バイブルサロン

礼拝説教、聖書を読んで感じた事

私たちに最も大切なこと

2022-03-30 11:08:30 | 礼拝説教
2022/4/3 イースターウエルカム礼拝
【テーマ】  十字架と復活
【説教題】 「私たちに最も大切なこと」
【聖書箇所】 Ⅰコリント15:3-8
15:3 私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、
15:4 また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、
15:5 また、ケファに現れ、それから十二弟子に現れたことです。
15:6 その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。その中にはすでに眠った人も何人かいますが、大多数は今なお生き残っています。
15:7 その後、キリストはヤコブに現れ、それからすべての使徒たちに現れました。

15:8 そして最後に、月足らずで生まれた者のような私にも現れてくださいました。

○ 最近ではイースターも一般的に知られるようになりましたが、クリスマスほどには知られていません。なぜかというとクリスマスは12月25日と日が決まっていますが、イースターは「春分の日の後の、最初の満月の次の日曜日」とややこしいからです。それと、クリスマスと言えばイエス様の誕生ですからわかります。しかし、イースターは十字架で死なれたイエス様が復活した日ですから、信じられないという人が多いからです。今日は信じられない人の多い、このイースターについてお話しします。
 
Ⅰ.最も大切なこと・十字架
A.聖書に書いてあるとおり
1.イエス様の十字架のことは旧約聖書に預言されていました。詩篇22編とイザヤ書53章はその中でも有名です。詩篇22:1はイエス様がこの言葉を十字架上で語っておられます。また、22:16-18には手足が刺し通されること、骨は砕かれないこと、衣が分けられることも書かれています。イザヤ53章は、イエスの十字架に向かう姿や生贄としてのイエスの姿が克明に書かれています。
2.そのような預言があるということは、神が遙か昔から人類の救いのために計画を持たれていたことがわかります。そして、私たちには分からないことですが、その時を今からおおよそ2000年前と定められ、その日それらの預言は実現しました。

B.わたしたちの罪のために死なれた
1.ユダヤ人のためだけのイエス・キリストではなく、私たちのためでもあるのです。死なない人間がいないのと同じく、罪のない人は誰もいません。そして誰もその罪の解決ができません。ということは誰も神の元(天国)にはいけないということです。そこで神ご自身がその解決を与えてくださったのです。それがイエスの十字架でした。
2.私のためにイエス様が十字架にかかってくださったことで私の罪が赦されたということを、私は自分の腰の手術で感じました。私は2006年7月に腰椎椎間板ヘルニアの手術をしました。私は麻酔で眠っている間にすべては終わっていました。わたしの問題は私の知らないところで完璧に取り去られていたのです。イエス様の十字架も私の知らないところで行われましたが、私の罪を完璧に取り除いたのです。手術台に上がらねば手術はしていただけないように、私たちもイエス様の手術台に上がることで罪は取り除いていただけるのです。

Ⅱ.最も大切なこと・復活
A.聖書に書いてあるとおり
1.イエス様の十字架は一般的にも知られている歴史的な事実ですが、復活についてはなかなか信じられていない事実です。そのことが聖書にどのように書かれていたかを見ると、 詩篇16:10 あなたは私のたましいをよみに捨て置かずあなたにある敬虔な者に滅びをお見せにならないからです。 とあります。
2.イエス様は マタイ12:40-41 ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、地の中にいるからです。・・・しかし見なさい。ここにヨナにまさるものがあります。 と、ヨナ書を取り上げてご自分の復活をほのめかされました。

B.三日目によみがえられた
1.どうして復活が大事なのでしょうか? もしイエス様が復活されなくて、私たちの罪のために身代わりの死を遂げただけならどうしてわたしたちの罪が赦されたとわかるでしょうか? 復活したということはわたしたちの罪の解決ができたことを証明しているのです。
2.また復活というのはただ生き返っただけではありません。もしそうならまだ3日目ですからまだ痛くて痛くてたまらない体でしょう。イエス様の復活の体は私たちがいずれいただくことのできる完璧な体を示すために見せてくださった特別な復活の体です。痛みはありませんし、時空間に支配されていません。これは今まではイエス様だけに起こったことですから、一般的で無いために信じられないという人が多いのです。

Ⅲ.十字架と復活の証人
A.証人ペテロ
1.イエス様の弟子達はイエス様が復活することを信じていませんでした。そんな不信仰な弟子達にイエス様は復活して現れてくださいました。特にいつもイエス様の近くにいたペテロ、彼はイエス様の十字架裁判の時にも近くにいたのですが、「イエスなんて知らない」と3回も弟子であることを否定した人です。その彼にもイエス様は優しく現れてくださったのです。そこから彼はイエス様のために命をかけて伝道する人になりました。
2.ペテロだけでは無く、500人以上の弟子達にその姿を現されました。時には閉じられた部屋の中に突然現れなさいました。これが空間に支配されない姿です。また、突然そこから別の弟子達のいるところに行かれました。不思議ですが、彼等がその証人です。

B.証人パウロ
1.イエスを十字架にかけて殺すことに大賛成していた一人に若いパウロがいます。血気盛んな人で頭もよく、イエスの復活を真っ向から否定していて、クリスチャン達を迫害していた人です。そのパウロの目が見えないようにされてイエスは彼に語られ、その後、イエスの弟子達によってイエスの事実を教えてもらうのです。そこで彼は変えられました。
2.変えられた彼は 15:8 そして最後に、月足らずで生まれた者のような私にも現れてくださいました。 と、その恵みを語っています。あんなにイエスを否定していたのに、神に殺されることもなく、イエスに愛されて、真に生きがいをもったのです。彼は持ち前の知識を神のために用い、人々に語る人となったのです。

★ 最も大事なこと、それはあたなたの人生において最も大事なことなのです。イエス様の十字架と復活があなたの人生を最も有意義なものにします。そして、死後も永遠の命が保障されているのです。命に関わることですので、最も大事なことなのです。


人に口をつけたのは誰か?

2022-03-24 08:13:38 | 礼拝説教
2022/3/27 礼拝説教
【テーマ】  召命
【説教題】 「人に口をつけたのは誰か?」
【聖書箇所】 出エジプト3-4章
4:10 モーセは【主】に言った。「ああ、わが主よ、私はことばの人ではありません。以前からそうでしたし、あなたがしもべに語られてからもそうです。私は口が重く、舌が重いのです。」
4:11 【主】は彼に言われた。「人に口をつけたのはだれか。だれが口をきけなくし、耳をふさぎ、目を開け、また閉ざすのか。それは、わたし、【主】ではないか。
4:12 今、行け。わたしがあなたの口とともにあって、あなたが語るべきことを教える。」
4:13 すると彼は言った。「ああ、わが主よ、どうかほかの人を遣わしてください。」
4:14 すると、【主】の怒りがモーセに向かって燃え上がり、こう言われた。「あなたの兄、レビ人アロンがいるではないか。わたしは彼が雄弁であることをよく知っている。見よ、彼はあなたに会いに出て来ている。あなたに会えば、心から喜ぶだろう。
4:15 彼に語り、彼の口にことばを置け。わたしはあなたの口とともにあり、また彼の口とともにあって、あなたがたがなすべきことを教える。
4:16 彼があなたに代わって民に語る。彼があなたにとって口となり、あなたは彼にとって神の代わりとなる。
4:17 また、あなたはこの杖を手に取り、これでしるしを行わなければならない。」

○ 「私は口下手で話をするのが苦手です」という方が多くおられます。私もそうでした。クリスチャンになって変わったかも知れません。
 
Ⅰ.モーセが召し出された時
A.神はモーセを呼ばれた
1.エジプトから逃げたモーセ。もう二度とエジプトには戻れない、戻らないと思っていたでしょう。そして40年が過ぎ、モーセは全く別の人生を歩んでいましたが、モーセの心にはあの殺人のトラウマがあり、エジプトのイスラエル人のことが心からは消すことができませんでした。
2.そして、彼が羊の群れを導いてホレブに来たとき 3:2 すると【主】の使いが、柴の茂みのただ中の、燃える炎の中で彼に現れた。彼が見ると、なんと、燃えているのに柴は燃え尽きていなかった。 と、不思議な光景に出くわします。神は遂にモーセを呼ばれました。 3:4 【主】は、彼が横切って見に来るのをご覧になった。神は柴の茂みの中から彼に「モーセ、モーセ」と呼びかけられた。 名前を二回呼ばれる時は、神が愛を持って、励まし、勇気づけられる時だと言われています。

B.モーセはひれ伏し答えた
1. 「はい、ここにおります」と答えた モーセに神は、3:5 神は仰せられた。「ここに近づいてはならない。あなたの履き物を脱げ。あなたの立っている場所は聖なる地である。」 と言われました。履き物を脱ぐのは、当時相続権を放棄することでした。神は今まで自分で事を行ってきたモーセにその主権を自分から神に委ねるように言われたのです。そして神と会う場所は常に 聖なる地 なのです。
2.礼拝はまさに神様に私たちの名が呼ばれて集められているものです。その場所は聖なる場所であり、履き物を脱ぎ、神にひれ伏して神の声を聞き、さらに応答する時であり、そうする場所です。

Ⅱ.モーセは不安で一杯だった
A.神はエジプトへ行けと命じられたが・・・
1.神がモーセに命じられたことは 3:10 今、行け。わたしは、あなたをファラオのもとに遣わす。わたしの民、イスラエルの子らをエジプトから導き出せ。 でした。モーセにとってはあのトラウマの地に行くことなどできないばかりか、良かれと思ってエジプト人を殺してイスラエル人を助けたのに、そのイスラエル人から反感を買ってしまったのですから、心はズタズタです。
2. 3:11 モーセは神に言った。「私は、いったい何者なのでしょう。ファラオのもとに行き、イスラエルの子らをエジプトから導き出さなければならないとは。」 と、不安に満ちて聞きました。彼は自分のアイデンティティーを求めたのでしょうが、神の答はモーセがどういう人物であるかということではなく、神がどういうお方かを語られました。 3:12 神は仰せられた。「わたしが、あなたとともにいる。これが、あなたのためのしるしである。このわたしがあなたを遣わすのだ。あなたがこの民をエジプトから導き出すとき、あなたがたは、この山で神に仕えなければならない。」 と。神が共におられることが私たちのアイデンティティーなのです。

B.神の名前は?
1.さらにモーセの不安はイスラエルの神の名前は何かということでした。と言うのは、エジプトでは神々が名前を持っていたからです。例えば太陽神ラー、天空の神はホルスのように。イスラエル人から「その神の名は何か?」と尋ねられた時に何と答えて良いかということでした。 3:14 神はモーセに仰せられた。「わたしは『わたしはある』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエルの子らに、こう言わなければならない。『わたしはある』という方が私をあなたがたのところに遣わされた、と。」 日本語としては変な名前です。直訳すると「私があることが私である」となるらしいです。英語では"I AM WHO I AM."です。どちらにしてもどう訳すか難問のところです。

Ⅲ.モーセはとても無理だと言う
A.モーセは「語れない」と言う
1.さらなる不安はイスラエル人もエジプトの王も自分を信じてくれないだろうということでした。そこで、神はモーセにイスラエル救出策を語られましたが、モーセは「わかりました」とは言えませんでした。 4:10 モーセは【主】に言った。「ああ、わが主よ、私はことばの人ではありません。以前からそうでしたし、あなたがしもべに語られてからもそうです。私は口が重く、舌が重いのです。」 どうやらモーセは語るのが下手だったみたいです。
2.そういうモーセに神は 4:11 【主】は彼に言われた。「人に口をつけたのはだれか。だれが口をきけなくし、耳をふさぎ、目を開け、また閉ざすのか。それは、わたし、【主】ではないか。4:12 今、行け。わたしがあなたの口とともにあって、あなたが語るべきことを教える。」 と、語られました。要するにモーセが語り始めれば言葉を与えるというのです。この御言葉は有名で、私たちもよく知っています。神に信頼する、神に委ねることを思い起こす時によく語られます。

B.神はこらえてアロンを用いると言われる
1.それでもモーセは 4:13 すると彼は言った。「ああ、わが主よ、どうかほかの人を遣わしてください。」 と、拒みます。ヤコブが天使と取っ組み合いの相撲をとって「祝福してください」と食い下がったのと反対に「できません」と食い下がりました。
2.神は怒られましたが、それでも神はモーセの言い分を聞いて、語ることはアロンにさせるようになさいました。もし、モーセが「わかりました」と言えば、語り方は下手であっても、きちんとファラオに語る力を神は与えられたはずです。それを拒んだために、その神の力を彼は受け取ることができませんでした。
3.ファラオに神の言葉を伝えるためにモーセが拒んでも神は次の手を考えておられます。あなたも神がモーセのように語るようにと言われているのではないでしょうか? できれば、神に次の手を考えせず、あなたが実行するのが良いと思いますが、いかがでしょうか?

★ 私たちも自分の名前を呼ばれて神に召し出された一人一人です。牧師になるためにだけ神は召命を与えるのではありません。証しするため、伝道するために私たちは救われたとも言えるのです。あなたの語るのを待っている人のために神はあなたを送り出そうとされています。


母の心の叫びが神に届いた

2022-03-17 07:53:23 | 礼拝説教
2022/3/20 礼拝説教
【テーマ】  神は見捨てない
【説教題】 「母の心の叫びが神に届いた」
【聖書箇所】 出エジプト記1-2章
2:1 さて、レビの家のある人がレビ人の娘を妻に迎えた。
2:2 彼女は身ごもって男の子を産み、その子がかわいいのを見て、三か月間その子を隠しておいた。
2:3 しかし、それ以上隠しきれなくなり、その子のためにパピルスのかごを取り、それに瀝青と樹脂を塗って、その子を中に入れ、ナイル川の岸の葦の茂みの中に置いた。
2:4 その子の姉は、その子がどうなるかと思って、離れたところに立っていた。
2:5 すると、ファラオの娘が水浴びをしようとナイルに下りて来た。侍女たちはナイルの川辺を歩いていた。彼女は葦の茂みの中にそのかごがあるのを見つけ、召使いの女を遣わして取って来させた。
2:6 それを開けて、見ると、子どもがいた。なんと、それは男の子で、泣いていた。彼女はその子をかわいそうに思い、言った。「これはヘブル人の子どもです。」
2:7 その子の姉はファラオの娘に言った。「私が行って、あなた様にヘブル人の中から乳母を一人呼んで参りましょうか。あなた様に代わって、その子に乳を飲ませるために。」
2:8 ファラオの娘が「行って来ておくれ」と言ったので、少女は行き、その子の母を呼んで来た。
2:9 ファラオの娘は母親に言った。「この子を連れて行き、私に代わって乳を飲ませてください。私が賃金を払いましょう。」それで彼女はその子を引き取って、乳を飲ませた。
2:10 その子が大きくなったとき、母はその子をファラオの娘のもとに連れて行き、その子は王女の息子になった。王女はその子をモーセと名づけた。彼女は「水の中から、私がこの子を引き出したから」と言った。

○ 前回のヤコブから一気に出エジプト記に来ましたが、前に佳子先生がヨセフの説教を1回で見事にまとめてくださったので、今日から出エジプト記に入ります。出エジプト記といえば「モーセ」です。
 
Ⅰ.神を恐れる者が祝福される
A.神を恐れる助産婦たち
1.ヨセフがエジプトの大臣になって、父ヤコブ(イスラエル)と兄達を飢饉の時に助け、その時にイスラエルはエジプトに住みました。そして長い年月が過ぎて 1:8 やがて、ヨセフのことを知らない新しい王がエジプトに起こった。 と、ヨセフの名前も通じなくなってしまいました。エジプトにすればイスラエル人がここに住んでいることは危険と感じ、彼等を奴隷としてしまいました。
2.その上、助産婦に男の子が生まれたら殺してしまうようにと命令を出しました。 1:17 しかし、助産婦たちは神を恐れ、エジプトの王が命じたとおりにはしないで、男の子を生かしておいた。 と、神を恐れる助産婦たちは男の子を生かしておきました。ですから 1:20-21 神はこの助産婦たちに良くしてくださった。そのため、この民は増えて非常に強くなった。助産婦たちは神を恐れたので、神は彼女たちの家を栄えさせた。 と、信仰的な助産婦たちによってイスラエルは祝福され、助産婦たちも祝されました。王の命令に背くのは怖かったでしょう。でも神に背きたくないという彼女たちの信仰が勝ったのです。

B.神を恐れないファラオ
1.一方、どんどんイスラエル人が増えていくのを見たファラオは新たな厳しい命令を下しました。 1:22 生まれた男の子はみな、ナイル川に投げ込まなければならない。 としたのです。なんとファラオは恐ろしい命令を下したことでしょう。人は恐れから恐ろしいことを企てることがあります。ファラオは本当に恐れるべきお方がわかっていなかったのです。
2.しかし、このことはサタンの計画でもあったと言えます。サタンはアダムとエバを神から引き離して喜びましたが、その後、世界を救いに導くためにイスラエル民族が生み出されようとしていたので、今度は何としてもこれを阻止したかったのです。イスラエル人をエジプトの奴隷にはできたものの、また危なっかしくなったためにファラオを通して殺人計画に入ったのです。
3.このことはイエス誕生の時のヘロデ大王が博士たちの来訪によってユダヤの新しい王が生まれたと知って、2才以下の男の子を皆殺しにするという恐ろしいことをした話に繋がります。

Ⅱ.かわいそうに思う心が世界を救う
A.我が子を川に捨てる
1.そんな中、モーセが誕生します。両親は その子がかわいいのを見て、三か月間その子を隠して おきました。当然我が子はかわいいです。殺すなんてとてもできないです。かといって、そのまま育てていたら、スパイに見つかってしまい、その子は殺されるだろうし、他の人々にも迷惑がかかります。苦悩に満ちて、 その子のためにパピルスのかごを取り、それに瀝青と樹脂を塗って、その子を中に入れ、ナイル川の岸の葦の茂みの中に置 きました。
2.この行為には母親の愛と神からの知恵が満ちていると思います。我が子をいくらかごの中に入れたとしても流してしまうことはできませんでした。 岸の葦の茂みの中に置い て、姉のミリアムに見守らせたのです。母親自身が行ったのでは目立ったでしょう。この一見捨てるような行為ですが、どうにもならない中で神に委ねるという信仰の行為でした。

B.捨てた子が戻ってきた
1.なんとファラオの娘がそのかごを見つけ、 彼女はその子をかわいそうに思い、言った。「これはヘブル人の子どもです。」 と。ファラオの娘もユダヤ人の男の子はナイル川に流さねばならないことを知っています。しかし、彼女の その子をかわいそうに思 ったこの気持ちがモーセを救い、さらにすべての人の救いへと繋がったのです。
2.彼女はそのかわいさに我が子にすることを決めました。その様子を見ていた 2:7 その子の姉はファラオの娘に言った。「私が行って、あなた様にヘブル人の中から乳母を一人呼んで参りましょうか。あなた様に代わって、その子に乳を飲ませるために。」 と、なんと機転の利いた話を持ちかけたことでしょう。子どもは時として神の導きにとても純粋です。ミリアムは神の知恵の言葉をいただいたのでしょう。それによってモーセはお母さんによって育てられることになりました。

Ⅲ.神の沈黙は見捨たことではない!
A.救われたモーセが逃亡者となった
1.さて、もう少し話を進めます。乳離れしたモーセはファラオの娘の元に連れて行かれ、エジプトの王宮で育っていきました。成長したモーセはイスラエル人としてのアイデンティティーがあり、同胞がエジプト人に打たれているのを見た時、このエジプト人を打ち殺してしまいます。それはモーセの良心から出た行為でしたが、大きな罪でした。
2.彼は良い事をしたつもりが、その殺人が知られてしまい、エジプトにおれなくなってしまいます。そして、今度は自分からミディアンの地に逃れてそこに住むことにしました。せっかく不思議な方法で命を得たモーセだったのですが、ユダヤ人を救うこと無く逃亡者となってしまいました。

B.40年間神は沈黙された
1.ミディアンの地で妻と子どもを得て40年を過ごすのですが、その間もイスラエル人はエジプトで苦役に苦しんでいました。 2:23 それから何年もたって、エジプトの王は死んだ。イスラエルの子らは重い労働にうめき、泣き叫んだ。重い労働による彼らの叫びは神に届いた。2:24 神は彼らの嘆きを聞き、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。2:25 神はイスラエルの子らをご覧になった。神は彼らをみこころに留められた。 と、神は動き出されました。
2.長い奴隷生活の上、モーセが逃亡して40年が過ぎました。神はイスラエルを完全に見捨てたかのように見えました。エジプトにすれば、エジプトの神がイスラエルの神に勝ったように思えたでしょう。しかし、神は見捨てたのでは無く、時を待っておられたのです。

★ 私たちも神に見捨てられたと思うようなときがあるかも知れませんが、決して神は見捨てません。モーセの母の心の叫びが神に届きモーセを救い、イスラエルの叫びが神に届いています。あなたにとってだけの最善では無く、もっと大きな広い意味での最善を神は用意されています。信じますか?!

ヤコブがイスラエルに変えられる

2022-03-12 07:05:14 | 礼拝説教
2022/3/13 礼拝説教
【テーマ】  真の礼拝者になる
【説教題】 「ヤコブがイスラエルに変えられる」
【聖書箇所】 創世記35章
35:1 神はヤコブに仰せられた。「立って、ベテルに上り、そこに住みなさい。そしてそこに、あなたが兄エサウから逃れたとき、あなたに現れた神のために祭壇を築きなさい。」
35:2 それで、ヤコブは自分の家族と、自分と一緒にいるすべての者に言った。「あなたがたの中にある異国の神々を取り除き、身をきよめ、衣を着替えなさい。
35:3 私たちは立って、ベテルに上って行こう。私はそこに、苦難の日に私に答え、私が歩んだ道でともにいてくださった神に、祭壇を築こう。」
35:4 彼らは、手にしていたすべての異国の神々と、耳につけていた耳輪をヤコブに渡した。ヤコブはそれらを、シェケムの近くにある樫の木の下に埋めた。
35:5 彼らが旅立つと、神からの恐怖が周りの町々に下ったので、だれもヤコブの息子たちの後を追わなかった。
35:6 ヤコブは、カナンの地にあるルズ、すなわちベテルに来た。彼とともにいた人たちもみな一緒であった。
35:7 彼はそこに祭壇を築き、その場所をエル・ベテルと呼んだ。それは、彼が兄から逃れたとき、神がそこで彼に現れたからである。
35:8 リベカの乳母デボラが死に、ベテルの下手にある樫の木の下に葬られた。それで、その木の名はアロン・バクテと呼ばれた。
35:9 ヤコブがパダン・アラムから帰って来たとき、神は再び彼に現れ、彼を祝福された。
35:10 神は彼に仰せられた。「あなたの名はヤコブである。しかし、あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルが、あなたの名となるからだ。」こうして神は彼の名をイスラエルと呼ばれた。

○ 結婚して名字が変わる人はたくさんいますが、名前を変えられた人はいますか? 聖書には名前を神によって変えられた人が何人か登場します。その中でも国名になる名前に変えられたのがヤコブでした。その名を「イスラエル」とされたのです。

Ⅰ.逃げるヤコブ
A.自分の家畜を殖やす
1.この35章にくるまでに、ヤコブとラバンのずるさ、そして、ラケルが偶像を盗む話など人間の罪深さが聖書には書かれています。良くない伯父との関係、二人の妻レアとラケルの良くない関係、さらにそこにもう二人の妻・女奴隷がいて4人の妻を持つヤコブ。本当に変な家庭です。
2.ラバンとの生活に嫌気がさしてヤコブは独り立ちを考えていました。独り立ちのためには経済力がなければなりません。彼はラバンの家畜の世話をしていましたが、自分の家畜を殖やして独り立ちすることを考えました。そこで、悪巧みを考えて自分の家畜が殖えるように企みました。

B.こっそり出て行く
1.十分家畜も持つことができたところで、遂にヤコブは故郷に帰ることにしました。その時、ラバンに話をして出て行けばよかったのに、気づかれないようにこっそり逃げたのです。神に信頼していない姿ではないでしょうか。
2.この時にラケルはラバンの持つ偶像テラフィムを盗んでいます。このテラフィムは占いにも使われたようで、ラバンの元を逃げ出したヤコブをラバンはテラフィムを使って占い、居場所を知るかも知れないと思ったのかも知れません。また、テラフィムは第一相続人が受け継ぐということだったらしいので、ラケルは父の相続者となろうとしたのでしょうか? とにかく、偶像と切り離されなかったのです。大問題ですね。

Ⅱ.恐れに満ちるヤコブ
A.エサウの怒りを思い出す
1.ラバンの元を出て故郷へと向かったものの、ヤコブには20年前の兄エサウの怒りが忘れられないで頭にこびりついています。故郷が近づいてきた時に彼は恐れが込み上げてきました。ここで彼は神を信じて堂々と兄エサウの元には行くことができませんでした。
2.ヤコブはエサウが自分と愛する家族を殺すことを想像しました。恐れはどんどん悪い事を想像してしまいます。彼は家族と家畜などを二つにわけ、愛するラケルたちは自分と一緒に後を行き、前を行くものが襲われたら逃げるつもりでした。信仰者とは思えないですね。

B.必死で祝福を求める
1.そして、ヤボク川の渡し場を渡った時(32:22)、ヤコブの恐れは最高値に達したのでしょう、ヤコブ一人がそこに残りました。そこで、ある人(天使なのか人なのか?)と夜明けまで格闘することになりました。彼はこの「ある人」を誰と思ったのでしょうか?「祝福してくれるまで離さない」と必死で取っ組み合いをするのです。
2.そこで、遂にこの「ある人」は 「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたが神と、また人と戦って、勝ったからだ。」(32:28) と、ヤコブを祝福し、彼の名を「イスラエル」と変えました。この名前が今日まで残り、国名とされています。このヤコブの必死なまでの願いは「真剣な祈り」としてよく取り上げられます。どうもここでヤコブは大きく変化しているようです。

Ⅲ.宗教改革をしたヤコブ
A.偶像を取り除くヤコブ
1.祝福されたヤコブに 35:1 神はヤコブに仰せられた。「立って、ベテルに上り、そこに住みなさい。そしてそこに、あなたが兄エサウから逃れたとき、あなたに現れた神のために祭壇を築きなさい。」 と、命じられます。 35:2 それで、ヤコブは自分の家族と、自分と一緒にいるすべての者に言った。「あなたがたの中にある異国の神々を取り除き、身をきよめ、衣を着替えなさい。35:3 私たちは立って、ベテルに上って行こう。私はそこに、苦難の日に私に答え、私が歩んだ道でともにいてくださった神に、祭壇を築こう。」 と、とても信仰的なことを言いました。
2.ラケルは偶像を持っていました。他にも何か 異国の神々 があったのでしょう。それを取り除くという宗教改革を行っています。どんな偶像も占いも捨て去るべきなのです。使徒行伝に出てくるエペソの救われた人たちが 使徒19:19 また魔術を行っていた者たちが多数、その書物を持って来て、皆の前で焼き捨てた。 と、魔術的なものを捨てたようなことです。

B.祭壇を築くヤコブ
1.そして次にヤコブは祭壇を築いています。アブラハムが祭壇を築いた人生を送ったように、ヤコブにも信仰が現れます。祭壇を築くとは神に礼拝を献げることです。現代はこれも特に目に見える祭壇は必要ありません。今や礼拝はまさに霊的なのです。
2.現代の礼拝、イエスの十字架と復活後は生贄を必要としませんから、賛美と祈りと御言葉と献金、時に聖餐式などです。私たちもこの礼拝を献げることで神に祝福されます。 ローマ12:1 ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。12:2 この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。 と、ある通りです。

● 人の性格はそう簡単に変えられるものでは無いです。恐がりは不信仰でしょうか? ヤコブがエサウを大変恐れましたが、そこが彼の性格なのでしょう。確かに神は「恐れるな」と言ってくださいますが、なかなか恐れが消えるものではないでしょう。でもそこで、神に信頼するのです。ヤコブの宗教改革のようなことが私たちにも必要な時があるかも知れません。

★ ヤコブがイスラエルに変えられたように、私たちは死からいのちに変えられました。それは礼拝しなかった者が、真の礼拝ができる者に変えられたということです。ですから、自らの意志をもって悪しきものを排除し、神に喜ばれる生活を心がけたいですね。

恋は盲目、いや、愛は盲目

2022-03-04 16:52:39 | 礼拝説教
2022/3/6 礼拝説教
【テーマ】  一方的な神の愛
【説教題】 「恋は盲目、いや、愛は盲目」
【聖書箇所】 創世記29-30章
29:15 ラバンはヤコブに言った。「あなたが私の親類だからといって、ただで私に仕えることもないだろう。どういう報酬が欲しいのか、言ってもらいたい。」
29:16 ラバンには二人の娘がいた。姉の名はレア、妹の名はラケルであった。
29:17 レアは目が弱々しかったが、ラケルは姿も美しく、顔だちも美しかった。
29:18 ヤコブはラケルを愛していた。それで、「私はあなたの下の娘ラケルのために、七年間あなたにお仕えします」と言った。
29:19 ラバンは、「娘を他人にやるよりは、あなたにやるほうがよい。私のところにとどまっていなさい」と言った。
29:20 ヤコブはラケルのために七年間仕えた。ヤコブは彼女を愛していたので、それもほんの数日のように思われた。

○ 私の教え子の中には恋をして成績が落ちる子と逆に成績が上がる子がいました。恋に夢中になりすぎて勉強が手に着かないために成績が落ちてしまう生徒。反対に彼と(彼女と)同じ高校に入りたいという思いから一生懸命勉強して成績がグッと上がった生徒がいます。恋の力のすごさですね。今日のテキストにはヤコブがラケルに恋をして一生懸命働くところが書かれています。
 
Ⅰ.大事な人との出会い
A.花嫁探しの旅に出る
1.ほんの一部だけ読んでいただいたのですが、今日の話はヤコブが妻を得る話です。前回話しましたように、ヤコブは母リベカの思いを受けて父イサクから祝福してもらうために兄エサウと父イサクをだましました。そのために、エサウに殺される可能性が出てきました。そういうことも考えずにだましたのでしょうか?
2.ヤコブは故郷を離れて母の故郷に逃げなければなりませんでした。また、母リベカにすると、その地域の女性が気に入らなかったので、愛するヤコブには父のところにいる女性が良いと考えたのです(アブラハムがイサクの花嫁を探すときと同じですね)。ヤコブはエサウから逃げることと同時に花嫁探しに出ることになりました。

B.ヤコブはラケルに一目惚れした
1.そして、遂にハランに着きました。その井戸のところでヤコブはラケルと出会い、彼女に一目惚れしてしまいました。この話もアブラハムのしもべがイサクの花嫁を探すときと似ています。が、大きな違いがあります。アブラハムのしもべは祈りました。が、ヤコブはどうも祈っていないようです。
2「恋は盲目」と言いますが、まだヤコブもラケルもお互いにどんな人なのか知らないままに結婚したいと思いました。一目惚れが悪いわけではないです。ある方は「初恋の人と結婚できるのは最高に幸せだ」なんて言いましたからね。

Ⅱ.大事な人だから
A.だまされてもなお働いた
1.ヤコブはラケルの父(母リベカの兄)ラバンに結婚させて欲しいと申し出ます。ラバンも妹リベカの息子と知って、大賛成します。 29:18 ヤコブはラケルを愛していた。それで、「私はあなたの下の娘ラケルのために、七年間あなたにお仕えします」と言った。 と、7年間ラバンのもとで働くことでラケルとの結婚を許してもらうことにしました。その7年間は ほんの数日のように思われた と言いますから、恋の力の凄さを語っています。
2.これで晴れて二人は夫婦となれる予定だったのですが、なんとヤコブのところに連れて来られて夫婦となった相手は姉のレアだったのです。ラバンにだまされたことになります。話が違うと訴えると、 29:26 ラバンは答えた。「われわれのところでは、上の娘より先に下の娘を嫁がせるようなことはしないのだ。29:27 この婚礼の一週間を終えなさい。そうすれば、あの娘もあなたにあげよう。その代わり、あなたはもう七年間、私に仕えなければならない。」 と言われてしまいました。

B.たとえ火の中、水の中
1.ヤコブは愛するラケルのためにさらに7年間の仕事をすることになりましたが、それくらい何のその、やってのけるのです。愛する人のためならたとえ火の中、水の中ではないでしょうか。ヤコブはラケルのためならさらに7年間くらい問題ではありませんでした。
2.イエス様を考えてみましょう。イエス様は私たちに一目惚れで、その愛をとことん貫かれます。私たちのためならたとえ火の中、水の中です。そして、愛する私たちのためならたとえ十字架であってもかかることをためらわれませんでした。

Ⅲ.神にとって大事な私たち
A.こんな人がどうして・・・
1.ヤコブは父とエサウをだまし、ラバンのところに逃げてきました。あまり信仰的な人と思えないのです。なぜ、こんなヤコブが神様に愛されるのかと考えてしまいます。そう考えているとふと、ルカの福音書に出てくるザアカイさんが思い出されました。
2.ザアカイさんは人々からの嫌われ者の税金取りでした。彼は自分の地位を利用して人から本来の税金より多くを取り立てて自分の懐に入れていた人です。そこにイエス様は行かれてザアカイさんの友達になられます。町の人々はイエスともあろうお方がなぜザアカイみたいな人のところに行くのかと思いました。

B.一方的な愛で
1.しかし、イエス様は町の人の言葉も気にせず、ザアカイさんの家に行きました。悪口を言う人々にイエス様は ルカ19:9-10 「今日、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです。」 と言われました。神にはこんな人ではダメだということはないみたいです。
2.ヤコブがなぜ神様に愛されるのか、別に彼が立派だからとかではなく、神の子だから一方的に愛されているのです。私たちも神に造られた神に愛されている子どもです。私たちが何かできるから愛されるのではなく、神様の一目惚れで一方的に愛されているのです。「恋は盲目」いえ、神様の場合は「愛は盲目」なのです。イエス様を信じる人のために全ての罪に目をつぶってくださったのです。そのためにイエス様は十字架にかかって私たちの身代わりになってくださいました。

★ あなたも罪人ですが、神様に愛されているのです。神様はイエス様が十字架で身代わりになってくだったので、私たちの罪に対して目をつぶられました。そして、ひたすらあなたのことを愛し続けてくださっています。この愛に応えませんか。