今日のうた

思いつくままに書いています

二十二歳の自分への手紙 ~司馬遼太郎~1

2014-07-30 15:26:26 | ⑤エッセーと物語
NHK Eテレ「日本人は何をめざしてきたのか 知の巨人たち」
第4回は「二十二歳の自分への手紙 ~司馬遼太郎~」

 「どうして日本人はこんなにばかになったんだろう。二十二歳で敗戦を迎えた時の
  感想でした。
  昔は違ったろうというようなことを、もう私は本当に二十二歳の自分へ書いている
  手紙でした。
  そこからわたしの小説は始まるんです。
  『竜馬がゆく』もそうでしたし、『坂の上の雲』もそうでした。その後もそうでした。
  『日本人とは何ぞや』がテーマでした」

司馬は、私の父より1年早く生まれ(1923年)、父より2年早く亡くなりました。
(1996年) 享年72歳。
戦争に行った二人が、敗戦を22歳と21歳で迎えたことを考えると、
改めてその若さに驚きます。

私は歴史に疎く、また司馬の本は数冊しか読んでいません。
司馬の言葉を大局的に捉えることは難しく、未消化な部分も多々あります。
でも今だからこそ、司馬の言葉を書き留めて置こうと思います。

(1)1943年、学徒出陣

   何のために死ぬのかを悩み続けていた司馬に、次の質疑応答が胸に突き
   刺さる。ある若い将校が
  「本土決戦が迫ったある日、もし敵が上陸したとして、われわれが急ぎ南下する。
   そこへ東京都民が大八車に家財を積んで北へ逃げてくる。途中交通が混雑する。
   この場合はどうすればよろしいのでありますか」と聞いたところ

   大本営からきた少佐参謀は
  「軍の作戦が先行する。国家のためである。轢(ひ)っ殺してゆけ」といった。
   東京から避難して北関東に上がってくる人。そこにいる女の子、小さな子とか
   真っ先に死にます。死ぬために威張っていられる軍人・兵士は。
   ところがみんなのために死ぬんじゃなくて、みんなのほうが先に死ぬ。
   県民が先に死ぬ。何だろうと思いました。

   終戦の放送をきいたあと、なんとおろかな国にうまれたことかと思った。
  (むかしはそうではなかったのではないか)
   敗戦の時のこの思いが、のちの作家司馬遼太郎の原点となった。

   
(2)偏狭な日本人になりたくない
   
   司馬は、在日コリアンの鄭(ちょう)貴文から「朝鮮と日本の関係は古代では
   計り知れぬほど大きかったと思うのです。そういう主題で半学術雑誌のような
   ものを出すということは考えられないでしょうか」といわれ、
   「日本の中の 朝鮮文化」を出版する。

   外国の世界史を見たら、一番近い国のことを一番詳しく書いている。
   ところが朝鮮の歴史や文化はほとんど知らない。おかしいじゃないか。
   古代にこんなに友好的で、日本文化にたくさん古代の文化が生きているんだ。

   明治・近代以後、副産物が生まれた、日本は非常に偏狭になってきた。
   偏狭な日本人であるよりも、自分はアジア人でまずありたい
   アジア人の最も身近な存在は、朝鮮半島の人達だ。
   古代では非常に友好的だった漢族は、日本と同族ではないか。

(3)1910年の韓国併合について

   朝鮮半島では、35年に及ぶ日本による植民地支配が続いた。
   我々はいまだに韓国人・朝鮮人の友人と話をしておって、常に自分自身が引け目を
   感じておることは、堂々たる数千年の文化をもった、そして数千年も独立してきた
   独立国をですね、平然と合併してしまった。 合併という形で、
   相手の国家を奪ってしまった。

   こういう愚劣なことは、日露戦争の後で起こる。
   合併するというような、朝鮮人があと何千年続いても忘れない、
   そういうことを平気でやっている。

(4)坂の上の雲ミュージアム(松山市)の、展示場のあとがき

   日露戦争を境として日本人の国民的理性が大きく後退して狂躁の昭和期に入る。
   やがて国家と国民が狂いだして、太平洋戦争をやってのけて敗北するのは、
   日露戦争後、わずか四十年のちのことである。

   韓国併合した日本はやがて大陸に進出する。
   満州事変から日中戦争、そして太平洋戦争の時代を迎える。 
   2につづく (敬称略)


追記1
教科書を買って学び直そうと思ったら、下の定価762円の教科書が2592円でしか
買えない。増刷して頂けると有難いのですが……。
(2017年8月31日 記)

追記2
教科書が届きました。
半世紀以上前に中学生だった私は、まさか教科書がこんなに立派なものとは思いません
でした。A4サイズの教科書と増補が付いていて、おまけに箱に入っています。
定価は2400円と消費税が加算されて、2592円になります。
上に書いた定価762円は間違いです。
よく調べずにご迷惑をおかけして、申し訳ありませんでした。
カラーの写真や絵、そして新聞記事などの資料が多く、読み物としても楽しめます。
私は初めて復元した赤紙を見ました。
漢字にはルビが振ってあるので読みやすいです。
歴史がとても身近に感じられ、ひとことで言えば血の通った教科書です。
こんな教科書で勉強できる生徒たちがうらやましいです。
なぜ、いちゃもんをつける政治家がいるのか、全く理解に苦しみます。
私は学校で近代史を勉強せずにきてしまったので、秋の夜長に学ぼうと思います。
(2017年9月4日 記)


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二十二歳の自分への手紙 ~司馬遼太郎~2

2014-07-30 15:00:41 | ⑤エッセーと物語
(5)統帥権について

   陸軍が日本の政治を自分たちの思う通りに引っ張っていこうとしたのかというのは、
   司馬はずっと考えた。 考えついたのが統帥権だった。
   大日本帝国憲法では、次のように規定されている。「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」
   (内閣から独立し、発動には参謀本部・軍令部が参与)

   統帥権、皆さんちょっと聞き慣れない言葉ですけど、我々をひどい目にあわせたのは、
   この三文字に尽きるんじゃないか。

   陸海軍は天皇がこれを統率するという一条を大きく解釈して、統帥権を
   インチキ理論・論争を持ち出すことができる。
   立法・司法・行政三権の上に超越して、軍人だけが統帥権を持っています。
   統帥権を盾にすることで、軍の構造に政府が反対できない状況が生まれる。
   戦争への道の大きな分岐点となった。

(6)1931年、満州事変

   満州の関東軍が勝手に始めた軍事行動を、東京の参謀本部が追認し、
   ついに行政府が追認せざるを得なくなる。
   魔法の時代が始まる。日本史上、異様な時代。
   日本史上、こういう陰惨な歴史を持ったことはない。

(7)ノモンハン事件(1939年5月~9月)

   戦前の日本の国家は一体なんであったかを考えるため、ノモンハン事件を検証する
   必要がある。わずか短い期間しかなかった戦闘です。これをきちんと書く事によって
   ある程度、全部出る、昭和という時代が。

   ノモンハン事件の発端となったのは、満州とモンゴルとの国境をめぐる紛争である。
   ソビエトの戦車部隊は日本を圧倒していた。この紛争による死傷者は2万人に及ぶ
   という事実は当時極秘とされ、国民に知らされることはなかった。

   事件は、関東軍の参謀だった服部卓四郎と辻政信が独断で拡大し、その間
   関東軍を統括する東京の陸軍参謀本部は、服部・辻たちの行動を追認することになる。
   (政府は関知しなかった)

   壊滅状況になっても戦闘を続け、死傷者が76%になる部隊もあった。
   なぜ関東軍の無謀な戦いを止めることができなかったのか。
   司馬は当時の陸軍参謀本部・作戦課長だった稲田正純にインタビューしている。

   のらりくらりとしながら怖い感じがしました。妖怪の怖さみたいなものが
   ちゃんと残っていて、そういう人たちが日本を戦争に引っ張っていったという怖さ。
   よくしゃべるが油紙の上に水をかけたようにはじくばかりで、
   何も自分の聞き手の心に入ってこない言語があふれるだけで、
   ノモンハンのことを巧みに外していらっしゃって、
   ノモンハンのことをまた聞きますと、何だか官僚的な答弁がでるだけで、
   それが非常に面白かった。 要するに官僚だということであります。
   ああこういう人がやったのかということであります。

   連隊長で生きのびたのは3人だけだった。そのうちの一人、
   須貝新一郎を司馬は訪ねている。
   須貝は作戦参謀を痛烈に批判し事件後自決を強要されたが、それを拒否し予備役に
   編入された。

  「我が作戦の愚昧なること、さらにわが装備がお話にならない。
   我が戦車は、敵の戦車砲の前には豆腐の如き存在でしかなかった。
   迷夢の酔者たちは日本を引きずって、ついに大東亜戦争に迄突き込んで終わった」

   紛争を拡大させた服部と辻は、まもなく大本営参謀本部になり、
   2年後に日本は太平洋戦争に突入する。

   司馬は10年取材して、昭和の戦争を書くことはなかった。
   血が腐るほどの怒りが先になると、小説はできない。   
   

(8)日本列島改造論から4年

   人間の生存の基礎である土地が、投機の対象にされるという奇現象がおこった。
   大地についての不安は結局は、人間を自分が属する社会に安(やす)んじて
   身を託してゆけないという基本的な不安につながり、私どもの精神の
   重要な部分を荒廃させた。

(9)二十一世紀に生きる君たちへ

  「いたわり」「他人の痛みを感じること」「やさしさ」、この三つの言葉はもともと
   一つの根から出ているのである。根といっても本能ではない。
   だから、私たちは訓練をしてそれを身につけなければならないのである。
   いつになっても人間が生きていく上で、欠かすことのできない心がまえと
   いうものである。

   国際社会のなかで、明治以降よくここまでやってきた。
   だけど太平洋戦争、ものすごいミスがありました。
   アジアの諸国にずいぶん迷惑をかけて、結局は後々まで日本人は、ものを考える
   日本人は少しずつ引け目を持って生きていかなければいけない、
   それだけのことをやってしまった。

   相手の痛み、相手の国の文化・歴史をよく知って、自分がその国で生まれたがごとく
   いろいろな事情を自分に身につまされて感じる神経、そういう神経の人々がたくさん
   日本人に出てくることによってしか、日本は生きていけないんじゃないか。

司馬は在日コリアンと親交を深めたり、アジアの人々とのつながりを大切にした。
とりわけ大学で蒙古語学を専攻したほどモンゴルが好きだったようで、
馬に乗った司馬の写真は本当に嬉しそうだった。

中学、高校と日本史を学んできて、私は近代史を学んだ記憶がない。
これは大変危険なことだと思った。  (敬称略)

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完走報告(梅田啓子)

2014-07-29 08:58:40 | ⑦題詠blog2014
今年も無事に完走することができました。
五十嵐きよみ様、皆様、本当にありがとうございます。

来年も是非、参加させて頂きたいと思います。
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100:最後(梅田啓子)

2014-07-29 08:53:10 | ⑦題詠blog2014
今日が最後となるやも知れず 路上のくちなわ三日目に消ゆ

                     *くちなわ=蛇

今日が最後になるやも知れず 炎天に路上のくちなわ三日後に消ゆ (推敲)


         ※最後に大ミスです。三句目が無かった!

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099:観(梅田啓子)

2014-07-29 06:14:55 | ⑦題詠blog2014
めの中が黒目だらけの加藤嘉 映画観しよりわが内に棲む

                      *棲=す


 
 ※神山征二郎監督、「ふるさと」を観る。揖斐川上流にダムが建設されることになり、
   山の上の住民は移転を迫られる。
   加藤嘉(よし)演じる老人と少年が、最後の夏をアマゴ釣りに興じる。

   加藤嘉の、痴呆のまじる老人の存在感がすごい!
   立っているだけで、寝ているだけで画になる。

   一本だけ欠け残った歯、枯れ枝のような手足、曲った腰、笑うと笑みが
   顔いっぱいをおおう。
   90歳を超えての出演かと思ったら、70歳だった。
   (加藤さんは75歳でお亡くなりになりました)
   あれ以来、私の中におじいさんが棲みついている。

   この作品で加藤さんは、モスクワ国際映画祭、最優秀主演男優賞を受賞されました。

追記
2020年3月12日の朝日新聞「ひと」に、神山征二郎さんが取り上げられていた。
ずっとかみやまさんと読んでいたが、「こうやま」さんとルビが振ってあった。
30本目の映画「時の行路」が、明日(3月14日)から公開される。
(2020年3月14日 記)


加藤嘉さんの写真集、「ぼくのおじいちゃんのかお」(福音館書店)をアップします。
写真と天野祐吉さんの文とのコラボが絶妙で、見るたびに「くすっ」「ふわっ」と
した気持ちになります。
(写真をクリックすると大きくなります)










(画像はお借りしました)

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民主主義を求めて 政治学者 丸山眞男

2014-07-24 04:34:14 | ⑤エッセーと物語
NHK Eテレ「日本人は何をめざしてきたのか 知の巨人たち」
第3回は「民主主義を求めて 政治学者 丸山眞男」

丸山は、60年安保闘争ではオピニオン・リーダーであったが、
1968~1969年の東大紛争では学生から糾弾された。(当時は東大教授)

番組を通して感じたことは、
日本の民主主義は勝ち取ったものではなく、戦後アメリカから与えられたものだということ。
私が生まれた時から民主主義があり、民主主義は当たり前で、民主主義とは何かを
考えることなく来てしまったこと。

民主主義にフィニッシュはなく、常に政治を監視し、権力に対して問い続けて行かないと、
独裁を許してしまうこと。

心に残った言葉は

(1)一身独立して一国独立す(『学問のすすめ』より)

   デモクラシーの精神的構造
   まづ人間一人一人が独立の人間になること
   他人のつくった型に入りこむのではなく
   自分で自分の思考の型をつくって行くこと

   間違ってゐると思ふことには
   まっすぐにノーといふこと

私自身、問いただすことをせず、あるいはノーと言えずに、道を誤って
しまったことが多くある。
自分で考えて独立した人間になる、これが大事だったのだ。

(2)戦後間もなく行われた講演会で

   政治に対して無関心 嫌悪の支配するところでは
   民主主義の実質が否定され 政治家は独裁し ボス化する
   独裁者は民主主義の敵であり 政治は形骸化される

   民主主義の実態は プロセスを重視するのである
   討論が重視されるのである
   権力に対して常に問いかけること 問い続けることである

(3)新安保条約批准の強行採決(1960年5月19日)にたいしては

   19日から20日にかけての夜の事態を認めるならば それは
   権力がもし欲すれば 何事でも強行できること
   つまり万能であることを認めることになります

   権力が万能であることを認めながら
   同時に民主主義を認めることはできません

   日本の議会制民主主義が
   あの問題を契機に危機に当面した
   危機感を感じられた

(4)三島コンビナート計画に反対して (この計画は市民運動により阻止された)

   デモクラシーの考え方は パートタイム政治参加です
   つまり 大部分は職業政治家じゃない人民が 政治について
   最後の発言権を持つという考え方でしょう

   アマチュアが 知らねえやとシラケちゃうと
   政治なんて関係ねえやということになったら
   民主主義はおしまいです

   すこしの時間を割いて 職業政治家のやる政治を
   監視しなきゃいけない

   やっかいなんですよ
   やっかいなことによって
   デモクラシーは成り立つ
   そういう政治の仕組みなんです

(5)丸山は広島での被爆体験を語ることがなかったが、
   32年後に広島を訪れてからは、封印を解いていく

   今日(こんにち)でも新たに 原爆症の患者が生まれている
   長期患者 あるいは二世の被爆者が
   今日でも白血病で死んでいる 日々起こっている

   毎日 原爆は落ちている
   広島は毎日 起こっている
   毎日 新しく
   毎日 我々に
   問題を突きつける

   戦争を選んだら 核戦争になりますから おしまいですから
   戦争は 国家の手段として選べない 現実には

   日本は唯一の 原爆被災国であるということの意味を 
   もっと活かさなきゃいけない

   世界に胸を張って
   何とお前たちはバカだと 
   言わなければならない

(6)日本にたいする違和感

   何か 日本はおかしいところがある
   他者感覚のなさ
   他者がいないんです
   同じ仲間とばかり話してますから
   その怖さです

現在のお友達で固めた政府を見ると うなずける。

(7)最後に

   もし「永久革命」という言葉に 意味があるとしたら
   民主主義だけが 永久革命という名で呼ばれるに値する

   
   世界中どこも 民主化が完了した国はない
   これから永久に
   革命していかなければならない
   あらゆる国は 民主化の過程にある

                       (敬称略)

追記1
Eテレ「女たちは解放をめざす 平塚らいてうと市川房江」を観る。
婦人参政権を得て68年が経っても、女性の国会議員の割合は8%に過ぎない。
世界で127位だという。(先進国では最低)
せっかく勝ち得た権利を、先人たちはどう思っているだろう。

市川房江の言葉
 「権利の上に眠るな
  権利があっても それを使わなければ 無いことと同じになってしまい
  それがなくなってしまうのです」

番組の中で、興味深い言葉があった。
男たちは一代主義だという。つまり男は目先の事にとらわれて決断する。
だが女性は、自らが産む・産まないに関わらず産む性として、未来を見据えて決断する。
現在の、目先の利益しか考えない政治を見るにつけ、今こそ女性の視点が必要だと思った。
                             (2014年9月15日 記)
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098:吉(梅田啓子)

2014-07-20 06:01:00 | ⑦題詠blog2014
ぷっぷあっと周りの空気を揺るがせて初桔梗さく 今日は吉日

ぷっぷあっと周りの空気を揺るがせて初桔梗さく今日は吉日(推敲)

追記1
毎日、数えきれないほどの花を咲かせます。
白い花を見ていると、心が浄められます。
               (2014年9月3日 記)



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日本人は何をめざしてきたのか 知の巨人たち

2014-07-19 14:12:06 | ⑤エッセーと物語
NHK Eテレ「日本人は何をめざしてきたのか 知の巨人たち」が面白い。
                     (毎週土曜 23:00~0:30 放送)

第1回は「湯川秀樹と武谷三男」
湯川が病気をおして核兵器の廃絶と核なき世界を訴える姿は、胸に迫るものがあった。

第2回は、「ひとびとの哲学を見つめて 鶴見俊輔と『思想の科学』」
「思想の科学」は、敗戦からより多くを学ぶことを掲げて立ち上げた雑誌である。
現在の状況を語っているのかと思われるような言葉があり、興味深かった。

(1)言葉のお守り的使用法について
   意味がよく分からずに言葉を使う習慣の一である。
   たとえば東条英機は、「鬼畜米英」「八紘一宇」「国体」などの言葉を使った。
   
   政府はお守り言葉によって戦争を正当化し、戦争の実相を伝えなかった。
   大量のキャッチフレーズが国民にむかってくり出され、こうして戦争に対する
   熱狂的献身と米英に対する熱狂的憎悪とがかもしだされ、
   異常な行動形態に国民をみちびいた。

私は、安倍首相がつかう「美しい国へ 戦後レジームからの脱却」や「日本を取り戻す」、
「積極的平和主義」なる言葉がさっぱりわからない。
何が美しい国なのか、戦後レジームとは何ぞや?
(調べたら、戦後にできあがった政府の体制や制度のことのようです)
そもそもなぜ、戦後レジームから脱却しなければならないのか。

「日本を取り戻す」って、何から日本の何を取り戻すの?
積極的平和主義? では消極的平和主義もあるの?
戦前、戦中の国民が「八紘一宇」が理解できなかったように、私にはさっぱりわかりません。
一体、国民の何割がこれらの言葉を理解できるのだろうか。
私には体(てい)のいいキャッチコピーにしか思えないのだが。

鶴見さんは、使い慣れた、わかりやすい言葉を使うことが大切だと語っている。


(2)新安保条約批准の強行採決(1960年5月19日)にたいしての
   「思想の科学」の声明文衆議院で行われた新安保条約の強行採決は、
   衆議院における採決を無効にし、国民に対してと同時に自己の行為とその結果に
   対して、責任をもつ新しい政府が生まれることを要求する。

   つまり討議のルールをまもっていない。そもそもは、そういうルールが国家の方向を
   決める重大な問題に対して崩されるということを認めるわけにはいかない。

責任をもたない政府、国家の方向を決める重大な問題に対して、ルールを崩す政府。
これは60年安保の岸政権に対しての声明文であり、現在の安倍政権のことではないのだが。

(3)60年安保のデモに対する岸信介首相の記者会見(5月28日)
   声なき国民の声に我々が謙虚に耳を傾けて、日本の民主主義政治の将来を
   考えて処置すべきことが、私は首相に課せられてるいちばん大きな
   責任だと思っています。
   今は声ある声だけです。いわゆる世論といわれておるものは。

首相である私が、きちんと声なき国民の声に謙虚に耳を傾けて処置すると言っているのに、
不遜にも国民が声を上げるとは・・・と言っているように、私には聴こえます。
「私は首相に課せられてるいちばん大きな責任だと思っています」 
はて、どこかで聞いたような。

そもそも、声なき声に謙虚に耳を傾けるのであれば、声ある声にこそ謙虚に
耳を傾けるべきなのでは。
33万人が国会を取り囲み、6月23日、岸首相は退陣を表明した。

(4)全国にさまざまな「声なき声の会」が発足し、総勢100万人のデモが繰り広げられた。
   デモの最中に歌われた歌が素晴らしい。

   市民の皆さん 一緒に歩きましょう
   歩きましょう
   5分でも 100メートルでも
   一緒に歩きましょう

(5)1965年、米軍が沖縄から北ベトナムへの爆撃を本格的に開始する。
   それに反対して「声なき声の会」を母体に、鶴見たちが小田実(まこと)を代表にして
   「ベトナムに平和を市民連合」を結成する。
   ベ兵連のビラも素敵だ。

   私たちはふつうの市民です
   ふつうの市民ということは
   会社員がいて 小学校のせんせいがいて
   おかみさんがいて 花屋さんがいて
   英語を勉強している少年がいて

   つまり このパンフレットを読むあなた自身がいて
   その私たちが言いたいことは ただ一つ

   「ベトナムに 平和を!」

なんてわかりやすく、心にひびく言葉だろう。

(6)鶴見俊輔の言葉
   私にとっては戦後50年よりも戦中の方が重いんです。その感覚が重大だと思う。
   真理は間違いから逆算される。

   問題はね、こういう間違いを自分がした
   その記憶は 自分のなかにはっきりある

   こういう間違いがあって
   こういう間違いがあった
   今もこういう間違いがある

   だけど この間違いの道がこうあって
   それがゆっくり 考えていけば
   それがある方向を指している
   それが真理の方向だ

   だから真理は方向感覚と考える

   その場合には間違いの記憶を
   ぎゅっと持っていることが必要なんだ

   これは消極的能力なのよ それはね 
   積極的能力じゃないんだ
   つまり下瀬火薬を発明したとか それは積極的能力で

   負けたことは 忘れない
   失敗したことは 忘れない
   これは 消極的能力なんだ

   原爆に撃たれた我らという考えを強く持つ
   そこからやる

   戦中のさまざまな記憶を持ち続ける
   そこから

   それが未来だと思いますね

過去ときちんと向き合って、間違いを検証し、その記憶を忘れずに持ち続けることで、
未来が見えてくるのだと思った。

曖昧に、うやむやに、目を逸らすことからは、まして上書きをしたり、無かったことにすることからは
何も生まれないし、また同じ間違いをくり返すことになると思う。

今晩(7月19日)の第3回「日本人は何をめざしてきたのか 知の巨人たち」は、
「民主主義を求めて 政治学者 丸山眞男」です。

Don't miss it !
                        (敬称略)

追記1
2015年7月20日、鶴見俊輔さんがお亡くなりになりました。享年93歳。
心よりご冥福をお祈りいたします。

鶴見さんは、
1946年に、都留(つる)重人さん、丸山眞男さんたちと雑誌「思想の科学」を
創刊しました。
1965年に、小田実(まこと)さんたちと「ベ兵連(ベトナムに平和を!市民連合)」を
結成しました。
2004年に、小田実さん、加藤周一さん、大江健三郎さん、井上ひさしさん、梅原猛さん、
        奥平康弘さん、澤地久枝さん、三木睦子さん(三木武夫氏の奥様)たちと
        「九条の会」の呼びかけ人となり、平和憲法擁護を訴えました。
        (2015年7月24日 記)


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みなまた日記  甦える魂を訪ねて

2014-07-16 15:17:21 | ④映画、テレビ、ラジオ、動画
土本典昭監督の 「 みなまた日記 甦える魂を訪ねて 」 を観る。
1996年作成 2004年改訂

1994年当時の水俣病認定患者総数は、1080人であった。
土本監督と奥さんの基子さんは、水俣の旅館に泊まりこみ、ご遺影を集め始める。
この映画は、ご遺影500柱を集めた1年間の、水俣の記録である。

ETV特集 「 ふるさと`水俣´に生きる 次世代からのメッセージ 」 より18年ほど前の記録だ。
( 2014年7月9日の 「 苦海浄土 わが水俣病 」 参照 )

鎮魂の儀式として、1994年11月6日に第1回 「 火のまつり 」 が行われる。
以前にも書いたが、この会場は水俣の海の汚染が酷かった所を埋め立てた場所だ。
ドラム缶に大量の魚を詰め込み、累々と埋め立てたヘドロの上にある。
今はその上を、きれいな土が覆っている。

松明1200本が灯され、白装束に紫の布で髪をおおった巫女姿の杉本栄子さんが、
自らを魚 ( いお ) に託して祈りの言葉を述べる。

  おどんが 魚 ( いお ) じゃった時の話ばい
  ここは昔 海じゃった

  おどま ( 魚 ) たちは そん藻の中で生まれ
  こっちのこう 瀬の中で育って

  細 ( こま ) んか魚 ( いお ) どんたちを追いかけ
  太か魚どんたちから追われ
  毎日 仲間どんたちと ようここで 遊びよった

  ひとが来らすとば 待って
  ひとに喜ばれれば ホッとして
  まいにち 賑やかだったばい
  そげんそげん ここはお母 ( か ) さんの懐のごと ( 如き )
  所じゃったもんな

  良か海じゃった
  良か海じゃったもん

  急にひとが 来られんごつなったち思ったら
 ( 魚の ) 仲間どんたちが あっちもこっちも
  どこもここも 浮いた

  まあ何が起きたじゃろかち
  おどま何も分らんかった
  逃げようにも逃げられず
  逃ぐるところも無かったもんな

  誰に訴えることも 文句をいうことも
  出来んだったばい

  いま生きとるもんば 大切にするー
  そは一番たい
  じゃばってん 昔生きとったものも
  思い出してくれんなー

  ひとはひと 魚は魚とち
  思うとらすもんの
  一杯おらすばってんー
  それが ほんな ( 本当の ) こつじゃろか

  みんな目に見えん 細 ( こま )かいもんから
  とてつもなか 太かもんまで
  お互いに生かし 生かされながら
  みんな繋がっとっとばい

  あんたの立っとらす そこん・・・そこの
  足下に おどん ( 魚 ) が埋められとっと
  知っとっとかな
  知ってもらいたか

  おどんも 早う土になろうごたっと
  ばってんまだ なり切れんと

  納得できたとき 土になろうち思う
  納得でけん時は 化けてでるかも
  知れんとばい

  おっどま 「 ごめんなさい 」 ち言うて
  もらうためじゃなか

 「 あんたたち あんたたちの お陰さまです 」・・・ち
  思い出してもらいたか

  そうそう・・・祈りの言葉は
 「 ありがとう 」 たい
 「 ありがとう 」 ち言うてもらいたか

  まこて 今日はよかったーみんな
  こげんして来てくれらったで
  嬉しかった

  ほんなこつ 今日は嬉しかった
  こげん一杯 灯りをつけてもろうて
  なんて今日は 良か日じゃったろか
  ほんなこつ 嬉しかった

  水俣出身のもんは みんな
  帰ってください
  みなまたに 帰ってきてください

最後の三行は、栄子さんのアドリブだそうです。


その他にも鎮魂の祈りとして、喜納昌吉&チャンプルーズと水俣の緒方さんとの
コンサートによるコラボや大倉正之助さんの大つづみの演奏などがあり、
とても見応えのあるものだった。
沖縄の人たちも、水俣の人たちも、本当に踊りが大好きなのだ。

埋立地には、住民が作った多くの石仏が建立されている。
そのどれもが個性的で味わいがあるので、実物を見たくなった。

また、胎児性水俣病の坂本しのぶさんたちと若者たちとの、演劇の練習が行われていた。

最後に、語り部である浜元さんの次の言葉が心に残った。

 「 胎児性患者も恋がしたいし、結婚もしたい。けど女性は結婚できないし、
  男性もかろうじて結婚できたのはごくごくわずかだ 」

( 細部に間違いがありましたら、お赦しください )



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097:陽(梅田啓子)

2014-07-16 06:03:58 | ⑦題詠blog2014
ブラジルの陽射しを浴びた芝くさが選手の顔に貼りついている

ブラジルの陽射しにそだつ芝の草 選手の顔に貼りついており (推敲)


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ゆきゆきて、神軍

2014-07-13 11:17:03 | ④映画、テレビ、ラジオ、動画
凄い映画を観てしまった。
観たからには、見なかったことにはもう出来ない。

今村昌平企画、原一男監督の奥崎謙三を追ったドキュメンタリー。1987年公開。
キャッチコピーは、「知らぬ存ぜぬは許しません」

奥崎は、ニューギニアの独立工兵第36連隊の帰還兵である。
部隊は飢えとマラリアで、千数百名の兵士のうち帰還できたのはわずか30数名だった。

かっての部隊の残留隊で、隊長による部下2名の射殺事件が起きる。
表向きは脱走兵として処刑されたことになっているが、これは戦争が終わって
1か月ほど経ってからのことなのだ。
奥崎は遺族と一緒に、当時おなじ部隊だった人たちを訪ねて、真相究明に乗り出す。

敗戦を迎えるまでのニューギニアでの数か月は、想像を絶する飢えがあった。
戦争をしていることさえ忘れるほどの飢餓。
その中で人間として赦されない行為が行われていたという事実を、
奥崎は生き残った人たちから聞き出そうとする。

子どもや孫と暮らしている元隊員を訪ね、家族が居ようが情け容赦なく話すことを強要する。
それが、たまたま生き残った人間の使命だと問い詰める奥崎の姿は、
執念という言葉を超えて狂気さえ感じる。

元隊員たちは、抵抗しながら、なじりながら、懊悩しながら、話し始める。
事実を明らかにすることが人類の財産となり、これからの戦争の抑止力になると、奥崎は言う。

奥崎の行為は過剰であり、その思考や宗教は納得できないものもある。
それでも奥崎の狂気がなかったら、「事実」が白日の下に曝されることが
なかったのではないだろうか。

人間の理性も慈愛も尊厳も、自分が人間であるという自覚さえ、戦争はかなぐり奪って
しまうものだということを、この映画は語っているように思う。
主義主張など吹っ飛んでしまうほどの現実が、そこにはあった。

見たくないものや酷たらしいものに目を背けるのではなく、事実の一片だけでも
見て欲しいです。賛否両論があるとは思いますが、戦争を知らない政治家の方々、
是非観てください。 (敬称略)



(画像はお借りしました)
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096:翻(梅田啓子)

2014-07-13 08:36:09 | ⑦題詠blog2014
翻訳劇のせりふのような答弁す 自分の言葉でいってごらんよ

翻訳劇のせりふのような答弁だ 自分の言葉でいってごらんよ


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苦海浄土 わが水俣病

2014-07-09 15:21:59 | ⑤エッセーと物語
石牟礼道子さんの『苦海浄土』を今日、読み了えた。
内容が重く、せりふは方言で書かれているので、少し読んでは休み、また休みして
結局、一年以上かかってしまった。

読み了えた日に、石牟礼さんが「第8回後藤新平賞」に決まった事を知り、嬉しかったです。
おめでとうございます。

『苦海浄土』の解説に、渡辺京二さんは次のように書いている。

 はじめて水俣の彼女の家を訪れた時、私は彼女の「書斎」なるものに深い印象を受けた。
 畳一枚を縦に半分に切ったくらいの広さの、板敷きの出っぱりで、貧弱な書棚が窓からの
 光をほとんどさえぎっていた。・・家の立場からみれば、それは、いい年をして文学や詩歌と
 縁を切ろうとしない主婦に対して許しうる、最大限の譲歩ででもあったろう。

こんな環境で書かれていたのかと思うと、胸がつまる。

その後、録画したETV特集「ふるさと`水俣´に生きる 次世代からのメッセージ」を観る。

番組の初めに、水俣のゆるキャラだという「やうちブラザーズ」が、裸に派手な飾りを付けて登場し、
「We love my mother」を歌い出す。

 動かない 浜のトドの様です
 テレビの前の 座敷トド
 朝は10時のおやつ食って 朝寝 
 昼は昼飯食って 昼寝

「やうちブラザーズ」の三人は、水俣三代目に当たり、祖父母や両親が水俣病を
患っていました。
その中の杉本肇さんと実さん兄弟のお母さん(栄子さん)は、妊娠中も激痛に転げ回り、
三度流産して、ようやく授かったのが肇さん(53歳)です。

歌に出て来る栄子さんは怠け者ではなく、病気に苦しんでいたのです。
栄子さんの教えは、「どんな時でも笑わんばダメぞ、笑わんば」
栄子さんのお父さんの教えは、「苛められてもやり返すな。そうしてすっきりして死にたい」

杉本さん一家がチッソを訴えようとすると、地域で孤立し、嫌がらせをされたという。
また水俣病患者の救済に尽力した川本輝夫さんは、名指しの誹謗中傷ビラを撒かれたという。
住民の7割が、チッソと関係のある生活をしていたのだ。

番組には、50年間以上にわたって水俣と向き合い続けた医師、
原田正純さんのお嬢さんの利恵さんが登場します。
昨年までの二年間は水俣に住み、地域の再生の調査研究をされていたという。
第三世代の人たちに聞き取りをして、この人たちの思いを伝えることが自分の役割だと
語っていた。

水俣病が公式に確認されて58年が経った。
水俣の海のもっとも汚染が酷かった所は埋め立てられ、毎年5月1日にはここで
「水俣病犠牲者慰霊式」が行われている。
50代後半になった胎児性患者の方々も出席する。

今年は川本輝夫さんの息子さんの愛一郎さん(56歳)が、祈りの言葉を述べた。

 (昭和43年、新日本窒素肥料株式会社はチッソが原因と認めたが、補償交渉は難航した)
 「愛一郎さんのお父さんの輝夫さんは、東京の本社前に1年7か月坐りこみを続け、
  社長に次のように訴えたそうだ。

 『水俣病だった親父は精神病院に入れられ、誰にも最期を看取られることなく死んだ。
  最後にひと匙のおかゆを食べさせたくても、米を買う銭が無かった』

  そして愛一郎さんは、不条理に奪われた人間としての尊厳と生活を、
  名前を持った一人一人のその手に取り戻していきたい」と語った。

杉本肇さんは高校卒業後、東京に就職したが、水俣に戻ってきて弟の実さんと漁師をしている。
家族で船に乗った時の栄子さんの笑顔が素晴らしかった。
栄子さんは、「まちっと生きろうごたつ(もう少し生きたい)」という言葉を遺して
亡くなりました。

胎児性水俣病の坂本しのぶさん(57歳)は、次のように語っています。
 「やはり(福島は)水俣と同じだなあと思います。黙っとればだめだなぁと思っております。
  ちゃんと話をしていかないと」

一点の瑕疵(かし)もないのに、命に関わる被害をこうむった住民が、
なぜ差別や偏見を受けなければならないのか。そして、なぜ十分な補償が受けられないのか。
症状があっても水俣病と認められない約400人の裁判が、今も続いている。

水俣の語り部だった栄子さん亡き後は、肇さんが引き継いでいる。
その日も肇さんの家には、福島や東京から若者たちが話を聞きに来ていた。

(細部に間違いがありましたら、お赦しください)


追記1
水俣の人気お笑いトリオ、「 やうちブラザーズ 」 の演奏が視聴できます。
               ↓
https://www.youtube.com/watch?v=I3sYX22IAJ8

(2015年5月24日 記)

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095:運命(梅田啓子)

2014-07-09 05:40:04 | ⑦題詠blog2014
自らの机・パソコン・部屋を持ちわが運命をそれで善しとす

自らの机・パソコン・部屋を持ちわが運命はそれでよしとす (推敲)


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集団的自衛権 閣議決定への疑問 「報道特集」

2014-07-06 16:38:24 | ②一市民運動
2014年7月5日の 「 報道特集 」 【 集団的自衛権 閣議決定への疑問 】 の放送を観ることが出来ます。(削除されました)
         ↓
http://www.dailymotion.com/video/x20vnp2_%E9%9B%86%E5%9B%A3%E7%9A%84%E8%87%AA%E8%A1%9B%E6%A8%A9-%E9%96%A3%E8%AD%B0%E6%B1%BA%E5%AE%9A%E3%81%B8%E3%81%AE%E7%96%91%E5%95%8F-%E5%A0%B1%E9%81%93%E7%89%B9%E9%9B%8620140705_news


概要は
イラク戦争に自衛隊を派遣する際、人道支援だけと報道されていましたが、
実際は武装したアメリカ兵を毎日、前線まで飛行機で輸送していたそうです。

また派遣するのは非武装地域のみと報道されていましたが、アメリカの要請で
これも解除されたそうです。

元陸自隊師団長の廣瀬氏は、今後は隊員の犠牲を覚悟しなければならないと語っています。

こうした内容は今も公にはされていませんが、これからは 「 特定秘密保護法 」 の下に
ますます秘密裡に進められていくのではないかと思います。

金平キャスターのドイツでの取材も興味深かったです。
1933年3月24日に、ナチスにより 「 全権委任法 」 が制定されました。
これは、政府は国会を通さずに法律を制定することが出来、
それが憲法に違反してもよいというものです。

この法律により、民主的と言われた 「 ワイマール憲法 」 は死文化していきました。
ドイツの憲法学者は次のように言っています。
「 今の日本の動きは、当時とよく似ている 」 と。

そういえば以前、閣僚の一人が 「 ナチスのやり方を真似すればいい 」 と言ってましたっけ。

追記1
2014年8月11日、BS世界のドキュメンタリー「ヒトラー権力掌握への道(前編)」に
興味深い言葉があった。
「大衆は女々しく愚かで 彼らを操るには憎悪をかき立てるのが唯一有効な手段なのだ」
ヒトラーはオペラの力強いポーズを真似、写真に撮って研究したという。

またヒトラー政権下で「プロパガンダの天才」と言われたヨーゼフ・ゲッベルスは、
次の言葉を残している。
「狂信的な行動とは 弱く決断力のない者でも到達し得る意思表示の形である」

条件がそろえば、人間はたやすく煽動されると思った。
                            (2014年9月3日 記)

追記2
「ヒトラー権力掌握への道(後編)」では、ヒトラーは「平和」という言葉を
 演説に使っている。「統一国家実現のために 皆が心の準備をしなくてはならない。
 国民は我々に従い 自ら目標を達成しなくてはならない。皆が勇敢であると同時に
 平和を愛することを願う。平和を愛さなくては勇敢になれない」

 疲れ果てたドイツ国民は現実を見失います。やがて勃発する第二次世界大戦に 
 ドイツは世界は引きずり込まれてゆき 5000万人以上の死者を出すことになります。

「平和のため」「国のため」「自衛のため」「そんな馬鹿なことには絶対になる
はずがないといった慢心」には注意を払わなくてはならない。そして敵を作って危機感を煽り、愛国心に訴える言葉にはくれぐれも気をつけなければならないと思った。
                      (2014年9月20日 記)


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