担当授業のこととか,なんかそういった話題。

主に自分の身の回りのことと担当講義に関する話題。時々,寒いギャグ。

<読書感想文08007>「わかる」のしくみ

2008-02-13 17:01:24 | 
西林克彦,「わかる」のしくみ 「わかったつもり」からの脱出,新曜社,1997.


光文社新書に収められている「わかったつもり」という本の著者の本である。
光文社新書の方は近所の図書館になかったが,代わりに,この「「わかる」のしくみ」があったので,借りてみた。

第1章に,「マゴの手は孫の手か」という話や,凸レンズの性質に関する誤解の話が挙げられている。
凸レンズの話を読んだ時,これまで自分が勘違いしていたことを強く思い知らされた。
そして凸レンズが欲しくなったので,近所のホームセンターでシブい虫眼鏡を購入し,ほんのちょっとだけ実験らしいものをしてみた。
時間が出来たら実験の様子を写した写真をアップしようと思う。

他には,クイズのような実験用の文章や,錯視を起こすものとして有名な図が数点収められており,一見してよくわからない文章や図が,与えられた文脈で急に「わかる」ようになるという,モヤモヤスッキリ体験が多く味わえる。
そういう意味で,とりたててクイズ仕立てにしてはいないものの,良質のレクリエーションを楽しむことが出来る。

この本では主に小学校の国語教材に例をとり,多くの人がどれほどいい加減に文章を読んでいるのかを嫌というほど解説している。それは小学生や大学生を対象にした実験によって実証されているので,単なる憶測とは重みが違う。

僕は,文章を読むとき個々の部分は読めているが,全体の文脈は把握できていないもの,つまり「木を見て森を見ず」というものだと思っていたが,実験結果からわかることはその逆で,全体の文脈は大雑把に把握できているものの,部分にほとんど注目していないという事実だった。
これには驚いた。
それらの実験を自分でも追体験してみて思うことは,読み返すことなく,一読しただけで文章を理解することが非常に難しいということだ。
文章を一度読んだだけでは,特にどこに着目するという視点を持たずに流し読みをしてしまうため,最初に述べられている例と,末尾に書かれたまとめの文章の内容とが実は矛盾しているといったような文章構成の不整合には,まず気付かない。後ろに述べられた主張をふまえて前半を読み返してみて,初めて矛盾に気付くという体験を多く味わった。

さて,この本では「文脈」という概念を非常に重視している。
部分部分を繋ぎとめる文脈の把握が不十分だと,部分同士の関連について質問されたとき,質問された者が自分の理解が不十分だったと悟る。それが「わかったつもり」だったという認識が生まれる瞬間らしい。
そして,その質問に答え得るような,さらに高度な文脈を手に入れると,再び「わかった」状態になる,というメカニズムのようだ。

著者の国語教育に対する提言は,文章から読み取れないような主張を学習者に押し付けてはならない,というものである。文章を正しく読み取れているかどうかは,文章から直接読み取ることができるような内容に限るべきである,というその主張は,僕も大いに賛同する。

この本に書かれていることは,数学教育に応用できることがたくさんあると感じた。
特に,文章理解の理論とポパーの科学論とが非常に似通っているという指摘は,科学論を学ぶ動機をさらに高めてくれた。


この本を読んで考えたことの一部をメモっておく。

・「文脈」はスキーマを統合するためのテーマ,あるいは主題といえよう。

・外部からの情報により,その情報から想起されるキーワードによって一連のスキーマが発動することによって,情報の受け手の頭に仮の「文脈」が想定される。そして発動したスキーマから連想される他のスキーマも動員し,その文脈が整合性を持つものかどうか(矛盾がないかどうか)も同時に検査される。そのような活動を通して,個々の受け手の中で独自の文脈が形成される。これが情報理解のシナリオなのではないか。

・ぼんやりとしたベールで覆われた関連を洗い流すと,実は個々の部分がバラバラだったことに気付く,というのが「わかる」から「わかったつもり」への移行なのだろう。

・学習者にとっての良い質問とは,学習者がわかったつもりであることに端的に気付かせる質問なのだろう。

・質問によって文脈がテストされるわけだから,学習の際の「自問自答」が対象の深い理解には必要不可欠な行為だと思われる。

・より深い理解に到達するには,不足している適切な情報の選別および追加と,不要な情報の削除が不可欠だと思われる。このような,学習過程における自問自答の重要性を指摘し,実験によって検証した文献はあるだろうか。

・文脈はスキーマ同士を結合させる「核」のような働きをなすものではないだろうか。

・点として散在する個々の知識を結びつける糸としての文脈を形成させるものが,「理論」であろう。例えば,「導関数の符号」と「関数の増減」というものを結びつけるものとして,「平均値の定理」という理論がある。
また,「線形近似」という文脈によって,「微分可能の定義」,「微分」,「接平面の方程式」が統一的に理解されるのではないだろうか。


※ この記事を書いたちょうど四年後に,同じ著者の「あなたの勉強法はどこがいけないのか?」(ちくまプリマー新書)に関する感想文を書いた。
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2 コメント

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Unknown (ナナシ)
2008-02-13 20:29:36
数学2のテキストは、講義が終わった今、
読み返し、考え直してこそ、真の理解が得られる…
…ということですね…。(笑)
そういう意味で(数学の場合は)確かに、各所にある個々の問は
それなりな解答が出来ても、章末の骨のある問題でさっぱり
見通しがたたなくなるという状況は、一種の”わかったつもり”
なのでしょうね。数学はそれでは不味い、とすぐに気づきますが、
文学作品においては、不味い、ということに中々気づけないですから、
きっと今まで多くの良質なエッセンスを吸収できずに生きてきたの
でしょう…私は。

P.S.
>・ぼんやりとしたベールで覆われた関連を洗い流すと,実は個々
>の部分がバラバラだったことに気付く,というのが「わかる」か
>ら「わかったつもり」への移行なのだろう。

この部分が、誤植ではない、もしくは『わかる・わかったつもり』が逆になっている誤植なのだとしても、少し難しい、表現というか、
私には『わからない』のですが、いかがでしょうか。

P.S.2
あ、もしかして、
『ぼんやりとしたベールに覆われた関連性』→『把握が不十分な(独自の)文脈』
を自身が構築することによってその文の意味が『わかっ』ていたという
状態が、
『関係の再検証』を行うことで、実はそれは『わかっていたつもり』だと気づく、
という意味での、比喩表現だったのでしょうか。
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re (kei_matsuura2007)
2008-02-13 23:35:01
読書感想文は文章も長いし,著作権を考慮して引用を極力避けた表現になっているので,その本を読んだことがない人にはチンプンカンプンだろうから,真剣に読んでくれている人はいないと考え,主に備忘録として自分のためにだけ書いていました。
けれども,興味を持ってこの記事を読んでくれた人がいたのは大変嬉しいことです。
西林克彦さんの本はどれもきっと刺激に満ちたものだと推測されるので,ナナシさんも是非近所の図書館にないか,探してみて下さい。
(残念ながら東大宮キャンパスには著作がないようです。もちろん,光文社新書の「わかったつもり」を購入するという手もありますが。)

ナナシさんのコメントを見る限り,僕の感想の内容はとてもよく伝わっていると思います。
数学IIの授業プリントをもう一度読み返すと理解が深まることが期待されるというのは,僕も同感です。

>文学作品においては、不味い、ということに中々気づけないですから、
>きっと今まで多くの良質なエッセンスを吸収できずに生きてきたの
>でしょう…私は。

これまでに見落としてきたものの多さにおののくのではなく,これから注意深く読むように心がけよう,と気楽に考える方が前向きでしょうね。そのような態度は,数学を学んだり,文学作品を読むときだけではなく,皆さんが大学で学んでいる他の科目に取り組む時にも大切だと思います。

ちなみに,疑問に思われた箇所の解釈については,P.S.2 で書かれた通りです。

この本に挙げられている例を参考に,次のような事例を考えてみました。

「日本では,冬に日本海側ではよく雪が降り,太平洋側ではあまり雪が降らない。」

この文章を初めて読んだ時には,「日本海側では雪が降る」,「太平洋側では雪が降らない」という2つの事実を,単に「日本の冬の降雪状況」という文脈での例としてしか理解しないと思います。そしてそれで十分この文章の中身は「わかった」と思うことでしょう。
しかし,「なぜ日本海側と太平洋側では雪の降り方にそのような違いがあるのか」と二つの事実の関連を聞かれたら,何一つ理解していなかったことに気付きます。
それが,過去の自分を振り返ってみて「わかったつもりだったんだな」と感じる瞬間です。
この時,冬にはシベリア大陸からくる寒気団があり,それが日本海を渡る時に湿気を含み,日本海側と太平洋側を隔てる高い山々を超えるときに,日本海側で湿気が雪を降らせ,山を越えた寒気は乾燥しているため太平洋側では雪を降らせることがない,という天気のダイナミクスを説明されると,この文脈によってバラバラに理解されていた二つの事実がより深く「わかった」という気になれます。
学習というのは,この「わかる」から「わかったつもり(だった)」への認識の変化の連鎖なのだというのが,この本を読んで僕が感じたことです。

さて,こうした知見を得た今,僕がするべき授業とはどうあるべきか,今まで以上にもっと真剣に模索すべき時期に来たと感じています。
今後,そうしたことについて考えたこともブログに書いていくつもりです。
本当はある程度まとまったら体系立てて述べるべきなのかなとも思うのですが,いつまでもまとまりきらないテーマのような気がしますので,中途半端な考えを垂れ流す方向で行きたいと思います。
それらの考えに対する皆さんのコメントも大いに期待してます。
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