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礼拝説教、聖書を読んで感じた事

イエス様に惚れ込んだ人

2016-07-31 15:14:54 | 礼拝説教
2016/7/31礼拝説教
【テーマ】  愛の人・裁かない人
【説教題】 「イエス様に惚れ込んだ人」
【聖書箇所】 ローマ14:7-12
14:7 私たちの中でだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません。
14:8 もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。
14:9 キリストは、死んだ人にとっても、生きている人にとっても、その主となるために、死んで、また生きられたのです。
14:10 それなのに、なぜ、あなたは自分の兄弟をさばくのですか。また、自分の兄弟を侮るのですか。私たちはみな、神のさばきの座に立つようになるのです。
14:11 次のように書かれているからです。
  「主は言われる。わたしは生きている。
  すべてのひざは、わたしの前にひざまずき、
  すべての舌は、神をほめたたえる。」
14:12 こういうわけですから、私たちは、おのおの自分のことを神の御前に申し開きすることになります。

○ 今日の御言葉を読んでいて真っ先に思い出したのは ピリピ1:21 私にとっては、生きることはキリスト、死ぬことも益です。 という御言葉でした。「私は誰のために生きているのだろう?」と考えさせられます。

Ⅰ.イエス様に惚れ込んだパウロ
A.誰かのために生きている
1.私はよく若い人に「あなたがこの世に生きているのは自分のためでは無く、誰かのために生きているのです。それは何万もの人のためかも知れないし、たった一人の人のためかも知れない。でも神様は誰かのためにあなたにという人が必要と考えておられるのです」と語ってきました。
2.自分のためにだけ生きている人生は虚しいと思います。人は決して「自分さえよければいい」という生き方で真の満足は得られないものです。何故かというと神様がそのように人間をお造りになっていないからです。人は誰かのために生きることで生きがいを持つのです。

B.生きがいはイエス様
1.パウロの生きがいはイエス様でした。彼は「生きるのも、死ぬのも、主のため」と言っています。この生き方こそが私たちにとっても最高の人生を味わう生き方なのです。
2.では、何故、パウロはそんな風に言えたのでしょうか? それはパウロがイエス様によって罪を赦されて救われたからです。イエス様は全ての人を救おうとなさっているのです。そのことを自分の救いを通して痛切に知ったパウロは、何としても全ての人がイエス様を信じて欲しいと願ったのです。

C.裁かないイエス様にならうパウロ
1.また、イエス様がそのようにして自分を裁かず、異邦人をも裁かず、救おうとなさったことを思うと、感無量だったと思います。人は尊敬する人に似ようとするものです。クリスチャンを裁いていたパウロが裁かない人になるのです。
2.私たちはみんな神の裁きの座に立たねばならないときが来ますが、十字架によって救われたということは、もう裁かれないということです。罪深いパウロも裁かれないことを確信し、この裁かないイエス様に惚れ込んだのです。

Ⅱ.イエス様に惚れ込んだ私たち
A.イエス様の受けられた裁き
1.イエス・キリストは私たちのために生き、また死んでくださったのです。イエス・キリストが十字架に死んでくださったのは、私たちが裁かれることの無いためです。イエス様だけが天の神様にとりなすことができるお方だからです。
2.イエス様だけが「愛の人」だと言ってきましたが、イエス様のとりなしは愛の塊でした。命を捨ててとりなし、私たちに裁きが下ることの無いように、全ての裁きを自分の身に負ってくださったのです。

B.主の栄光のために生きる
1.パウロの生き方はイエス様に惚れ込んだので、この「主のために」というところにあります。私たちもそうでありたいのです。一日を終えて、私たちは日記に「今日も一日主のために生きた」と書けるでしょうか?
2.ヨハン・セバスチャン・バッハ(1685-1750)は、自筆楽譜の最後に「SDG」というサインを残しました。「Soli Deo Gloria」の略字で「神のみに栄光あれ」という意味です。弟子たちに教えるときにも、「音楽の目的は第一に神に栄光を帰し、そして、隣人に喜びを与えることだ」と繰り返し語ったと言われます。彼もまたイエス様に惚れ込んだ人なのではないでしょうか。

C.同じ目的に向かう家族
1.ここにいる人みんな、イエス様が愛された人です。イエス様が裁きを受けないように身代わりになってくださったのです。その人を私たちがさばくことができるでしょうか? さばいてはいけないのです。
2.パウロは、どうして同じクリスチャン同士が裁き合うことができようかと言うのです。お互いイエス様に惚れ込んで一つ方向を向いて、イエス様の大きな目的に向かっている家族ではないでしょうか。

● 私はイエス様に惚れ込んだおばあちゃんを知っています。嫁いだ頃からお姑さんのいびりにあい、長年苦労してこられ、憎しみさえ湧き起こってきたそうです。そのお姑さんが寝付き、おしめをするようになったのです。今のように紙おしめが無かった時代です。布おしめを取り替え、水洗いするのですが、ある冬の朝、冷たい水で手が切れそうになる中、「神様、なんで私がこの人のためにこんな事をしなければならないんですか!」と愚痴をこぼしていたそうです。ところが、次の瞬間、お姑さんから受けた悪いことが全部頭の中から消えたそうです。頭がおかしくなったのかと自分の名前などを言ってみると何も問題無いのに、お姑さんから受けたいびりなど、悪いことは一切思い出せなくなったのです。そればかりか、おしめを洗いながら「感謝です、感謝です」と、無性にお姑さんを愛おしく思えるようになったそうです。そして、お姑さんが亡くなられるまで愛をもって介護されたそうです。彼女曰く、「聖霊が私を変えてくださった!」と喜びの証でした。

★ 聖霊は私たちを愛の人にします。聖霊は互いに裁き合わない人にしてくださいます。聖霊は私たちをまずイエス様に惚れ込ませてくださるのです。

あなたの信仰は強い?

2016-07-24 18:43:07 | 礼拝説教
2016/7/24礼拝説教
【テーマ】  愛の行い・裁かない
【説教題】 「あなたの信仰は強い?」
【聖書箇所】 ローマ14:1-6
  14:1 あなたがたは信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。
14:2 何でも食べてよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜よりほかには食べません。
14:3 食べる人は食べない人を侮ってはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったからです。
14:4 あなたはいったいだれなので、他人のしもべをさばくのですか。しもべが立つのも倒れるのも、その主人の心次第です。このしもべは立つのです。なぜなら、主には、彼を立たせることができるからです。
14:5 ある日を、他の日に比べて、大事だと考える人もいますが、どの日も同じだと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。
14:6 日を守る人は、主のために守っています。食べる人は、主のために食べています。なぜなら、神に感謝しているからです。食べない人も、主のために食べないのであって、神に感謝しているのです。

○ 今日の御言葉には「信仰の弱い人」という言葉が出てきます。では「信仰の強い人」もいるのでしょうね。皆さんはどちらのタイプだと思いますか? ここでは信仰の篤い人、薄い人と言っているのでは無いのですね。信仰の強弱ってどのようにして計ることができるのでしょうか?

Ⅰ.信仰が強い・弱いとは?
A.仲違いする信徒達
1.パウロは14章の最初から あなたがたは信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。 と信仰の仲間でありながら受け入れ合うことのできないクリスチャン達に対して「受け入れなさい」と強く言っています。これがクリスチャンの交わりの根本です。
2.では実際にどのようにさばいてしまったのでしょうか? ここで取り上げているのは 14:2 何でも食べてよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜よりほかには食べません。 と 14:5 ある日を、他の日に比べて、大事だと考える人もいますが、どの日も同じだと考える人もいます。 ということです。
3.このどちらの意見が正しいとかの問題では無いのです。何でも食べて良いと信じている「強い人」と、野菜しか食べない「弱い人」、そのどちらもが互いをさばいてはいけないと言っています。主義の違いで仲違いしているようです。単に菜食主義者は「弱い人」というのではありません。

B.困った信徒達
1.どこのアンケート調査かわからないのですが、牧師たちを対象に「教会で一番困る人はどういう人ですか?」という調査があったそうです。結果、第一は「四十日間断食をした人」、二位が「徹夜祈祷をよくする人」、三位は「神学を勉強した人」でした。断食、徹夜、神学の勉強、これらのことは個人の霊的成長にとってとてもすばらしいものです。
2.それなのに、なぜこれらのことが問題になるのでしょうか? それはこれらのことを経験した多くの人が、それによって他人をさばくからです。自分はやったのだということから「うちの牧師は、・・・」とか、「うちの役員たちはもっと祈らなくちゃ」と言うのです。
3.祈った、勉強したのであれば、より謙遜に、人を思う信徒にならねばならないのに、かえって人をさばいてしまいやすいのです。こういう人を「強い人」と呼ぶのでしょうか?

Ⅱ.信仰は一つでも・・・
A.ユダヤ律法の残るクリスチャン達
1.ユダヤ人には旧約の律法で食べてはならないものが決められていました。豚、鰻、タコ等色々あるのです。野菜は大丈夫です(参照:レビ記11章)。また、牛、羊などの食べてよい動物でも、偶像の神々に備えられてから売られていたらしく、クリスチャンの中には偶像に供えられたものは汚れていると信じて、食べない人がいたのです。
2.パウロはどちらのタイプなのでしょうか? パウロは何でも食べて良いと信じるタイプです(Ⅰコリント8章に詳しく出てきます)。パウロは偶像の神なんて本来無いのだから、偶像に備えられたとしても何の問題も無い、食べて良いというのです。しかし、パウロがそんな肉を食べるのを弱いクリスチャンが見てつまずくなら「私は肉を一生食べない」と言ったのです。

B.様々な教会がある
1.現代では旧約の律法とはまた違った形でその違いが生まれてきます。たとえば「洗礼」。私たちは基本的にバプテスト派にならい、「浸礼」の形を採っています。しかし、「滴礼」を行っているグループもあります。
2.コーヒーや紅茶など、カフェインをが入っている飲み物を飲んではならないと主張する教会。男女交際をしてはならないと考えていう教会もあるようですし、女性はズボンをはいてはならないというとところもあるそうです。「祈りましょう」と言うと大きな声で祈る教会、声が聞こえない静かに祈る教会もあります。

Ⅲ.大事なことは何か
A.さばかない
1.イエス様が裁いてはならないと言われたので、裁かないようにすべきです。前に語りましたが、マタイ7章の有名なお話のはじめに マタイ7:1 さばいてはいけません。 と言われています。イエス様が言われたことを守りたいですね。
2.教会には、強い人も弱い人もいるのです。互いにさばかないことなのです。

B.受け入れ合う
1.主義・主張は違っても、 主のために と励んでいるのです。 14:6 日を守る人は、主のために守っています。食べる人は、主のために食べています。なぜなら、神に感謝しているからです。食べない人も、主のために食べないのであって、神に感謝しているのです。 と。神に感謝しているのだからです。
2.クリスチャンでも色々な生き方があります。明らかな悪、罪を犯しながら生きるのはもちろん論外です。しかし、イエス様を愛して生きる人達は違いがあっても受け入れ合うのがクリスチャンの交わりの根本だとパウロは言うのです。


★ あなたの信仰は強くても、弱くてもどちらでもかまいません。相手をさばかないことです。受け入れることです。

光の武具・キリストを着る

2016-07-17 17:47:01 | 礼拝説教
2016/7/17礼拝説教
【テーマ】  愛の行い
【説教題】 「光の武具・キリストを着る」
【聖書箇所】 ローマ13:11-14
  13:11 あなたがたは、今がどのような時か知っているのですから、このように行いなさい。あなたがたが眠りからさめるべき時刻がもう来ています。というのは、私たちが信じたころよりも、今は救いが私たちにもっと近づいているからです。
13:12 夜はふけて、昼が近づきました。ですから、私たちは、やみのわざを打ち捨てて、光の武具を着けようではありませんか。
13:13 遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活ではなく、昼間らしい、正しい生き方をしようではありませんか。
13:14 主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。

○ 今日の御言葉はあの有名な神学者アウグスチヌスが回心したときの御言葉です。クリスチャンである母モニカの祈り虚しく、彼は新興宗教のマニ教に入り、快楽に目覚めてしまい、とんでもない人生を送っていました。そんな彼が苦しんでいた時に、隣の家の子どもが「取って読め」「取って読め」と歌うのを聞いて、不思議に涙が出、友人の家に飛び込み、聖書を開いて読んだのがここ。彼は一気に平安を得て、教会へと飛び込んだのです。

Ⅰ.今がどんな時か知っている
A.時間と時
1.今から2000年近く前のことですが、この時に「世の終わり」「再臨」が近いと言っていました。私たちは「時」と言うとどうしても「何年、何月、何日、何時」というような時間を考えがちで、「もう2000年近く経つのにまだ世の終わりは来ないではないか?」と言いがちです。
2.AD999年、ヨーロッパの多くの人々が自分の財産を売却して貧しい人たちに与えたりしたそうです。AD1000年、新しい千年期の幕開けにキリストが再臨すると思ったからです。
3.私がクリスチャンになった1973年、そういう話はたくさんありました。2000年が来るのか、いよいよ再臨なのかと。しかし、「時」というのは単に時間を表す「クロノス」という時だけではなく、「十字架の時」「時満ちて」というような「カイロス」という時があるのです。

B.どんな時
1.先日町を歩いていると、珍しく時間を聞かれました。最近はみんな携帯を持っていて、時計が無くても時間がわかるものです。以前は子どもからよく時間を聞かれたものです。「今何時ですか?」と。「5時10分だよ」というと、「いけない、急いで帰らなくちゃ!」と、かけ出す子がいたものです。
2.その子が「時間」を知りたかったのは、何かお母さんと約束があったか、塾があったのかも知れません。5時10分は時間ですが、その子にとってお母さんとの約束の「時」や、塾に行く「時」なのです。このようにこの子はどんな「時」か知っているのです。
3.私たちは今がどんな時か知っているでしょうか? 今がどのような時か の「時」とは正にイエス様の十字架・復活・昇天から、もう一度お出でになる「再臨の時」までの間の時なのです。

Ⅱ.光の武具を着けよう
A.眠りから覚める時刻が来た
1.今、眠っている人はいませんか? 霊的に眠っているということがあるのです。私は大学の授業で大失敗した経験があります。それは美術の教師になると思っていなかったために「美術史」の授業を大幅に欠席したことです。出席を取らない先生で試験も無いのです。教会と聖書研究会で忙しかった私はその授業を休むことが多かったのです。ところが教師の採用試験は美術で受けることになったのです。しかも美術の教師になったのです。恥ずかしいことに「美術史」が抜け落ちた教師です。大学生の「時」、私はこの科目を勉強する「時」だと目覚めていなかったのです。つまり眠っていた状態です。
2.後になれば分かることが多々あるのですが、その時には気づいていないことが多いのです。天国に行ってから気づくということは無いと思うのですが、私たちは果たして 今がどのような時か知っている でしょうか? ヨハネ12:36 あなたがたに光がある間に、光の子どもとなるために、光を信じなさい。 とあるように、この地上にいる間は、光であるイエス様を信じる「時」なのです。

B.昼が近づいた
1.闇というのは 遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活 という正しくない生き方です。悪はちょっとの悪からどんどんエスカレートして行きます。そして、依存症のようになり、それを打ち捨てることができないものです。
2.しかし、「時」を知っているなら、 夜はふけて、昼が近づ いたのですから、光の武具で身を固める必要があります。  エペソ6:13 ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。 6:14 では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、 6:15 足には平和の福音の備えをはきなさい。 6:16 これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。 6:17 救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。 と。

Ⅲ.イエス・キリストを着よう
A.キリストのように生きる人
1.当時のクリスチャン達はまるで「キリスト」という外套を着ているかのように生きていたのではないでしょうか。使徒行伝で「キリストの弟子達」のことを世の人々は「キリスト者(クリスチャン)」と呼ぶようになった背景は彼らが「キリストを着ているよう」だったからではないでしょうか。
2.だとすれば私たちはどのように生きるべきなのでしょうか? どのように生きようとするのか? 決めるのは私たち自身です。「キリストのように生きたい」と願いますか。

B.愛の行いをする人
1.光の武具を着けようではありませんか。 とは、 主イエス・キリストを着なさい。 ということです。アウグスチヌスが肉の欲に生きていて、虚しさだけが彼を襲ってきたとき、彼は幼子の言葉にハッとして、聖書を開いたのです。その時、彼は今がどのような時か気づいたのです。イエス・キリストに立ち帰る「時」だと。そうしなければ自分の先は無いのだと。
2.そして、彼は自身の証を書き、人々に積極的にイエス・キリストを伝えるのです。 主イエス・キリストを着 るというのは、イエス様のなさりたいことを私たちもするということです。イエス様のなさる「愛の行い」を私もするということです。

★ 肉の欲のために心を用いないで、イエス・キリストを着ようではありませんか。