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今日のうた

思いつくままに書いています

二十歳の原点 (2)

2019-08-20 05:40:00 | ⑤エッセーと物語
⑤もう五月である。じっとりと汗ばむ陽の光の中に、散りぎみの八重桜が重たく花を
 咲かせ、くまんばちが密(みつ)をすって花弁をのぞき回り、すっかり若草色になった
 地面には、黄色の可愛(かわい)いタンポポが青空の中で太陽光線をうけている。
 時々鳥の声がする。しかし、それが何だというのだ。それぞれ醜さをもって
 勝ち誇っている存在なのだ。

⑥暗闇(くらやみ)でもなく、明るい光線にみちあふれているのでもなく、ぼんやりとした
 何もない空間の私の世界。国家権力、そんなものは存在しているのかさえ定かでない。
 私自身の存在が本当に確かなものなのかも疑わしくなる。他者を通じてしか自己を
 知ることができぬ。他者の中でしか存在できぬ、他者との関係においてしか
 自己は存在せぬ。自己とは?自己とは?自己とは?・・・・・・

⑦人と話しても、どうということもありません。くだらないことを話しているよりも、
 黙っている方がよいのです。言葉が一体何なのでしょうか。
 言葉に束縛されるのは嫌いです。不誠実なことばかりしゃべるのもいやです。
 ただ黙って行動するだけです。
 どうしてみんな生きているのか不思議です。そんなにみんなは強いのでしょうか。
 私が弱いだけなのでしょうか。でも自殺することは結局負けなのです。死ねば何も
 なくなるのです。死んだあとで、煙草(たばこ)を一服喫ってみたいといったところで、
 それは不可能なことなのです。

⑧現在の資本が労働力を欲しているが故(ゆえ)に、私は、そして私たちは学力という名の
 選別機にのせられ、なんとなく大学に入り、商品となってゆく。すべては資本の論理に
 よって動かされ、資本を強大にしているだけである。

⑨はっきりしていることは、己れが存在し、矛盾と混沌に満ちておることだ。それは、
 己れがまた現代に生きる人間、もの、動物、すべてが商品となって間化、物化、
 機械化され、資本という怪物により支配されているという矛盾であり混沌である。
 考えることも感じることも、行動することも、支配されている現代の人間。
 いかにして現代社会から人間をとり戻すのか。いかにして己れの人間としての存在を、
 自らのものとして発展させるのか。方向は支配者との闘い、独占との闘いの方向に 
 しかないことは明らかなのだが。私の存在の軸は何なのか。

⑩未熟である己れを他者の前に出すことを恐れてはならない。
 マルクシズムのマの字も知らないからといって、帝国主義の経済構造を知らない
 からといって、現在の支配階級に対する闘いができないという理由にはならない。
 私の闘争は人間であること、人間をとりもどすというたたかいである。自由をかちとる
 という闘争なのである。人間を機械の部品にしている資本の論理に
 私はたたかいをいどむ。
 その一方で私は私のブルジョア性を否定して行かなければならない。
 その長い過程で真の己れを形成し発展させていく。それは苦しいたたかいである。が、
 それをやめれば私は機械になる。己れが己れ自身となるために、そして未熟であるが
 故(ゆえ)に、私はその全存在をさらけ出さなければならない。  ③につづく







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