今日のうた

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人工透析を受ける権利を 奪うな!

2019-03-21 08:49:44 | ②一市民運動
ブログはお休みしていますが、福生病院のことはどうしても書かずにはいられません。

私の母は慢性腎不全で人工透析を受けていた。
そして従姉も人工透析を受けている。
福生(ふっさ)病院での透析中止問題は、決して他人事ではない。

人工呼吸器を中止すれば、短い時間で人間は死に至る。
だが人工透析の場合は、それから長い時間を尿毒症に苦しまなければならないのだ。
尿毒症の苦しみを、福生病院の医師は理解していたのだろうか。
このことに患者は最期まで納得していたかは疑問だ。
なぜなら亡くなる少し前に、患者は人工透析を希望したというのだから。
それでも福生病院の医師たちは、患者の願いを無視し続けたのだろうか。
私は父から尿毒症の苦しみを聞いていただけに、胸が張り裂ける思いだ。

私の祖母はおしっこが出なくなり、苦しみながら死んでいった。
四六時中苦しんでいる祖母を、父は一晩中抱き起していたそうだ。
昭和28年のことで、当時は人工透析がなかった。

私の高校の恩師も慢性腎不全から尿毒症に苦しんでいた。
昭和45年に人工透析を受けるには1ヶ月に数百万円が必要だった。
そして、寄付を集めようとしていた矢先に亡くなられた。

昭和60年になると1ヶ月の自己負担が1万円(当時)で、
私の母は人工透析を受けることができた。
お陰で尿毒症の苦しみを経験することなく亡くなった。
人工透析を受ける権利は、こうした歴史を経て勝ち取ったものだ。

患者は弱い立場にある。医師から透析中止の話があった場合に、
はたしてNOと言えるだろうか。
いったん中止した判断を、再開したいと医師に言うには勇気が要る。
体が弱っている患者に、それを求めるのは酷ではないのか。
中止の判断は第三者も交え、慎重に公正に行うべきだ。
そして患者の声を最期まで尊重すべきだ。
こうしたことが福生病院で行われていたか、はなはだ疑問だ。
過去のこともふまえて、しっかり検証して欲しい。

①「透析せぬ選択肢、提示の是非 【患者に必要】と学会提言逸脱
   福生病院で患者複数死亡
 3月14日 朝日新聞デジタル」

https://digital.asahi.com/articles/DA3S13932431.html?_requesturl=articles%2FDA3S13932431.html&rm=150


私は今回の福生病院の事件で、2013年2月8日に
 日本透析医学会のアンケートに答えていたことを思い出した。
 これは第二次安倍政権の時に
 日本透析医学会が、【回復の見込みのない終末期に、
 人工透析中止も選択肢】とする提言案をまとめた。
 その時のアンケートに答えたものだ。


 この時から水面下で、透析患者を減らす政策が練られていたのだろうか。
 今回の福生病院の事件も、その延長線上にあるのだろうか。
 もしそうなら、人間を数としか見ない、怖ろしいことだ。
 このことも徹底的に解明して欲しい。
 その時のアンケートに答えたものです。上の文と重なる箇所もありますが引用します。


2013年2月8日、日本透析医学会へのメール
  
 日本透析医学会が、「回復の見込みのない終末期に、
 人工透析中止も選択肢」とする提言案をまとめた。
 透析を中止すれば、通常、1週間から1カ月で亡くなるという。

 人工呼吸器を中止すれば、短い時間で人は死に至る。
 だが人工透析の場合は、それから長い時間を尿毒症に苦しまなければならない。

 60年前に、私の祖母は腎不全で亡くなった。当時は人工透析という選択肢はなく、
 最期は「おしっこが出ない」ともがき苦しみ、父が四六時中祖母を抱いていたそうだ。

 43年前に高校の担任が腎不全に陥った時は、まだ費用が嵩み、ごく一部の人しか
 人工透析が受けられず、先生は苦しみながら亡くなったと聞いている。
 27年前には母は安心して人工透析を受け、苦しまずに最期を迎えることができた。

 終末期はさまざまな苦しみに耐えなければならないことが多い。
 意識がある無いにかかわらず、患者が更に尿毒症に苦しむことがないよう、
 私は人工透析の中止には反対します。

 腎不全の患者の誰もが人工透析を受けられるようになったのは、
 多くの人の苦労と歴史の賜物である。
 終末期を迎えた腎不全の患者が、人工透析を受けることにより
 目に見えぬ圧力を感じる日が来ないことを、切に願っている。

 (引用ここまで)
 
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