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<読書感想文1202>鳥のように

2012-02-18 00:09:01 | 
志村五郎,鳥のように,筑摩書房,2010.


著者の志村五郎氏は数学界ではおそらく名前を知らぬ人はいないだろうというくらい有名な方である。

1930年生まれだというから,現在ちょうど82歳になろうという人の自伝的エッセイである。回想録という言葉がぴったりなのかもしれない。

実はこれはその回想録の第二弾で,第一弾は『記憶の切絵図』(正しくは「絵」は旧字体になっている)で,それとこの『鳥のように』と,さらに中国説話文学を解説した『中国説話文学とその背景』を同時に図書館で借りた。
いずれも筑摩書房から出版されている。よほど筑摩書房に気に入られたのだろう。
その他,中国古典文学に関する本がもう一冊出ているが,それは僕の身近な図書館には置いてないので,当分読む機会はなさそうだ。

感想文を書くなら,まず『記憶の切絵図』の方から始めるのが順序だろうが,正続の二冊を同時に拾い読みしているうちに,比較的筆致がより軽やかで,また分量も少ない『鳥のように』の方を先に読み終わってしまったので,こういう順序になってしまった。

読む順番も,なんとなく心惹かれた章を拾い読みするという調子で,著者の配列に従わなかったので,読んだ感想もろくにまとまっていない。だから感想文というほどのものを書けるわけではないが,全体としてのおおまかな感想は,「文章が非常に読みやすく,読んで面白かった」という,あまり書く価値もないような平凡な一言に尽きる。
文章の読みやすさは,著者の頭の明晰さをそのままよく反映しているかのようであり,すらすらと読めた。
ただし内容に関しては,著者は相当な知識人であって,絵画,西洋古典音楽はもとより,中国の古典にも精通しているようで,昔の思い出とからめて自身の好きであったものを中心にそれらの知識がふんだんに披露されるので,その方面の常識に乏しい僕などにとっては,たとえ著名な画家や音楽家の名であっても,ただの記号としてなんら実感も伴わずに眺めるだけで終わってしまった。
それは旅行の思い出として挙げられているさまざまな場所に関する思い出話についても同様であって,その点に関しては著者の叙述を十分に味わうことが出来ないのがつくづく残念である。

そうか。インターネットを駆使すれば,絵画のいくつかはもちろん,音楽を実際に聞いたり,地図サイトのサービスで海外の国の町並みをコンピュータの前で楽しむことも出来たのか。
まあ,僕はそこまで徹底する性質ではないので,せっかくの思い付きではあるが,実際に実行するつもりはほとんどないが。
そういう楽しみ方も今のご時勢では可能なので,「残念である」の一言で片付けるのは少々簡単すぎたかなとちょっと反省してみたかっただけである。

実は,志村氏の著書に手を出したのは,少々動機が不純で,「怖いもの観たさ」という感情からであった。
前著の『記憶の切絵図』が,一部の数学者の間でかなり評判が悪いらしいのである。

『記憶の切絵図』の感想文を書く機会があれば(少なくとも今は書くつもりでいるが)そちらで引用すべきであるが,とりあえず足立恒雄氏の批評があることを書き記しておく。

足立氏はかなり激しい調子で憤っているが,それは知人について辛らつなことが書かれているのが我慢ならなかったのだろう。
また,足立氏は数学基礎論に強い学問的な関心を寄せておられるが,その分野の開祖ともいうべき Hilbert に関する志村氏の批評も腹に据えかねたようだ。

そして足立氏は「若い人には読んでほしくない本である」とさえ述べているが,僕はその「若い人」に入っているのかどうか。世間的に見ると,僕はオッサンとも言えるし,若造とも言えるきわめて微妙なお年頃なので,ちょっとよくわからない。
仮に僕が「若い人」のカテゴリーに入るとしたら,足立氏のツィートを読んで,書き手の意図に反して,志村氏の著書を是が非でも読みたいという気になってしまった人がいるということは,書き記しておく意味があるかもしれない。

そういうゴシップ的なものを期待して興味本位でめったに行かないある図書館まではるばる借りに行った次第である。

ただ,借りて数日間は,寝る前に本を手に取り,もし読んで気分が悪くなって眠れなくなったら困るなと心配して,なかなか読む勇気が出なかった。
けれども,ある日なんとはなしに読み出したら,とりあえず出だしは特に何か感情を刺激するようなことは全く書かれておらず,すいすいと読めたので,少し安心して読み進めるようになった。

と,こんなことはやはり『記憶の切絵図』の(まだ見ぬ)感想文の方に書くべきであるから,この辺でやめておく。

『鳥のように』に話を戻すと,まず表題と同じ題の章がある。それはペルシャ時代の陶器にまつわる思い出を述べたもので,どうやらそこに書かれている,ある陶器に描かれた鳥の絵が,著者の内面をよく表しているという趣旨のことが書かれており,それはぜひとも見てみたいと思ったが,「あとがき」に陶器の写真が本のカバーに使われているとある。
それには困った。図書館の本によくあるように,カバーが外されてしまっていて,写真を確かめようもないのである。

そんなときこそインターネットである。書名で検索すると,ただちに Amaz○n のサイトで表紙の写真を確認することが出来た。
本当に,恐ろしいくらいに便利な世の中になったものである。

写真は解像度があまりよくないが,どんな絵が描かれているかを知るにはそれで十分である。
なんだか虫のようなくねっとした鳥が描かれている。「あ,なんだかかわいらしい」というのが,僕の第一印象である。
「美しいか」と誰かに問われれば,「美しい」と答えるだろうが,自分から「美しい」という言葉を使って感想を述べることはなかったであろう。
なぜだか僕には「美しい」という言葉にアレルギーがあって,うまく使えないのである。
たぶん,あまりに主観的過ぎる言葉なので,使うのをためらってしまうのだと思う。
人が「これこれは美しい」といくら熱弁をふるっても,自分の中でその言葉がしっくりこなければ肯定するわけにもいかない。また,何が美しくて何がそうでないかの基準がいくら考えてもよくわからず,やはり個々人が持っている固有の価値観に過ぎないという気が強くするのである。
よく数学でも「美しい」という表現が使われることがあるが,あなたはそう思っているようだが,私にはピンと来ませんな,という反応しか感じたことがない。
その人が何を美しいと思うのは勝手だが,同意を求められても困る。正直言って,僕にはその美しさがわからないのである。
そういう「美しさ音痴」なところは,僕に数学者としての素質がない証拠の一つなのかもしれない。

他に気の付いたことといえば,『記憶の切絵図』の第十章でイニシャルのみで名を挙げられている「M氏」というのは,おそらく本書の第十一章で批判している丸山眞男氏のことであろう。
なお,その第十一章に,「正しく物事を視ることが出来るというのは重要な能力」であるという著者の信条が述べられている。本書と『記憶の切絵図』には,そういったメモをしておきたくなるような大事な言葉が時々出てくるので,文字通りなるべく拾ってメモに残しておこうと思う。
本を返却する前にちゃんとやろう。

その丸山眞男批判にしてもそうだが,著者は,ある種の「教祖」とでも言うべき,周囲の人々から神様のようにあがめられているような大物に対してかなり辛らつに筆をふるうことがしばしばある。
その一例が上に触れた Hilbert 批判でもある。
「なんだか知らないけど偉いから」という理由で盲目的にその教祖を神格化して持ち上げているのが我慢ならないのだろう。その教祖たちが実際にどういった人物だったのか,良い点,悪い点をひっくるめて冷静にちゃんとおのおのの頭で判断すべしという考えなのかもしれない。よく知りもしないで権威に媚びへつらうなという箴言とも取れる。
もっとも,著者が実際にそう述べているわけではないので,僕がそう感じたというだけのことであって,著者の思いとは異なるかもしれない。

ちょっと僕にはわかりにくいが,著者は独特の(というか,非常に洗練されたというべきか)ユーモアのセンスを持っているようで,ときどき笑い話が引用されているのだが,それを読んでみても笑いどころがよくわからないのは寂しい気持ちがした。
ちょうど,周りがどっと受けているのに,自分だけその笑いがわからず取り残されたような,そんな気持ちである。

ただ,『記憶の切絵図』の第九章のタイトルが「いかに学んだか」であり,『鳥のように』の第三章のタイトルが「いかに学ばなかったか」という,それをもじったタイトルになっているという遊び心くらいには気がついた。
もっとも,これは明々白々すぎて誰でもわかることだろうから,いかにも自分ひとりの手柄のようにこう書いたのは自分の程度の低さを露呈する以外の何物でもないが。

僕は気に入った文章に出会うとすぐにそれに影響されてしまうので,この感想文もちょっと「志村調」を意識して書いている。

志村氏の著作を三冊ばかり眺めて目に付いたのは,「も少し」という言い回しである。「もう少し」ではなくて「も少し」という表現を使うのは志村氏の特徴といってよいと思う。
もう一つ,「一ヵ月」あるいは「一ヶ月」とよく書かれるところを,「一個月」のように書くのもこだわりを感じた。
これはどうでもよいつまらない話ではあるが,気付いたことの一つとして記しておいた。

あと,第十二章の「夜明け前」は,有名な島崎藤村の小説から取ったタイトルで,前半部分にその「ネタバレ」のようなものが書かれていたのは,読むときに抵抗があった。
要するに僕はまだ藤村の『夜明け前』を読んだことがなかったので,「夜明け前」とは何をさす言葉なのか,という解題を先に読んでしまうことに躊躇したのである。
まあ,結局は読むことにしたのだが,いつか『夜明け前』を読むときには,そこに書かれた「志村説」を検証するような気分で読むことになるだろう。
おそらく,そうしたところで「志村説」がやはり正解かもしれないな,という感想を持つのだろうと予感がある。その説は十分に説得力があると感じたし,何より僕こそは権威に弱い人間の一人なのだから。

なお,p.88 にある「わからない話」に対する僕の見解を白い字で下に書いておく。
わさびは,西洋わさびの替わりに料理に使うつもりだったのではないだろうか。日本のわさびと西洋わさびは風味が違うが,ねりわさびのチューブを大量に買っていった男は日本のわさびが気に入っていたのかもしれない。あるいは,日本料理屋や寿司屋の仕入れだったのかもしれない。それらはいかにもありそうな話だと思うが,どうであろうか。

本書と『記憶の切絵図』は,著者もまえがき等で述べているように,戦前,戦中,戦後といった時期を中心に,昔の日本の様子を記録にとどめたという側面が非常に大きいので,数学や数学者などの話は置いて,その時代の風俗について何か知りたいという人がいたら,読むとよいと思う。著者は,他書には記述が見られないからここに書き残しておく,といったような断りを随所で述べているので,そうした箇所の内容は当時を偲ぶ際には大いに参考になるのではないかと思う。
僕は歴史に全く疎いので見当違いの意見かもしれないが,そうした時代の記録として,これら二書は十分な価値があるのではないかと思う次第である。

僕は結構回想録の類が好きなので,そういう意味で本書も楽しんで読むことが出来た。
著者の人物評はいろいろ異論もあるだろうが,まあ,そういう物の見方・考え方もあるのだな,という心構えで読めば,さして毒になるような話でもないように思えた。
もちろん,自分が親しくしている人がズバズバと切られていたら,心中穏やかではないだろうが・・・。
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1 コメント

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鳥のデザイン (それから)
2016-12-09 09:03:09
志村さんの本への感想,大変おもしろく読ませて頂きました.私は専門は数学ではありませんが,志村さんの好まれている「鳥」のデザインは大変美しく感じた一人です.適切な説明ではありませんが,自分が行った研究の抽象的diagramを表しているということではないかと思います.上下のものは,対称性をもって,それぞれの研究結果を示し,左右は,上下とは直交していているという関係にあり,かなり違った領域での成果であり,それらは遠く離れているが,底流で繋がっているというようなことを表現している,と解釈しました.志村さんは,それぞれで,数学の世界で,おそらく革新的な世界を開いたのではないかと推測します.
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