バイブルサロン

礼拝説教、聖書を読んで感じた事

十戒の石の板が砕かれる

2022-08-31 09:51:31 | 礼拝説教
2022/9/4 礼拝説教
【テーマ】  罪の重さととりなしの祈り
【説教題】 「十戒の石の板が砕かれる」
【聖書箇所】 出エジプト記32章
32:1 民はモーセが山から一向に下りて来ようとしないのを見て、アロンのもとに集まり、彼に言った。「さあ、われわれに先立って行く神々を、われわれのために造ってほしい。われわれをエジプトの地から導き上った、あのモーセという者がどうなったのか、分からないから。」
32:2 それでアロンは彼らに言った。「あなたがたの妻や、息子、娘たちの耳にある金の耳輪を外して、私のところに持って来なさい。」
32:3 民はみな、その耳にある金の耳輪を外して、アロンのところに持って来た。
32:4 彼はそれを彼らの手から受け取ると、のみで鋳型を造り、それを鋳物の子牛にした。彼らは言った。「イスラエルよ、これがあなたをエジプトの地から導き上った、あなたの神々だ。」

32:7 【主】はモーセに言われた。「さあ、下りて行け。あなたがエジプトの地から連れ上ったあなたの民は、堕落してしまった。

32:31 そこでモーセは【主】のところに戻って言った。「ああ、この民は大きな罪を犯しました。自分たちのために金の神を造ったのです。
32:32 今、もしあなたが彼らの罪を赦してくださるなら──。しかし、もし、かなわないなら、どうかあなたがお書きになった書物から私の名を消し去ってください。」

○ 十戒に「偶像を造ってはならない」とありますが、私たちのまわりにもどれくらい偶像はあるのでしょうか。皆さんは偶像を造ったことはありませんか? 神以上に大事にするのものは偶像となります。
 
Ⅰ.不安が偶像を造る
A.指導者がいない不安
1.モーセが神に呼び出されて長い日数が過ぎました。イスラエルの民はモーセは死んでしまったのではないかと大変不安になりました。指導者がいないとこれからどうしてよいのか検討がつきません。彼らはエジプトで生まれ育ち、こんな荒野の生活には慣れていません。もうエジプトには戻れないと思うもののどうしてよいかわからないという不安です。まるでイエスが十字架に架けられた後の弟子達のようです。
2.イスラエルの民の不安は自分たちを導く神を求めることになりました。しかし、それは目に見えない唯一まことの神ではなく、見える偶像、しかもエジプトで見てきた子牛像でした。うやうやしく造るために金の像にしました。キンキラにすると御利益があるように見えるのでしょうね。

B.人が偶像を造りたくなる
1.私たちの周りにある偶像もうやうやしく造られているものです。また立派に造られています。人々の心が惹きつけられるように造られています。人は不安になると何かに頼りたくなるのでは無いでしょうか? お守りがたくさん買われていくのもそういうところにあるのです。宗教もその一つに挙げられます。
2.人が不安になるのはある面で仕方のないことです。人は完全ではないし、一人では生きていけないという存在です。誰か自分よりも力のあるものに頼りたいという思いがあるものです。それは否定できませんが、どういうわけか偶像を造ってしまうのですね。

Ⅱ.偶像に頼る堕落
A.恵まれた状況から一変して
1.40日間も神と共に過ごすというすばらしい場所にいたモーセでした。そして神みずから十戒の石の板をいただくというすごい場面ではないでしょうか。そんな恵まれた状況にいたモーセに神が言われたのは民の堕落でした。信じられない思い、なんとショックだったことでしょう。
2.信じられない思いで戻ったモーセが見たのは金の子牛の像が祀られているところでした。モーセはあの神と過ごした何とも言えない聖い40日間が一瞬にして消えていく思いだったでしょう。

B.十戒の板が砕かれた
1.モーセは民のこの堕落ぶりに腹が立ち、怒りが込み上げました。そして、せっかく神がこの民のためにくださったすばらしい十戒を民は無にしてしまったことに神に対して申し訳ない思いと、民に対する怒りで、この十戒をいただく資格そのものがないと思い、十戒の石の板を投げつけて砕いてしまうのです。
2.このイスラエルの民は神に大きな罪を犯し、モーセは神から見放されてしまったと感じたのではないでしょうか。

Ⅲ.モーセのとりなし
A.神の元へ行く
1.怒ったモーセですが、「もうやってられない」と彼らのところから逃げたのではなく、彼は神のところへと行くのです。大問題があっても逃げるのではなく、神の元へ行くべきなのです。民は偶像に向かいましたが、モーセは神に向かったのです。
2.そしてとりなしをします。その箇所をもう一度読んでみましょう。 「ああ、この民は大きな罪を犯しました。自分たちのために金の神を造ったのです。 今、もしあなたが彼らの罪を赦してくださるなら──。しかし、もし、かなわないなら、どうかあなたがお書きになった書物から私の名を消し去ってください。」 と、神の赦しが得られないのなら、自分の名前を消してくださいというのです。これこそがとりなしです。

B.私の命に代えて
1.私たちは「とりなしの祈りをしましょう」と気楽に言いやすいですが、自分の命と引き換えにしてくださいというほどの祈りなのでしょう。
2.イエスの十字架のわざこそがとりなしなのです。ゲツセマネでイエスは祈られました。十字架を無しにして欲しいと。しかし、神のみこころを受け入れると。そして十字架上でイエスは ルカ23:34 「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」 と、このとりなしの故に私たちは赦されたのです。
3.十戒の石の板はモーセの怒りと神への申し訳なさで砕かれましたが、イエスの体は私たちの罪の身代わりとして砕かれました。それによって私たちに救いが与えられたのです。

● 私たちはとりなしの祈りをさせていただきますが、その祈りさえ私たちの力ではありませんね。イエスが身代わりになってくださったという実績の元私たちのような者の祈りを聞いてくださり。誰かのためにとりなすことにおいても聖霊はその祈りに力をくださるのです。

★ 十戒はモーセが持っていった石の板に改めて神が書き込んでくださいました。それがなくては神とイスラエルの関係はなくなるのです。私たちには砕かれたイエス、しかし、復活されたイエスがおられるので、完全な救いをいただいています。感謝し、私たちもとりなしていこうではありませんか。



神の住まいを造る

2022-08-25 07:46:19 | 礼拝説教
2022/8/28 礼拝説教
【テーマ】  幕屋・神の臨在あるところ
【説教題】 「神の住まいを造る」
【聖書箇所】 出エジプト25:1-9
25:1 【主】はモーセに告げられた。
25:2 「わたしに奉納物を携えて来るように、イスラエルの子らに告げよ。あなたがたは、すべて、進んで献げる心のある人から、わたしへの奉納物を受け取らなければならない。
25:3 彼らから受け取る奉納物は次のものである。金、銀、青銅、
25:4 青、紫、緋色の撚り糸、亜麻布、やぎの毛、
25:5 赤くなめした雄羊の皮、じゅごんの皮、アカシヤ材、
25:6 ともしび用の油、注ぎの油と、香り高い香のための香料、
25:7 エポデや胸当てにはめ込む、縞めのうや宝石である。
25:8 彼らにわたしのための聖所を造らせよ。そうすれば、わたしは彼らのただ中に住む。
25:9 幕屋と幕屋のすべての備品は、わたしがあなたに示す型と全く同じように造らなければならない。

○ 荒野を旅するイスラエル人と神は共におられました。神は彼らの生活が神のみこころに沿うように戒めや諸規定を与えました。さらに、神の住まいを造るように命じられたのが「幕屋」です。一体「幕屋」とは何か? 見ていきましょう。
 
Ⅰ.幕屋は神の仮住まい
A.天国の出張所
1.幕屋と書かれているのはヘブル語で「ミシュカーン」と言い、「住まい(「人が住む家」とは違い、「仮住まい」とか現代では「会館」という意味を持つ)」という意味です。幕屋は移動型の神の聖所です。ソロモンの時代にはイスラエル人は定着したので、幕屋ではなく「神殿」が建設されました。神殿は幕屋に比べるとはるかに立派でしたが、それでも仮住まいなのです。
2.幕屋は ヘブル8:5この祭司たちは、天にあるものの写しと影に仕えています。それは、モーセが幕屋を設営しようとしたときに、御告げを受けたとおりのものです。神は、「よく注意して、山であなたに示された型どおりに、すべてのものを作らなければならない」と言われました。 と言われているように、天にあるものの「写し」「影」です。決してここが本当の神の住まいではないということです。この地上における神の出張所のようなもので、ここにはモーセが入り、神と会見したので、「会見の幕屋」とも呼ばれます。

B.最高の材料で作られた
1.幕屋も神殿もこの地上における神の住まいで、この地上においてはここだけが神の住まわれる場所でした。仮住まいですが、神の住まいとして当時の最高のものを使って作られました。人々は神様の住まいとして最高の材料を集めて、それも自ら進んで材料を持って来ました。
2.そして幕屋は聖所、人々の罪の生贄を捧げる場でもあるので、その奉仕をする祭司やレビ人の働きや着る服も決められました。こうして幕屋でどの様にするのが神への礼拝であるかを示して行かれました。

Ⅱ.神と人とは隔てられている
A.誰もが入ることのできない幕屋
1.幕屋はその内部が二つに仕切られており、手前の祭司達が入って働きをする「聖所」と、決められた大祭司しか入ることのできない「至聖所」があります。聖所には12部族を表す12個のパンが供えられ、七枝の燭台(メノラー)、香の檀があります。至聖所には契約の箱(十戒の石の板が入った箱)が置かれています。
2.この聖所に入れるのが特別な人たちで、誰もが入ることはできませんでした。神と人とは隔てられているのです。特に皆さんもよくご存知の話、イエスが十字架で亡くなられたとき神殿の幕が上から真っ二つに裂けた話 マルコ15:37 しかし、イエスは大声をあげて、息を引き取られた。15:38 すると、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。 と。この時初めて神と誰もが神に近づけるようになったのです。それまで幕屋に神の臨在があっても、人々は近づけなかったのです。

B.幕屋の外側では・・・
1.幕屋の外側は庭のようになっており、さらに塀で仕切られて一般民衆は生贄を携えてでしかこの中に立ち入ることができません。この幕屋を中心に12部族が天幕を張って生活します。幕屋は神の臨在があるので、雲の柱が立ち上っています。移動するときはこの幕屋をたたんで持ち運ぶのです。
2.一箇所だけ東側に入り口があり、罪の赦しを願って生贄の動物を携えてこの門から入らねばなりません。 ヨハネ10:9 わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら救われます。 を、あらわす門です。そして、祭司は洗盤で手足を洗いきよめ、祭壇に生贄を捧げるのです。
3.このように神はご自身がいかに人間とは違って聖いお方であるかを示し、罪汚れを持ったままでは神に近づくことはできないことを示されました。

Ⅲ.現代の我々と幕屋(神殿)
A.我々が神の幕屋(神殿)
1.幕屋は神の仮住まいと言いましたが、本当の住まいはどこでしょうか? 神が私たちにも幕屋の規定のように会堂を造るように命じられたら、世界中の教会は個性のない、みんな同じ教会堂になったことでしょう。
2.現在の会堂は集まるための場所に過ぎませんから、この地上における神の住まいはクリスチャンの霊です。イエスは助け主・聖霊を遣わすと言ってくださり、ペンテコステの日からイエスを信じる人々の中に聖霊が住んでくださるようになりました。私達が幕屋であり、神殿です。

B.万人祭司
1.幕屋ではモーセだけが神と親しくお話をしていたのですが、幕屋も神殿も要らなくなったので、祭司も要らなくなりました。神と親しくお話しするのは私たちみんなです。それで「万人祭司」と言われます。
2.イエスの十字架の時に神殿の幕が上から裂かれたのは、大祭司無しに直接神とお話しできる関係に入れられたということなのです。クリスチャンはみんなイエス・キリストを通して大胆に神の御前に出ることができるのです。
3.そして、私たちのすべき事は何かというと儀式としての生贄などの礼拝ではなく、霊的な礼拝です。私たち自身を献げ、賛美と祈りをもって神を崇め、御言葉のパンをいただき、神のみこころを行わせていただくことです。

★ イスラエル人は神に命じられたとおりに幕屋を造りました。そのために最高の材料で造り、主を迎えました。今は私たちの体こそが神の住まいです。神が私たちの内に住まわれるとは何とすばらしいことでしょう。最高の礼拝を捧げようではありませんか。


そのうえで、わたしに従って来なさい

2022-08-11 07:30:04 | 礼拝説教
2022/8/14 礼拝説教
【テーマ】  十戒と福音
【説教題】 「そのうえで、わたしに従って来なさい」
【聖書箇所】 マタイ19:16-26
19:16 すると見よ、一人の人がイエスに近づいて来て言った。「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをすればよいのでしょうか。」
19:17 イエスは彼に言われた。「なぜ、良いことについて、わたしに尋ねるのですか。良い方はおひとりです。いのちに入りたいと思うなら戒めを守りなさい。」
19:18 彼は「どの戒めですか」と言った。そこでイエスは答えられた。「殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽りの証言をしてはならない。
19:19 父と母を敬え。あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。」
19:20 この青年はイエスに言った。「私はそれらすべてを守ってきました。何がまだ欠けているのでしょうか。」
19:21 イエスは彼に言われた。「完全になりたいのなら、帰って、あなたの財産を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。そのうえで、わたしに従って来なさい。」
19:22 青年はこのことばを聞くと、悲しみながら立ち去った。多くの財産を持っていたからである。
19:23 そこで、イエスは弟子たちに言われた。「まことに、あなたがたに言います。金持ちが天の御国に入るのは難しいことです。
19:24 もう一度あなたがたに言います。金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうが易しいのです。」
19:25 弟子たちはこれを聞くと、たいへん驚いて言った。「それでは、だれが救われることができるでしょう。」
19:26 イエスは彼らをじっと見つめて言われた。「それは人にはできないことですが、神にはどんなことでもできます。」

○ 先週、十戒をイエスがどのように捉えておられたかを見て、イエスを私達の心に迎えることで私達を神の子としてくださることを知りました。それはイエスにしか十戒は守れなかったのであり、私達は罪人であることを教えられるものでした。しかし、今日登場する青年は十戒を守っていると言うのです。果たしてそうなのでしょうか?
 
Ⅰ.どんな良いことをすればよいのか?
A.これからを悩む人々
1.一人の真面目なユダヤ人青年がイエスの所にやってきました。彼はユダヤ人が決めた律法を必死で守ってきた真面目な青年だと思います。しかし、そういう彼の悩みは 「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをすればよいのでしょうか。」 という悩みでした。こういうことは現代でも同じです。
2.ニコデモというユダヤ人指導者が悩んでイエスの所にやってきた話がヨハネの福音書3章に出てきますが、彼は晩年になってこれから自分の行くところに不安が生じ悩んでいました。年齢に関係なく、真面目に悩む人は多くいるのです。また、真面目な人ほど悩むのかも知れません。

B.何が欠けているのか?
1.イエスは青年の質問に何と答えられたでしょうか? 19:17 ・・・いのちに入りたいと思うなら戒めを守りなさい でした。戒めとは 「殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽りの証言をしてはならない。父と母を敬え。あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。」 で、要は「十戒を守れ」でした。ということはやはり神の国に入るためには十戒を守ることなのでしょうか。
2.この青年はすごいことに、これらのことは全部守ってきたと言っています。彼は良い事をしてきたというのです。(皆さんも結構十戒を守っておられるのでは無いですか。)だったら平安でいられるはずなのに彼は悩んでいます。 「私はそれらすべてを守ってきました。何がまだ欠けているのでしょうか。」 と、律法を守っているにもかかわらず平安がないから何か欠けていると思っているのです。

Ⅱ.イエスに従っていくこと
A.財産を売り払って・・・?
1.この青年の悩みに対するイエスの答は 19:21 「完全になりたいのなら、帰って、あなたの財産を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。そのうえで、わたしに従って来なさい。」 でした。ただ、イエスに従って来い」だけではなく、 あなたの財産を売り払って貧しい人たちに与え てが付いています。このイエスの答えに 19:22青年はこのことばを聞くと、悲しみながら立ち去った。 と、イエスに真面目に相談したらますます悩むことになってしまいました。なぜかというと 多くの財産を持っていたからである。 と、彼はイエスに従うことよりもお金が大事だったからです。(イエスのこの言葉は正しく理解しないとカルト宗教になります。)
2.イエスはこの青年に わたしに従って来なさい。 と言われましたが、果たしてこの青年はイエスに従うつもりで質問しに来たのでしょうか? 「あなたはそれだけ律法を守っているので立派です。あなたはいのちに入れます」とでも言ってもらうことで平安を持とうとしていたのでしょうか?

B.イエス・キリストより大事なものはあるか?!
1.いのちに入るにはイエスに従って行くことが必要なのです。そのためにはイエスよりも大事にしているものは捨てなければなりません。お金や物を持っていない人は私は大丈夫と思っているかも知れませんが、案外「自分自身」が捨てられないのです。自分が偶像化している人がいるのです。
2.福音とは何でしょうか? 色々な言い方ができるかもしれませんが、[GOOD NEWS]「良き知らせ」ですから、世界最大の良き知らせは何と言っても「イエスを信じる者は皆救われる」ということではないでしょうか。

Ⅲ.従うのは難しいのか?
A.初代教会の信徒に倣う
1.この青年のようにクリスチャンになったのに「何か欠けている」と感じるクリスチャンが多いのです。それは、イエスに従っていないからです。福音が真の福音になるのは、私達とイエスが一体化してこそなのです。
2.じゃ、具体的に「従う」とは何か? イエスの弟子達、特に使徒行伝を見ればいいですね。彼らは何をしていますか? 真っ先に礼拝です。祈りです。互いに助け合い、励まし合っています。伝道、奉仕。そうです。今だって教会がやっていることではないでしょうか。ただ、この青年は何かをすることで救われると思っていたのです。

B.神にはどんなことでもできる
1.弟子達も財産を売り払って貧しい人に与えたか考えたことでしょう。たぶんできていないのです。だから 「それでは、だれが救われることができるでしょう。」 と聞きます。大事なイエスの答は 19:26 イエスは彼らをじっと見つめて言われた。「それは人にはできないことですが、神にはどんなことでもできます。」 でした。救いは神のなさることです。私達の努力ではないのです。しかし、ある種の努力は有効です。それは「捨てる」ということです。
2.私達は神のために生きるのに邪魔なものを抱えこんでいないでしょうか? あの青年はお金を抱え込んでいました。それを捨てたくなかったのです。私達はどうでしょうか? 何を捨てるべきでしょうか?

★ どうもスッキリした信仰生活をしていないと言う人の背景にはイエスに従っていないことがあります。イエスに従えば苦難もありますし、大変なこともありますが、充実するのです。イエスを信じればあなたは救われているのです。 そのうえで、わたしに従って来なさい。 と言われるイエスの言葉にあなたはどのように応答しますか?

イエスだけが守れた十戒

2022-08-04 07:27:48 | 礼拝説教
2022/8/7 礼拝説教
【テーマ】  十戒と福音
【説教題】 「イエスだけが守れた十戒」
【聖書箇所】 マタイ22:37-40
22:37 イエスは彼に言われた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』
22:38 これが、重要な第一の戒めです。
22:39 『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という第二の戒めも、それと同じように重要です。
22:40 この二つの戒めに律法と預言者の全体がかかっているのです。」

○ 出エジプト記を説教して、ここしばらく十戒を語ってきましたが、遂に十戒を語り終えました。イエスの時代にはこの十戒を元に律法学者達によってどんどん決まりを作っていました。それは事細かな決まりで結局ユダヤ人自身を苦しめるようなものでした。では、イエスは十戒をどう捉えておられたでしょうか? 今日は出エジプト記を離れて新約聖書・マタイの福音書から見てみます。
 
Ⅰ.十戒は神の民の生き方を示す
A.十戒の復習
1.まず、十戒を簡単に復習してみましょう。
1.あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない。
2.あなたは自分のために偶像を造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。
3.あなたは、あなたの神、【主】の名をみだりに口にしてはならない。
4.安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ。
5.あなたの父と母を敬え。
6.殺してはならない。
7.姦淫してはならない。
8.盗んではならない。
9.あなたの隣人について、偽りの証言をしてはならない。
 10.あなたの隣人の家を欲してはならない。
2.十戒の前半4つが神と人との関係の戒めで、神認識を正しくするための戒めです。後半の6つが人と人との関係を正すものであり、社会を良きものとするための戒めです。ですから、これを守らないことが罪だと教えています。

B.律法(トーラー)
1.聖書の最初5巻はモーセの書で「モーセ五書」また、「律法」と呼ばれています。この中には613の規定があります。それをまとめたものが十戒と言ってよいかと思います。これらの規定は神様の求める基準です。
2.イスラエル人は長年エジプトで奴隷生活をしていたため、神との関係も崩れており「神の民」として選ばれたアイデンティティも無くなっていましたので、再教育する必要がありました。そこで、神の基準を教えておられるのです。

Ⅱ.十戒によって罪を認識させる
A.十戒を守れる人はいない
1.十戒を中心に律法を守ることで神の基準に達するのですが、残念ながら誰一人としてその基準には達せませんでした。つまり十戒は私達が罪人であることを教えるものでもあるのです。 ローマ 3:20 なぜなら、律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。 と、あります。
2.人々は十戒によって「罪人」であることを認識させられ、救い主の必要を覚えさせられるのです。それは ガラテヤ3:24 こうして、律法は私たちをキリストに導く養育係となりました。それは、私たちが信仰によって義と認められるためです。 と、パウロが言うとおりなのです。十戒では救われないのです。むしろ、救いが必要だと知らされるのです。

B.十戒を守れたのはイエスだけ
1.十戒という神の基準を人間は誰一人守れないというのは、結局人間がもともと「罪人」だからです。しかし、イエスはもともと「神」ですので、「罪のない人」として誕生し、「罪のない人」として生活されました。
2.イエスは ヘブル 4:15 私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。 とあるように罪のない人です。イエスは十戒を完璧に実行されました。完璧というのはただ表面上守ったというのではなく、みこころを行ったということです。

Ⅲ.福音は十戒を全うする
A.十戒の中心は愛
1.この十戒の中心は何でしょうか? イエスが語っておられます。それが今日のテキストです。 22:37 イエスは彼に言われた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』22:38 これが、重要な第一の戒めです。22:39 『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という第二の戒めも、それと同じように重要です。22:40 この二つの戒めに律法と預言者の全体がかかっているのです。」 十戒の中心は、神を愛することと、人を愛することです。
2.パウロも ガラテヤ5:14 律法全体は、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という一つのことばで全うされるのです。 と言っています。つまり、律法を守るというのは愛の人になることなのです。イエス・キリストに似た人となることなのです。

B.十戒の中にある福音
1.この十戒を御心のままに実行されたのがイエスだと言いましたが、だからこそイエスを心に迎えることで私達は律法抜きに「神の子」としていただけたのです。 マタイ5:17 わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。 
2.イエスを心に迎えるというのは、神の子として生まれたので、イエスのように成長することを願っているということです。イエス無しで私達の願いだけではイエスのように成長しません。しかし、私達の心の中心にイエスが来てくださることで私たちは変えられるのです。ここに福音があります。

★ 神は十戒を通して私達に苦しい戒めを課したのではありません。神に信頼することを教えておられます。つまり、イエス・キリストを信頼すれば良いのです。このお方に信頼してしがみつけばいいのです。イエス・キリストはあなたといつも共にいてくださいます。それが福音です。