今日のうた

思いつくままに書いています

A

2020-12-07 11:42:46 | ③好きな歌と句と詩とことばと
中村文則著『A』を読む。
2007年から2014年までの短編を集めたものだ。
坂上チユキの装画が繊細で美しい。
短編だとこんなにも自由に想像の世界に遊び、
感覚を肥大化させて書けるものかと、読んでいて楽しくなった。
特に自虐ネタが笑わせる。

実験的に書かれていると思われる短編「A」では、主人公が上官に
刀で支那人の首を切り落とすよう迫られる。
ここでの緊迫感は、後の小説『逃亡者』の中に活きてくるように思う。
最後の短編「二年前のこと」では、作者の生活や苦悩が描かれている。
心に残った言葉を引用させて頂きます。

①嘔吐
僕は穏やかに、上手く笑った。妻は唇を力なく緩ませ、静かに、
自分の部屋に戻ろうとした。彼女の痩せた肩の窪みに、小さな影が
溜まっている。妻は、その影をそのままにしながら、狭い廊下を
動いていく。妻は何も言わないが、自分がしばらく、妻にふれていない
ことに気づいた。

会社に着くと、いつも二人いる受付の女性が、一人足りなかった。
誰もいない椅子があり、それが黄色いことを初めて知ったように
思う。緑の観葉植物が、静けさの中で照明の光を反射している。
その葉の先は鋭く、何かを裂くようで、ふれる空気が微かに緊張している。

②妖怪の村
(町に黒い小鳥が異常発生する。新型コロナウィルスとあいまって
 恐怖がひしひしと伝わってくる)
夜になり、僕は耳を澄ます。微かな鳥の鳴き声はあるが、大分静かに
なっている。この部屋には僕しかいないのだが、座っている椅子の
肘掛に他人の気配を感じ、腕を離した。ベッドの布団のしわが少し
深すぎるように思い、目を逸らすと、壁に初めて見る染みを見つけた。
段々と、胸がざわついてくる。些細なことだとわかっているのに、
身体がなぜか反応してしまう。僕は現在の自分について考え、これからの
自分について考える。不安は意識を向けるほど終わりがなくなり、
僕は首を振ったりしながら、意味もなく部屋を見渡した。

彼はタバコに火をつけたが、その僅かな火でも、鳥達を気にしている
ようだった。
「多くの日本人が、海外に脱出しています。・・・・・・たくさんの
 金持ちが。でも、彼らが鳥を連れてくると風評が広がって、各地で
 迫害されて戻ってくるんです。酷いですよ。色々な国も、
 日本に深い同情を寄せると声明だけ出して、何もしない。どこも、
 自分達の国が巻き込まれないために必死です。・・・・・・それだけ
 深刻なんです。今全ての国のミサイルが、日本の方向に向いています。
 鳥の大群がもしやってきた時のために」

③三つのボール
パソコンの画面がつき、柔らかい、種類のわからない果物が映る。
その果物に、スプーンの形をした鉄が、ゆっくりと入っていく。
スプーンは回転しながら、ゆっくり果物を掘っていく。果実がだらだらと
滴り落ち、その粘り気のある液が、画面の中の床を濡らしている。
スプーンは優しく果肉を撫で、中の果汁をすくい上げ、床にたらし、
さらに奥へと入っていく。果物は、ヒクヒクと震えながら、
スプーンを中に受け入れていく。

④二年前のこと
こういう毎日からわかるのは、僕の人生で更新されているのが、
仕事しかないということ。僕の人生の一日分が、小説何枚、
エッセイ何枚、つまり文章というものに還元されるだけであること。
精神を安定させるために同じような日々を生き、ほとんど残る記憶もなく、
ただ文章だけが更新されていくこの生活とは何だろう?  
(引用ここまで)




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