2016/6/26礼拝説教
【テーマ】 愛の行い
【説教題】 「イエス様からいただいた愛」
【聖書箇所】 ローマ13:8-10
13:8 だれに対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことについては別です。他の人を愛する者は、律法を完全に守っているのです。
13:9 「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」という戒め、またほかにどんな戒めがあっても、それらは、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」ということばの中に要約されているからです。
13:10 愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします。
○ 12章から「愛の行い」というテーマできていますが、今日のテキストにはストレートに「愛」という言葉が続出します。
Ⅰ.負債はNG
A.金品の貸し借りは要注意
1.金品の貸し借りはよほど仲の良い友達でも問題が起こらないとは限りません。特にお金に関してはそうです。お金に関するトラブルは親子・親族の間でもたくさんあります。基本的に貸し借りはしないことです。
2.だからといって、聖書がすべて貸し借りを禁じているわけではありません。期日までにはきちんと返済すべき事は教えています。また、返す力の無い者から命に関わるほどの取り立てをしてはいけないことも書かれています。
B.負債は返すべき
1.負債があるということは、相手に対しても失礼になるばかりか、自分もその負債によって心が縛られていることになります。互いに自由を奪い、より良い人間関係を壊してしまいかねません。
2.会堂建築の際、教会債を発行してお金を借りることがあります。多くの牧師は返済が済むまでは心が安まらないと言います。確かに返すのだけれど、負債は辛いものです。正しい負債であっても負債は心の平安を欠きます。
C.証になる生き方をしよう
1.パウロはここで、 だれに対しても、何の借りもあってはいけません。 と強く言っています。これは社会人としてのマナーというか義務だということです。負債(借金)が神様の栄光を表さず、証にならないことが多いからです。
2.お金の管理、管理能力を問われるのではないでしょうか。未信者の方は、神様そのものがわからないのですから、クリスチャンの言動から判断することが多いのです。
Ⅱ.愛の負債はOK
A.負債と義務
1.パウロは基本的に負債はダメだと言いますが、 ただし、互いに愛し合うことについては別です。 と言います。この言葉が今日の中心です。「愛」という負債です。
2.負債は返すべきですが、「愛」という負債だけはいつまでも残るのです。お金なら借りた分を返せば良いのですが、愛は無限です。返しきれないのです。
3.ここのところは「人を愛すべき義務がある」というふうに読んでもよいと思います。私たちは互いに愛し合うべき義務があるのです。
B.福音宣教という負債
1.パウロは、 ローマ1:14 私は、ギリシヤ人にも未開人にも、知識のある人にも知識のない人にも、返さなければならない負債を負っています。 と言っています。パウロは異邦人から何かを借りたのでしょうか? ここは異邦人に福音を伝えるべき責任・義務を感じているということです。
2.パウロは神様から愛されてきたユダヤ人でした。それなのに、かつて彼はイエス様を迫害したのです。そんな滅ぼされて当然の彼が赦され、救われたのです。
3.罪深い自分を赦してくださった神様は異邦人も救われることを知ったパウロは、異邦人宣教を自分の義務と考えたのです。しかも、それは単なる義務感ではなく、「愛」からです。
Ⅲ.愛は律法を全うする
A.律法と愛
1. 「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」 という律法を守る人は 律法を完全に守っている 人です。 :10 愛は律法を全うします。 と同じです。「全うする」は「満たす」「成就する」という意味で、愛は律法の具体的な要求を満たすのです。
2.ユダヤ人にとって大事な 「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」という戒め という十戒は 「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」ということばの中に要約されているからです。(参照 レビ19:18) と言っています。イエス様も言われたように、律法というのは神を愛することと、人を愛することに要約されるのです。
3.律法は神に対して、人に対して、正しい関係をつくるために設けられたものです。その中心は「愛」です。ですから愛すれば律法を全うしているのです。
B.イエス・キリストは愛の人
1.パウロはみんなに「愛の人」になって欲しくて、律法を持ち出しますが、律法を守れば社会的には「善良な人」になるかも知れませんが、「愛の人」になるわけではないのです。
2.よく言われることですが、「愛」を「イエス・キリスト」に置き換えてみるとわかりやすいです。 イエス・キリストは隣人に対して害を与えません。それゆえ、イエス・キリストは律法を全うします。 となります。その通りです。しかし、自分の名前を入れてはどうも上手くいきません。愛の人はイエス様だけです。
C.イエス様の愛をいただこう
1.私たちはこのイエス様に愛されたのです。私たちはイエス様に返すことのできない愛の負債を負っています。だから私たちもイエス様がなさったように 「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」 を実行するのです。
2.愛のない私たちはどこまでもイエス様から愛をいただかねばなりません。借りたって返せませんから、いただくのです。だから神様は聖霊を私たちにくださったのです。聖霊は「愛」ですから。聖霊を返してはいけません。
★ 愛の行いには「貸し借り」をしない関係がありますが、「愛」は別です。イエス様から受けた愛は大きすぎて返せません。イエス様から受けた愛が私たちの内側で燃えて、「救われて欲しい」という熱愛になるのです。さらに、「祝福して欲しい」と祈る心になるのです。
【テーマ】 愛の行い
【説教題】 「イエス様からいただいた愛」
【聖書箇所】 ローマ13:8-10
13:8 だれに対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことについては別です。他の人を愛する者は、律法を完全に守っているのです。
13:9 「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」という戒め、またほかにどんな戒めがあっても、それらは、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」ということばの中に要約されているからです。
13:10 愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします。
○ 12章から「愛の行い」というテーマできていますが、今日のテキストにはストレートに「愛」という言葉が続出します。
Ⅰ.負債はNG
A.金品の貸し借りは要注意
1.金品の貸し借りはよほど仲の良い友達でも問題が起こらないとは限りません。特にお金に関してはそうです。お金に関するトラブルは親子・親族の間でもたくさんあります。基本的に貸し借りはしないことです。
2.だからといって、聖書がすべて貸し借りを禁じているわけではありません。期日までにはきちんと返済すべき事は教えています。また、返す力の無い者から命に関わるほどの取り立てをしてはいけないことも書かれています。
B.負債は返すべき
1.負債があるということは、相手に対しても失礼になるばかりか、自分もその負債によって心が縛られていることになります。互いに自由を奪い、より良い人間関係を壊してしまいかねません。
2.会堂建築の際、教会債を発行してお金を借りることがあります。多くの牧師は返済が済むまでは心が安まらないと言います。確かに返すのだけれど、負債は辛いものです。正しい負債であっても負債は心の平安を欠きます。
C.証になる生き方をしよう
1.パウロはここで、 だれに対しても、何の借りもあってはいけません。 と強く言っています。これは社会人としてのマナーというか義務だということです。負債(借金)が神様の栄光を表さず、証にならないことが多いからです。
2.お金の管理、管理能力を問われるのではないでしょうか。未信者の方は、神様そのものがわからないのですから、クリスチャンの言動から判断することが多いのです。
Ⅱ.愛の負債はOK
A.負債と義務
1.パウロは基本的に負債はダメだと言いますが、 ただし、互いに愛し合うことについては別です。 と言います。この言葉が今日の中心です。「愛」という負債です。
2.負債は返すべきですが、「愛」という負債だけはいつまでも残るのです。お金なら借りた分を返せば良いのですが、愛は無限です。返しきれないのです。
3.ここのところは「人を愛すべき義務がある」というふうに読んでもよいと思います。私たちは互いに愛し合うべき義務があるのです。
B.福音宣教という負債
1.パウロは、 ローマ1:14 私は、ギリシヤ人にも未開人にも、知識のある人にも知識のない人にも、返さなければならない負債を負っています。 と言っています。パウロは異邦人から何かを借りたのでしょうか? ここは異邦人に福音を伝えるべき責任・義務を感じているということです。
2.パウロは神様から愛されてきたユダヤ人でした。それなのに、かつて彼はイエス様を迫害したのです。そんな滅ぼされて当然の彼が赦され、救われたのです。
3.罪深い自分を赦してくださった神様は異邦人も救われることを知ったパウロは、異邦人宣教を自分の義務と考えたのです。しかも、それは単なる義務感ではなく、「愛」からです。
Ⅲ.愛は律法を全うする
A.律法と愛
1. 「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」 という律法を守る人は 律法を完全に守っている 人です。 :10 愛は律法を全うします。 と同じです。「全うする」は「満たす」「成就する」という意味で、愛は律法の具体的な要求を満たすのです。
2.ユダヤ人にとって大事な 「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」という戒め という十戒は 「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」ということばの中に要約されているからです。(参照 レビ19:18) と言っています。イエス様も言われたように、律法というのは神を愛することと、人を愛することに要約されるのです。
3.律法は神に対して、人に対して、正しい関係をつくるために設けられたものです。その中心は「愛」です。ですから愛すれば律法を全うしているのです。
B.イエス・キリストは愛の人
1.パウロはみんなに「愛の人」になって欲しくて、律法を持ち出しますが、律法を守れば社会的には「善良な人」になるかも知れませんが、「愛の人」になるわけではないのです。
2.よく言われることですが、「愛」を「イエス・キリスト」に置き換えてみるとわかりやすいです。 イエス・キリストは隣人に対して害を与えません。それゆえ、イエス・キリストは律法を全うします。 となります。その通りです。しかし、自分の名前を入れてはどうも上手くいきません。愛の人はイエス様だけです。
C.イエス様の愛をいただこう
1.私たちはこのイエス様に愛されたのです。私たちはイエス様に返すことのできない愛の負債を負っています。だから私たちもイエス様がなさったように 「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」 を実行するのです。
2.愛のない私たちはどこまでもイエス様から愛をいただかねばなりません。借りたって返せませんから、いただくのです。だから神様は聖霊を私たちにくださったのです。聖霊は「愛」ですから。聖霊を返してはいけません。
★ 愛の行いには「貸し借り」をしない関係がありますが、「愛」は別です。イエス様から受けた愛は大きすぎて返せません。イエス様から受けた愛が私たちの内側で燃えて、「救われて欲しい」という熱愛になるのです。さらに、「祝福して欲しい」と祈る心になるのです。