バイブルサロン

礼拝説教、聖書を読んで感じた事

私たちに与えられた聖霊

2013-08-25 18:16:31 | 礼拝説教

  2013/8/25礼拝説教
【テーマ】  内住の聖霊
【説教題】  「私たちに与えられた聖霊」
【聖書箇所】 ローマ5:5 ②
5:5 この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

○ パウロがローマ書で聖霊について語るのは8章からと言われることが多いのですが、この5:5のたった一節ですが、パウロは聖霊に関してとても大事な事を教えてくれています。

Ⅰ.私たちの中に住まわれる聖霊
  A.すべてのクリスチャンに聖霊が与えられた
    1. 私たちに与えられた聖霊 という言葉は、私たちはごく普通に使っているかも知れませんが、実はとても大きな事なのです。本来私たちには聖霊が与えられるはずも無かったのです。罪人ですから、きよくないですから。
    2.アブラハムやモーセ、ダビデなどの有名な旧約の人物でさえも聖霊が働かれることはありましたが、その心の内に住むほどに与えられはしませんでした。
    3.その聖霊が今やすべてのクリスチャンに与えられいるのです。それは全く例外が無いのです。すべてのクリスチャンにです。イエス様を信じるだけでです。
   
  B.聖霊は私たちの内に住んでおられる
    1.クリスチャンというのは、神様から聖霊というエネルギーをいただいたというのではありません。聖霊はエネルギーをお持ちですが、神様です。神様を私たちはいただいたのです。すごい出来事なのです。
    2.しかも、それは ロマ 8:9 けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。 とあるように、私たちの中におられる聖霊ですが、聖霊の中に私たちがあるという関係です。聖霊が私たちのものというよりも、私たちがキリストのものなのです。
    3.そのことを以下の聖句がはっきりと語っています。ヨハネ14:17 ・・その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。  Ⅰコリ 6:19-20 あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。
   
  C.聖霊は私たちを新生させる
    1.聖霊がおられるということは、「新生」したということです。私たちは罪深い自分を感じると、生まれ変わりたいと思うものです。しかし、自分の努力で変われ無いことを知るのです。聖霊こそ私たちを新しく生まれさせることのできるお方です。
    2.そのことは ヨハネ3:3 イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」  と言われたイエス様の言葉にニコデモが悩んだところであり、事実それを成し遂げてくださるのが聖霊です。

Ⅱ.内側で私たちを助ける聖霊
  A.クリスチャンは救われた者として努力する
    1.聖霊は、私たちの内に住まわれた以上、私たちのことを気遣ってくださいます。新生したクリスチャンでも罪は犯します。罪を犯した時に聖霊は心から出てしまうのではありません。聖霊はそんな不安定なお方では無いのです。
    2.パウロが 私たちに与えられた聖霊 と確信をもって言えるのは、良いことをしている時だけ共にいてくださるというような聖霊では無いことを実感しているからです。
    3.新生しても私たちは弱いです。怠惰です。そんな私たちが最終的に神の前に堂々と立てるでしょうか? 無理です。しかし、堂々と立てるのです。なぜか? 私たちに与えられた聖霊によって です。
   
  B.聖霊は私たちを内側から助けてくださる
    1.そんなにまで神様に愛されているからこそ、私たちも ピリピ2:12 ・・、恐れおののいて自分の救いの達成に努めなさい。 と言われるように、私たちも努力するのです。この努力は救われるための努力では無く、救われた者としての努力です。
    2.弱い私たちに神様は良き思いをくださるのです。私たちは ピリピ 2:13 神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。 を体験しているのではないでしょうか。
    3.罪を犯している最中にも御言葉が迫ってきて、その罪の中に居れなくなったというような経験、苦しんでいる時に賛美がこぼれてきた経験があるのではないでしょうか。聖霊は私たちの心の内に住まわれていますから、私たちの内側から聖い願望を起こさせてくださるのです。
   
  C.聖霊は私たちの内側でとりなしてくださる
    1.また、 ロマ 8:26 御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。 の御言葉が好きな方も多いのでは無いでしょうか。聖霊は私たちの内側でとりなしてくださるのです。当然、私たちの内側から祈りが込み上げてくるのです。言葉にならないからうめき、異言になる事が多いのです。
    2.聖霊は私たちが成長することを望んでおられます。その成長のために必要なのは何か? Ⅰコリ2:12 ところで、私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神の御霊を受けました。それは、恵みによって神から私たちに賜ったものを、私たちが知るためです。 と、内住の聖霊の助けによって、神からのものを知ることで成長します。
    3.そこには試練はありますが、患難さえも喜ぶ信仰もすべてこの聖霊から来るのです。こうして成長して行くことを「聖化」と言います。最終的な姿は「栄化」と言います。
   
Ⅲ.愛の人にしようとする聖霊
  A.聖霊がおられても愛が溢れるわけでは無い
    1.私たちは最終的に栄化されて栄光に入るにふさわしい者になるのです。その希望をもって歩んでいるのです。このすばらしいことの保証が聖霊の内住です。
    2.しかし、聖霊がおられても、 神の愛が私たちの心に注がれている という事実はあっても、私たちの内側から神の愛が溢れてくるかは次の課題です。
    3.愛が無いのでは無いです。聖霊が住まわれているのですから。しかし、私たちはなかなか愛の人になれない。その葛藤で心痛むのです。愛の人になりたいからです。


   
  B.私たちは必ず愛の実をつける
    1.焼かれた種は命が無く、蒔いても根も葉も出てきません。しかし、命のある種は芽を出します。私たちも新生したのですから命を持っている種のような者です。
    2.聖霊は私たちに「御霊の実」を結ばせようと働かれます。よく言われることですが実を結ぶのには時間がかかるのです。実を結ばない、愛が結実しない自分に希望を失ってしまいそうになるのですが、聖霊は忍耐強く私たちを育ててくださるのです。
    3.希望は失望に終わりません。 なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。 神の愛があるのですから。必ず結実するのです。私たちが信じられなくても、イエス様は信じてくださったのです。あなたの実を!
   
  C.私たちには聖霊が与えられ、希望がある
    1.私たちが聖霊を努力していただいたのでは無いのです。救いが神様からの一方的な働きかけであったように、聖霊の内住も神様からの一方的な働きかけです。
    2.私たちはイエス様を信じただけで救われ、その時に心を神に開いたから、聖霊は私たちに与えられたのです。聖霊の無いクリスチャンなんていません。愛のないクリスチャンなんていません。「愛しているか」は問われますが。
    3.聖霊は神様ですからおおいに希望があるではありませんか。

★ 聖霊は神様です。私たちには期待できなくても、聖霊には期待できます。愛の人に変えてくださる聖霊を私たちはいただいたのです。


だから、決して失望しない

2013-08-18 17:49:44 | 礼拝説教

2013/8/18礼拝説教
【テーマ】   神の栄光を見る希望
【説教題】  「だから、決して失望しない」
【聖書箇所】 ローマ5:5
5:5 この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

○ 「希望」という言葉は人名にも使われ、大変美しく、私たちを励まし、心を躍動させる言葉だと思います。では、私たちはこの聖書が言うところの希望を持っているでしょうか?

Ⅰ.神の栄光を見る希望をもつ
  A.心のきよい者は神を見る
    1.希望というのは失望に終わらない希望で無ければ虚しいです。砂漠を旅していた隊商が蜃気楼を見て、あそこまで行けばオアシスがあると思い希望を持つのですが、近づくとフッと消えてしまうのです。蜃気楼に望みをかけただけに落胆も大きいのです。これは「希望は失望に終わる」なのです。
    2.クリスチャンは蜃気楼のような実体の無い希望では無く、実体を見る希望を持っています。パウロが希望と言っているのは、神の栄光をまざまざと見ることを言っているのです。確かにいずれ天に帰ると私たちは神を直に見るという希望があります。
    3.マタイ 5:8 心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るから。 と言われているように、イエス様を信じるだけですべての罪人が義と認められて、聖いものとされるのです。クリスチャンは神を見るのです。
   
  B.イエス様の栄光を見る
    1.イエス様は ヨハネ17:24 父よ。お願いします。・・ あなたがわたしを世の始まる前から愛しておられたためにわたしに下さったわたしの栄光を、彼らが見るようになるためです。 と祈られました。地上において、イエス様は仕える者の姿をとっておられ、イエス様の真の姿、栄光の姿を弟子たちも見てこなかったのです。
    2.ペテロ達3人がイエス様の栄光の姿を見たところがあります。 マタイ17:2 そして彼らの目の前で、御姿が変わり、御顔は太陽のように輝き、御衣は光のように白くなった。 です。その栄光のすばらしさにペテロは感動して、「幕屋を造ります」と言っているくらいです。
    3.イエス様が父なる神に祈られたのは、私たちがイエス様の栄光を見ることです。聖書にもイエス様の栄光を見た人は少ししか登場しませんが、彼らはこの地上にあって神の栄光、イエス様の栄光を見ているのです。
   
  C.ステパノは神の栄光を見た
    1.初代教会がどんどん成長していた時、ステパノが殉教します。その時の事がこう記されています。使徒7:55-56 しかし、聖霊に満たされていたステパノは、天を見つめ、神の栄光と、神の右に立っておられるイエスとを見て、こう言った。「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます。」 と。ステパノはユダヤでは恥であった石打で殺されたのです。ところが聖書はそのステパノを 聖霊に満たされていたステパノ と言っているのです。
    2.当時の人々の目には、キリスト教が弱々しく感じられる出来事では無かったでしょうか? 無抵抗に殺されていくのです。しかし聖書は ロマ 8:37 しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。 と勝利者というのです。
    3.ステパノはその死に行く時にも、微笑むことができたのはなぜかというと、神の栄光とイエス様を見たからです。私たちの希望は必ず神の栄光を見ることができるということです。


   
Ⅱ.福音を恥としない信仰をもつ
  A.力強いはずのキリスト教だが・・・
    1. この希望は失望に終わることがありません は「この希望は恥をかかせません」とも訳すことができます。恥という言葉はこのローマ書の初めの方に出てきています。それは ロマ1:16 私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。 です。
    2.ペンテコステの日からキリスト教会は急激に成長しました。そこには不思議と奇跡が起こり、まさに力強い、他の宗教と比べてはるかに格好良ささえ感じさせたのです。
    3.ところが、ステパノの事件のように、ただ殺されていくようなキリスト教では何の力も無い、と思えるような出来事が出てくるのです。

  B.テモテに「恥じてはいけません」と教える
    1.パウロはテモテにこう書き送っています Ⅱテモ1:8 ですから、あなたは、私たちの主をあかしすることや、私が主の囚人であることを恥じてはいけません。むしろ、神の力によって、福音のために私と苦しみをともにしてください。 と。テモテはどうやら、囚人となっているパウロのことで「恥じ」との戦いをしていたようです。
    2.クリスチャンに対する迫害が増え、教会内部の問題も起こり、一般の人々には「使徒と呼ばれる人が囚人になっている、しかも体も弱っている」といわゆる証にならない、伝道の妨げになると思われるような状態になっていたからです。
    3.そのテモテに対してパウロがこの手紙を書き送っているのです。 むしろ、神の力によって、福音のために私と苦しみをともにしてください。  とあるように、福音のために苦しみが伴うことも教えているのです。
   
  C.自分の救いを誇ってよい
    1.信仰者は病気に打ち勝ち、迫害にもめげず、どんどん突き進み、不思議がどんどん起こって、人々の目を引きつけるかと思いやすいのですが、パウロはその病気?も治らず、囚人にされてダイナミックさを感じさせないわけです。
    2.私たちも時として、奇跡的なことも起こらず、他の宗教がしているすごいことに何も言えなくなり「クリスチャンです」と言うこと自体が恥ずかしく感じる人もいらっしゃいます。
    3.しかし、私たちは空想上の救いを得たのではありません。知識だけの救いを得たのでも無いのです。「私は救われた」という完璧な事実です。そのことを忘れはしないでしょうが、もっと誇っていいのです。それがイエス様のなさったことだからです。福音は恥では無いのです。


   
Ⅲ.神の臨在の中で生活する
  A.神様によってヨブは希望を得た
    1.私はこのテキストからヨブを思い出しました。大きな苦しみを味わっているヨブのところに友人がやって来ます。彼らはヨブを励まし、助けようとして来たのですが、ヨブの状態のひどさを見て、これは明らかにヨブが大きな罪を犯したためだと思い、一見正しいことを言うのですが、的外れなことを言ってヨブをさらに苦しめることになりました。彼らはヨブが元気になる希望を持ってきたのですが、その姿に反対に絶望したのです。
    2.一方、ヨブは友人のきつい言葉に反論していくのですが、彼には神による希望があるのです。まさに患難の中で忍耐、練られた品性、が生み出され、希望を生み出すのです。そして、その希望は現実となり、ヨブは神様から大きな祝福をいただくのです。
    3.人の目には、人の考えでは、患難や試練に希望が見いだせなくなるかも知れないのですが、希望は神の栄光を見ることです。自分の力で見るのでは無く、神様によって見せていただくのです。自分の力で救われたので無いように、自分の力で見るのでは無いのです。
 
  B.神の臨在は私たちに希望を与える
    1.現代は大人も子どもも希望が持てない時代になってきました。しかし、幻覚では無く、神を見ることの希望は私たちに与えられているのです。 ヘブル11:1 信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。 の信仰では無いでしょうか。
    2.その確信は何と言っても神様の臨在です。聖霊に満たされた生活です。神の臨在を肌身に感じるような方もいらっしゃいますが、多くはそのようには感じないでしょう。だからといって臨在がないのでは無いのです。
    3.イエス様が共にいるという信仰の基本姿勢は私たちの信仰生活の基盤に置き、積極的に神様を迎える生活をすればいいのです。


   
★ 神様はあなたを心底愛して、救ってくださいました。この神様の栄光を必ず見ます。だからどんなことがあっても失望しなくて良いのです。イエス様に希望を持ちましょう。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。


日常の人間関係を神に学ぶ(岡山伝道師)

2013-08-15 08:33:25 | 礼拝説教

2013/8/11 礼拝説教

■ テーマ:互いに従い合う歩み
■ 説教題: 日常の人間関係を神に学ぶ
■ 聖書箇所:エペソ6:1~10
6:1 子どもたちよ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことだからです。
6:2 「あなたの父と母を敬え。」これは第一の戒めであり、約束を伴ったものです。すなわち、
6:3 「そうしたら、あなたはしあわせになり、地上で長生きする」という約束です。
6:4 父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒
によって育てなさい。
6:5 奴隷たちよ。あなたがたは、キリストに従うように、恐れおののいて真心から地上の主人に従いなさい。
6:6 人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方でなく、キリストのしもべとして、心から神のみこころを行い、
6:7 人にではなく、主に仕えるように、善意をもって仕えなさい。
6:8 良いことを行えば、奴隷であっても自由人であっても、それぞれその報いを主から受けることをあなたがたは知っています。
6:9 主人たちよ。あなたがたも、奴隷に対して同じようにふるまいなさい。おどすことはやめなさい。あなたがたは、彼らとあなたがたとの主が天におられ、主は人を差別されることがないことを知っているのですから。
6:10 終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。

<はじめに>
今日は、エペソ書6:1~10です。今日は、親子関係についての教えと、主人としもべについての人間関係についてです。人は一人だけでは生きていけないものです。今日は、日常の場面においての人間関係について、神様から教えて頂きたいと思います。


 
<Ⅰ:子どもは両親に従う>
1、主にある正しい人間関係
(6:1)聖書が書かれたローマの時代には、父親には子どもの命をも左右できるほどの権限があったと言います。今なら、「こどもの虐待」で逮捕されてしまいます。へブル12:9-10には、「父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめる。」とあります。父親の女の子に対する権限は特に強かったらしく、娘をいつ、誰と結婚させるかは、すべて父親が決めたそうです。日本でも私の親世代の人で、実際に私の知っている女性で、結婚式の当日まで、結婚相手の顔も見たことがなかったという話しを聞きました。驚きです。しかし、「主にある正しい人間関係」は、まず、両親に従うことからと言えるようです。

2、第一の戒め
そして、6:2の「あなたの父と母を敬え。」、これは、モーセの十戒に基づいた戒めです。(出エジプト20:12)人間関係における第一番目の戒めとして重要です。この「父と母を敬うこと」は、「正しいこと」、つまり神様に喜ばれることです。また、この戒めには、神様の約束が伴っています。「そうしたら、あなたはしあわせになり、地上で長生きする。」という約束です。ですから、「父と母を敬う」ということは、非常に大切にしなければならない戒めということになります。父と母は、子にとって神の代理人のような存在という意味もあるそうです。子どもは、父によって神の存在を示されると言われているようです。子どもは親に従うことによって、実際には神に従うというわけです。

3.主に従うように聞き従う
 当時のローマ社会においては、父親の権限が強く、絶対的であり、子が父に従うべきという教えは珍しいものではありませんでした。しかし、パウロは、敢えて母親も含め「両親に」また、「主にあって」従うようにと加えています。ここでの「従う」の語源の意味は、「良く聞いて従う」という意味だそうです。ただの奴隷的服従ではなく、両親の言うことを良く理解し、そして従うということです。また、親への従順の土台は、親への尊敬です。母親も父親と同様に敬い、従うべき対象と言うのです。いろいろな親子関係があり、大変なところを通られた方もいます。しかし、自分の父も母も全然尊敬に値しないなどと切り捨てず、どんな形であれ、私たちを生み、育ててくれた親の犠牲を考えると、尊敬に値します。

<Ⅱ:父が子どもを訓練する>
1.怒らせないとは?
 (6:4)父たちに語る「怒らせてはならない」とは、子どもを自由気ままに育てたり、甘やかしたり、媚びることではありません。「怒らせる」の意味は、がみがみ言ったり、横暴に振る舞って、憤らせることだそうですが、横暴と言えば、私は、昔の野球のアニメ、「巨人の星」の星飛雄馬のお父さん、星一徹を思い出しします。ちゃぶ台をひっくり返して怒り、飛雄馬を鍛えているそんな人物です。しかし、横暴なようで親の深い愛を持っているという親子関係でした。それで、飛雄馬は父親に従順で巨人の星を目指せたのか?と思いましたが、子どもを怒らせないとは、親が子どもに従順さを求めても、「権威の乱用」があってはならないということです。

2.主の訓戒~聖書が基準
 6:4の後半から、訓戒の基本は「主の御言」であるということが分かります。ここで出てくる「教育」と「訓戒」は、ギリシャ語の語源から、「教育」とは行動による訓育を指し、「訓戒」とは、言葉による訓育ということです。ですから、ここでの「教育」とは、「訓練」とも言うべき言葉で、「矯正」や懲らしめを意味し、自己を抑制させ、修行させるということのようです。また「訓戒」は言葉による訓戒ですから、励ましたたり、忠告したりと、言葉によるしつけを指しているようです。そして、親たる者は、自分を神のように賢いと思い上がって子どもに接してはならないと戒めています。「親自身がまず、主の学校において学び、主の愛によって生かされなければならない。」という言葉があるように、聖書は、親も子どもも歩むべき基準であります。

<Ⅲ:主のしもべ>
1、キリストに従うように
次に主人と奴隷、つまりしもべの関係について見ておきます。パウロは、神の家族の関係について語ってきましたが、さらに領域を広げ、社会秩序について語っています。(6:5)5節の「奴隷」とは、「しもべ」とも訳せるようで、現代的に言えば、雇われている人々の意味となり、つまり、「奴隷」というのは、従業員のことです。当時の聖書の社会では、奴隷制度は当たり前の主従関係であったようです。今はそのような関係はなくなっていますが、神様は、昔も今も、神を信じる者に、従うことを求めておられます。聖書は社会秩序についても教えます。イエス様に従うことを教えられ、周りの人たちと従い合う関係にされましょう。

2、地上の主人に従うこと
6:5の後半から、雇われている人たちには誘惑があります。上司が見ているところでは、一生懸命働くのですが、見ていなければだらけてしまいます。クリスチャンは表裏を作ってはならないということです。キリストに従うように真心と善意をもって主人に従いなさいと勧めています。ここで、エペソ書と同じ時期に書かれ、届けられたピレモン書から奴隷と主人の麗しい関係の実例を見たいと思います。主人公は奴隷オネシモです。彼は仕事に飽きたのか、ご主人の金を盗んで逃げだしました。パウロは、主人であるピレモンに対して、オネシモのことで、低姿勢で彼の受け入れを願います。オネシモは役に立つ者と変えられて、主人に仕えたことでしょう。

<Ⅳ:主人のつとめ>
1.主人のふるまい
ピレモンとオネシモの話しを見ましたが、パウロは、今度は主人への注意がなされています。(6:9)主人が陥る過ちは、奴隷である雇っている人間をおどしたり、酷使してしまうことです。しかし、主人は奴隷である従業員に丁重に接していかなければいけません。その理由は、主の前では奴隷も主人も同じで、平等に扱われているからです。人として対等である原則を知りましょう。私が今、契約している会社の方は、非常に丁重な方で、何年も一緒にお仕事をさせて頂いていますが、その接し方が最初と殆ど変りません。雇う側と従業員側の良き関係は、単純ではありませんが、神が語る根本的な主従関係に立つと、仕事も互いに祝福されてくると思います。

2.差別をしない主人
6:9の後半の主人への差別なき対応の求めは、神が人を差別しないように、差別心なく、全ての人を公平に扱うことを教えます。この世にはさまざまな差別があります。皆さんもいろいろな差別を体験したことと思います。いつの時代も、人は差別というものによって苦しめられてきました。しかし、聖書は「主は人を差別されることがない」と教えています。イエス様は、主人だからといって手緩く扱うことはなく、奴隷だからといって厳しく裁かれるわけではありません。
差別なき主に、信頼を寄せていきたいと思います。

<Ⅴ:神と人との関係を見る>
1.神と人~父と子の関係
神様と私たちの関係も、人間世界の父と子のような関係です。ルカの福音書では、放蕩息子の帰りをいつまでも待つ、父親としての神様の姿があります。(ルカ15:11-32)息子は、放蕩の末に、父を思い起こしました。そして、父の待つ家へ戻ります。父親は毎日のように、息子が戻ることを待っていました。ここでの父は、父なる神ご自身を表していて、父なる神と神様の子どもである私たちのことを語っています。イエス様を信じる以前の私たちは、この放蕩息子のように、神様のもとから離れて好き勝手な人生を送っていたのです。罪は、私たちと神を引き離しました。しかし、悔い改めによって人は父である神の元に帰り、神の子とされるのです。まだ、イエス様を信じていない方は、イエス様を信じて、父なる神様の身元に戻って頂きたいと思います。

2.神と人~主人としもべの関係
聖書は、「キリストのしもべ」というのは、使徒パウロが自分に対してよく使った言葉です。「しもべ」と訳されている言葉は、もとの言葉では「奴隷」ですから、パウロは謙遜な気持ちで自分を「キリストの奴隷」(ローマ1:1)と呼びました。聖書は、オネシモのようなクリスチャンの奴隷たちに対して、あなたがたは人の奴隷ではない、「キリストのしもべ」なのだと語ります。「地上の主人」ではなく「天上の主」イエス・キリストであると、教えているのです。それで、聖書は、「人にではなく、主に仕えるように、善意をもって仕えなさい。」と語るのです。高慢の心が取り除かれ、お互いにへりくだりの思いと、従い合う心を与えられましょう。

<結び>
こうして、私たちは、家族関係と雇用関係の中にある、互いに従うことについて学びました。これがみな、「御霊に満たされなさい」という勧めの続きになっています。私たちは、キリストに従うように、周りの人々と共に、お互いに従ってへりくだるところに御霊が働いておられることを知らなければいけません。御霊の力により、イエス様のように、仕え合う心を頂きましょう。


信仰者とは 神の言葉に生きる人

2013-08-04 17:31:51 | 礼拝説教

  2013/8/4ウエルカムサンデー礼拝説教

【説教題】  「神の言葉に生きる人」
【聖書箇所】 創世記12:1-9
12:1 【主】はアブラムに仰せられた。
  「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、
  わたしが示す地へ行きなさい。
12:2 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、
  あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。
  あなたの名は祝福となる。
12:3 あなたを祝福する者をわたしは祝福し、
  あなたをのろう者をわたしはのろう。
  地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」
12:4 アブラムは【主】がお告げになったとおりに出かけた。ロトも彼といっしょに出かけた。アブラムがハランを出たときは、七十五歳であった。
12:5 アブラムは妻のサライと、おいのロトと、彼らが得たすべての財産と、ハランで加えられた人々を伴い、カナンの地に行こうとして出発した。こうして彼らはカナンの地に入った。
12:6 アブラムはその地を通って行き、シェケムの場、モレの樫の木のところまで来た。当時、その地にはカナン人がいた。
12:7 そのころ、【主】がアブラムに現れ、そして「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える」と仰せられた。アブラムは自分に現れてくださった【主】のために、そこに祭壇を築いた。
12:8 彼はそこからベテルの東にある山のほうに移動して天幕を張った。西にはベテル、東にはアイがあった。彼は【主】のため、そこに祭壇を築き、【主】の御名によって祈った。
12:9 それから、アブラムはなおも進んで、ネゲブのほうへと旅を続けた。

○ ローマ人への手紙の中にパウロはアブラハムの信仰を書き記しています。ユダヤ人に限らず世界の多くの人に知られているアブラハム。彼はどんな人だったのでしょうか? まだ、この時、彼はアブラハムではなく、アブラムと呼ばれていました。

Ⅰ.ウルからハランへ
  A.神様はアブラムを用いることにされた
    1.創世記11章の終わりでアブラムがウルという町から出たことがわかります。父親のテラも一緒でした。そして、ハランという町まで行って、そこで長く滞在しています。
    2.なぜウルを出たのでしょうか? ノアの大洪水の後、人々はまたも堕落していきました。あちこちで偶像礼拝がなされ、真の神を礼拝する人もいなくなってしまいました。
    3.神様は世界中を見渡し、正しく信仰を伝えることのできる人を探しました。それがアブラムでした。彼は偶像の町にいながら、偶像は神では無いとわかっていました。しかし、真の神をしっかりと知っていたわけではありません。
    4.神様はこのアブラムを通して世界中の人々に神がどのようなお方か、そして、信仰とは何かを教えることを計画されました。
   
  B.神は人間が造るものではない
    1.アブラムは神様の言葉を聞いたわけですが、そのお声が神様だと彼にはわかったわけです。偶像を拝んでいた人々には神のお声がわかりませんでした。
    2.パウロは ロマ 1:20 「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。」 と言って、神の存在は被造物でわかるといっています。アブラムに限らず、人々も神様がおられることは信じていたかも知れませんが、それでは不十分なのです。
    3.人間がかってに想像する神、人間が造る神ではいけないのです。なぜなら、人間を超えないからです。神が人間も創造してくださったのですから、人間以上のお方なのです。つまり、神様は私たちが考えてわかる方では無く、神様の方から教えてくださることによってわかるのです。
   
  C.アブラムは神の声を聞けた人
    1.アブラムがどんな人であったかと考えると、これらのことからも彼は神の声を聞き分けた人です。
    2.偶像は語らないかも知れませんが、人の声が神の声のように聞こえたり、自分の心の中の声が正しいと思い込んだりしやすいです。
    3.そんな中、アブラムは悪魔の声、人の声、自分の声ではない、神の声を聞き分けることのできた人でした。だから、彼は選ばれたのでしょう。


   
Ⅱ.ハランからカナンへ
  A.神様のいうことをきく人
    1.アブラムは神様のお声を聞くことができました。聞くと言うのは単に音が聞こえるので「聞く」という聞き方だけではありません。聞く、聴く、訊くなどの言葉がありますが、聴く(耳を傾け、注意して聞き取る)が近いのでしょうか?  しかも「いうことをきく」という言葉でしょう。更にいうなら、イヤイヤきく(従う)のでなく、感謝して、喜んで、きくというものです。
    2.アブラハムが信仰の父と呼ばれるゆえんはこのあたりにあるようです。現代でも引っ越しは大変ですが、アブラムの時代にはそれは大変どころでは無かったでしょう。ところが彼は神様の言う通りに従ったのです。
   
  B.ハランからさらに旅立つ
    1.父テラを失って、アブラムは父の声よりももっと明確に神様の声を聞く人になったかも知れません。ウルを出て、ハランまで来ましたが、そこはまだ神様の望まれる場所ではなかったのです。
    2.ハランがどんな町だったかわかりませんが、ここでもウルと同様、偶像を拝んでいたようです。つまりハランも偶像の町であり、神様はアブラムを偶像から切り離そうとされているのです。
    3.アブラムはその神様のご意志を理解して、さらにハランを旅立つのです。ハランがどんな土地だったか知りませんが、住み慣れるとそこから離れるのは勇気がいります。大変な引っ越しを決意した時、アブラムは75歳でした。ハランを離れるのはまさに偶像と離れることでした。
   
  C.アブラムは神の言葉に従った人
    1.アブラムがどんな人であったか? それは神の声を聞き分けると同時に神を第一として、その声に従うことのできる人でした。
    2.神の声を聞いても従わない人もたくさんいますが、アブラムは従う人でした。

Ⅲ.約束の地カナンに
  A.アブラムは最初に祭壇を築いた
    1.アブラムがいよいよ約束の地カナンに着いた時、 【主】がアブラムに現れ、そして「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える」と仰せられた とあります。どこが目的地がわからない旅は大変です。ところが、神様から遂にお声がかかったのです。このカナンの地です。
    2.その時に彼がした行動は アブラムは自分に現れてくださった【主】のために、そこに祭壇を築いた でした。アブラムが信仰深いことを示しています。さらにベテルの東に移動した彼は 【主】のため、そこに祭壇を築き、【主】の御名によって祈った と、さらに祭壇を築きます。
    3.アブラムの人生は神に礼拝をする人生でした。結婚式も葬儀も礼拝です。聖餐式も洗礼式もそうです。私たちの人生は礼拝の連続であるべきなのです。
   
  B.アブラムは犠牲を献げた
    1.祭壇とは生け贄を献げる場所で有り、それは犠牲です。長旅を共にしてきた家畜の中から良いものを選んで献げたのです。アブラムは神様を第一としたからこそ、持ち物・家畜の中から最上のものを神様に献げたのです。
    2.私たちが時間や献金を献げるのも痛みを伴うではありませんか。賛美も現代では生け贄です。最高の賛美を献げるではありませんか。
    3.礼拝というものには犠牲が伴いますが、それを超える大きな喜びがそこにあります。
   
  C.アブラムは神のために祭壇を築いた人
  アブラムがどんな人であったか? それは祭壇を築く人でした。最高の礼拝を献げる礼拝者でした。だから彼は選ばれたのです。

★ 私たちも神の言葉である聖書を信じ、大切にし、その言葉に従う決心をして行きましょう。日々礼拝する者になりましょう。