バイブルサロン

礼拝説教、聖書を読んで感じた事

まぐれと思っていた

2020-06-27 17:35:17 | 礼拝説教
2020/6/28 礼拝説教
【テーマ】  神の恵みのすばらしさ
【説教題】 「まぐれと思っていた」
【聖書箇所】 エペソ2:8-10
2:8 この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。
2:9 行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。
2:10 実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。

○ 皆さんは「まぐれ当たり」の経験はありますか? 今日はまぐれ大当たりした人の話をします。
 
Ⅰ.私たちは恵みによって救われた
A.恵みによって
1. この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。 とありますので、 この箇所を共同訳聖書で見ますと エフェソ2:8 あなたがたは恵みにより、信仰を通して救われたのです。それは、あなた方の力によるのではなく、神の賜物です。 とあり、二つ並べてみるとより分かりやすくなります。ただただエペソ教会の人達は神の恵みによって救われました。私たちもです。
2.「恵みとは何か?」というと「あわれみ」という意味もあり、私たちに対する神の無条件な愛をいいます。つまり、恵みとは、全く値しない者に注がれる一方的な神からの賜物です。人間的に見て価値がある場合、「だからあの人は選ばれたんだな」とか「あの人はできるからこの職に就けたんだ」とか言います。こういうのは私たちにとって普通ですが、そういうのがないのに選ばれたことです。

B.行いによらない
1.日本人は「恵み」がよく分かっていないと言われるそうです。恵みの反対の「報い」という考え方が強いのだそうです。「頑張らねば」という考えです。
2.何かをすれば救われるというのは分かりやすいのでしょう。例えば「お金を積めば救われる」「良いことをすれば救われる」などです。しかし、こうした行いは人によって差があります。全ての人に差がないのは神の基準の「義」で見たとき、その義を行える人はいないという点です。

 そこで、今日は私に与えられた神の恵み、私の力によらない。私の行いによらない恵みを証します。気楽にお聞きください。

Ⅱ.まぐれと思っていた
私が牧師に選ばれているのが正にそれ「恵み」です。今日は、この後私の証をします。神の恵みと気付くまで単にまぐれと思うような人生でした。私はかつて自分の人生を「まぐれ人生」と言っていました。
「神の恵み人生」と呼び変えた方が良いのだろうと思うのですが。とりあえず大学受験ぐらいまでさかのぼることにしますと、私の入学できた大学はとても私の学力では入学できなかった大学です。それは模擬テストでもはっきりしていました。
私は比較的数学が得意だったのですが、この大学の赤本では40点がやっとでした。しかし、当日、私は100点を取ってしまいました。
続いて卒業後、教師採用試験。私の学力では当たり前ですが、1年目は落ちました。教師を諦めて他の職探しをしようとしたものの、もう見つからなくて、友人から教えてもらった講師の申請に教育委員会に行きました。ものすごい数の講師申請の履歴書が見せられて、「今頃来ても遅いと思いますよ。他の皆さんは早くから申請しておられますよ。無いものと思って他も当たってください」と「講師は無理ですよ」と言われたので、これもだめだと思って、バイト探しを始めた矢先、教育委員会から電話があり、「すぐに来てくれ」と。行きましたら、「障がい児学級の産休講師をしてくれないか」と。「もちろんします」と。なんとすぐに講師の道が開かれました。なぜでしょうか?それは障がい児学級の担当者が産休で産休講師が求められたからです。しかも、その先生の免許である「美術」の免許を持っていなければなりません。が、学校から要求されたのは「障がい児教育の免許を持つ人」だったのです。この二つの免許を持っていたのはあの何百という履歴書の中で私だけだったのです。お陰で私は数日待っただけで講師になれました。なんとまぐれ。
そして、7月末で産休の終わった先生が来られるので、私はまた職探しかと思いきや、もう一人の先生が産休に入ることになりました。でも、この先生は家庭科の免許です。ところが、主任と校長がかけ合ってくださって私は12月1日まで講師を続けられることになったのです。しかも12月1日にボーナスをいただいて辞めるのです。本来ボーナスは12月1日に働きを再開した正教師の先生の方に出るのです。もちろんその先生はボーナスをもらうために12月1日に仕事を始めます。2日だともらえませんから。すると、私はもらえないで11月30日付で終わるところだったのです。ところが、校長が「藤井君、ボーナスが出るかもしれんぞ」と言って教育委員会に行かれました。そして市役所から電話がかかってきて「ボーナス出るぞ!」と。わけのわからない私は戻って来られた校長にわけをお聞きすると「講師と引き継ぎの日は一日」という規定があるのですが、7月末までずっと障がい児学級を見ていましたので、次の産休の先生と引き継ぎをしていなかったのです。「引き継ぎは最初でも後でも良い」という規定によって、私の引き継ぎが12月1日になりました。そこで、二人とも12月1日に働いていることになり、二人共にボーナスが出るということだったのです。「こんなケースは初めてや」と教育委員会でも言っていたそうです。まぐれです。
それから2週間間が空いて中学校の事務職の産休講師になるのですが、「事務の経験なんかありません」と言ったら、「かまわん、やってみろ」と。2週間は遊ぼうと思っていたら、三日目に教育委員会から「すぐ来い」の電話。「小学校の六年生の担任をしてくれ」です。「えええー、小学校の免許持ってないです」「いいから、10日間だけだから。担任が病気で出てこれなくなって、教頭が代わりを務めていたけど、限界や。しかも君が中学に行く前日までだから、ちょうどいいんだ」と。私は10日間小学校六年生の担任もしたのです。その翌日から中学校事務室です。そして、産休明けの事務職員さんが戻ってきました。今度は試験に合格していましたので、私は正式に採用されるのです。まぐれだらけです。
ここまででもまぐれだらけですが、中学校の正教師になるときも、教師になってからもまぐれの連続です。

Ⅲ.行いによらない
本来入れる学力がないのに大学に入れたのはまぐれ? 恵み?? そのように私が救われたのは私の力によらない、神の恵みです。私は本来天国に入れる資格が無いのです。それなのに天国に入れたのはなぜでしょうか? それは神様の一方的な恵みなのです。

★ 私の証をしましたが、皆さんにもあるのではないでしょうか。神の恵みによって救われたと同じように、今まで不思議なまでに神の恵みを感じる事が。神の恵みを自分の力や何かと思わないでください。私たちの救いは私たちの何かを神が見てくださったというのではなく、私たちを救いたくてたまらない神の愛がそうさせたのです。


主の名のもとに集まる(Y師)

2020-06-21 06:45:55 | 礼拝説教
2020/6/21 礼拝説教
【テーマ】 信仰生活の五原則
【説教題】 「主の名のもとに集まる」
【聖書箇所】 マタイ18:20
【新改訳2017】
マタ 18:20 二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです。

① 信仰生活の五原則
1.祈る 2.聖書を読む 3.集会に出席する 4.奉仕をする 5.献金(ささげもの)をする が五原則なのだが、これらを守っているなら、私たちは信仰を維持することができるのである。
「祈る」とは、祈りは願い事ばかりを言うことではない。神に感謝を献げ、ほめたたえ、主の声を聞くのも祈りである。「聖書を読む」では、私たちは神の口から出る一つ一つの御言葉(聖書の言葉)によって、御言葉を命のパンとして生きている。「集会に出席する」はこの後詳しく見るとして、「奉仕をする」のは、教会の実際的な働きのために必要である。礼拝の司会、手話通訳、奏楽、PA、受付、献金係、会計、清掃、週報準備、礼拝を休まれた方へ礼拝DVD、CD、週報の発送等々、数え上げると次々出てくる。このように誰かが奉仕をしてくれるお陰で、私たちの信仰生活が守られている。また実際にそのような奉仕ができないと言われる方がいても、教会のために祈るということも大事な奉仕である。そして「献金」は、建物の維持、水光熱費、印刷物の発行、郵送費など、実際の運営に使用される。

② 集会に出席する
 私たちは信仰を守るために、主の名によって集まることをやめてはならない。
先日5/31はペンテコステの日だった。これは、日本語で「五旬節」と訳されるが、五旬節とは、五十日目の祭という意味のギリシャ語に由来する。大麦の収穫の初穂の束をささげる過越の祭から五十日ということで、「七週の祭」、「初穂の日」とも呼ばれ、仮庵の祭とともに、ユダヤの三大祭りとされていた。この日、弟子たちや、主の名によって集まる人々の上に聖霊が注がれ、教会が誕生した。
 使徒2:1「 五旬節の日になって、皆が同じ場所に集まっていた。」主はエルサレムを離れないで留まっていなさいと言われた。そして皆が集まっていたところに聖霊の御業が起こった。その場にいた人々はペテロの説教に導かれ、三千人の人々が主を信じたという。
使徒2:40 ペテロは、ほかにも多くのことばをもって証しをし、「この曲がった時代から救われなさい」と言って、彼らに勧めた。2:41 彼のことばを受け入れた人々はバプテスマを受けた。その日、三千人ほどが仲間に加えられた。:42 彼らはいつも、使徒たちの教えを守り、交わりを持ち、パンを裂き、祈りをしていた。:43 すべての人に恐れが生じ、使徒たちによって多くの不思議としるしが行われていた。:44 信者となった人々はみな一つになって、一切の物を共有し、:45 財産や所有物を売っては、それぞれの必要に応じて、皆に分配していた。:46 そして、毎日心を一つにして宮に集まり、家々でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、:47 神を賛美し、民全体から好意を持たれていた。主は毎日、救われる人々を加えて一つにしてくださった。
 ここに教会が生まれたわけだが、教会はギリシャ語でエクレシアと言われる。私たちの教会は「アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団」に属しているが、「アッセンブリーズ・オブ・ゴッド」とは「神に召し出された者の集まり」すなわち、ギリシャ語のエクレシアを英訳したものなのである。「神に召し出された者の集まり」は、世と時代の邪悪さに目覚め、キリストの救いと恵みに生きる者となった信徒の共同体、つまり主の名による集まりである。人々は「使徒たちの教えを堅く守り」、「交わり」をし、「パンを裂く(聖餐にあずかる)」生活をしたのだった。

③ 主の名によって集まる
 「集まる」という御言葉は複数あるが、「主の名によって集まる」ことに関連して、ヘブル書には次のような御言葉がある。
ヘブル 10:25 ある人たちの習慣に倣って自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ励まし合いましょう。その日が近づいていることが分かっているのですから、ますます励もうではありませんか。
 私たちは、孤立を避けて、いっしょに集まることをやめてはならない。この御言葉によると、「ある人たち」はキリスト者の集会から身を引いてしまったようである。教会は、育った環境も考え方も違う人々の集まりである。そこには当然衝突もあり、心を傷つけられることもある。あるいは、集まることで、わずらわしさを覚えたり、優越感のために集会から何も得るところがないと考える人もある。それゆえ、教会を去ることになり、非常に残念だ。しかし、「その日」、つまり「キリストの再臨の日」は近づいている。「その日」はいつなのかはわからないが、私たちは御霊に導かれて進まなければならない。聖霊に導かれて歩むとき、どのような環境下に置かれようとも正しく生きることが可能なのである。私たちは、このような時代であるからこそ、一人にならず、また独りよがりの信仰に陥ることなく、集まって互いに励まし合うことが必要である。
 そして最後に、今日の説教の聖句マタイ18:20とその前の:19を見てみよう。マタイ18:19 まことに、もう一度あなたがたに言います。あなたがたのうちの二人が、どんなことでも地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父はそれをかなえてくださいます。18:20 二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです。
 実はこの御言葉は、罪を犯した兄弟に対する愛の態度を表している。教会という人々の集まりは、罪人の集まりでもある。私たちは罪を悔い改め、主を信じる者になったとしても、この肉体がある限り「罪人」である。そのために、教会という人々の集まりの中で、ある人を傷つけたり、家庭や職場、学び舎などで罪を犯してしまうこともある。しかしそのようなことがあろうとも、複数のものが心を一つにしてその人が悔い改めて主のもとに戻ることを祈るなら、主はそれをかなえてくださる。小さい者が一人でも滅びることは神のみこころではない(マタイ18:14)。それゆえに、神の御旨を熱心に求める者たちの中にイエス様も共におられるのである。

結び)私たちは、信仰生活において孤立してはならない。主の名のもとに集まろう。そこには、あなたの信仰を支える人々が共にいる。そして、イエス様も必ずそこにおられるのである。

キリストと共に生きる

2020-06-13 06:53:36 | 礼拝説教
2020/6/14 礼拝説教
【テーマ】  救われた人々
【説教題】 「キリストと共に生きる」
【聖書箇所】 エペソ2:1-7
2:1 さて、あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり、
2:2 かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。
2:3 私たちもみな、不従順の子らの中にあって、かつては自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。
2:4 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、
2:5 背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。
2:6 神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。
2:7 それは、キリスト・イエスにあって私たちに与えられた慈愛によって、この限りなく豊かな恵みを、来たるべき世々に示すためでした。

○ エペソ人への手紙も2章に入りました。パウロはこの手紙で「教会」とはどういうものかを語っていますので、私たちも新中野キリスト教会がどのようなものであり、またどのようになっていくのが良いのか見ていきたいと思います。教会を校正しているのはクリスチャンですが、クリスチャンて何者なのでしょうか?

Ⅰ.人間は皆平等に罪人
A.罪赦された罪人
1.クリスチャンの皆さんは最初からクリスチャンだったでしょうか? 全てのクリスチャンは人生のどこかの時点で「イエス・キリストを私を罪から救うために、私の身代わりとなって十字架にかかってくださった。このイエス・キリストを私の人生の主とします」と決意してクリスチャンになりました。
2.つまり、それまで皆同じ地獄行きの人間でした。 2:3 私たちもみな、不従順の子らの中にあって、かつては自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。 とある通りです。
3. 自分の肉の欲のままに生き ていたというのは、 2:2 かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。 ということです。悪しき霊の元に生きていたということです。今はクリスチャンであってもかつてはみんな一緒で悪しき霊の思うままに生きていたのです。

B.教会は罪赦された罪人の集まり
1.そういう悪しき霊の元を離れてイエス・キリストに人生をかけた人達がクリスチャンで、その集まりを「教会」と呼んでいます。教会は建物のことを指して言う言葉でもありますが、本来はクリスチャンの集まりです。キリストのエクレシアです。
2.この教会というのは悪しき方向に向かっていた人々が悔い改めてイエス・キリストと共に神の方向に向かった人達の集まりです。つまり、罪赦された罪人の集まりであるわけです。
3.イスラエル人は神の計画を自分たちだけが救われるものと理解していました。異邦人は救われないと思っていました。しかし、イスラエル人は神の前に罪を犯しましたし、異邦人は元からその神を持っていない罪人でした。つまりどちらも同じ罪人だったのです。

Ⅱ.人間は皆平等に救われる
A.異邦人も救われた
1.あのペンテコステの後、弟子達が聖霊に導かれてあらゆる所で伝道しました。最初はイスラエル人が救われていきますが、異邦人も救われるのを見たのです。それは使徒10章のコルネリオの救いからもはっきりします。聖霊を受けたのですから救われたと言っています。
2.そうしたことはイスラエル人には超驚きの出来事ですが、神は異邦人にも救いの道を開かれたことに驚き感謝するのです。神はみんなを平等に救われるのです。 2:4 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、2:5 背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。 とすべて神のあわれみ、愛、恵みのお陰です。

B.信仰によって救われる
1.平等に救われるということは当然、お金持ちだと救われるとか善人だと救われるとかいうことではなく、みんな平等に救われるということです。「主の祈り」や「使徒信条」を暗記していないと救われないのでしょうか? そんなことはありません。暗記力がなくても救われます。
2.聖書が言っているのは信仰によって救われるということです。これは子どもでも救われるということです。ただ信仰は目に見えないので、私たち人間にはそれを調べることは実は不可能なのです。

Ⅲ.「キリストと共に」という人生
A.イエス・キリストと同じようにしていただける
1.なぜ神は私たちをこんなにも愛してくださるのでしょうか? 私たちは確かに悪しきものに捕らわれていましたが、本来、神の子なのです。羊飼いが迷子になった一匹の羊を捜し回るように、道に迷った私たちを捜し出してくださるのが神です。
2.それは神が私たちと一緒に過ごしたいと願ってくださるからです。こんな罪深い私たちがイエス・キリストによって救われ、 2:6 神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。 とあるようにイエス・キリストの復活と同じようにしてくださるのです。
3.「救い」には、「生かされること」、「よみがえらされること」、「天上の座につかせていただくこと」の3つがあるということです。

B.神の恵みを示すのが教会
1.このような恵みの中に入れられたのですが、まだ私たちはこの地上に暮らしています。あの悪しき者達が頑張っている世です。ですから私たちはキリストと共に生きる必要があるのです。クリスチャンは「キリストと共に生きる」ことを決心した人です。だからイエス・キリストの命も恵みもいただいたのです。
2.キリストと共に生きることは悪しきものと生きることとは大違いですから、人々にもそれがわかります。 2:7 それは、キリスト・イエスにあって私たちに与えられた慈愛によって、この限りなく豊かな恵みを、来たるべき世々に示すためでした。 と、世に示すのが教会です。

● 私たちは誰と生きていくかで人生は変わります。信仰は結婚によくたとえられますが、命までも捨てて愛してくれる方イエス・キリストと結婚するのがクリスチャン。試練はもちろんありますが、イエス・キリストと共に生きるとその人生は豊かなのです。一方いくらお金があってもこの世の悪しき者(悪魔)と共に生きるならそれは「死」です。誰と共に過ごすかは大きなことです。

★ キリスト共に生きることを決心しませんか。そして、キリストがされたように神を愛しませんか。兄弟姉妹を愛しませんか。人々を愛して福音を語りませんか。


主を喜ぶことが力になる」

2020-06-06 06:49:34 | 礼拝説教
2020/6/7 礼拝説教
【テーマ】  力をくださる神
【説教題】 「主を喜ぶことが力になる」
【聖書箇所】 ネヘミヤ8:10
8:10 今日は、私たちの主にとって聖なる日である。悲しんではならない。【主】を喜ぶことは、あなたがたの力だからだ。」

○ 今日は 【主】を喜ぶことは、あなたがたの力だからだ。 この言葉だけから神様の恵みをいただこうと思います。ネヘミヤ記はバビロン捕囚からエルサレムに帰還した人達が神殿や城壁を再建するのですが、度々の妨害に苦しめられながらも再建していく頃のことが書かれています。「もう止めてしまおう」と思う人、「自分は見捨てられた」と思う人が続出。でも城壁は再建されました。そこで、聖書が朗読されてそれを聞いた人々は泣いたが、その時に語られた言葉です。
  皆さんは苦しんだ経験がありますか? どのようにしてそれに打ち勝つ力を得ましたか? 今日は聖書が語っている方法をお伝えします。
 
Ⅰ.試練に打ち勝つ力
A.試練は必ずある
1.私たちは人生において必ず試練を味わうものです。それがもう人生終わりだと思うような大きな試練もあれば、さほど大きくない試練もあるでしょう。でも試練は辛いものです。試練は当然人様々ですからどの試練が一番大きな試練だとか言えません。
2.旧約聖書に出てくるヨブは大変な試練を受けました。財産、子ども達を失い、最後に自分の健康さえも失い、そのひどい姿に奥さんは「神を呪って死になさい」とさえ言いました。彼の試練の背景にはサタン・悪魔がいました。そういう試練もあるのです。
3.試練は必ずあります。その試練に打ち勝つための力が必要ですが、試練の中にある人はすでに力がなくなってきているのですから、打ち勝つのは困難です。誰がこの試練に対する力をくれるのでしょうか?

B.神に信頼してみよう
1.試練は必ずあると言いましたが、神がおられることはもっと確実です。しかも神が全知全能なら、私たちの試練・苦しみを知らないはずはありません。しかも、その理由も解決もご存知です。
2.そうであるならばこの神に信頼することを決心してはどうでしょうか。試練が無くなることを私たちは望みがちですが、私は多くのクリスチャンから試練の中にあっても平安を得たという話を聞いたのです。
3.それはどのようにしてできたのかと言うと、神(主)にお委ねしたからです。委ねる以上は神がどのようなお方なのか知ろうとします。神を知ることはすでに喜びです。この喜びが試練をも乗り越える力になるのです。

Ⅱ.孤独に打ち勝つ力
A.孤独は死をもたらす力
1.次に「孤独」を考えてみましょう。孤独はとても大きな殺人力を持っています。老人の孤独死はどれほど新聞、ニュースで聞かされたことでしょう。ロンドンのある老人が自殺しました。その方の日記帳に365日、「今日も誰にも訪ねてもらえなかった」と書いてあったそうです。孤独は命を奪うほど恐ろしい力を持っています。
2.この孤独は何も老人だけではありません。お金持ちの社長にだってあります。大臣だってあります。若い人にも、子どもにだってあります。たくさんの人が住む大都会であっても孤独は襲ってくるのです。

B.主は共におられる
1.この孤独に打ち勝つには誰かと一緒にいればいいのでしょうか? そうかも知れませんが、心の孤独に打ち勝つ力というのは、私たちの心を知っている方と共に過ごし、その方から励ましをいただくことです。そう、神であるイエス・キリストです。
2.たとえ人が共にいなくてもイエス・キリストが共におられることを知ることで私たちの孤独は消え失せます。 イザヤ41:10 恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。 とあります。主が共におられることは私たちの喜びです。
3.好きな人がそばにいることは喜びではないでしょうか。イエス・キリストを好きになるとあなたは喜びを持ちます。その喜びは孤独を完全に打ち破る力になります。主を喜ぶことはあなたの力です。

Ⅲ.罪に打ち勝つ力
A.人には解決できない罪
1.試練も孤独も大変辛いものですが、何と言っても最大の問題は罪です。誰にも解決できない問題。罪というと何か悪い事をしてしまうこと、あるいは止めたくても止められない依存症などを思い浮かべますが、それらは全て根本的な人間の中に住み着いている「罪」が原因です。
2.そして、人はその罪からの解決を求めてはいるものの解決できないものと決めつけているものなのです。聖書は罪の結果は「死」だと言っています。現代人はなんでもできるように思いがちですが、誰にも死は克服できません。

B.罪を解決できるのはイエス・キリストだけ
1.罪は私たちを喜ばせません。死は私たちに恐れと悲しみをもたらしました。しかし、その罪にも死にも打ち勝った方を私は知っています。イエス・キリストです。そして、このイエス・キリストを信じた人達も罪と死に打ち勝ちました。
2.イエス・キリストを信じるだけで罪が赦されるというのが聖書の教えです。信じるとはそのお方に人生を預けるということです。それは聖書という神の言葉に聞き従うことも意味します。イエス・キリストに聞き従うと私たちは喜びをいただけます。

★ 罪の解決をしてくださるイエス・キリストに従い、喜びに満ちようではありませんか。このお方、主を喜ぶことは私たちの人生のあらゆることにおいて力なのです。