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<読書感想文1201>あなたの勉強法はどこがいけないのか?

2012-02-12 23:53:05 | 
西林克彦,あなたの勉強法はどこがいけないのか?ちくまプリマー新書105 (2009).


きっかり四年前に,同じ著者の『「わかる」のしくみ』という本の感想文を書いた。
時期が全く重なるというのは偶然であるが,春休み期間というのは僕にとってこの手の本を読みたくなる時期なのかもしれない。

近所の図書館の蔵書検索機能で数学教育関係の本を探しているときに目を引いたのがこの本のタイトルである。

ある日,時間を作って図書館に借りに行ったら,ちょうど他の人が借りてしまったあとのようで,少しじらされてしまった。

学習心理学や認知心理学の知見をベースに,物事を学ぶ際の心構えといったようなことに関する著者の主張を述べた本である。

「知識」を覚えただけでは物事を理解したことにはならない。
その「知識」を関連する事柄にあてはめたとき,「わからない」ことが生じる。
その「わからない」ことがわかるように,持っていた「知識」を変化させる。
そうしてわからなかったことがわかるようになり,その知識は他の事柄を理解することにも役立てられるようになる。

大まかに言えば,著者のいう「知識」や勉強の質といったものは,そうした一連の学習過程のことである。

例として,三角関数の公式群を挙げている。
三角関数の分野は,高校数学の中で最も公式の種類が多い分野であるが,それらを全部覚えているだけでは,三角関数を用いた実際の問題にはあまり役に立たない。
むしろ,核となる事実(例えば加法定理だけ)をしっかりと覚えておき,二倍角や半角の公式,あるいは和を積に直す公式や積を和に直す公式は自分でいつでも導けるという人の方が,それらの公式を必要とする問題を後々まで解ける力が残っているものだそうだ。

したがって,たくさん暗記していることよりも,それらの使い方が身についているかどうかが重要なのである。

著者は例として小学校の割り算と掛け算についてもページを割いて解説している。
「1あたりの量」という統一的な視点に基づけば,割り算と掛け算を統一的に理解でき,具体的な文章題で割り算を使うのか,掛け算を使うのかを見分ける有効な視点も身につけられるということを力説するのである。
小学校でなぜ掛け算の順序についてうるさく言うのかについての著者の見解も述べられている(95ページ)。僕はその説は説得力があると感じている。

これは僕の見解であるが,文章を簡略化したのが数式だという観点に立つと,数式の意味する内容を文章に起こせなければならない。
その際,日本語の構造と相性の良い「語順」ならぬ「記号順」が生じるのは自然なことではないだろうか。
それは,どことなく「右利き」と「左利き」と同じようなものであって,順番の決め方に必然性があるというものではなく,文化によって決まる「好み」のような型である。
数式の意味,ないしは解釈もこみで掛け算は導入しなければ実際の生活で役に立てられないのであるから,掛け算の式にもおのずと文章による解釈がつきまとう。その際,読み方を何らかの形で固定しておかなければ初学者は混乱してしまうのではないだろうか。

おっと,いけない。つい本書とは異なる話で熱くなってしまった。

本書は,新書のシリーズの雰囲気からして,中高生あたりを読者に想定しているのだろうが,「はじめに」を読む限りでは,僕のような(?)大人の読者も視野に入れているようだ。

(47ページに中高生の英語の成績に関する統計データをグラフで図示してあるのだが,『相関関係』と言われても中高生にはちょっとわからないのではないか,という点が気になった。かくいう僕にもこのグラフの読み解き方はさっぱりわからない。)

確かに,大人が読んでもハッと気づかされるような刺激的な話がたくさんある。
そうした話は,主に理科から題材を選んで第四章にぎっしり詰め込まれているが,一番面白かったのは,自分で簡単に実験して確かめることができた第二章 2節に述べられた実験である。

そこに載せられた例題は,ブランスフォード他『頭の使い方がわかる本』というのに載っているものとほぼ同じだそうだ。

11個の短い文章が書かれている。

それらは,次のような型の文章ばかりである。

A. イケメンの男が
B. フライパンを持っていた。

こういう,A と B の結びつきがいまいちよくわからない文章が11も並んでいて,それらを読んだ後,B の部分を隠して,A の男が何をしていたのか思い出せるかという問題である。

問題の意味を理解した瞬間,僕は「あ,無理だな,こりゃ」と,早々に諦めてしまった。

ページをめくると,なぜ A である男が B という行為に及んだのか,11例すべてにやや詳しい解説がなされている。

ここで挙げた例で言うと,

C. イケメンの男は,これからの時代は顔だけではモテないと考えて料理教室に通い始めました。これからフライパンを使った料理の実習が始まるところです。

というような,A と B の間をつなぐような解説がつくのである。

そうすると,とても覚えきれないと思っていた11個の文章の後半が,解説を一読しただけですべてきれいに思い出せたではないか!

あまりの快挙に,笑い出してしまった。

いやー,びっくりした。

なお,A と B をつなぐ「のり」は,実は C だけではなく,C がちゃんと「のり」の役割を果たすには,すでに我々の中にある『既存知識』というものが必須だというのが,その後に展開される議論である。
僕がこしらえた例で言うと,解説 C を読んでもピンとこなければ,A と B との結びつきは依然として不明なままであり,C は記憶の助けにならないのである。

なぜ「料理が出来る」ということが「モテる」ことにつながるのか?

料理が出来れば本当にモテるのかどうかは,考えてみると我ながら怪しい気がしてくるのだが,現代日本の風潮を鑑みれば,まあ,そういう話もなくはないんじゃないかな,と多くの人に賛同してもらえるのでは・・・ない,かな?

そういう共通認識(あるいは常識)といったものが,ここでいう「既存知識」に相当するわけである。


さて,もちろん第四章に挙げられたいくつもの例も大変面白かった。
初めてわかったように思える話が多く,目からうろこがボロボロ落ちてきた。

国語からの題材は最後に三好達治の詩が一篇引用されているだけだが,詩を読んだ後に理解度を試す問題がきっとあるぞと,話の流れから身構えて,あらかじめいろいろなことを考えながら詩を注意深く読んだところ,詩は平易なようでいて案外謎めいていて,少し気をつけて読んだおかげで,いろいろなことに気づくことができた。
ただ漫然と眺めただけでは決して到達し得ないような,やや深い詩の理解ができた(気がした)のも貴重な体験であった。

理科の題材の磁石の話は,もうちょっとよく考えてみたいと思った。あるいは自分でも実験しようという気になっている。

ちなみに,凸レンズや凹レンズの仕組みに関する話題もあるのだが,自分で書いた『「わかる」のしくみ』の感想文を見ると,その本に書かれていた凸レンズの話が気になったので,凸レンズを買いに行ったと書いてある。

・・・あ,あれ?いったいどんな話が載っていたんだっけ・・・?

すっかり忘れてしまった。ただし,もちろん,凸レンズを買ったことは覚えている(それを購入したホームセンターはその後まもなく閉店して全く別の店がそのしばらくして出来たという思い出も込みである)。

同じ著者の『わかったつもり』も,確か買って読んだような気がするのだが,どうだったっけなぁ・・・。


それはともかく,この本で学んだ「学び方」についての知見を,どうにかして自分の授業のあり方に反映させたいものだと強く願っている。
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