バイブルサロン

礼拝説教、聖書を読んで感じた事

思い出してください

2020-07-25 17:55:15 | 礼拝説教
2020/7/26 礼拝説教
【テーマ】  一つにされた恵み
【説教題】 「思い出してください」
【聖書箇所】 エペソ2:11-18
2:11 ですから、思い出してください。あなたがたはかつて、肉においては異邦人でした。人の手で肉に施された、いわゆる「割礼」を持つ人々からは、無割礼の者と呼ばれ、
2:12 そのころは、キリストから遠く離れ、イスラエルの民から除外され、約束の契約については他国人で、この世にあって望みもなく、神もない者たちでした。
2:13 しかし、かつては遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近い者となりました。
2:14 実に、キリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し、
2:15 様々な規定から成る戒めの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、この二つをご自分において新しい一人の人に造り上げて平和を実現し、
2:16 二つのものを一つのからだとして、十字架によって神と和解させ、敵意を十字架によって滅ぼされました。
2:17 また、キリストは来て、遠くにいたあなたがたに平和を、また近くにいた人々にも平和を、福音として伝えられました。
2:18 このキリストを通して、私たち二つのものが、一つの御霊によって御父に近づくことができるのです。

○ 昔のことは結構思い出せるのに、比較的最近のことが思い出せなくなってきました。毎朝昨晩の食事を書き出すのですが、全部思い出せないことがよくあります。
今日のテキストの最初には「思い出してください」とあります。
 
Ⅰ.思い出してください
A.望みも神も無い者だった
1.今日の御言葉の最初、11節に ですから、思い出してください と言っていますが、これは神の恵みを思い出してくださいということです。私たちはみんな神の恵みを受けています。思い出してください! 救われたことが最大の恵みです。喜びをもって救われたことを語ってください。
2.ここはパウロが救われた異邦人クリスチャンに語っているところです。 あなたがたはかつて、肉においては異邦人でした。人の手で肉に施された、いわゆる「割礼」を持つ人々からは、無割礼の者と呼ばれ、そのころは、キリストから遠く離れ、イスラエルの民から除外され、約束の契約については他国人で、この世にあって望みもなく、神もない者たちでした。 と、救われるはずの無い人間だったのに、救われたという、このすごい恵みを思い出すように言っています。

B.救いは歴史的大事件
1.異邦人が救われるということはものすごい出来事で、歴史的大事件だったのです。彼ら異邦人はそんなすごい大事件というべき恵みの中に入れられたのです。そのことを 思い出してください と言っています。
2.同じような歴史的大事件が私たちの救われたことです。さあ、思い出してください。あなたの救われた時のことを。あなたがイエスを救い主として信じる決心をした日のことを。あなたが救われたのは歴史的大事件なのです。

Ⅱ.ユダヤ人も異邦人も一つに
A.ユダヤ教に改宗した異邦人
1.今も世界では民族が分裂したまま争っていることがたくさんあります。その争いの中で苦しんでいる人がたくさんいます。なかなか一つになれないのです。ユダヤ人と異邦人も同じ社会にいたかも知れませんが、同じ信仰を持って生活できるなんてことは考えられませんでした。
2.異邦人がイスラエルの神のすばらしさを信じてユダヤ教に改宗する人はいました。しかし、神殿礼拝の中心的な場所には異邦人は入ることができず、外側に異邦人の庭と呼ばれる場所が設けられていました。

B.教会形成の難しさ
1.ところが、教会はユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンが共に礼拝しているのです。一緒に教会にいることはすごいことなのです。しかし、肉的にはまだまだ互いに差別意識が残っていましたから決して教会が楽に運営できたわけではありません。
2.だからこそ、パウロは言うのです。教会はユダヤ人だけででもなく、異邦人だけでもない、全ての人によって形成されるのだと。

C.天国の市民権を持つ
1.当時の人々にとって「ローマの市民権」は天国の国籍をもっているかのように思われていました。パウロはそれを持っていました。ある人は高いお金を払って手に入れました。これはとても優遇される権利であったからです。
2.異邦人がユダヤ人になれなくても、天に国籍をもつことができました。それはイエスの十字架によってです。ローマの市民権を人々は望んだからも知れませんが、それを持っていても真の平和を持つことはできませんでした。しかし、キリストを持つことは真の平和を持つことです。教会はまさにそういうところです。

Ⅲ.十字架のわざのすごさ
A.全ての人に平等な救い
1.教会はユダヤ人だけのものでも、異邦人だけのものでもないわけで、教会はキリストのものなのです。それはキリストが神と人との間の障壁を十字架によって取り除いたからでした。そのことによってユダヤ人と異邦人の間の壁も取り除かれました。十字架の日に神殿の幕が上から裂けたことがそれを示したではありませんか。
2.「使徒の働き」で見てきたように、弟子達は異邦人が救われることを現実に見てきたのです。これがまさに歴史的大事件でした。異邦人にも聖霊が注がれる、異邦人も救われるように神はなさったのです。ユダヤ人も異邦人も無い、全ての人が平等に救われるのです。

B.神と人との間の平和
1.そして、十字架のすごさは、神と人との間の障壁も取り除いたことです。いくらユダヤ人と異邦人の間の壁が無くなっても神と人との間の壁が無くならない限り真の平和はありません。
2. 思い出してください 今、神との平和があるのはイエス・キリストの十字架のお陰だということです。十字架を抜きにして神との平和は有り得ませんでした。このことが 福音として伝えられました。 
3. このキリストを通して、私たち二つのものが、一つの御霊によって御父に近づくことができるのです。 とあるように、ユダヤ人も異邦人も同じ聖霊を受けて、神に近づけるようにしていただいたのです。

● あなたの救われた日のことを思い出しましたか? 私も47年前の救いの日を思い出します。キリスト教に逆らっていた私に神様は悔い改めるチャンスをくださり、私はイエス様を信じました。お金も何も支払っていません。ユダヤ人でもありません。ローマの市民権も持っていません。でも神様は私を救ってくださいました。そして、世界中のクリスチャンを家族としてくださったのです。現代はインターネットで世界中の人と繋がれると言いますが、私はイエス様によって本当に家族として繋がりました。とても心が平和になった日でした。

★ 思い出してください。あなたの救いはあなたの力によりますか? ただただ神の恵みでは無かったでしょうか。天国の市民権を平等にいただいたのです。 実に、キリストこそ私たちの平和です。 

こんな価値のない者にも

2020-07-18 06:48:51 | 礼拝説教
2020/7/19 礼拝説教
【テーマ】  神の作品である私
【説教題】 「こんな価値のない者にも」
【聖書箇所】 エペソ2:8-10
2:8 この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。
2:9 行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。
2:10 実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。

○ 教会はどういう存在なのか、クリスチャンはどういう目的を与えられているのか考えてみたいです。「皆さんの生きる目的はなんですか?」クリスチャンになって生きる目的が明確になられたでしょうか
 
Ⅰ.私たちは恵みによって救われた
A.χάρις カリス
1.最初に私たちの救いは神の恵みによるということから見ていきます。 この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです とありますので、「恵み」について考えましょう。ギリシャ語の「χάρις カリス」英語でGraceですが、年配のクリスチャンだと「恩寵」という言い方がなじみ深いかも知れません。
2.このギリシャ語のχάρις カリスは「恵み、優しさ、好意、感謝、愛らしさ、恩恵の行為、の利益のために、の理由により」と訳せる言葉だそうです。神の優しさによって、神のご好意によって、私たちは救われたのです。

B.価値の無い者を価値ありとされる
1. この恵みのゆえに というのは「価値があるから認める」というのとは違います。価値が無いのに価値があると認めてくれることです。聖書の中にはそういう話がいっぱいあるのです。
2.例えばザアカイを取り上げてみると、ザアカイはユダヤ人の目から見れば困った人でした。いわゆる価値の無いとされる人だったのです。ところが、イエスはこのザアカイを愛され、彼の友となられました。こういうイエスの愛が「恵み」です。
3.そして、私たちもザアカイをや聖書の中の色々な人物と同じではないでしょうか。価値の無い私たちを救ってくださいました。こんな価値の無い者を神は愛してくださったと、心から感謝しているでしょうか?

Ⅱ.私たちは神の作品である
A.自分の作品は自分が愛する
1.私はクリスチャンになって「賛美」と出会いました。歌うこと、賛美することが好きになりました。すると次に自分の賛美が生まれてきました。大した曲じゃないから他の人からリクエストがありません。でも、私は自分の作った歌が一番好きなんです。自分の作品ってそういうところがありますね。
2.私たちの家族に対してはどうでしょうか? 自分の作品というと語弊がありますが、家族を愛するではありませんか。どこの誰よりも自分の家族だからということで愛しています。神は私たちをご自分の家族として愛してくださっています。しかも私たちは神によって造られた作品ですから。

B.神の作品は神が愛する
1.さて、この 私たちは神の作品 という言葉、私たちは神に愛されているということです。他の誰が気に入らなくても、自分自身さえも気に入らなくても、神は気に入っているのです。それが 神の作品 です。
2.創世記の1章で、 1:31 神はご自分が造ったすべてのものを見られた。見よ、それは非常に良かった。夕があり、朝があった。第六日。 とあるように、神はこの世界、人間という作品をとても喜ばれました。愛されたのです。
3.たとえ人が罪を犯したとしても神の愛は変わらないということです。神の作品である人間は神の喜ばれない罪を犯したためにエデンの園から追い出されました。また、人の罪が増大したがためにノアの時の大洪水で人々を滅ぼさねばなりませんでした。そういうところを見ると愛が感じられないと言われるかもしれませんが、その時の神の悲しみ、辛さ、苦しみを思ったことがありますでしょうか?
4.愛する我が子イエスを十字架で生贄としてささげることを決められた神の苦しみを私たちはどれほど理解できるでしょうか? つまりそれほどまでに私たちは愛されているということです。

Ⅲ.よい行いをするため
A.私たちの造られた目的
1.次に、私たちは救われたわけですが、この 神の作品 として救われた目的があるのです。それは 良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。 と書かれているとおりです。 良い行い で救われるのではありません。救われたから 良い行い をするのです。救われないと 良い行い ができないのです。
2.この 良い行い とは社会的にも良い行いですが、社会的に良い行いはなにもクリスチャンでなくてもするでしょう。しかし、世の人がどんなに立派に良い行いをしても、神の作品であるクリスチャンでなければできない良い行いがあるのです。それは、心からの礼拝、献金、宣教、奉仕等々がそうです。

B.救われたからできること
1.一人の青年がイエスに 「先生。永遠の命を得るためには、どんな良いことをすればよいのでしょうか。」(マタイ19:16-22) と聞いてきた話があります。彼は十戒を文字通り行うという点では 19:20 この青年はイエスに言った。「私はそれらすべてを守ってきました。何がまだ欠けているのでしょうか。」 と言えるほどに真面目な青年だったようです。
2.そこでイエスは十戒の中心を語られました。 19:21 イエスは彼に言われた。「完全になりたいのなら、帰って、あなたの財産を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。そのうえで、わたしに従って来なさい。」 これを聞くと彼は悲しみながら立ち去りました。
3.イエスの言っていることは肉による義はありえないこと、人を愛することが救いとなるいうことです。が、この青年は真面目であったかもしれませんが、愛を行うことができなくて悲しんで帰ったのです。つまり、救われないと愛の行いはできないのです。イエスは良い行いは救われてこそできると言われるのです。

● 私は救われて何が変わったかというと、神の存在を信じただけではありません。その神を礼拝する者になりました。賛美する者になりました。祈る者になりました。奉仕をしたくてたまらなくなりました。伝道したくてたまらなくなりました。もちろん、クリスチャンになってからも何度も挫折体験はありますが、変化したのは確実です。そして、クリスチャンになるまで大して子どものことを思わなかったのに、クリスチャンになって、子ども達に何としてもイエス様を信じて欲しいという思いが湧いて来るようになったのです。

★ 皆さんは神の作品であり、皆さんの努力で救っていただいたのではありません。神の恵みによって救われ、大事な目的を持って救われています。神と人を愛することという十戒の中心を生きるために造られたこと、そして救われたことを感謝しようではありませんか。

実を結ぶ人生を送ろう

2020-07-04 06:59:12 | 礼拝説教
2020/7/5 礼拝説教
【テーマ】  イエスに繋がる
【説教題】 「実を結ぶ人生を送ろう」
【聖書箇所】 ヨハネ15:5-6
15:5 わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。
15:6 わたしにとどまっていなければ、その人は枝のように投げ捨てられて枯れます。人々がそれを集めて火に投げ込むので、燃えてしまいます。

○ この世で成功したように見える人生、しかし、今日の御言葉のように最後は投げ捨てられて枯れるのは困ります。そして火に投げ込まれるというのはこれは最後のさばき、地獄を表しています。正しく実を結ぶ人生を考えませんか。
 
Ⅰ.実を結ぶ枝
A.イエスに繋がっていると実を結ぶ
1. わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。 とありますが、裏返すとイエスにくっついていれば何でもできるということです。パウロはこう言っています。 ピリピ4:13 私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです。 と。果たして、私たちはこのような力強い生き方をしているでしょうか?
2.実際のところパウロという人の人生はすごかったみたいです。 Ⅱコリ11:23 彼らはキリストのしもべですか。私は狂気したように言いますが、私は彼ら以上にそうです。労苦したことはずっと多く、牢に入れられたこともずっと多く、むち打たれたことははるかに多く、死に直面したこともたびたびありました。11:24 ユダヤ人から四十に一つ足りないむちを受けたことが五度、11:25 ローマ人にむちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度、一昼夜、海上を漂ったこともあります。11:26 何度も旅をし、川の難、盗賊の難、同胞から受ける難、異邦人から受ける難、町での難、荒野での難、海上の難、偽兄弟による難にあい、11:27 労し苦しみ、たびたび眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さの中に裸でいたこともありました。 というような人生です。誰も望まない人生です。パウロも望んだわけではありません。しかし、彼はこのような人生の中にあって神の栄光を見ています。
3.1ヶ月前にも試練の話をしましたが、試練に遭っても平安を持つことができるのはこのキリストの力です。世の人が思う平安とは違うようです。

B.罪人は罪の実を結ぶ
1.こういうパウロと違って、自分が不幸なのはお金が無いから、○○が無いから、結婚した相手が悪いからなどと言うひとがいます。そういう人にイエスはこう言われました。 マルコ7:18 イエスは彼らに言われた。「あなたがたまで、そんなにも物分かりが悪いのですか。分からないのですか。外から人に入って来るどんなものも、人を汚すことはできません。・・・7:20 イエスはまた言われた。「人から出て来るもの、それが人を汚すのです。7:21 内側から、すなわち人の心の中から、悪い考えが出て来ます。淫らな行い、盗み、殺人、7:22 姦淫、貪欲、悪行、欺き、好色、ねたみ、ののしり、高慢、愚かさで、7:23 これらの悪は、みな内側から出て来て、人を汚すのです。」 と。つまり本来人は罪人であって、罪の実を結ぶということです。
2.渋柿は渋柿の実をつけます。私たちは渋柿みたいなものですから、いくら頑張っても渋柿です。勉強しようが、修業を積もうが渋柿です。これは渋柿が甘柿に変わらない限り、つまりそういう奇跡が起こらない限り渋柿なのです。その奇跡が十字架によって起こりました。私たちは渋柿から甘柿に変えられるのです。それがよく言われている「イエスを信じる者は救われる」ということです。
3.甘柿というのは弱い木なのです。ところが渋柿に接ぎ木をすることで強くなるのです。渋柿の幹に渋柿を接ぎ木してもそれは渋柿にすぎません。まず甘柿に変えていただいて、イエス様に接ぎ木されることで、甘柿の実を結ぶ枝になるのです。

Ⅱ.枯れてしまう枝
A.接ぎ木の失敗
1.昔、私の実家には10本の柿の木があり、すべて甘柿でした。近所にも柿の木の植わっている家が数軒あったのですが、それも全て甘柿でした。後に父から聞いたところわが家も近所の柿の木も全て祖父が接ぎ木をして甘柿にしたというのです。
2.小学生だった私は接ぎ木っておもしろそうに思い、色々な木で接ぎ木をしてみたのです。ところがすべて枯れました。なぜ枯れたのか? 当時は分かりませんでしたが、後になって分かったのは切り口がきれいではなかったためのようです。切り口はスパッときれいに切り、ゴミなどが付かないようにしなければならなかったそうです。

B.罪に見切りを付けないと枯れる
1.私たちはイエスに汚れなくしっかりと繋がっていないと実を結ばないのです。枯れるのです。イエスは私たちの罪・汚れの解決のためにスパッと十字架にて自分の命を切り裂いてくださいました。私たちも罪人の自分に見切りを付けてスパッと切ることで、十字架の奇跡が起こります。
2.悪魔の支配があるこの世に住んでいる以上、罪は心地良く感じるのです。そして、悪いと分かっていても離れたくない、離れられないものなのです。(ドラマで見る、不倫は悪いとわかっていても・・・というのがあるように、そこをスパッと止めないと不幸になるではありませんか)

Ⅲ.良い実を結ぶ人になる
A.永遠性のある実を結ぶ
1.あなたはどんな実を結びたいですか? この世で実をつけてもこの世で終わってしまう実があります。お金を稼いだり、大きな家を持ったり、会社を大きくしたりすることなどは悪い事ではありませんが、この地上だけのことです。
2.聖書が言う実とは永遠性のあるものです。それこそ ガラテヤ5:22 御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、5:23 柔和、自制です。 という聖霊による実ではないでしょうか。これらの実は、自分を潤す実でもありますが、他の人を生かす、他の人の役に立つものではないでしょうか。

B.十字架に繋がって実を結ぶ
1.私たちはイエスに接ぎ木される枝です。それは十字架に接ぎ木されるということです。十字架は私たちの命の源です。枝もしばらくは水があれば生きながらえますが、実は結べないのです。私たちも世の何かに繋がっていても命は永遠ではないのです。
2.あなたは十字架に繋がっていますか? 私たちは力が無い者です。しかし、十字架には罪を赦す力があり、私たちを天国につなぐ力をもっています。永遠の命を与える力を持っています。ですから、この十字架に繋がると力を得ます。十字架に繋がることで実を結ぶのです。

● 私は接ぎ木に失敗したと言いましたが、その理由はもう一つあったのです。数日経って、くっついたかなとそのくっつけた部分をはがして枝を動かしてみたからです。「まだくっついてない」と何回もそんなことしていたから枯れました。イエス様にくっついたり離れたりをくり返したらダメなのです。しっかりくっつきっぱななしです。

★ 最後にもう一度、今日の御言葉を読みましょう。 15:5 わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。 イエスとピッタリ一つになりましょう。