バイブルサロン

礼拝説教、聖書を読んで感じた事

シルバーシートから離れて

2013-09-15 19:00:56 | 礼拝説教

  2013/9/15礼拝説教
【テーマ】  老人を祝福される神
【説教題】  「シルバーシートから離れて」
【聖書箇所】 詩篇71:15-20
71:15 私の口は一日中、あなたの義と、あなたの救いを
 語り告げましょう。
 私は、その全部を知ってはおりませんが。
71:16 神なる主よ。
 私は、あなたの大能のわざを携えて行き、
 あなたの義を、ただあなただけを心に留めましょう。
71:17 神よ。あなたは、私の若いころから、
 私を教えてくださいました。
 私は今もなお、
 あなたの奇しいわざを告げ知らせています。
71:18 年老いて、しらがになっていても、
 神よ、私を捨てないでください。
 私はなおも、あなたの力を次の世代に、
 あなたの大能のわざを、
 後に来るすべての者に告げ知らせます。
71:19 神よ。あなたの義は天にまで届きます。
 あなたは大いなることをなさいました。
 神よ。だれが、あなたと比べられましょうか。
71:20 あなたは私を多くの苦しみと悩みとに、
 会わせなさいましたが、
 私を再び生き返らせ、
 地の深みから、再び私を引き上げてくださいます。

○ 本日はシルバー祝福式です。

Ⅰ.尊ばれるべきシルバー
  A.お年寄りを大事にする風潮
    1.姥捨て山伝説があちこちにあるようです。年寄りは役に立たないし、少ない食料を大事にするために年寄りを山に捨てに行ったというのです。ところが、ある人が年とった母親を捨てることができず隠しておきました。ある時、殿様が解決できない難問にぶち当たったけれども誰も解決できないのです。その時、母親を隠していた彼は母親から知恵をもらって、殿様に解決の方法を語ったのです。殿様は大喜びで「どんな褒美でもつかわす」と言いました。彼は、「この回答は私がしたのではなく、年とった私の母がしたのです」と。そこで年寄りは体を使うことはできなくなっても知恵があるということで、姥捨ては取りやめになったというような話です。
    2.現代で言うならば戦争を体験し、大変厳しい生活を強いられながら、日本の国をここまで成長させてくださった年配者に感謝しようという話も多くあります。
    3.いつ頃からかシルバーシートが普通になりました。色々な意見もありますが、これもお年寄りを大事にするということだと思います。バスの無料カードなどもそうです。
   
  B.しらがは光栄の冠
    1.聖書はどうでしょうか? 箴言の中に、 箴言16:31 しらがは光栄の冠、それは正義の道に見いだされる。 箴言20:29 若い男の光栄は彼らの力。年寄りの飾りはそのしらが。 という言葉がありますように、聖書では年配者、老人を尊重しております。
    2.ルカの福音書2章に出てくる老人シメオンとアンナは、マリヤとヨセフが抱いてきた幼子イエスに会うことができました。彼らはメシヤと会えることが希望だったのです。神様は神様に忠実な彼らを祝福されたのです。
    3.旧約聖書でも神様は老人を祝福されています。ヤコブも晩年になって離ればなれになっていた息子ヨセフと再会できました。また、モーセはじめ多くの年配者を用いておられます。

Ⅱ.誰をも見捨てない神様
  A.体は弱り、力は失せ、記憶は悪くなるが・・・
    1.「年をとるというのは悲しいものだ」と多くのシルバーの方から聞いてきました。どうしてかというと、以前はできていたことができなくなってしまう、記憶さえも定かで無くなってしまう。体が思うように動かない、等々自分の記憶にある若い時にできたことができなくなるさみしさ、悲しさということのようです。
    2.年配者でなくても、若いお父さんにもあります。子どもの運動会で格好良いところを見せてやろうと意気込んで走ったものの、足が思ったように動かず、ひっくり返ってしまうということがよくあります。頭では若い時の走りを記憶していてそのように走っているつもりなのですが、足は着いていかないというわけです。
    3.神様は人間の発達を右肩上がりにされたわけではなく、どうも複雑な発達をするようにされたようです。私が大学の卒論で「第二反抗期の研究」と題して調べた時、体の臓器や精神発達は本当にまちまちであることを知ったのです。
   
  B.神様はお年寄りを見捨てない
    1.この詩篇の記者は 18 年老いて、しらがになっていても、神よ、私を捨てないでください。 と言っています。若い時には体が動き、色々神様のために働いたけれども、年をとってしまうとそうしたことができなくなってしまう。そうなると神様に見捨てられるのでは無いかと思うわけです。
    2.しかし、神様は何かできるから私たちを救われたでしょうか? イザヤ46:4 あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。 とあります。聖書は何もできなくなったからと言って老人を見捨てたりしないと言っているのです。

Ⅲ.神の恵みを語る仕事
  A.多くの恵みを語ることができる
    1.ところで、年をとると本当に何もできなくなるのでしょうか? この聖書記者は :17 私は今もなお、あなたの奇しいわざを告げ知らせています。 と言い、:18 私はなおも、あなたの力を次の世代に、あなたの大能のわざを、後に来るすべての者に告げ知らせます。 と言っています。
    2.発達曲線は筋肉や骨、臓器といったものは確かに衰えます。脳の働きも衰えるのですが、決してすべての脳の働きが衰えるのでは無いみたいです。孫に優しくしたり、性格が丸くなるというようなこともあります。
    3.生きてきた年数は同時に多くの試練をも乗り越えてきたことになります。そうした知恵や知識は厳しさからではなく、丸さから次世代に語ることが大事な仕事のようです。神様の恵みを語るのです。
   
  B.お年寄りに近づこう
    1.自分勝手な生き方をし、その自分を誇るような話ならば若い人も嫌気がさすのです。年をとると過去の栄光を語りたくなるのです。もちろん、過去に起こった出来事で神様の栄光なら語るべきなのですが、どうしても自分を語ってしまいやすいのです。神様の恵みを語るのです。
    2.私は「お年寄りが好きだ」というたくさんの青年を見てきました。彼らがなぜお年寄りを好きなのかというと、「変に説教しないで優しく語ってくれる」「話に人生の重みがある」「かわいらしい」等々あるのです。
    3.神様はお年寄りを若者のために、子どものために用いようとされているように思えてなりません。

● 特別にシルバーシートを設けていない電車があります。どの席も譲り合う席なのだそうです。シルバーの方のそばで若い人が色々話を聞けるシートが欲しいです。 レビ 19:32 あなたは白髪の老人の前では起立し、老人を敬い、またあなたの神を恐れなければならない。わたしは【主】である。 と、ありますが、神様はお年寄りを愛しておられます。それは神を愛することと同等なのです。

★ シルバーの方々、神様が皆さんに与えた数々の恵みは口を閉じてしまっては神様の栄光になりません。シルバーシートから離れて、神様の栄光のために語ってください。


神の言葉に生きる人 2

2013-09-01 17:42:15 | 礼拝説教

  2013/9/1礼拝説教
【テーマ】  しっかり聖書を読む
【説教題】  「神の言葉に生きる人 2」
【聖書箇所】 創世記22:1-3,9-18
  22:1 これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられた。神は彼に、「アブラハムよ」と呼びかけられると、彼は、「はい。ここにおります」と答えた。
22:2 神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」
22:3 翌朝早く、アブラハムはろばに鞍をつけ、ふたりの若い者と息子イサクとをいっしょに連れて行った。彼は全焼のいけにえのためのたきぎを割った。こうして彼は、神がお告げになった場所へ出かけて行った。

  22:9 ふたりは神がアブラハムに告げられた場所に着き、アブラハムはその所に祭壇を築いた。そうしてたきぎを並べ、自分の子イサクを縛り、祭壇の上のたきぎの上に置いた。
22:10 アブラハムは手を伸ばし、刀を取って自分の子をほふろうとした。
22:11 そのとき、【主】の使いが天から彼を呼び、「アブラハム。アブラハム」と仰せられた。彼は答えた。「はい。ここにおります。」
22:12 御使いは仰せられた。「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」
22:13 アブラハムが目を上げて見ると、見よ、角をやぶにひっかけている一頭の雄羊がいた。アブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の子の代わりに、全焼のいけにえとしてささげた。
22:14 そうしてアブラハムは、その場所を、アドナイ・イルエと名づけた。今日でも、「【主】の山の上には備えがある」と言い伝えられている。
  22:15 それから【主】の使いは、再び天からアブラハムを呼んで、
22:16 仰せられた。「これは【主】の御告げである。わたしは自分にかけて誓う。あなたが、このことをなし、あなたの子、あなたのひとり子を惜しまなかったから、
22:17 わたしは確かにあなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように数多く増し加えよう。そしてあなたの子孫は、その敵の門を勝ち取るであろう。
22:18 あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」

○ 今日から9月に入ります。いよいよ子ども達も夏休みが終わりです。今日は米田浩司先生に来て頂き、午後にミニライブをしていただきます。

Ⅰ.イサクを献げにいった偉人
  A.神様の約束を待ち続けた
    1.神様の言葉を信じて、ウルからハラン、ハランからカナンの地にやって来たアブラハムでした。アブラハム夫妻には子どもがいませんでした。ところが、神様は子どもを与えると約束されたのです。
    2.何年も待ちましたが、子どもは生まれません。もちろん、アブラハムもサラも年寄りになってしまい、とても子どもが生まれることは考えることもできない状態です。
    3.100歳を目の前にしたアブラハムに、神様は再度子どもを約束されました。
   
  B.約束通りにイサクが誕生したが・・・
    1.約束通りにイサクが誕生しました。アブラハム夫妻は大喜びでした。神様は約束されたことを必ず守られる方であることを確信していました。
    2.そして、イサクもだいぶ大きくなりました。このまま幸せな日々が続くと思われたのですが、突然、今日の聖書箇所の出来事です。試練がやって来ました。
    3.現代では考えられないような試練です。それは、神様の約束された子どもイサクを生け贄にして献げるようにという命令だったのです。
   
  C.イサクを取り戻した
    1.アブラハムはその神様の命令にも従いました。彼は今日のテキストにあるとおり、イサクを連れて行きました。そして祭壇を作り、その上にイサクを乗せました。
    2.そして、アブラハムが刀を振り下ろそうとした時、神様から「待った!」のお声がかかるのです。

Ⅱ.神の言葉に従うことを学ぶ
  A.アブラハムも完璧では無い
    1.以上が本日の物語のあらすじでしたが、このアブラハムとイサクの物語が聖書に書かれて、今まで伝えられてきたのはどういう意味を持つのでしょうか?
    2.アブラハムは選ばれた人でした。何のために誰に選ばれたかというと、この大宇宙も人間もすべてをお造りになった神が、神を信じて生きることが人間の最大の幸福であり、最も大事だということを教えるために選ばれたのです。
    3.アブラハムは完璧な模範ではありません。それは彼も人間であって罪人だからです。私たちにとって最大の模範はイエス様です。ですからイエス様を模範として生きていけば良いのですが、同じ罪人として、アブラハムから学ぶところはとても多いのです。
   
  B.アブラハムは神の問いかけに答えた
    1.前回もアブラハムを語ったのですが、アブラハムはこれほどにまで神様の声に聞き従うというのは、彼は特別な人なのでしょうか? 確かに選ばれたから特別と言えるのかも知れませんが、神様が私たちに信仰を教えるために選ばれたということから考えると特別とも言いがたいです。
    2.つまり、私たちたちもアブラハムと同じように神の言葉に従うことができる性質を持っているのではないでしょうか。確かに 「アブラハムよ」と呼びかけられる 声を聞けば、私たちも 「はい。ここにおります」と答え るのではないでしょうか? 果たしてそうでしょうか?
    3.聖書の無い時代で、ほとんどの人が偶像礼拝をしているような中で、アブラハムは神の声を聴きました。私たちは恵まれた時代にいます。聖書から神の声を聴くことができます。聞こえていますか?

Ⅲ.神の言葉に従う平安
  A.イエス様の言葉に従えるか?
    1.聖書から神の声を聴くと言いましたが、イエス様は神様ですからイエス様の言葉に従うと良いのです。が、これがなかなか難しいです。 マタイ 5:39 しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。 なら、まだできるかも知れませんが、 マタイ5:29 もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。 5:30 もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切って、捨ててしまいなさい。 となるとできないですね。(昔、これを実行した人があると聞いたことがありますから、ビックリです)
    2.アブラハムがイサクを生け贄として献げにいったのはやはりすごいと思います。が、彼は神様がそんな変なことを言うと思ったのでしょうか? 間違って聞いていないか? と思いませんか。
    3.そこは彼が普段から神様と共に生活してきていて空気をも読める人になっていたのではないでしょうか。私たちもそれくらいになれると良いのですが。
   
  B.しっかり聖書を読む
    1.私たちの教会は今年「しっかり聖書を読もう」という標語を掲げました。私はそのために、聖書塾のようなものを開きたいとも思っていましたが、私の力不足でここまで開くことができませんでした。
    2.しかし、英語と日本語で聖書を読む会や、マナタイムという自発的な学び会、岡山先生による基礎講座、ベタニアさんの聖書の勉強の継続といった事ができたのは幸いでした。
    3.聖書を継続して学ぶのは、聖書の文字を追う、字面の研究ではなくて、アブラハムが神様のお声を聞き分けたように、神様が語られることを正しく聞き取る心、従う心を持つためなのです。
   
  C.神に従うときに平安がある
    1.私は教師を辞めて牧師になりましたが、それは間違い無く神様の御計画だったのでしょうか? 高槻から新中野教会に来ましたが、それは神様の導きを間違えたのではないのでしょうか? 佳子先生と結婚しましたが、他の人では無かったのでしょうか?
    2.もちろん、間違っていません。どうしてそう言い切れるか? こんな私でも耳で聞けない神様のお声を聞くことができたからです。従う時には平安があるのです。
 

★ あなたも神の声を聞き間違えないで、神の言葉に生きる人になりませんか? 是非、聖書を学んでいただきたい。神様の空気が読める人に。