日々雑感

心に浮かんだこと何でも書いていく。

マルコスと新平家物語0

2014年04月10日 | Weblog
マルコスと新平家物語

吉川英治の傑作「新平家物語」の終わりの方に、
平家の落人が九州山脈の山奥深い、椎葉の外に逃れて、そこで平和な生活を営んでいる場面が出てくる。

太陽の光や自然は、源氏や平家を何一つとして区別することなく、ただ、一つの大きな力で、動物も植物も人間もみんな、等しく、生かされている姿が、絶妙な筆先で描かれて、読むものを椎葉の外の住人かと、錯覚させてくれる。私も吉川英治先生のこの境地万物と、宇宙をも飲み込むような大きな大きな愛によって生かされているという。神仏の世界にも通じるような境地に憧れを持っている。

フィリピンの大統領マルコス氏は民衆の力によって失脚させられた。20年余りの間、フィリピンの大統領として権力をほしいままにし、心にフィリピン国民の生活に貢献するというよりは、自分の権力と地位の保全と継続に汲々として、最後は民衆によって見放されてしまい、権力の玉座を追われてしまったのである

驕れる者久からず 、只春の夜の夢の如し

その昔、今から800年ほど前に、平家が、春の夜の夢のように消え去った。
マルコス失脚劇で、それが目の前に繰り広げられたような気がした

そして、それは写真ではなく、テレビ画面を通して実感を伴って、我々にせまってきた。
800年の昔、京都を舞台に繰り広げられた、平家一門の栄枯盛衰の模様は、ところを変えて、今フィリピンで、おこっている。テレビに多く映されたマルコス氏の表情には、栄枯盛衰の心の思いが如実に表れていた。
人間誰しも権力や地位や金には激しい執着を持つものだが、それは深く考えると、人間の迷妄、迷い以外の何物でもないということになるのではないであろうか。
求めて働いたところでむなしい結果しかない。という人間存在の姿に思いをいたすとき、必然的に生ずる栄枯盛衰精舎必滅の仏教哲学が無性に染みとおる。
科学技術進歩の発達によって、世の中のテンポが早まり、あわただしい現代の世相ではあるが、それに逆らって各人が自分の人生を見つめ直す一つの手段として、このマルコス劇を眺めたとすれば、マルコス氏にとっての、
この悲劇もそれなりの意味のあることだと納得できた.


最新の画像もっと見る