こんなことを言うと、バチが当たるかも知れないが、この世を作りなった神さん。ちょっと殺生じゃありませんか。
またいつものように、余計なことばかり考えて、愚痴で生きて居る。ただひたすらに、生きて寿命を全うすれば、それでよいのだ。
神さんの言い分はそうかもしえませんが、この不自由な俗世に、身を置いている身になってみてくださいよ。
第1出発点がそもそも不自由じゃないですか。この世に生まれるか、生まれないが、選択の自由がないじゃないですか。人間は問答無用で、この世に生まれさせられただけじゃないですか。
それが不満か?お前は。この宇宙の原理原則をまったく理解しておらん。お前をこの世に人間として送り出したのは確かに神だが、人間に、生まれることがいかに難しいことか。
そこの辺が分かっておらん。人身受け難し。今すでに受く。とお経に、書いてあるではないか。
輪廻転生のことわりの通り、人間としてこの世に生まれてくることは、希有なことだ。なぜかというと、この地球上の生命のあり方を考えてみろ。そのあらゆる生命の中から、その最高峰にいる人間として選ばれて、この世にでてきているわけだ。それだけでも感謝のはずだ。
神様。輪廻転生とおっしゃるけれども、これは仏教だけの考え方ではありませんか。
違う。仏教以前に、ヒンズー教もバラモン教も、こういう考え方をする。西洋にもあるのだ。
”輪廻転生”とは仏教用語であり、人間の本質は肉体の死を以て終了するのではなく、来世で異なった存在となって生まれかわるという思想である。
しかし、これに類似する思想はヒンズー教社会やヨーロッパなど世界中にある。
ヒンズー教は今からおよそ2500年前の仏教成立以前にバラモン教としてインドに存在し、西洋では紀元前6~7世紀にギリシアで興っていたオルペウス教にもその考え方はある。
オルペウスの教義は人間の苦しみは肉体の死と共に終わらず、しばしハデス(黄泉)に滞在したのち、また他の固体に宿り限り無い生成の環のなかを巡らなければいけないとしている。はっきりいっておくが、死んだらそれで全てがおわるというわけには行かないのだぞ。
お前達人間に魂という物を与えて現世におろした筈だ。魂があれば、その魂は命尽き果てれば、いつかは神の国即ち霊界へ戻ってくる。その時に魂の磨かれ具合で、次の行き先が決まるのだ。霊界の中で、地獄へ堕ちるのも、この神の国とどまるのも、それはひとえに送り出した世界での生き様だ。
わかりやすく言えば、人間世界でどのように生きたか、どこまで魂を磨き上げたか、それが問題だ。肉体を失って魂だけの存在になったとき、お前たちは霊界に行くのだ。
そこでまた修行をするのだ。 これは修行の度合いによって六道輪廻をくり返し
悪行の多い人順から 1、 地獄 2、 餓鬼 3、 畜生 4、 人間 5、 阿修羅 6、 天界 にお前は嫌でも決定され、その世界に放り込まれ、肉体を得る。
これに、声聞界(しょうもん)縁覚界(えんがく)菩薩界(ぼさつ)仏界 (ぶっかい)と言う四聖(しせい)があり合わせて. 十界論がある。
これ以上魂の浄化が進んで必要になれば、菩薩や仏界の住人即ち仏になる。
だから仏は崇拝され拝む対象になる。
神は最上界にある霊の上に君臨するもので、無条件に尊崇を受けるものだ。
それは地理的な条件で、色々言われているが、中味は全て同じ神である。一神教多神教それは立場によって生ずるもので、神自体が1つだったり、沢山だったりするものではない。
即ちキリスト教における「神」 ユダヤ教の「エホバ」ヤーベ」 イスラム教の「アッラー」
ヒンズー教の「ブラウマン」 仏教の「法」。これらの神は「1つの神の神的実在性」と言うことをになるだろう。
それぞれの地域で、それぞれの人間に体験的にとらえられた、同一の実在だとおまえらは思うだろう。それは間違ってはいない。そう考えればよい。一神教と考えるのも、多神教と考えるのもお前らの自由だ。しかしながら、神という存在がどんなものであるかは、しっかりと理解しておく必要がある。
近頃は魂とは余り関係ない、外見的なこと、例えば物質的に豊かになり、関心の中心がそこに置かれるようになったが、本来的に肝心なものは魂であることを忘れてはいかん。
魂のあり方から掘り起こして、人間の存在の原点を考えると、お前のような人間が持つ不満とか、疑問とかは、屁のようなものだ。
作ったものと作られたものの上下関係、力関係は判っているつもりです。しかし物質的には恵まれてはいるものの、心はそれに反比例するかのようにやせ細っていく世相を見ていると、一体何故神はこんな殺生な世の中を平気で見ておられるのか、不思議な気がします。
翻って我が身のことを考えてみると、仰せの通り恵まれている状況の中で、不満がふつふつと心の中に湧いてきます。一人ひとりがこんな心を抱いて生きているとすれば、その総和たる人間社会は、暗い世相を作り出して、当たり前です。
そこで神様。ここに神の智恵が必要なのです。何か良い智恵を授けていただけませんか
。お前はまだ判っとらん。神は人間を地上に送り出すのが仕事。人間に生まれたものが自分なりに一生懸命に生きて、その命を全うするのは、人間一人ひとりに与えられた課題だ。だからお前達は一生懸命に生きさえすればそれでいい。
お前達が霊界の位置を決めるのではなく、その入り口には閻魔という審判員をおいてある。その閻魔の指示に従って、行き先が決まるのだが、それは人間の生き様の集大成評価に他ならない。地獄に墜ちるも良し、神の足下にとどまるも良し。
もうちょっと具体的な話を期待してました。神様と一口に言うけれど、日本には八百万の神がおられるから、中にはもう少しわかりやすく説き聞かせて下さる神様もいらっしゃると思って、お尋ねしたわけです。もう一つ納得は出来なかったが、今日の所はこの辺にしておきます。
またいつものように、余計なことばかり考えて、愚痴で生きて居る。ただひたすらに、生きて寿命を全うすれば、それでよいのだ。
神さんの言い分はそうかもしえませんが、この不自由な俗世に、身を置いている身になってみてくださいよ。
第1出発点がそもそも不自由じゃないですか。この世に生まれるか、生まれないが、選択の自由がないじゃないですか。人間は問答無用で、この世に生まれさせられただけじゃないですか。
それが不満か?お前は。この宇宙の原理原則をまったく理解しておらん。お前をこの世に人間として送り出したのは確かに神だが、人間に、生まれることがいかに難しいことか。
そこの辺が分かっておらん。人身受け難し。今すでに受く。とお経に、書いてあるではないか。
輪廻転生のことわりの通り、人間としてこの世に生まれてくることは、希有なことだ。なぜかというと、この地球上の生命のあり方を考えてみろ。そのあらゆる生命の中から、その最高峰にいる人間として選ばれて、この世にでてきているわけだ。それだけでも感謝のはずだ。
神様。輪廻転生とおっしゃるけれども、これは仏教だけの考え方ではありませんか。
違う。仏教以前に、ヒンズー教もバラモン教も、こういう考え方をする。西洋にもあるのだ。
”輪廻転生”とは仏教用語であり、人間の本質は肉体の死を以て終了するのではなく、来世で異なった存在となって生まれかわるという思想である。
しかし、これに類似する思想はヒンズー教社会やヨーロッパなど世界中にある。
ヒンズー教は今からおよそ2500年前の仏教成立以前にバラモン教としてインドに存在し、西洋では紀元前6~7世紀にギリシアで興っていたオルペウス教にもその考え方はある。
オルペウスの教義は人間の苦しみは肉体の死と共に終わらず、しばしハデス(黄泉)に滞在したのち、また他の固体に宿り限り無い生成の環のなかを巡らなければいけないとしている。はっきりいっておくが、死んだらそれで全てがおわるというわけには行かないのだぞ。
お前達人間に魂という物を与えて現世におろした筈だ。魂があれば、その魂は命尽き果てれば、いつかは神の国即ち霊界へ戻ってくる。その時に魂の磨かれ具合で、次の行き先が決まるのだ。霊界の中で、地獄へ堕ちるのも、この神の国とどまるのも、それはひとえに送り出した世界での生き様だ。
わかりやすく言えば、人間世界でどのように生きたか、どこまで魂を磨き上げたか、それが問題だ。肉体を失って魂だけの存在になったとき、お前たちは霊界に行くのだ。
そこでまた修行をするのだ。 これは修行の度合いによって六道輪廻をくり返し
悪行の多い人順から 1、 地獄 2、 餓鬼 3、 畜生 4、 人間 5、 阿修羅 6、 天界 にお前は嫌でも決定され、その世界に放り込まれ、肉体を得る。
これに、声聞界(しょうもん)縁覚界(えんがく)菩薩界(ぼさつ)仏界 (ぶっかい)と言う四聖(しせい)があり合わせて. 十界論がある。
これ以上魂の浄化が進んで必要になれば、菩薩や仏界の住人即ち仏になる。
だから仏は崇拝され拝む対象になる。
神は最上界にある霊の上に君臨するもので、無条件に尊崇を受けるものだ。
それは地理的な条件で、色々言われているが、中味は全て同じ神である。一神教多神教それは立場によって生ずるもので、神自体が1つだったり、沢山だったりするものではない。
即ちキリスト教における「神」 ユダヤ教の「エホバ」ヤーベ」 イスラム教の「アッラー」
ヒンズー教の「ブラウマン」 仏教の「法」。これらの神は「1つの神の神的実在性」と言うことをになるだろう。
それぞれの地域で、それぞれの人間に体験的にとらえられた、同一の実在だとおまえらは思うだろう。それは間違ってはいない。そう考えればよい。一神教と考えるのも、多神教と考えるのもお前らの自由だ。しかしながら、神という存在がどんなものであるかは、しっかりと理解しておく必要がある。
近頃は魂とは余り関係ない、外見的なこと、例えば物質的に豊かになり、関心の中心がそこに置かれるようになったが、本来的に肝心なものは魂であることを忘れてはいかん。
魂のあり方から掘り起こして、人間の存在の原点を考えると、お前のような人間が持つ不満とか、疑問とかは、屁のようなものだ。
作ったものと作られたものの上下関係、力関係は判っているつもりです。しかし物質的には恵まれてはいるものの、心はそれに反比例するかのようにやせ細っていく世相を見ていると、一体何故神はこんな殺生な世の中を平気で見ておられるのか、不思議な気がします。
翻って我が身のことを考えてみると、仰せの通り恵まれている状況の中で、不満がふつふつと心の中に湧いてきます。一人ひとりがこんな心を抱いて生きているとすれば、その総和たる人間社会は、暗い世相を作り出して、当たり前です。
そこで神様。ここに神の智恵が必要なのです。何か良い智恵を授けていただけませんか
。お前はまだ判っとらん。神は人間を地上に送り出すのが仕事。人間に生まれたものが自分なりに一生懸命に生きて、その命を全うするのは、人間一人ひとりに与えられた課題だ。だからお前達は一生懸命に生きさえすればそれでいい。
お前達が霊界の位置を決めるのではなく、その入り口には閻魔という審判員をおいてある。その閻魔の指示に従って、行き先が決まるのだが、それは人間の生き様の集大成評価に他ならない。地獄に墜ちるも良し、神の足下にとどまるも良し。
もうちょっと具体的な話を期待してました。神様と一口に言うけれど、日本には八百万の神がおられるから、中にはもう少しわかりやすく説き聞かせて下さる神様もいらっしゃると思って、お尋ねしたわけです。もう一つ納得は出来なかったが、今日の所はこの辺にしておきます。