バイブルサロン

礼拝説教、聖書を読んで感じた事

クリスマスの前に

2014-11-30 19:09:05 | 礼拝説教
2014/11/30礼拝説教
【テーマ】  アドベント
【説教題】 「クリスマスの前に」
【聖書箇所】 ルカ1:5-25
  1:5 ユダヤの王ヘロデの時に、アビヤの組の者でザカリヤという祭司がいた。彼の妻はアロンの子孫で、名をエリサベツといった。
1:6 ふたりとも、神の御前に正しく、主のすべての戒めと定めを落度なく踏み行っていた。
1:7 エリサベツは不妊の女だったので、彼らには子がなく、ふたりとももう年をとっていた。
  1:8 さて、ザカリヤは、自分の組が当番で、神の御前に祭司の務めをしていたが、
1:9 祭司職の習慣によって、くじを引いたところ、主の神殿に入って香をたくことになった。
1:10 彼が香をたく間、大ぜいの民はみな、外で祈っていた。
1:11 ところが、主の使いが彼に現れて、香壇の右に立った。
1:12 これを見たザカリヤは不安を覚え、恐怖に襲われたが、
1:13 御使いは彼に言った。「こわがることはない。ザカリヤ。あなたの願いが聞かれたのです。あなたの妻エリサベツは男の子を産みます。名をヨハネとつけなさい。
1:14 その子はあなたにとって喜びとなり楽しみとなり、多くの人もその誕生を喜びます。
1:15 彼は主の御前にすぐれた者となるからです。彼は、ぶどう酒も強い酒も飲まず、まだ母の胎内にあるときから聖霊に満たされ、
1:16 そしてイスラエルの多くの子らを、彼らの神である主に立ち返らせます。
1:17 彼こそ、エリヤの霊と力で主の前ぶれをし、父たちの心を子どもたちに向けさせ、逆らう者を義人の心に立ち戻らせ、こうして、整えられた民を主のために用意するのです。」
1:18 そこで、ザカリヤは御使いに言った。「私は何によってそれを知ることができましょうか。私ももう年寄りですし、妻も年をとっております。」
1:19 御使いは答えて言った。「私は神の御前に立つガブリエルです。あなたに話をし、この喜びのおとずれを伝えるように遣わされているのです。
1:20 ですから、見なさい。これらのことが起こる日までは、あなたは、ものが言えず、話せなくなります。私のことばを信じなかったからです。私のことばは、その時が来れば実現します。」
1:21 人々はザカリヤを待っていたが、神殿であまり暇取るので不思議に思った。
1:22 やがて彼は出て来たが、人々に話すことができなかった。それで、彼は神殿で幻を見たのだとわかった。ザカリヤは、彼らに合図を続けるだけで、口がきけないままであった。
1:23 やがて、務めの期間が終わったので、彼は自分の家に帰った。
  1:24 その後、妻エリサベツはみごもり、五か月の間引きこもって、こう言った。
1:25 「主は、人中で私の恥を取り除こうと心にかけられ、今、私をこのようにしてくださいました。」

○ 神様にずっと願ってきたのに聞かれていないことがありませんか? 真面目に神様のために働いてきた祭司ザカリヤとその奥さんエリサベツはずっと子どもが与えられることを祈ってきましたが、与えられませんでした。ところが、年をとってからついに子どもが与えられたのです。

Ⅰ.天使がザカリヤに語った
A.ザカリヤに特別な仕事が回ってきた
1.ザカリヤとエリサベツは年老いていましたから、もう子どもが与えられるという希望はありませんでした。彼らの願いはかなえられなかったのですが、二人は神様に忠実に生きてきました。また、ザカリヤは祭司としてしっかり働きました。
2.祭司職の習慣によって、くじを引いたところ、主の神殿に入って香をたくことになった。 とあるように、ザカリヤは特別な仕事をいただきました。これは彼にとって人生最後の一番大事な仕事となりました。

B.ザカリヤに天使が現れた
1.ザカリヤが特別な任務のために神殿に入りました。この特別な仕事は彼だけにしか許されないことで、神殿の中には彼しかいません。しかし、そこに一人の人が現れたのです。誰も入ることが許されないので、この人は天使だということを示しています。
2.天使にはそれぞれ神様からの仕事が託されています。この天使は ガブリエル という天使で、神様の言葉を伝えに来ました。その言葉は13-17節にあります。天使はザカリヤに男の子が与えられると伝えたのです。名前はヨハネとせよ、ヨハネはキリストのために先駆者となって働くという内容が伝えられました。

C.信じられない
1.ザカリヤは天使の言葉を信じることができませんでした。自分も妻エリサベツも年をとっていて、子どもはできるはずが無いと思ったのです。
2.この話はアブラハムとサラにイサクが与えられるときの話とよく似ています。100歳と90歳の老夫婦にイサクが生まれたのです。その話をザカリヤはもちろん知っていました。しかし、そんな奇跡的な事が自分にも起こるとは信じられなかったのです。
3.私たちも聖書の話は知っていても、自分にはそういうことは起こらないと思いやすいものです。かといって、反対に聖書にあるから自分にも同じ事が起こると思い込むのも問題です。

Ⅱ.ヨハネという人物
A.聖霊に満たされた人ヨハネ
1.天使はザカリヤに子どもが与えられることを語ったのですが、その子どもヨハネがどのような人かも語っています。ヨハネは 多くの人もその誕生を喜びます と。さらに 彼は、ぶどう酒も強い酒も飲まず、まだ母の胎内にあるときから聖霊に満たされ ている人です。
2.ヨハネはお腹の中にいるときから聖霊に満たされているのです。あのペンテコステの日の後ではなく、もっと前に、しかも胎児の時にです。私たちも赤ちゃんを大事にしましょう。胎児の時から聖霊に満たされる可能性があるわけです。

B.神に立ち返らせる人ヨハネ
1.また、天使はヨハネの働きについても語りました。それは イスラエルの多くの子らを、彼らの神である主に立ち返らせ る働きです。ユダヤ人は聖書の神を信じているのですが、その信仰は形式的になり、指導者達の律法的な指導によって、健全な信仰ではなくなっていたのです。そういうユダヤ人を神に立ち返らせる仕事をするのです。
2.彼こそ、エリヤの霊と力で主の前ぶれをし、父たちの心を子どもたちに向けさせ、逆らう者を義人の心に立ち戻らせ、こうして、整えられた民を主のために用意するのです。 と、ヨハネは旧約の大預言者エリヤと並べられました。エリヤの最大の働きはアハブ王が偶像礼拝に走り、妻イゼベルによって神の預言者の命が狙われていた時代に、バアルの預言者たちと対決して、天から火を呼び下して、バアルの神は神では無いことを証明しました。人々を真の神に立ち返らせた大預言者です。ヨハネはそのエリヤと並べられました。

Ⅲ.神の言葉は実現する
A.天使の語ったとおりに
1.ですから、見なさい。これらのことが起こる日までは、あなたは、ものが言えず、話せなくなります。私のことばを信じなかったからです。私のことばは、その時が来れば実現します。 とガブリエルは言いましたが、その言葉の通り、ザカリヤはしゃべることができなくなりました。
2.また、天使の語ったとおり、エリサベツは身ごもりました。このような奇跡的なことはそうは無いと思いますが、神様は希望も無いと思っていた老夫婦にイエス様の誕生前、つまりクリスマスの前にすごい仕事を与えたのです。

B.老夫婦に喜びが来た
1.ザカリヤは喜びに満ちたので喜びを声にして言い表したかったでしょう。エリサベツの言った 「主は、人中で私の恥を取り除こうと心にかけられ、今、私をこのようにしてくださいました。」 のように言いたかったでしょう。福音を語れないのは辛いのです。
2.クリスマスの前に老夫婦に喜びがやって来たのです。ヨハネの誕生はイエス・キリストの誕生を証明するものでした。神の言葉は確実に実現するのです。信じたいものです。


● 預言者エレミヤは エレミヤ1:6 そこで、私は言った。「ああ、神、主よ。ご覧のとおり、私はまだ若くて、どう語っていいかわかりません。」 と言ったのですが、神は 1:7 すると、【主】は私に仰せられた。「まだ若い、と言うな。わたしがあなたを遣わすどんな所へでも行き、わたしがあなたに命じるすべての事を語れ。 と言われたのは有名です。若過ぎる、年を取りすぎた、なんて神には無いのです。神はだれでも神の仕事に用いたいのです。

★ 私たちは今、イエス様の再び来られる日を待ち望んでいるのです。その再臨の前に何があるのでしょうか? 私たちはどのような仕事を命じられるのでしょうか? Ⅱテモ 4:2 みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。 この御言葉は私たちの大事な仕事を意味しているのではないでしょうか。

みこころを行う人になる

2014-11-23 18:52:22 | 礼拝説教
2014/11/23礼拝説教
【テーマ】  聖霊の働き・とりなし
【説教題】 「みこころを行う人になる」
【聖書箇所】 ローマ8:26-27
  8:26 御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。
8:27 人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。

○ 今日は聖霊がとりなしてくださるということを深めていきましょう。

Ⅰ.私たちの祈りは助けられている
A.祈り慣れること
1.26節には 私たちのためにとりなしてくださいます 27節には 聖徒のためにとりなしをしてくださるからです と、聖霊が私たちクリスチャン(聖徒)のためのとりなし手であることを続けて語っています。
2.クリスチャンは祈れる人になったのですが、今まで祈ってこなかった人は急に祈れるようになるでしょうか? 難しく感じるでしょう。たとえば、天皇陛下と自由にお話出来るようになったとして、何と言ったらよいのか、どんな言葉遣いで話せばよいのか困るのではないでしょうか?
3.神様とのお話ができるようになった私たちも急には上手に祈れないかも知れませんが、普段から祈り慣れていくことが大事なのです。

B.祈りに聖霊の助けがあること
1.とは言え、私たちはどのように祈ってよいかやはりわからないことがやはり多いのです。願い事だけをするのはさほど難しくないかも知れませんが、願ってもなかなか得られないとどのように祈っていくでしょうか?
2.ましてや神様のみこころを求めて祈るとなれば、本当にどう祈ってよいか悩むものです。みこころは聖書に書かれていますから、聖書を土台とした祈りをしてゆくことが大事なのです。
3.聖書は聖霊によって霊感されて書かれたものですから、聖書を読むときにもそして、それを土台とした祈りにも聖霊が助けてくださるのです。

Ⅱ.私たちはとりなされている
A.イエス様のとりなし
1.前にも語りましたが、私たちは本来神に祈ることのできない存在でした。その私たちが「アバ、父よ」と呼びかけて祈ることができるようになったのはイエス様の身代わりの十字架のお陰です。
2.私たちは父なる神との間が切れている時、私たちはもちろん祈れないわけですが、その私たちのためにイエス様が間に入ってとりなしの祈りをしてくださったのです。私たちはどのように祈ってよいか、どのように神様に謝ってよいかわからなかった時に、イエス様がとりなしてくださったので、神の怒りから逃れたのです。
3.神様は 人間の心を探り窮める方 ですから、私たちの中にある罪も悪しき思いも何もかもご存知です。義なる神がそれをそのまま見過ごせるわけがありません。イエス様の十字架によって見過ごしていただけるようになったのです。

B.聖霊のとりなし
1.同じく、私たちはその裁き主、義なる神にどのように祈ってよいかわからないのです。ましてや何かしら罪を犯したとしたら、私たちは義なる神の前に堂々と出て行っていつものように気安く祈れるでしょうか? どのように祈ってよいかわからないものなのです。そこで、今や私たちの内に住んで、私たちのためにとりなしてくださるのが聖霊なのです。
2.神は私たちの心の奥底まで見抜いておられますが、同時に 御霊の思いが何かをよく知っておられ るお方です。三位一体の神ですから 御霊の思い を知っておられるのは当然と言えば当然なのですが、今や聖霊は私たちと一体なのです。ですから、聖霊は私たちの深いところまで知ってくださっています。
3.私たちは神に何も申し開きができなくても、聖霊は私たちの内側から神様に弁護してくださるのです。とりなしてくださるということです。

Ⅲ.聖霊によって祈るのは・・・
A.キリストに似ていくため
1.聖霊はなぜわたしたちのためにとりなしてくださるのでしょうか? それは私たちがキリストに似た聖い者となっていくためであり、私たちが「愛の人」になるためです。
.Ⅰテサロニケ4:3 神のみこころは、あなたがたが聖くなることです。 と、神のみこころをご存知の聖霊は私たちが聖くなるために助けてくださっているのです。
3.そして、聖書の至るところで「愛」が語られていますが、愛し合うことは神様の命令です。 ヨハネ15:12 わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。Ⅰヨハネ3:23 神の命令とは、私たちが御子イエス・キリストの御名を信じ、キリストが命じられたとおりに、私たちが互いに愛し合うことです。 とあるとおりです。この命令は聖霊によらねば守ることは困難です。

B.世界宣教のため
1.また聖霊が私たちをとりなしてくださり、私たちの内側からも聖霊によってうめきの祈りが出てくるのは、ペンテコステに始まるのです。世界中のすべての人が救われるために聖霊によって祈らせられるのです。
2.先日、吉原博克宣教師によってフィリピンの実情を知って、より祈れるようになりました。しかし、知らなかったときも私たちはフィリピンのために祈っていたのです。聖霊のとりなしによって、うめいて祈っていたのです。
3.私たちがとりなすに当たって私たちは人々のことを何も知らないのです。 どのように祈ったらよいかわからない わけです。だから聖霊の助けによって祈らせていただくのです。それは異言の祈りとなっても当然なのです。

● イエス様が愛されなかった人があるでしょうか? イエス様はすべての人のためにとりなしてこられたのです。私たちは弟子たちと同じように、その大事な仕事を託されたのです。前に祈祷聖会で語ったマケドニア人が幻となって現れ、パウロ達がマケドニヤへと宣教に行った結果、看守一家が救われました。パウロはわからず聖霊によって祈っていたら、わかる幻で、自分たちのすべきことが示されて実際に出かけていったのです。すべて聖霊の助け、聖霊の導きです。

★ 私たちもイエス様に愛された者です。パウロと同じです。あなたの祈りは聖霊の助けがあるのです。聖霊の助け無しの祈りをしないのは残念な祈りです。聖霊はあなたが神のみこころを行う人になるためにとりなし、助けてくださっているのです。


嵐を静めるイエス様(岡山志伸師)

2014-11-10 09:10:58 | 礼拝説教
2014/11/9 礼拝説教
■テーマ:環境への神の権威
■説教題:「嵐を静めるイエス様」
■聖書箇所:マタイ8:23~27

8:23 イエスが舟にお乗りになると、弟子たちも従った。
8:24 すると、見よ、湖に大暴風が起こって、舟は大波をかぶった。ところが、イエスは眠っておられた。
8:25 弟子たちはイエスのみもとに来て、イエスを起こして言った。「主よ。助けてください。私たちはおぼれそうです。」
8:26 イエスは言われた。「なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちだ。」それから、起き上がって、風と湖をしかりつけられると、大なぎになった。
8:27 人々は驚いてこう言った。「風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」

<はじめに>
 今日は、マタイの福音書8:23~27です。イエス様はガリラヤ湖畔のカペナウムで多くの病人を癒されましたが、群集が押し迫って身動きができなくなったため、弟子たちに舟を用意させ、対岸に行こうとされました。前回は、その舟に乗り込む途中の弟子たちや律法学者たちとのやりとりの会話がなされました。そして、イエス様の弟子となっていくための大切な教えがなされました。そしてその問答の後に、イエス様と弟子たちは、次の目的地へ行くために舟に乗り込んでガリラヤ湖を渡ります。
 
<Ⅰイエスと弟子たちの乗船>
1.イエスの後に従って
 「イエスが舟にお乗りになると、弟子たちも従った。」(8:23)とありますが、イエス様が舟に乗られると、弟子たちも従いました。イエス様は、弟子の一人や律法学者と問答をかわした後、当初命じておられたように「向こう岸」に行くため、御自身が先頭に立って舟に乗りこみます。その後、弟子たちも従いました。些細なことですが、この順番というものにも注目したいと思います。イエス様が舟に乗って弟子たちが続いています。イエス様は神の支配を実現するために、我々の前を先立つお方だということが分かります。弟子たちが進むべき道を、身を持って拓いていくお方である、そのようにいってよいでしょう。弟子たちは自分たちで「向こう岸」へ行くことを計画したのではありませんでした。イエス様が「向こう岸」へ行こうとされるので、弟子たちはその歩みに従ったわけです。イエス様の弟子とは主が前をいつも行かれることを知っている者です。

2.湖の激しい嵐 !
 さてイエス様と弟子たちですが、「すると、見よ、湖に大暴風が起こって、舟は大波をかぶった。とこ
ろが、イエスは眠っておられた。」(8:24)というのです。注目すべきは、イエス様が「向こう岸」に行くことを明確に意思表示しているにも関わらず、あたかもそれに逆らうかのように激しい嵐が起こったということです。「すると、見よ、」は、口語訳では「すると突然」と訳しています。つまり、突風がガリラヤ湖に吹き付けたということです。それのため湖は大荒れになり、舟は波にのまれそうになったのです。この舟と嵐の関係は、教会に対する迫害や混乱という嵐と言ってみたり、あるいは個人的な困窮を指すと考えたりします。いずれにせよ、イエス様が「向こう岸」に行くことを命じても自動的に物事が順調に進むというわけではないことを教えられます。それは、イエス様のご意志が行われるのは、罪の蔓延するこの世であって、天国のようなところではないからです。神の意志に逆らうものが満ちている世界だからなのです。サタンは人に平安を与えたくない存在であり、神の計画を人間から奪い、邪魔をする存在です。ですから、神様のご計画が実現していく道は、どうしても戦いという状況があります。そして教会も個人もまたそれに巻き込まれていったりするのです。

3.イエスに助けを叫ぶ!
 しかし弟子たちは嵐のために、パニックに陥りました。「弟子たちはイエスのみもとに来て、イエスを起こして言った。「主よ。助けてください。私たちはおぼれそうです。」(8:25)イエス様は疲れていたのでしょうか?このような嵐の中でもすやすやと眠っておられます。神様への信頼もあったことでしょう。こんなイエス様のお姿を見ると、本当に頼れる方だと思います。弱い私たちですが、いざとなった時にも落ち着きを保って行動するという精神性というものもイエス様から頂く必要があると思います。
この激しい嵐の中で、中にはがリラヤ湖を知り尽くした漁師もいました。ですから、少しばかりの嵐には驚くはずはないと思います。しかし、よほどの大嵐だったため、そんな漁師たちのいる弟子たちもさすがに恐ろしくなりました。ここに弟子たちのまだまだ若い信仰というものが見られます。イエス様の沢山の奇跡を見ていながら、それでもなお、彼らには、イエス様が偉大な力と権威を持ったメシアであるということが分からなかったのでしょう。
 また、この場面で大事なことは、イエス様が乗り込んでいる舟にも関わらず嵐が起こっているということです。イエス様がおられる舟にはいっさい嵐が来ないということではなく、イエス様が一緒におられても嵐は来るのだということです。この嵐、人生の嵐、困難によく例えられると言いましたが、クリスチャンになれば、ただ万事うまくいく、そのように私もイエス様を信じたばかりの頃、思っていました。しかし、クリスチャンになってイエス様が一緒にいて下さっているのに、困難はあるし、恐れも来る、救われたばかりの時、「どういうことですか?」そんな風に神様に問いつめていました。しかし、大切なことは、人生の歩みの中で嵐が起こったならば、その嵐を神様によって静めて頂くことです。 

<Ⅱ 沈まない舟>
1.嵐を静めるイエス
 弟子たちの必死の声にイエス様は、「『なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちだ。』それから、起き上がって、風と湖をしかりつけられると、大なぎになった。」イエス様は、弟子たちに対して「なぜこわがるのか」といいます。これは、あなた方だけではなく、わたしが共に舟に乗っているではないか、という意味が含まれています。舟に乗る前、イエス様はペテロの姑を癒すなど数々のみ業によって、神の権威と奇跡を委ねられた救い主であることを現し、弟子たちはそれを体験したのです。ところが、嵐に遭遇すると弟子たちはそんな神の力を信頼できなくなるものです。私たちも同じです。
イエス様は起き上って風と湖を叱られ、嵐を静められ、沈みそうな舟を沈まない舟とされました。不思議なことです。私たちはこれをどう受け止めたらよいでしょうか。ある人は、単純に、これは作りことであって、伝説の類ではないかと考えます。しかし、天地万物を造られた神には、嵐の中で沈まない舟へと導くこともまた、可能なのです。聖書では嵐を静めるというテーマが繰り返し語られています。詩編89:9、ヨブ38:11の二ヶ所を紹介します。このように旧約聖書において、嵐のため大荒れの波を静めるのは神であると歌われています。これは、救い主である神が天地万物をお造りなった方である、という信仰があります。
また、心の嵐をも静めてくださる方です。「主よ、起きてください!」イエス様を起こして、イエス様に立ち上がって頂かなければいけません。皆さんの中でイエス様との関係があまり密接ではなく、イエス様がずっと寝ている状態という人はいませんか?イエス様を起こさなければならないのです。なかなか起きないように思っても、弟子たちのように必死に起こすことです。激しいばかりのイエス様への訴えが時に必要であり、主は嵐の中で心の舟を沈まないようにされる方です。

2.信仰の薄い者たち
このところのイエス様の言葉、「なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちだ。」という言葉をもう少し掘り下げてみますと、この言葉は、イエス様の弟子たちへの批判ではなく嘆きというものでしょう。時にイエス様は私たちの不信仰に嘆かれていますが、そんな場面が聖書にはいくつかあります。
イエス様がガリラヤ湖の水の上を歩いた場面では、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか。」と言われ、マタイ17:19-20では、「『なぜ、私たちには悪霊を追い出せなかったのですか。』イエスは言われた。『あなたがたの信仰が薄いからです。・・」とあり、また、ルカ9:41には、「あなたがたの信仰が薄いからです。ああ、不信仰な、曲がった今の世だ。・・」と、いくつもあります。私たちの不信仰が神を悩ませるのです。私たちの不信仰が神の栄光を現せなくなってしまっているのです。しかし、弱い私たちの思いもまた、イエス様はご存じです。肝心なことは、不信仰な自分でも構わないと居座るよりも、「私たちの内にある不信仰を少しでも取り除いてください。そして信仰を引き上げてください。」そう願っていくことです。そして、主が願う信仰へと導いて頂くことでしょう。
 
<Ⅲ イエスの権威の驚異>
1.自然、環境への神の権威
 このように、自然界に対して超自然的な権威を示されたイエス様です。この状況に、「人々は驚いて『いったいこの方は、どういう方なのだろう。風や湖さえも従うではないか』」(8:27)と腰を抜かしたわけです。ここでは、弟子という言葉が使われていません。一般の人と同じように「人々」と呼ばれています。彼らは、弟子としていろいろな神の奇跡を体験しましたが、多くの人々同様にイエスが神であられることを、信じられず、ただ呆然と驚くほかなかったからです。しかしこの圧倒的な驚きが私たちには時には、大事なのです。今も生きて働く神ご自身に直面した人というのは、神の圧倒的な驚異と偉大さの前にひれ伏すのです。この驚きは「あなたこそ生ける神の子キリストです」という信仰の告白へと導き、私たちの信仰を一層、揺るがない土台としていきます。
私の弟は、数年前この教会でイエス様を信じてクリスチャンとなりました。まだ信仰もそう長くはありません。弟が沖縄に旅行に行ったとき、台風に見舞われたそうです。台風の進路は、どう考えても変わりそうにありません。旅行の全てが台風の天気なのかと残念に思い、イエス様に心からの天気の回復を祈ったそうです。すると、弟たちがいた日の一日だけ、台風の進路が真っ直ぐでなく、その日を避けるように、凹んだラインを描いて進んでいったそうです。お陰で弟たちは、素晴らしい天気の中で旅行を楽しめたそうです。弟は、祈りにおける神の力に驚き興奮して、私に話してきました。まだ、私はそんな体験はありません。皆さんはそう仰るかもしれません。しかし、小さな心からの祈りによってもこのような自然を動かす神の力があることを信じて頂きたいと思います。

2.人生への神の権威
 今日の話しの前でイエス様は、不治の病をご自分の言葉でいやし、また、キリストの弟子となっていくことによって、人々の人生の歩みの大切な教えをされました。そして、ここでは、ご自分のことばによって、風と湖を静められたのです。このようなところから、イエス様は、人々や自然界、全てにおいての権威と神の御力を持たれた方であることを知ります。人と自然界は、私たちの環境として共存するものです。神の奇跡的な驚異は、人に対する神の愛と憐れみがそこにあります。イエス様は、私たち人生全てにおいて、神の権威を示され、導かれる方なのです。
神の存在、そしてイエス様に与えられた偉大なる神の権威は、私たちの魂を救いをもたらし、心や肉体を癒し、一人一人の人生観までに及び、そして自然や周りの環境までをも支配し、変えていくことが出来る方です。私たちの人生の全てが神の権威とその力で捉えられて導かれることを願って、共に歩んで参りましょう。




あなたがたは世界の光です

2014-11-02 20:20:31 | 礼拝説教
2014/11/2WS礼拝説教
【テーマ】  クリスチャンとは?
【説教題】 「あなたがたは世界の光です」
【聖書箇所】 マタイ5:14-16
5:14 あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。
5:15 また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。
5:16 このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。

○ イエス様が語られて、2000年経った今も人々の心に残っている有名な言葉がありますが、その一つだと思います。「世の光」、人の名前に使われたり、ラジオ放送「世の光」に使われたりもしています。

Ⅰ.光はいのちに不可欠なもの
A.光を造られた神
1.この前のところに「あなたがたは地の塩です」とあり、塩が人間に不可欠であることも見てきましたが、光も不可欠です。光が無ければ「いのち」も無いと言われます。
2.「光とは何か」(江馬一弘著・宝島社新書)を読みました。光の速度をどのようにして計ったかとか、虹は7色なのかと言うようなことが書いてあります。虹を最初に7色と言ったのはニュートンで、音階の7音に対応して7色としたらしいのです。
3.イエス様は神様であり、光を造られた方です。光が人間に不可欠であることを当てはめて、クリスチャンを「光」と言われたことがすごくよくわかります。クリスチャンは世の中に無くてはならない存在なのです。

B.光の力
1.光があるお陰で物が見えるわけですし、光があるお陰で植物は光合成して、酸素を出したり、栄養分を蓄えたりするのです。現代には無くなったと言われた病気がここのところ子どもたちに増えているそうです。その病気とは「くる病」です。「ビタミンDの欠乏や日光に当たることの少ないのが主な原因で、骨の形成が不良となり、脊椎・四肢骨などの曲がる小児の病気。」と書いてありました。紫外線をやたら恐れて、子どもを日光から遠ざけすぎたのではないかと言われているのです。ビタミンDは太陽にあたることで形成される大事なビタミンです。
2.また、光は塩と同じように殺菌効果があります。できるだけ、洗濯物は太陽に当てて干します。光を虫眼鏡で一点に集めるとと火を噴きます。そのような力、エネルギーが光にはあるのです。
3.神様はクリスチャンのことを「世の光」と言われたのは、塩と同じように人々に大切な力やエネルギーを与える者として造られたからです。

Ⅱ.イエス様は世界の光である
A.イエス様が光そのもの
1.私たちのことを あなたがたは、世界の光です と言ってくださいましたが、そのイエス様がご自分のことを「光」であると言っておられます。 ヨハネ8:12 イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」 とも、 ヨハネ12:46 わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれもやみの中にとどまることのないためです。 とも言っておられます。
2.光ですから、闇が無いのです。行くべき道がわかります。闇の中に留まることも無いのです。イエス様は光そのものですから、ご自身がどのような存在か完全に分かっておられます。
3.私たちはよく「自分探し」をしたり、死後どこに行くのかさえも分からずに悩んだりします。自分で光になれた人はいません。自分を太陽のような光として紹介するような人がいますが、神の前にへりくだる必要があります。

B.イエス様は私たちを光とされた
1.あなたがたは、世界の光です。 ここのところも、塩のところと同じで、「光になりなさい」と言われたのではありません。イエス様を信じたら「光」になっているのです。
2.ですから、塩のところで もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。 と言われたように、ここでは あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。 と言われました。本来あかりは部屋を照らすためにありますから、それを隠したら何の意味も無いわけです。
3.クリスチャンというのは世の中で隠れた存在でいてはいけないようです。神様は全ての人が「光」としての存在になることを願っておられ、光になった者は暗闇を照らす働きをするように願われているのです。

Ⅲ.私たちは世界の光である
A.キリスト者はイエス様を表している
1.光とは言われましたが、イエス様は太陽のような存在だとすれば、私たちは月のような存在かも知れません。イエス様は光源そのものです。私たちはその光を反射させている月のような存在です。
.Ⅱコリ 3:18 私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。 この言葉のように、私たちは鏡のような存在と考えることができます。見えないイエス様を映し出す鏡のような存在です。

B.キリスト者の使命
1.このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、 と、クリスチャンは光なので、それを輝かせることが使命なのです。そして、その目的は 人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。 なのです。神をあがめない人達が神をあがめるようになる事が神様の願いなのです。そのために神様はイエス様を信じて救われた人をイエス様と同じように光にされたのです。
2.そのために光である自分自身を隠してはならないのです。最近のLEDの光は熱量が少ないですが、イエス様の言われているここでの光は灯火ですから光であるイエス様を心に持つということは心の中が熱で熱くなってくるということです。隠しておけないと言うことです。

● 子どもの頃、日陰に向けて鏡で光を照らして遊んだ経験があります。懐中電灯では無いのですが、暗いところにあるものが見えるのです。鏡は光を発するものでは無いのですが、太陽の光を反射させるだけで光を発してるかのように見えるのです。

★ 神様は私たちを世の光として造ってくださったのです。日陰で苦しんでいる人達に救いの光を届けるのが私たちの役目なのです。あなたもこの働きをする人になりませんか。「世の光」にしていただきませんか。