今日のうた

思いつくままに書いています

入り江の幻影 新たな「戦時下」にて

2023-12-22 08:23:47 | ③好きな歌と句と詩とことばと
生協に加入していると、毎月「生活と自治」なる小冊子が届けられる。
中でも辺見庸氏のエッセイ「新・反時代のパンセ」を楽しみにしていた。
ところが連載が終わってしまい、楽しみが一つ失くなった。
(この連載は『コロナ時代のパンセ』として出版されています)
だが今年の夏に新刊が出ていた。

辺見庸著『入り江の幻影 新たな「戦時下」にて』を読む。
青を基調とした装幀がすばらしい。
「そうそう!」と叫びたくなるような言葉が散りばめられている。
胸に響く言葉はたくさんあるが、そのいくつかを引用させて頂きます。

①絶望は究極の〈個〉のみが、身を剪(き)るほどに冷たい真水のように、
 体の深奥に湧かせる最も高度な水だ。究極の〈個〉がなければ絶望もない。

②蒼然としていとどに怪しい過去には敢えて触(さわ)らず、そっと不問に
 付しておくのが、我がジパングの ”醜悪な美風” であるにもかかわらず、である。
 逆に見れば、この種の告発は日本では好まれない。
 暗部はしばしば見て見ぬ振りをされる。

③櫻本富雄『空白と責任』の「あとがき」より
 戦争責任を行方不明にする戦後は存在しない。その戦後は、いぜんとして戦時下で
 あり、新たな戦前である。いまこそ、戦後への出発を!
 (戦後には傍点が振ってある)

④戦争の足音が聞こえる。たぶん幻聴ではない。

⑤状況は大いに異なるけれども、このたびのロシアによるウクライナ侵略に
 際し、わたしは満州事変を想起せざるをえなかった。・・・
 しかし歴史の実時間にあって、だれが最初から15年の泥沼を予想しえて
 いただろうか。日本の民衆は中国各都市の占領のたびに戦勝祝賀の提灯行列に
 くりだし、「天皇陛下万歳!」を叫んだのである。
 民衆は戦争の犠牲者であるとともに、当時のマスコミとともに
 戦争推進の加害者でもあったのだった


⑥なりを潜めていたwar mad(戦争狂)たちが、いつのまにかあちこちで
 勢いをとりもどしており、安倍晋三元首相にいたっては ”ニュークリア・シェアリング”
 (核の共有)”などと言いだし、失笑を買うどころか、それなりの同調者も多い
 というから、いままさに地軸を揺るがすほどの大変動が起きていることはまちがいない。

気がつけば憲法9条を語る人々が激減している。
 つまりこの国があるべき「よりどころ」を失いつつあるということだ。

 「唯一の被爆国として・・・」という枕詞も経年劣化している。
 可能性としての核戦争は、鏡像でもSFでもなく、現実にそこまで近づいている。
 戦争狂たちと本気で戦う意志が問われている。

⑧ただ、事件の背景といわゆる「国葬」決定にいたるプロセスは、この国の政治と
 メディアの質がこうまで低劣であったかと改めて驚愕し慨嘆せざるをえない
 ほどであった。
 かろうじてわかったのは、
 この国が民主主義とはいささかも関係ない戦時的古層
 または”闇”をいまもズルズルと引きずっているということである。


⑨死者に鞭(むち)打つのは日本的作法に悖(もと)るとされる。だが、この際
 言わなくてはならないことがある。。安倍晋三氏は端的に言って、平和憲法を
 足蹴にして、日本の「戦争までの距離」を縮めた。

⑩こうも言える。生活を救えない政治はダメな政治である。
 今の政治は庶民の生活を少しも救えていない。よってダメな政治である。
 この事実が、生活と政治を語る上での基本であり出発点である。

⑪「閣議決定と強行採決と嘘と隠蔽」の悪評判は常に安倍氏につきまとった。
 環太平洋パートナーシップ(TPP)協定、年金カット法案、カジノ法案も
 強行採決だった。理の当然、
 安倍政権時代に人びとのアパシー(政治的無関心、無気力症)化が進んだ。

⑫「国葬」にせめても意味があったとするなら、ただ一点、この国では民主主義が
 すでに瀕死の状態で、〈ファジーな〉全体主義が到来しつつあると知らしめた
 ことくらいではなかろうか。
(引用ここまで)
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