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原発事故 国家はどう補償したのか~チェルノブイリ法23年の軌跡~1

2014-09-27 19:17:07 | ②一市民運動
生半可な知識で、原発や政治について書くのを止めようかと考えていたところ、
今朝(9月23日)の新聞の一面に、「慰謝料打ち切り再検討」の記事があった。

勝手に「避難指示解除準備区域」を決めて、そういうことなら原発事故前の年間被曝線量
1ミリシーベルトに戻してから解除して欲しい。
それが出来ないのなら、「避難解除後1年をめどに慰謝料打ち切り」などもっての外だと思う。

福島第一原子力発電所の事故が起きるまでは、一般の人が浴びても差し支えないとされる
1年間の被曝量の基準は、1ミリシーベルトであったはずだ。
だが避難指示解除準備区域は、放射線の年間積算線量が20ミリシーベルト以下となることが
確実あるいは確認された地域とある。

1ミリシーベルトであったものが、なぜ20ミリシーベルトにされて、
我慢しなければならないのか。
1ミリシーベルトなど夢のまた夢なのか。
ETV特集「原発事故 国家はどう補償したのか~チェルノブイリ法23年の軌跡~」を観て、
やはり年間積算線量が1ミリシーベルトを超える地域は、汚染地域であると確信した。
(後にも書きますが、ウクライナでは年間被曝線量を1ミリシーベルトと明記し、
 それ以上の地域は被曝の対象とした)
そしてどこに住むかは住民が選択権を持ち、いずれの選択をしても、十分な補償が
得られるようにすべきだと思う。
決して豊かとは言えないウクライナが、そうして来たのだから。

ここからは番組の内容です。

2013年10月、ウクライナのキエフで、「チェルノブイリの経験をフクシマへ」という
ワークショップが開かれた。
元環境大臣ユーリ・シチェルバク(チェルノブイリ法に携わった人)の言葉
「私たちはチェルノブイリ事故に関する環境や住民保護の知識をたくさん持っています。
 最も大事なことは、被災者をどう守っていくかということです。
 私たちの経験を日本のみなさんは是非、活かして欲しいと思います」

番組の中では、議員やチェルノブイリ事故に携わった労働者、被曝した住民などが、
当時の状況や被曝の実態、補償の現実について、自分の言葉で語っている。

チェルノブイリ原発事故は1986年4月26日に旧ソビエト連邦で起きたが、現在はウクライナに
なっている。(1991年ソ連は共和国の脱退により崩壊し、共和国はこの時にすべての国が
独立国となった)現在、ウクライナ政府が被災者と認めているのは213万人。
被災者に対する補償は、ウクライナ政府が続けてきた。補償の根拠となっているのが、
事故の5年後に制定された「チェルノブイリ法」だ。
そこには「国が被災者の生活と健康を世代を超えて守り、被害の補償を続ける」と
規定されている。

元ウクライナ大統領の言葉
「チェルノブイリ原発事故は、完全に国家に責任があります。国民には何の罪もありません。
国民はなぐさめの言葉や同情だけでなく、法律により保護されるべきです」

事故当時、放射能情報は国民に知らされず、5日後にはメーデーを楽しみ、
たくさん被曝をした。
その後もソビエト政府は、放射能の汚染情報を隠し続けた。
ソビエト全土から80万人もの兵士、消防士、警察官が動員され、知識もなく、
不十分な防護服で原子炉の消火や瓦礫処理に当たったのだ。
やがてソビエト連邦の共和国の一つで、チェルノブイリ原発を抱えるウクライナから
批判の声が上がった。彼らはプラカードを持って抗議した。
「チェルノブイリ被害者の犠牲の上に国家の繁栄はない」
そしてゴルバチョフ書記長に窮状を訴える手紙を送った。

元原発作業員 ザハルチェクの手紙
 ゴルバチョフ同志様
 心からのお願いです。私は原発近くの町フリキャチからの避難民です。
 身体を壊してもう2年間、働けません。
 あなたの力で家族を助けてください。
 私を不幸のまま見捨てないでください。

工場労働者 ルイリンの手紙
 拝啓ゴルバチョフ様
 機械工場の労働者です。
 私の町には11万4千人が住んでいますが、まだ何の援助もありません。
 汚染されていない食料を下さい。
 政府は私たちの救援策を早く決めてください。

キエフの市民集会では、事故処理の作業員とウクライナの市民が一丸となって、
ソビエト政府に抗議するようになる。
ユーリ・シチェルバク(元環境大臣で、当時は「緑の運動」のリーダーだった)は、
真っ先に事故の情報公開を求めた。
ウクライナには事故処理に参加した40万人の作業員がいて、汚染地域に住む300万人の
被災者がいた。みんな大きな不安を抱え、傷つき、精神的にも肉体的にも追いつめられていた。
ウクライナ人全体の問題です。

3年後にソビエト連邦は、汚染の情報公開にふみ切る。
共産党機関紙「プラウダ」に、セシウム137の拡散を示す放射能汚染地図が公表される。

原発から110キロ離れたコロステン市、共産党委員会書記ウラジミール・マスカレンコの言葉
「市民は通りや職場、学校や公園に集まって、『政府は何も教えてくれない。私たちは人質だ。
 もうすぐ皆死ぬんだ』と話していた」
そして彼は、ソビエト政府の保健大臣に電報を送る。
「町は悲惨な状況です。何の対策も取られていません」

するとソビエトからえらそうな人が来て、
「共産党員の君が何をパニックに陥っているのだ」と説教する。
それに対してマスカレンコは、
「では、あなたがモスクワからここに引っ越して来て、どうやって健康に暮らせるのか
 見本をみせて下さい」と迫った。

コロステン市では、体の不調を訴える住民が相次いでいた。
4年後に建てられたコロステン検診センターでは、翌年に9人の甲状腺ガンが見つかる。
ウクライナだけでなくベラルーシでも、子どもたちから甲状腺ガンが次々と見つかる。

1990年、ウクライナ人民代表議員ウラジーミル・ヤツェンコは、ウクライナ政府に働きかけた。
そしてコロステンの住民は、ソビエト政府が何もしてくれないのなら地元のウクライナ政府が
何とかして欲しいと訴えた。
人々は、チェルノブイリ原発を閉鎖して欲しい。そして住民を最大限守って欲しい。
住民を移住させ、子どもたちの安全を確保して欲しい。
被害に対する補償金を払って欲しいと訴えた。

ウクライナ政府は、モスクワの指示を仰ぐことなく、独自に救済者の支援にのり出した。
ウクライナ最高会議トップ、レオニード・クラフチェク議長は、被災者のための法律を作る
決断をする。   2に続く
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原発事故 国家はどう補償したのか~チェルノブイリ法23年の軌跡~2

2014-09-25 09:37:16 | ②一市民運動
「ウクライナ保健省の報告」
首都キエフの空間線量が、通常の50倍以上(毎時11~30マイクロシーベルト)に汚染されて
いるという機密情報が届いていた。
とてつもない悲劇が起こったと確信した。被災者を救済する法律作成のため、国の最高会議には
委員会を立ち上げ、将来を見通して詳しい調査をするよう命じた。
12人の代議員で、「ウクライナ チェルノブイリ委員会」が結成されて、
法案作成がスタートする。
1990年6月の法律の完成までに、8か月を要した。

2013年、初めて「チェルノブイリ委員会議事録」が公表された。そこには原発事故にとって
何が重要なのかを、真剣に議論した課程が記録されている。そして法律が完成するまでの
経緯が記されている。
委員会が最初に取り組んだのは、ソビエトが認めた被災地の範囲
(年間被曝量5ミリシーベルト)を見直し、1ミリシーベルトにすることだった。

1990年9月14日の議事録
ヤボリフスキー議長は
「このチェルノブイリ委員会では、あらゆることを総合的に検討し、避難区域を
 決定しなければならない」
ヤツェンコ議員は
「最大限に住民を守る放射線量を採択しなくてはいけない」
バリヤフテル議員(放射線の専門家)は
「世界ではまだ長期にわたる低線量被曝について、科学的に解明されていない。
 研究はこれからだ。この状況において、私たちは決定値を下さなければならない」

1991年2月5日の議事録(最終回)
ヤツェンコ議員は
「被災者は国家が守ってくれると期待している。彼らの期待を裏切ってはいけない。
 住民の健康を、生涯にわたって守る法律が必要だ」
ヤボリフスキー議長は
「人道的視点から、年間1ミリシーベルトに決定する」
バリヤフテル議員は
「最も厳しい基準を決定しよう。1ミリシーベルトがいいだろう。
 人々は、ウクライナ政府が自分たちの味方だと思うだろう」
ビクトル・バリアッテル博士は
「われわれの大多数が、5ミリシーベルトという値に反対しましたが、
 それは科学的な要因だけでなく、社会的な要因も考えたからです。ソビエト政府の
 5ミリに反対して、我々が1ミリという値を打ち出すことで、人々はウクライナ政府が
 自分たちの味方であると思い、安心するからです」
ドミトリー・バジク博士(ウクライナ放射線医学研究所)は
「5ミリではなく1ミリシーベルトを採用したのは、放射線の影響がないと確信できる値だった
 からです。これは住民を放射線の影響から最大限保護するための科学的なデータに基づいた
 政治的決定です」

事故当時、ソビエト政府はチェルノブイリ事故の対策費に、特別な予算を組もうとしていた。
ソビエトの試算では、3兆7000億円が必要とされていたが、汚染がひどかったロシア、
ベラルーシ、ウクライナに2兆5000億円を投じると決定する。
チェルノブイリ法制定から半年経った1991年8月24日、ウクライナは独立を宣言する。
ソビエト政府は、2兆5000億円の約束を、1兆7000億円にするとした。
1991年12月、ソビエト連邦が崩壊する。
その後できたロシア連邦は、ソビエトの方針を引き継がないことを表明する。
各国がそれぞれに、事故対策費を出すようにと通達した。
(チェルノブイリ原子力発電所は、ソビエト時代に作ったにも関わらずだ。
 チェルノブイリ法で、支払いが決められたにも関わらずだ)
ウクライナの人々は、ソビエトが民主化することはあっても、失くなるとは思っても
いなかったのだ。こうして、あてにしていたチェルノブイリ法実施の費用が入らなくなり、
ウクライナは自らの予算でチェルノブイリ法の遂行を担うことになった。
チェルノブイリ法の費用をあてにしていたウクライナの計画は崩れた。

初代大統領のレオニード・クラフチェクは、予算の配分が大変だった。
彼は教育や科学への予算よりも、チェルノブイリ法の予算を優先させた。
年間被曝量を5ミリから1ミリシーベルトにしたことで、被災者と認定する住民の数は
100万人以上膨れ上がり、将来にわたる補償の規模が大幅に変わる問題だった。

委員会発足から8か月後に「チェルノブイリ法」が採択された。
第1章第1条
 放射性物質の汚染地域とされるのは、住民に年間1ミリシーベルトを超える被曝をもたらし、
 住民の放射線防護措置を必要とする地域である。

そしてチェルノブイリ法に基づき、ウクライナの被災地は4つの地域に分類された。
(1)強制避難地域:事故直後から住民を強制的に避難させた汚染レベルの高い区域
(2)強制移住区域:年間被曝線量が法律制定時に5ミリシーベルトを超える区域
(3)移住選択区域:年間被曝線量が法律制定時に1~5ミリシーベルトの区域
(4)放射線管理区域:年間被曝線量が法律制定時に0・5~1ミリシーベルトの区域
  (なんと日本とは違うのでしょう)

(3)では住民に移住の権利が与えられ、(4)では妊婦と子供に移住の権利が与えられる。
 移住を選んだ住民に対して国は、移住先での雇用を探し、住居も提供した。
 また引っ越しにかかる費用や、移住によって失う財産の補償も行った。

ウラジーミル・ヤッエンコ(チェルノブイリ委員会委員)は
「住民に選択権を与えたのは、汚染地域に閉じ込められたような心理状態にしないためです。
 今住んでいる場所で将来が思い描けないなら、出て行く権利があるということです」

そして移住しなかった住民への補償を、次のように定めている。
(1)毎月の補償金(給料の1割分を上乗せ)
(2)年金の早期受け取り
(3)電気代やガス代などの公共料金の割引
(4)家賃の割引
(5)公共交通機関の無料券
(6)医薬品の無料化
(7)毎年無料で検診が受けられる
(8)非汚染食料の配給
(9)有給休暇の追加
(10)症状に合わせて年1回、サナトリウムへの旅行券
(11)大学への優先入学
(12)学校給食の無料化
安全な食料を買う費用が支給され、歯医者も無料で診療が受けられる。そして赤ちゃんにも
毎月4000円が支給され、両親が被災者であれば、事故後に生まれた子供も、被災者として
認定される。このことにより、住民は国に見捨てられていないと感じ、嬉しかったという。

それでも移住した人は4000人にのぼった。移住を決めたビクトル・ボダキフスキーは
「低線量の放射能は、大人にとっては何ともなくても、子どもにとっては危険かもしれないと
 思ったからだ。新しい家と夫婦の新しい仕事も補償されるということだったので、
 移住を決めた。国家の補償がなかったら、新しい土地に移住して家を買うことなど
 できませんでした」また引っ越しの費用の補償や、移住により失う財産の補償も行われた。

1996年、ソビエト連邦から独立したウクライナは、新たな憲法を制定した。
そこには、チェルノブイリの被災者を救済することは国家の責務であると明記された。

ウクライナ憲法第16条
「ウクライナの環境を保全し、未曽有の災害であるチェルノブイリ事故の対策に取り組むこと。
 ウクライナ民族の子孫を守ること。これは国家の義務である」
3に続く
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原発事故 国家はどう補償したのか~チェルノブイリ法23年の軌跡~3

2014-09-23 05:16:09 | ②一市民運動
チェルノブイリ法が施行されて20年以上が経った今、その運用はどうなっているのか。
ソビエト連邦の崩壊ににより、ウクライナが全面的に補償することになりました。
ウクライナ政府は内戦の前から深刻な財政難に陥り、補償に充てる予算を
捻出できなくなっています。

現在、ウクライナで被災者に登録されている人は、213万2251人で人口の5%に当たります。
ウクライナの国家予算は1兆6000億円で、チェルノブイリ法で定められた補償を
全て実施すると、6600億円もかかります。これは国家予算の40%にのぼります。
しかし運用実態は大きくかけ離れ、2013年に実施されたのは、
国家予算の5%の900億円だった。
初代大統領レオニード・クラフチェクは、国防予算を削減した。
そして教育や科学よりも、チェルノブイリ法の被災者救済を優先させた。

しかし1990年代後半、世界的な経済危機がウクライナにも波及した。1990年のGDPを
100とすると、1999年には40まで落ち込み、当初の予定の3割しか支給できなくなっている。
チェルノブイリ法の実現をリードしたユーリ・シチェルバクは、初代環境大臣として
事態に直面した。
「(被災者のために)国が全ての土地を購入し、建物も作らなくてはいけないのです。
 それは大変困難なことでした。1991~1996年までに、チェルノブイリの対策費に、
 60億ドルを支出しました。これは国家予算の10%に相当します。
 これは重い負担で、国の財政にとって困難なものだった」

スベロラーナ・ソバ副局長(チェルノブイリ問題担当局)は
「財政的に限界で、被災者はチェルノブイリ法で認められたものを受け取ることができず、
 不満を抱いていた。しかし支払えないからといって、被災者の権利を縮小したり、
 失くすことは出来ません。それは憲法違反になります」

経済危機の中、去年の暮れから始まったウクライナの反政府運動。2月には
首都キエフ中心部での銃撃戦に発展する。大統領は国外に逃亡した。。
2014年6月に就任したポロシェンコ大統領は、内戦の終結、経済の立て直しなど難題が
山積しているが、次のことをすると表明している。
これまで通りの補償をしていく。
被災者の予算を減らさないよう、あらゆる努力を行っていく。
憲法違反にならないよう、チェルノブイリ法の条文を守るようにしていく。
金がかかるからと言って、被災者を置き去りにはしない。
来年度予算の金額が減ることはない。
そして東部戦闘地域からの難民も、200家族受け入れている。

チェルノブイリ原発事故補償担当者は
「現在、わが国は戦争中です。多くの予算が戦費に取られています。
 しかし混乱の中にあっても、被災者の支援を止めるわけにはいかない。
 今後、支払いが遅れることが出てくるのではないかと心配している」

2011年ウクライナ政府報告書の中で、チェルノブイリ法の運用について検証している。
 1996年に57%だった実施率が、2010年には14%にまで落ち込む。
 人口の5%が被災者とされ、政府は補償と財政の板挟みになり、苦しみ続けている。

住民は補償金がわずかしか支給されなくなったため、汚染されていない食料を
買うことができなくなる。
「5~10年で(汚染が)少なくなるものもありますが、何百年も放射能を出し続ける物質からは
 逃れられません。でも生きるためには(汚染された土地で作った物を)
 食べるしかないのです」
「日々の給付金では何も買えません。それでも法律があるから、私たちは要求することが
 できるのです。自分の権利を守るためには、やはりチェルノブイリ法だけなのです」

未曽有の事故から28年。政治や経済のはざまで、被災者の救済は揺り動かされて来た。
それでもチェルノブイリ法という法律が、国家による補償を繋ぎとめて来た。
その経験から、私たちは何を学ぶことができるのか。

ウラジーミル・ヤボリフスキー(チェルノブイリ委員会議長)
「原発の大きな事故で被災した人は、何らかの補償を受ける権利があると思います。
 でも法律は考え抜かれたものでなくてはならず、国家の財源に立脚したものでなくては
 ならないと私たちは学びました。実際に多くの資金が必要です。でも金がかかるからと
 言って、被災者を置き去りにして何事もなかったというわけにはいきません。
 今になってみると、この法律が理想的だとはいえません。でも当時は、被災者の
 心理的な面だけでも、国の政治的な面でも必要なものでした。
 ウクライナの社会に安心をもたらしたのは確かです」
一度事故が起きれば、補償が長期に及ぶことも強調された。

ビクトル・バリヤフテル博士(チェルノブイリ委員会委員)
「このような法律を作る場合には、人々と誠実に向き合い、人の一生を補償する覚悟で
 作るべきなのだと思います。さらに実際に被災した第一世代のためだけではなく、
 それに続く第二、第三世代を考慮して作るべきだ。この教訓を福島に活かして欲しい」

ユーリ・シチェルバク(ウクライナ環境大臣)
「一にも二にも重要なのは、被災地の住民を保護することです。
 法律を作る際には、はっきりどこが被災地かという範囲、どこまでが被災者の権利か
 ということを明記しなくてはいけません。それに付け加えて重要なことは、
 被災者のための予算をどう捻出するか。
 他の予算とは別に、被災者のための予算を確保することです。私たちが苦しみの末に
 得たこの経験を日本の皆さんに活かして欲しいと、心から願っています」

事故を起こしたチェルノブイリの廃炉には、100年以上の時を要します。
そして被災した人々の補償も永く続きます。国家はどこまでその責任を果たせるのか。
ウクライナの歩みは、被災者と向き合う国の覚悟を問うている。

私の感想
この番組を観て、日本との違いを痛感した。
東電は、政府は、ウクライナのように被災者と向き合って来ただろうか。
その場しのぎの処理で終わっていないだろうか。
被災者の痛みを、将来を、真摯に考えて、これからの補償を考えて欲しい。
東電が、政治家が、産業界が、何の瑕疵もない住民のこれまでの生活の全てを奪ったのだから、
自らの事として、ありったけの誠意を見せて欲しい。

また、ウクライナにはこれだけの議事録が残っているのに、なぜ日本では議事録を録らないと
いうことが起こるのだろうか。
このような悲劇を二度と起こさないためにも、日本で起きたことを全て遺し、
世界に発信して欲しい。

 
私は歴史のことはよく解らないが、本来ソビエト連邦が支払うべき事故の補償金を、
ロシアではなく、ウクライナが補償しているということを考えれば、どうしてあのような
ウクライナ危機が起きるのだろうか。
チェルノブイリ法を懸命に守ろうとするウクライナが、ますます危機的な状況に
陥ってしまうのではないかと危惧している。

最後に、すでに取り組んでいるのかもしれないが、「チェルノブイリ法」を参考にして、
誰にでも分かる言葉で、志をもって、将来を見据えた「フクシマ法」のような
法律を作って欲しいと、切に願う。

*役職はすべて当時のものです。
 この放送をブックマークに入れましたので、興味のある方はブログの一番右下の
「原発事故・・」をクリックして下さい。

追記1
福島第一原子力発電所のその後の事故処理にいついて、マスコミは殆ど報道していない。
箝口令が敷かれているのだろうか。
「小出裕章ジャーナル」で、今の汚染の実態が語られている。
放射線量が高すぎて全て遠隔操作で行っているが、ロボットアームの操作ミスなどがあり
想像を絶する汚染の可能性があるらしい。
(ストロンチウム90が1億4600ベクレルなどが漏れ出す)
ブックマークに入れましたので、興味のある方はご覧ください。
                          (2014年10月1日 記)
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