樋田毅(ひだつよし)著『彼は早稲田で死んだ
大学構内リンチ殺人事件の永遠』を読む。
私は本のタイトルが『彼は早稲田で殺された』とばかり思っていた。
なぜ曖昧な「死んだ」ではなく、「殺された」という言葉を
使わなかったのだろう。
1973年4月2日に再建一文自治会が発行した新入生歓迎パンフレットに
「彼は早稲田で死んだ」と表題をつけて、事件の経緯を書いている。
それで「死んだ」にしたようです。
それに「死んだ」を使うことでその背景を想像させ、タイトルに相応しい
ことに気づいた。
1972年の春、作者は早稲田大学第一文学部に入学する。
その年の11月8日の夜、文学部構内の自治会室で、第一文学部2年生だった
川口大三郎さんが革マル派の学生たちのリンチによって殺される。
この事件をきっかけに、一般学生による革マル派糾弾運動が始まり、
その過程で多くの学生が理不尽な暴力に遭い、作者も重傷を負う。
その後、作者は新聞社に入社し、退社した後もこの事件を追い続ける。
そして今も悪夢にうなされる。
プロローグには次の言葉が書かれている。
その後、長い歳月が流れた。
しかし、あの早稲田での出来事が、忘れ去られていいとは思えない。
約半世紀前、東京の真ん中に、キャンパスが「暴力」によって支配
された大学があった。
あの時代の本当の恐ろしさを伝え、今の世界にも通ずる危うさを
考えるため、私は自らの記憶を呼び起こし、かつての仲間や敵だった
人々にできる限り会った。段ボールに詰め込んだままになっていた
資料も読み返した。
あの苦難に満ちた日々、私は、そして同世代の若者は
どう生きたのか―――。 (引用ここまで)
私は作者より3年前に第一文学部に入学したが、当時文学部は全国の
革マル派の拠点と言われていた。
ノンポリである私も部外者ではいられない空気があった。
文学部は本部とは独立している。
長く続くスロープを上がっていくと、建物の入り口に多くの机や椅子で
がっしり固められたバリケードが築かれている。
人一人が通れるだけのスペースがあるだけだ。
そこで革マル派の活動家が、授業を受けに来る学生を一人一人チェックする。
他のセクトの学生は文学部に入ることができない。
授業が始まってまもなく活動家が教室に入ってきて、
クラス討論の時間をくれと言う。
この本を読むと「一文自治規約」により、このことが行われていたという。
当時私は学生運動・活動家と一括りに捉えていたが、目に見えないところで
「一文自治会」が関わり、全学部の学生自治会を「制圧」する
闘争が行われていたようだ。
革マル派は「早大全学中央自治会」を発足させる。
そして一文自治会の田中委員長が全学中央自治会の委員長に
就任する。2020年、作者は田中氏に会いに行く。
外から見ていたのではわからないことが精密に描かれている。
こんなことが行われていたのか、と改めて驚く。
たとえば次のことが書かれている。
当時、第一文学部と第二文学部は毎年1人1400円の自治会費(大学側は
学会費と呼んでいた)を学生たちから授業料に上乗せして「代行徴取」し、
革マル派の自治会に渡していた。
第一文学部の学生数は約4500人、第二文学部の学生数は約2000人
だったので、計900万円余り。本部キャンパスにある商学部、
社会科学部も同様の対応だった。
大学当局は、キャンパスの「暴力支配」を黙認することで、
革マル派に学内の秩序を維持するための「番犬」の役割を期待して
いたのだろう。 (引用ここまで)
2020年に作者は文学部の前で、「川口大三郎君虐殺事件」を知っているか
と学生たちにインタビューしている。だが誰一人知る人はいなかった。
また「早稲田大学歴史館」にもこの事件についての展示はなかったそうだ。
「早稲田大学歴史館」は2018年3月20日に開館している。
人間は同じ過ちを犯す。そうならないためにも「負の遺産」を直視し、
後世に伝えていく義務がある。
「川口大三郎君虐殺事件」が起きた時、現総長の田中愛治氏は
早稲田大学に在籍していたはずだ。
身近に起きたこの事件を、なぜ展示しないのですか。
その理由をお聞かせください。
ついでにもう一つ疑問なのは、2021年10月1日に「国際文学館
(村上春樹ライブラリー)」が開館している。
どういう経緯で開館することになったのだろう。
早稲田出身の文学者は数多くいる。だがなぜ村上春樹だけが選ばれたのか。
選考基準はどういったものだったのか。
彼がノーベル文学賞を取ったのなら分かる。だが取ってはいないし、
これからだって分からない。若者に人気のある作家だから?
ユニクロ会長の柳井正氏がお金を出すと言ったから?
はたして50年後、100年後に、彼はそれに堪えうる作家なのだろうか。
確かにこのことで受験生は増えるだろう。だが最近の風潮同様、
見た目を意識した軽さを感じてしまう。
私は短歌をやめてから、カルチャーの「文章教室」に9カ月通った。
その教室で、小説の・ようなものを書いた。
最後の方で「川口大三郎君虐殺事件」のことを書いているので載せます。
「こんぺいとう」
その後、内ゲバという内部対立が激しくなり、学生運動はさらに
過激になっていった。
一年後の二月には「あさま山荘事件」が起きて、山岳ベース事件
(リンチ殺人事件)が明らかになった。
それは「総括」という名のもとに、仲間うちで十二人が惨殺されたのだった。
同じ年の秋には、圭子の大学でもリンチ殺人事件が起きた。
革マル派から中核派と間違えられた学生が、真昼間に文学部の学生自治会室に
連れ込まれた。そこで八時間に及ぶリンチを受けて殺害されたのだ。
丸太や角材でめっちゃくちゃに殴られ、体全体が細胞破壊を起こしての
ショック死だという。遺体はパジャマ姿で東大附属病院前に遺棄されていた。
惨(むご)い! 彼はリンチを受けながら、遠くに学生たちの話し声や笑い声を
聴いていたかもしれない。
もしかしたらリンチされている時間帯に、圭子は学生自治会室を見下ろす
通路を歩いていたかもしれない。
キャンパスで一人の人間が撲殺された。たった二十歳で!
しかも彼は中核派ではなかったというではないか・・・。
社会を良くしようと正義感に燃えていたはずの若者が、どこをどう間違えて
やくざ顔負けの凄惨な事件を引き起こしたのだろう。
思い出さないようにしていても、あのクリスマス・パーティーでの
罵声が蘇ってきた。
「ブント、帰れ! なんでのこのこ来たんだ。
おまえなんかの来る場所じゃない!」
そして、Hの苦しげな顔が浮かんできた。 (記載ここまで)
※長くなってしまったので、追記を下に分けました。
大学構内リンチ殺人事件の永遠』を読む。
私は本のタイトルが『彼は早稲田で殺された』とばかり思っていた。
なぜ曖昧な「死んだ」ではなく、「殺された」という言葉を
使わなかったのだろう。
1973年4月2日に再建一文自治会が発行した新入生歓迎パンフレットに
「彼は早稲田で死んだ」と表題をつけて、事件の経緯を書いている。
それで「死んだ」にしたようです。
それに「死んだ」を使うことでその背景を想像させ、タイトルに相応しい
ことに気づいた。
1972年の春、作者は早稲田大学第一文学部に入学する。
その年の11月8日の夜、文学部構内の自治会室で、第一文学部2年生だった
川口大三郎さんが革マル派の学生たちのリンチによって殺される。
この事件をきっかけに、一般学生による革マル派糾弾運動が始まり、
その過程で多くの学生が理不尽な暴力に遭い、作者も重傷を負う。
その後、作者は新聞社に入社し、退社した後もこの事件を追い続ける。
そして今も悪夢にうなされる。
プロローグには次の言葉が書かれている。
その後、長い歳月が流れた。
しかし、あの早稲田での出来事が、忘れ去られていいとは思えない。
約半世紀前、東京の真ん中に、キャンパスが「暴力」によって支配
された大学があった。
あの時代の本当の恐ろしさを伝え、今の世界にも通ずる危うさを
考えるため、私は自らの記憶を呼び起こし、かつての仲間や敵だった
人々にできる限り会った。段ボールに詰め込んだままになっていた
資料も読み返した。
あの苦難に満ちた日々、私は、そして同世代の若者は
どう生きたのか―――。 (引用ここまで)
私は作者より3年前に第一文学部に入学したが、当時文学部は全国の
革マル派の拠点と言われていた。
ノンポリである私も部外者ではいられない空気があった。
文学部は本部とは独立している。
長く続くスロープを上がっていくと、建物の入り口に多くの机や椅子で
がっしり固められたバリケードが築かれている。
人一人が通れるだけのスペースがあるだけだ。
そこで革マル派の活動家が、授業を受けに来る学生を一人一人チェックする。
他のセクトの学生は文学部に入ることができない。
授業が始まってまもなく活動家が教室に入ってきて、
クラス討論の時間をくれと言う。
この本を読むと「一文自治規約」により、このことが行われていたという。
当時私は学生運動・活動家と一括りに捉えていたが、目に見えないところで
「一文自治会」が関わり、全学部の学生自治会を「制圧」する
闘争が行われていたようだ。
革マル派は「早大全学中央自治会」を発足させる。
そして一文自治会の田中委員長が全学中央自治会の委員長に
就任する。2020年、作者は田中氏に会いに行く。
外から見ていたのではわからないことが精密に描かれている。
こんなことが行われていたのか、と改めて驚く。
たとえば次のことが書かれている。
当時、第一文学部と第二文学部は毎年1人1400円の自治会費(大学側は
学会費と呼んでいた)を学生たちから授業料に上乗せして「代行徴取」し、
革マル派の自治会に渡していた。
第一文学部の学生数は約4500人、第二文学部の学生数は約2000人
だったので、計900万円余り。本部キャンパスにある商学部、
社会科学部も同様の対応だった。
大学当局は、キャンパスの「暴力支配」を黙認することで、
革マル派に学内の秩序を維持するための「番犬」の役割を期待して
いたのだろう。 (引用ここまで)
2020年に作者は文学部の前で、「川口大三郎君虐殺事件」を知っているか
と学生たちにインタビューしている。だが誰一人知る人はいなかった。
また「早稲田大学歴史館」にもこの事件についての展示はなかったそうだ。
「早稲田大学歴史館」は2018年3月20日に開館している。
人間は同じ過ちを犯す。そうならないためにも「負の遺産」を直視し、
後世に伝えていく義務がある。
「川口大三郎君虐殺事件」が起きた時、現総長の田中愛治氏は
早稲田大学に在籍していたはずだ。
身近に起きたこの事件を、なぜ展示しないのですか。
その理由をお聞かせください。
ついでにもう一つ疑問なのは、2021年10月1日に「国際文学館
(村上春樹ライブラリー)」が開館している。
どういう経緯で開館することになったのだろう。
早稲田出身の文学者は数多くいる。だがなぜ村上春樹だけが選ばれたのか。
選考基準はどういったものだったのか。
彼がノーベル文学賞を取ったのなら分かる。だが取ってはいないし、
これからだって分からない。若者に人気のある作家だから?
ユニクロ会長の柳井正氏がお金を出すと言ったから?
はたして50年後、100年後に、彼はそれに堪えうる作家なのだろうか。
確かにこのことで受験生は増えるだろう。だが最近の風潮同様、
見た目を意識した軽さを感じてしまう。
私は短歌をやめてから、カルチャーの「文章教室」に9カ月通った。
その教室で、小説の・ようなものを書いた。
最後の方で「川口大三郎君虐殺事件」のことを書いているので載せます。
「こんぺいとう」
その後、内ゲバという内部対立が激しくなり、学生運動はさらに
過激になっていった。
一年後の二月には「あさま山荘事件」が起きて、山岳ベース事件
(リンチ殺人事件)が明らかになった。
それは「総括」という名のもとに、仲間うちで十二人が惨殺されたのだった。
同じ年の秋には、圭子の大学でもリンチ殺人事件が起きた。
革マル派から中核派と間違えられた学生が、真昼間に文学部の学生自治会室に
連れ込まれた。そこで八時間に及ぶリンチを受けて殺害されたのだ。
丸太や角材でめっちゃくちゃに殴られ、体全体が細胞破壊を起こしての
ショック死だという。遺体はパジャマ姿で東大附属病院前に遺棄されていた。
惨(むご)い! 彼はリンチを受けながら、遠くに学生たちの話し声や笑い声を
聴いていたかもしれない。
もしかしたらリンチされている時間帯に、圭子は学生自治会室を見下ろす
通路を歩いていたかもしれない。
キャンパスで一人の人間が撲殺された。たった二十歳で!
しかも彼は中核派ではなかったというではないか・・・。
社会を良くしようと正義感に燃えていたはずの若者が、どこをどう間違えて
やくざ顔負けの凄惨な事件を引き起こしたのだろう。
思い出さないようにしていても、あのクリスマス・パーティーでの
罵声が蘇ってきた。
「ブント、帰れ! なんでのこのこ来たんだ。
おまえなんかの来る場所じゃない!」
そして、Hの苦しげな顔が浮かんできた。 (記載ここまで)
※長くなってしまったので、追記を下に分けました。