行ったことがありますが、そのスピードに一同「わーお!」と驚き、感動したのが昨日のようです。
4.私たちの知らないところで関係者は多大な労力をかけて準備してくださっているのです。ましてや、世界の救い主・イエス様の誕生となると、人々が知らなくても、神様はきっちりと準備してくださったのです。

B.その日、真の感動をいただく
1.イエス様の誕生前、後2ヶ月といえども誰もクリスマスの準備をしていなかったのです。むしろ、皇帝アウグストから出された「住民登録をせよ」という勅令の方が大変で、マリヤのお腹の中にすくすくと育っているイエス様のことなど誰も知りませんでした。
2.そしてクリスマスの日、イエス様は普通の家ではなく家畜小屋で誕生されたのです。最初の礼拝者は貧しい羊飼いたちでした。多くの人々は羊飼いの話を聞いてもいまいち理解しませんでした。今でも多くの人々はクリスマスは単なる祝日くらいの考えです。
3.私はといえば、あの見て感動した新幹線に乗った時、見ていただけとは違って更なる感動を覚えたのです。そして、18歳でクリスチャンになった時、知識で知っていたイエス・キリストに新幹線に乗り込んだ時以上の感動を覚えたのです。神様は私のためにずっと昔から準備してくださっていたのです。

Ⅱ.神様は私たちに失敗を認めない
A.失敗さえ益となることがある
1.人生の中にはどうにもならないと思われること、もう自分自身が消えてしまいたいと思った人も多々あることと思います。自分の力ではどうしようも無いと思えることや、自分だけが神様から悪くされていると思えるようなこともあると思います。また、自分では自信と希望をもって事を始めたのに、その結果が大失敗と思えることもあります。
2.ところが、その失敗がむしろよい結果をもたらしたというケースも多々あります。青色発光ダイオードをはじめ、科学の世界では失敗から発明されたものは数え切れないほどあるようです。つまり、失敗さえムダで無かったわけです。
3.同じく私たちの人生も失敗だったと思えても、その後にそのことが役に立つことが多々あるのです。というか、失敗で終わらせないお方が助けてくださるのです。神様です。

B.絶望が真の希望に変わる
1.今日お読みした聖書の言葉は多くのクリスチャンが好きな言葉の一つです。 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。
2.イエス様は成人されてその働きはユダヤの貧しい人達に大変喜ばれました。イエス様の教えを聞くだけで心が平安になり、希望が湧いてくるのです。ところがそのイエス様が十字架で殺された時、多くのユダヤ人は悲しみ、絶望し、すべては終わったと思ったのです。
3.ところがこの十字架には神様の大いなる計画があったことを人々は知りませんでした。イエス様の誕生だけが神様の計画であったのではなく、十字架も大事な計画でした。私たちが賛美・ゴスペルを歌えるのは、まさにイエス様の十字架のお陰です。なぜならイエス様の十字架は、すべての人の罪を赦すための私たちの身代わりの死だったからです。これ無しには誰一人救われず、心に大いなる喜びもなかったのです。
4.イエス様の十字架の死という大失敗とも思えることが、すべての人にとって益となるものだったのです。イエス様に働かれた神様はあなたにも同様に働いてくださっています。失敗と思える人生であってもその失敗さえ益としてくださるのが神です。

● クリスチャンで無かったごある子どもがなかなか与えられなかった夫婦に女の子が誕生しました。大喜びで幸せに暮らしておられたその家庭に悲劇が襲いました。その女の子が2歳の時、当時日本で2例目という難病で昏睡状態に入ってしまいました。私はお祈りに行きました。「宗教は嫌だ」と言っておられたのですが、聞いてくださいました。しかし、1週間後その女の子は亡くなりました。最悪です。私は神様に「なぜ、この子を死なせたんですか!」と怒りの祈りをしていました。その矢先、その子のお父さんから電話が入り、「キリスト教で葬儀をしていただけますでしょうか?」と言ってお出でになったのです。小さな棺の花で飾られたきれいな葬儀でした。葬儀後、このご夫婦は教会に来られました。辛い、悲しい気持ちは消えませんが、お二人は聖書を学ぶうちにクリスチャンになり、洗礼も受けられました。今も悲しみはあるようです。しかし、「この子が、私たちをイエス様に導いてくれたんですね」という言葉は私に新幹線に乗ったどころの感動では無い感動をいただきました。 神がすべてのことを働かせて益としてくださる のです。

★ あなたの人生も神様の綿密な計画と準備の中で守られているのです。気づかないまま通り過ぎないでいただきたいです。あなたの人生にムダは無いのです。あなたも神様に愛されています。イエス様という天国への信仰幹線「のぞみ」に乗り込みませんか。
 

うめく神様

2014-10-19 16:25:13 | 礼拝説教
2014/10/19礼拝説教
【テーマ】  聖霊の働き・とりなし
【説教題】 「うめく神様」
【聖書箇所】 ローマ8:26
  8:26 御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。

○ 皆さんはうめいたことはありますか? 私は椎間板ヘルニアで本当にぶっ倒れた時、うめきました。言葉にならない、叫びというわけでも無い、しかし、とても強くこみ上げてくるものですね。では、うめく祈りをしたことはいかがですか?

Ⅰ.助けてくださる聖霊
A.聖霊もうめく
1.この前のところでは、被造物がうめき、私たちがうめきながら救いの完成を待ち望んでいることを見てきました。今日のテキストには聖霊がうめかれることが書かれています。
2.私たちがうめくのはわかりますが、神様である聖霊がうめかれるとは考えにくいことではないでしょうか。もちろん比喩的表現なのでしょうけれど、そういう表現以上に私たちのことを思って、真にうめくほどの愛をもっておられるということです。

B.聖霊は助け主
1.御霊も同じようにして と、25節、あるいはその前からの話に続けて私たちを助けてくださる神様の働きがあります。「完成を忍耐をもって待ち望んでいる私たち」ですが、待ち望むにはかなりの力が必要です。それを神様は私たちに与えた信仰によって助けてくださっています。
2.また、その救いの保証として聖霊が与えられています。聖霊は 弱い私たちを助けてくださ るというのです。私たちは弱いのでしょうか? 強いと思っている人も中にはいらっしゃるでしょう。しかし、ここまでのパウロの言い方から見てくると、私たちは善を積極的に行うことができなかったり、悪の誘惑に負けてしまったり、人を赦せない、愛せないという弱いものです。
3.聖霊はそういう弱さの中に生きる私たちを助けてくださる「助け主」です。

C.聖霊のお手伝い
1.助けてくださいます と言うこの言葉はギリシャ語では三つの言葉がくっついてできています。(シュナンティラムバネタイ シュン+アンティ+ラムバノマイ)「いっしょ」「代わって」「取り上げる」です。
2.この言葉は聖書ではもう一カ所だけでてくるそうです。それはルカ10:40 ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」 の 手伝いをするように がそれです。
3.この意味を当てはめてみますと、「弱い私たちの手伝いをしてくださいます」という訳になるのではないでしょうか。聖霊が弱い私たちと、一緒になって、私たちに代わりとなって手伝ってくださるのです。

Ⅱ.とりなしてくださる聖霊
A.どう祈ってよいかわからない
1.私たちは、どのように祈ったらよいかわからない というような祈りにおいてもどう祈ってよいかわからないような弱い存在です。「祈りは、神様に思っているまま語りかければいいんだよ」と言われたりしますが、その思っていることが何かさえわからないことがあります。
2.イエス様の弟子たちがイエス様に祈りを教えてくださいとお願いしました。 ルカ11:1 さて、イエスはある所で祈っておられた。その祈りが終わると、弟子のひとりが、イエスに言った。「主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。」 です。そこでイエス様が弟子たちに教えた祈りが「主の祈り」です。
3.しかし、お題目のようにこれを唱えれば良いわけではないのです。聖霊は私たちに祈りを教えてくださいます。導いてくださいます。

B.とりなしの祈り
1.先ほどの シュナンティラムバネタイ の真ん中の アンティ は「代わって」という意味ですが、イエス様こそ私たちに代わって十字架に死んでくださったのです。私たちは祈りがわからないどころか、どうしたら罪を赦してもらえるかもわからなかったのです。そこで、イエス様が身代わりになり、とりなしてくださったので、私たちは救われたのです。
2.本来私たちは神様から見れば敵であり、憎まれるべき存在でした。ところが、マタイ5:44 しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。 の、イエス様ご自身の言葉の通り、イエス様は私たち憎むべき者を愛してくださったのです。それが、ゲッセマネの園での祈りとなり、十字架上の祈りとなったのです。

Ⅲ.祈らせてくださる聖霊
A.祈らないと死ぬ
1.人間にとって生きていく上で必要なことは、息をすること、食べることですが、人間は霊的な存在ですから、霊的にも生きていく上で必要なことがあります。
2.その一つが祈りです。神様に祈ることです。「祈り」は呼吸にたとえられます。聖書を読むことは、御言葉を食べるということで、食事にたとえられ、奉仕や伝道は、運動することに当てはめられたりします。
3.祈りを失った人は死ぬのです。ばかなか呼吸ができなくなってしまった人に酸素マスクがつけられ、あるいは人工心肺が取り付けられます。それは生きることを助けるためです。聖霊は生かそうとする神です。

B.祈りを助けてくださる聖霊
1.私たちは祈りにおいて自力でいつも祈ることが簡単にできるのでしょうか? いえ、聖霊が手伝ってくださる(助けてくださる)というのは、私たちが簡単に祈れる存在では無いからです。
2.私たちも祈りにおいてうめくのです。特にとりなしの祈りは大変です。ましてや、どんな状況下もわからない、あるいは敵のためにとりなすとすればどうでしょう。聖霊の助け無しに祈れません。聖霊も 御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます とあるとおり、うめかれるのです。
3.聖霊と共にうめくのです。 私たちは、どのように祈ったらよいかわからない とパウロは言いますが、その通りです。わからないから全知全能の神に委ねてうめいて祈るのです。

● 「苦しいときの神頼み」という言葉は悪く聞こえます。しかし、苦しい時だから神により頼むというのは、やはり人間は神無しには生きていけないことを知っているからでしょう。苦しい時には祈れると思いがちですが、苦しいときこそ「助けてください」くらいで本当にどう祈ってよいかわからないものです。

★ 聖霊は祈りを助けてくださるのです。そして、私たちの心の奥底からそれこそうめきをもって人々のためにとりなしの祈りをさせてくださるのです。この祈りをするから私たちは「愛の人」になっていくのです。聖霊に満たされて祈っていこうではありませんか。


わたしについて来なさい(岡山志伸師)

2014-10-15 06:48:35 | 礼拝説教
2014/10/12礼拝説教

■ テーマ: イエスの弟子
■ 説教題:「わたしについて来なさい。」
■ 聖書箇所:マタイ8:18~22


8:18 さて、イエスは群衆が自分の回りにいるのをご覧になると、向こう岸に行くための用意をお命じになった。
8:19 そこに、ひとりの律法学者が来てこう言った。「先生。私はあなたのおいでになる所なら、どこにでもついてまいります。」
8:20 すると、イエスは彼に言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。」
8:21 また、別のひとりの弟子がイエスにこう言った。「主よ。まず行って、私の父を葬ることを許してください。」
8:22 ところが、イエスは彼に言われた。「わたしについて来なさい。死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。」


<はじめに>
 このマタイの福音書8章において、イエス様が山から降りてこられてなされた三つの癒しの前回のときにお話ししました。今日の箇所は、この8章の中で唯一、イエス様が神の癒しや奇跡、神の権威などを示されなかった場面ですが、大切な教えをなさっています。
 
<Ⅰ弟子としての道>
1.真の弟子へ
 今日のこの聖書の箇所は、イエス様による神のわざとわざに挟まれた物語です。超自然的な神のわざが前後で語られるわけですが、その間にイエス様がなされたことは、ご自分の弟子として歩むための道を説きました。(8:18)イエス様は3人の人の病を癒された後、なぜ群衆を見渡して、向こう岸に行く用意を命じられたのでしょうか?多くの群衆に対応するためにも、イエス様はご自分の弟子の育成の必要を感じられたのではないかという意見もあります。また、こういった群衆の中にはいろいろな人々がいるため、結果的に「真の弟子」とそれほど熱心ではない支持者に分類されてくるのではないか、そんな意見もありました。こういったところから、イエス様は、まずは、「真の弟子」を育成するお気持ちがあったように思います。向こう岸には、まだ、イエス様がしなければならないことがありました。神の奇跡と権威がこの地に示す働きをもっと広める前に、イエス様は「真の弟子」を求めたのです。

2.ひとりの律法学者
 さて、弟子を連れて向こう岸に渡ろうとしているときに、律法学者が自分もついて行きたいと言いました。8;19、「・・先生。私はあなたのおいでになる所なら、どこにでもついてまいります。」この律法学者は、イエスのことを「先生」と呼んでいても「主」とは呼んでいません。しかし、この律法学者は、イエス様を尊敬するがために、もっとその教えを受けていこうという志があったのでしょう。
 私もこの教会に来始めた時、イエス様への大きな関心もありましたが、また、キリスト教について勉強しようという気持ちが強く働いていました。振り返るとキリスト教について利口な人間になりたいと思ったんだな~と思いました。この一面もイエス様は大変、歓迎されます。しかし、頭で考えるだけの聖書知識の詰め込み、キリスト教の知識人だけに終わるのでは、本当の信仰を受け取れることは出来ません。本当の信仰心は聖霊がその人の心に豊かに働かれ、理屈ではない神の真理で心も魂も満たされることです。言わば、本当の信仰心は神様が与えるものだと言うことです。この律法学者もまた、「先生」と呼ぶだけに留まらず、「主」と呼べるほどの信仰心をイエス様から与えられる必要があったのです。

3.別のひとりの弟子
(8:21)また、もう一人の弟子である人物。彼はイエス様に従いる弟子の一人でしたが、父親の葬りにまず行かせてほしいと願い求めたわけです。この人は「弟子」と呼ばれていて、かつ、イエス様を「主よ」と呼んでいます。イエスが確かにこの人を召されたのです。
皆さんはイエス様をご自分の「主」だとはっきりと答えることが出来ますか?「主」であると答えられる人、それは、イエス様を自分の救い主として受け入れた方全ての人です。Ⅰコリントの12:3には、「ですから、私は、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも、『イエスはのろわれよ』と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です』と言うことはできません。」と書かれています。聖霊がその人に働かれるとき、私たちは心から「イエス様は私の主です」と答えることが出来るのです。ですから、イエス様への信仰告白が出来る全ての人は、「イエス・キリストの弟子」として歩んでいるのと言えるのです。

<Ⅱ弟子としての覚悟>
1.眠る所もない神の働き
 この二人の要望に対してイエス様は、それぞれに問題を指摘して、弟子としての覚悟について語られます。まず、律法学者には、「すると、イエスは彼に言われた。『狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。』」(8:20)自分の弟子になるとは、ぐっすり眠る場所さえ与えられないなどの犠牲が伴うし、その決断を時に迫られるということだと語ったのです。イエス様は、彼が単に自分への感動だけで付いていきたいと言っていることを知っておられました。もし感情だけでイエス様に従おうとするなら、感情による落胆も大きいでしょう。マザーテレサが存命中、インドで貧しい人々を救助していることに感動したある女性が、マザーテレサのところに行って一緒に救助活動をしたいと申し出たとき、「あなたの近くにいる人を助けてあげなさい」と言われたそうです。インドまで来なくても、現実はすぐそばにあり、その人への憧れといった感情だけでは出来ないと言うことです。
また、眠るところもないほどキリストの弟子とは大変なのか、そんな風に思われるかもしれません。イエス様のこの譬えは究極の弟子の姿とも言えるかもしれません。今のこの日本においては、そこまで困っている神の働き人をあまり聞いたことがありません。しかし、先週もフィリピンの宣教師の吉原先生からお聞きしてよく分かりましたが、迫害の多い国のクリスチャンたちは、現実に眠ることも出来ないほどの命の危険の中に置かれるわけです。

2.神への優先順位
 では、もう一人の弟子についてはどのような覚悟を語られたでしょうか?この弟子は言いました。「主よ。まず行って、私の父を葬ることを許してください。」(8:21)これに対して、イエス様は、「死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。」と言われます。これは、すでに死んでしまった人の方を、いのちの主であるご自身よりも優先させてはいけない、という意味合いです。イエス様は、父親の葬りはご自身を知らない者たちに委ね、まずご自身に従うよう仰いました。先祖を大切にする日本人にとっては、きつい言葉でしょう。しかし、これはイエス様が親孝行を軽んじられたのではないのです。律法には「父と母を敬いなさい」との教えがありますし、イエス様ご自身も苦しみの十字架上で母マリヤを案じ、弟子のヨハネにマリヤを委ねています。また、学校や仕事とか、または冠婚葬祭とか、そうしたものをないがしろにすることを言われたわけでもありません。イエス様は、親孝行や家族に仕えることを大切にしつつも、ご自身に従うことの優先性を教えられたのです。

3.神の国とその義を第一に
 こういった弟子としての覚悟を聞くと、「イエス様を信じて主の弟子になるって、何だかリスクを伴うことが多いんだな~」と思うかもしれません。しかし、神様に捧げていく心や神様を優先させるときにある恵みを、マタイの6章ではこう教えています。「6:33 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」ここは、「イエス様がまず第一」であるということです。「神の国とその義」とは、私たちが神様に信頼して、神様の支配に委ねて、神に従いつつ歩む生活を指しています。キリストの弟子になるというのは、キリストがすべての優先順位のトップとなることです。しかし、この神の国を優先順位の中に生きるとき、経済的なことや、私たちの生活の全ての必要は与えられるのだという約束であります。私たちは、この世の価値基準ではない神のものさしというものを、一緒に体験をしたいと思います。
 
<Ⅲ わたしについて来なさい>
1.神の国のビジョンに燃えて
「わたしについて来なさい」という言葉、聖書の他の箇所からも聞き覚えがあると思います。マタイ4章の有名な言葉です。「イエスは彼らに言われた。『わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。』彼らはすぐに網を捨てて従った。」(マタイ4:19~20)イエス様が4人の漁師たちをご自分の弟子に選ばれた場面です。今日のみ言葉とこのみ言葉にある「わたしについて来なさい。」という言葉、どう感じますか?いずれも神の導きの確かさと、神にある信頼や力強さと平安に満ちた言葉だと思いませんか?これは、牧師たちだけへの招きの言葉のように聞こえますが、神の民を召し出しておられる言葉です。この言葉を心の中で繰り返してみるとイエス様に自分の人生をゆだねよう!という決意を与えられてきます。また、イエス様と一緒に神の国のビジョンに燃えていこうという聖霊の火を感じてきます。イエス様は神の国の建設のために、私たちと一緒にその働きをされたいのです。「わたしについて来なさい」イエス様のこの言葉を聞いた弟子は、単にさとすような言葉ではなく、イエス様の燃えるような情熱を感じたのではないでしょうか?今日の言葉もこのペテロへの言葉もイエス様の神の国建設への情熱があるのです。
ペテロたちはまだイエス様についてよく知らなかったでしょう。しかし、彼らは神の国へのビジョンを持って心が燃えたことでしょう。「わたしについて来なさい。」と呼ばれてすぐについて行きました。平凡な漁師をイエス様は選ばれ、用いられました。私たち一人一人の出来ることも、その働きは小さいかもしれません。しかしながら、神様は小さな私たちに大きな関心を示される方です。私たちの内に聖霊による神の国への理想とビジョンを燃え立たせて頂きましょう。

2.神への献身はそれぞれ
ヨハネ15:16には、「わたしがあなたがたを選び、任命した。」という言葉があります。私たちがイエス様を信じたとき、私たちがイエス様を選んだと思ってしまいますが、神様の方が私たちを選び招かれたのです。私たちが思うような理由や評価や基準、それとはまったく違う理由で神さまは、私たちをご覧になって、「わたしについてきなさい」と招かれます。イエス様を信じていく時に、クリスチャン全てが、「キリストの弟子」であります。門下生としてすでに、入門しているのです。霊的に生まれたばかりの「赤ちゃんのお弟子さん」の門下生もいます。また、成熟段階に入った「大人のようなお弟子さん」もいます。しかし、神様は、一人一人の弟子、それぞれの特徴をよくご存知です。「わたしについてきなさい」このイエス様のお声に導かれて一歩一歩、今週も歩んでいきましょう。