担当授業のこととか,なんかそういった話題。

主に自分の身の回りのことと担当講義に関する話題。時々,寒いギャグ。

反対語。

2014-11-01 23:25:51 | もじりあーの。
正確には対義語と記すべきだったろうか。



リア充という言葉は今やすっかり定着した感がある。その反対語は聞いたことがないと思っていたが,この記事を書くにあたって念のためググってみたら「ネト充」なる用語があることを知った。しかし,リア充がリアルの生活で充実しているのに匹敵するほどにネットの世界で充実していないとネト充とは呼べなさそうである。つまり,我々を次の四つの集合

R・・・リア充
not(R)・・・非リア充
N・・・ネト充
not(N)・・・非ネト充

に分けたとすると,必ずしも not(R)=N というわけではなく,そればかりか,あまり認めたくないことであるが,R と N の共通部分は空集合ではないとさえ思われるのである。そしてこれももっと認めたくないことだが,not(R) と not(N) の共通部分に自分が属しているような気がしてならない。


・・・。本題に入ろう。


やはりこれもすっかり定着したと思われる残酷な言葉に「コミュ障」がある。人とのコミュニケーションがうまく取れない現代っ子たちの呼称のようだが,まれにコミュニケーション力が非常に高い人物がいる。ところが,コミュ障に対応する,正反対の気質の人々を指す短い用語は聞いたことがない。

そこで,コミュ障の対義語を考えた。とりあえず二つ思いついたものの,どちらも捨てがたく,一方に絞りきることができない。それらは

1. コミュ良(こみゅりょう:コミュニケーションが良好である意)

2. コミュ上(こみゅじょう:コミュニケーションを取るのがうまい意)

である。どちらがふさわしいか,識者の御教示を乞う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

考え直す必要がある。

2014-11-01 23:01:40 | mathematics
ちょっと前に命題間に順序が導入できるのではないかという妄想を述べた。

それが本当に妄想ではないかという疑念が強まってきた。

そもそも,命題論理について僕はいろいろと誤解をしているようだ。

二つの命題 p,q があるとき,p が成り立つと仮定して推論を経て q が導かれたとしよう。

これはいわゆる証明という行為であって,日本ならば中学校から馴染みのある話である。

しかし,このことと「p ならば q」という命題との間に一体どんな関係があるのだろうか。

それがよくわからなくなってしまったのである。

命題論理では,2つの命題 p と q から新しい命題 p→q を作ることが認められている。これは「p ならば q」と読むのが普通だが,ポイントは,p と q とを併せて新たに作られる新しい命題だということである。このように複数の命題から新たな命題を作るのは,数の世界でいえば足し算や掛け算に相当する。つまり,演算なのである。したがって,p から q が導ける,というような「関係」とは区別すべきものである。

証明とは,命題 p が真であると仮定し,正しい推論を行うと,命題 q が導けるというような議論であるが,ここでよくわからないのが,p から異なる命題 q を表す式や文章が引き出せればよいのか,q が真であることが示せればよいのか,どちらなのかということである。

命題には普通,真か偽かという値を割り振る。つまり付値(ふち)を伴って考えるものであろう。命題そのものと付値との区別がよくわからなくなってしまった。

仮に演算 p→q を「p から q が導ける」とあえて解釈したとすると,p と q の真偽値に関係なく p→q か q→p のいずれかは真である。したがって,この意味で任意の命題 p と q は比較可能である。

さらに謎の恒真命題 t と恒偽命題 f なるものを命題の世界に追加すれば,p がいかなる命題であろうとも

p→t



f→p

とは必ず成立する。したがって,あらゆる命題は t と f の間にあることになる。

もし p→q と q→p とが両方成り立つ場合には p と q とは同値であると言い,p≡q と表すことにすれば,命題たちの集合 P から実数への写像 v で,

p→q であることと v(p)<v(q) であることとは同じ意味であり,
p≡q と v(p)=v(q) とは同じ意味である

ようなものが作れそうである。

ただし,ここでは他の命題演算である「かつ」と「または」,そして否定については全く考えてこなかった。それらの演算と写像 v との関係を考えなければならないが,そもそも p→q は ¬p∨q と同値であるため,v の性質はすでにかなり限定されてしまっているように思われる。

仮に p が真なら v(p)=1,偽なら v(p)=0 とするならば,これは先ほど述べた真偽の付値と実質的に同じものになってしまう。それでは全く面白くないのだが,逆に言えば,Boole 代数における付値関数とはたいていそういうものかもしれないことがわかったので,ちょっとは理解が進んだと言えるかもしれない。そして,さらに多値論理では付値をどう割り振っているのかという新たな疑問が湧き,そちらの方面を学ぶ動機が生じることとなるので,意義はあったかな。

ともかく,命題論理の基本的なことを一から学び直す必要を痛切に感じている次第である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする