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日々雑感

心に浮かんだこと何でも書いていく。

バンコクから始まった。

2008年03月12日 | Weblog
明日はプノンペン サイゴン ラオスを回りバンコクへ戻る。 
神様はよくもまあこれだけバラエティに富まして人間をお作りになったもんだ。皆それぞれの国の言葉を話し顔は皆違う。

僕が働くようになったのは昭和30年代以降のことである。日本経済が高度成長期に差しかかった時に符合して、僕らは働く事だけが唯一の楽しみであり、所得が向上したのでほしい物は金さへ出せば手に入れることが出来た。まずほしかったのは家電製品である。ステレオ、カラーテレビ、テープレコーダーなど憧れの的だった。
50年代に入るとマイカー持つことが出来るようになった。そんなわけで働くことこそが善であり、これが給料と言う形で跳ね返って来た。そこでますます働くことが人生のすべてになった。しかもその右肩上がりの成長が当然のこととして、いつも頭の中は高度成長路線で一杯であった。

ところがである。あるときから路線は大きく変わり始めたのである。すなわち右方上がりから水平、いや、下降ぎみになって来たのである。
勤勉に働く事だけしか知らない企業戦士、働き蜂にリストラの嵐が吹きあれだしのであり、完全に高度経済成長の流れは変わってしまったのである。平成とはそんな時代だ。

平成になって10年が過ぎた。バブルがはじけて経済活動は規模縮小を余儀なくされた。生産過剰が問題になり出した。当然企業は自己防衛のためにリストラを行うだけでなく、従業員の賃金カットをやりだした。その結果どういうことが起きて来たか。先行きに不安を感じた人々は生活防衛に走りだした。つまり不要不急のものは買わなくなったのである。当然消費は冷え込むことになる。

消費者の動態を知る1つの指標とされている百貨店の売上動向を見ても此の線ははっきり出ている。これから1980年代の消費に戻ることはもうないだろう。 そう考えると、平成という時代は我慢の時代ということになるのではないか。
日本の経済を支えて来た自動車、家電産業などはもう、大して期待出来ない。時代の要請に応じて、何か日本でしか出来ないような特殊な製品が成長して日本経済の根幹を支える迄になるには時間もかかろうから、みんなが浮かれるような気分になれる時代ではない。
個人的には、早く引退が出来てよかった。これからおとなしく暮らすだけだ。
バンコクで見た夢はそのまま現実となった。まさに正夢だったのである。

花供養について

2008年03月12日 | Weblog
1,司馬フアンの1人である人が,先生に一筆、色紙をお願いしたら2,3日して先生から色紙が届き
      振り向けば また咲いている 花三千 仏三千    と記されていた。

2,先生はわずかな時間の中で どうして、こんなに気持ちにぴったりしたものができたのか。自分でも不思議なくらいだ。 もう一度つくれと言われても、二度と作ることはできないだろうといわれた由。私も作曲の過程で経験することがあるからそうだと思う。

3,花は心なごませ 仏は安らぎの世界を連想させる。 暖かさにあふれ、ほのぼのとした情感あふれる世界。もしかしたら司馬先生があこがれた、いや、到達した心境なのであろう。

人生の終局近くに見る仏の世界は言葉で言えば司馬さんの読まれた詩(うた)になり
それを私が曲で表すならば ここういう感じの曲になると言うことで私は自分を納得させた

4, 私のイメージでは 広々としたお花畑に咲き乱れる花をバックに三十三間堂の観音菩薩達が花に囲まれて立っておられる。

5, 歌は易しいからすぐうたえるが、此の詩に盛られた境地と、限りなく似たような境地に達するのに私は50才をすぎていた。

6, タイトル 花供養は司馬さんがつけたのではない。私がつけた。それは花を供養するということではない 花をもって佛を供養し見せてもらった佛の世界 (心境)に含まれている花や 仏にそして 司馬先生に対する私の供養の気持ちでもある


10-4 闇の時代

2008年03月12日 | Weblog
戦後50年たって社会の仕組みや経済の仕組みにほころびが目立ってきた。特にバブル現象がおきて今までの仕組みが根本的に問い直される時期に差しかかっている。未だに明確な指針が手探り状態で、闇の中で手探りをしている状態が続く。
歴史的社会状況の認識に、誤解があるのだろうか..。
救済はあるのか。
仏教はよりよい生き方のマニュアルなのか。
ミッテランの言葉 「卓越した科学者は科学を通して神を見いだし近づいた。中途半端な科学者は科学を通して神を遠ざけた。」
生かされて生きている。 自分の生死は自分で決められない。 己以外の何物かによって生かされている。

生かされていると言うことは言い換えれば何物かの支えや後押しのお陰で生きていると言うことである。ここに他力、自力の考え方が生まれるが、自分が一生懸命に生きるための支え、後押しの力を自覚するならば、そこには当然自分の命を支えているもの、後押しをしているものに対して、感謝の念が沸いて来よう。

単に生きているのではない、生かされて生きているのだという現実を悟ったときに初めて人は報恩謝徳の気持ちが生まれるのだ。すなわち神仏の存在に気が付くとき初めて生かされていることへの感謝の気持ちが生まれる。これは当たり前の事だ。考えてみるがいい。人の世で人と付き合う場合、お世話になれば感謝するのはエチケトであり、マナーである。もし人から好意を受けて素知らぬ顔をしていたら、その人は早晩必ず相手にされなくなる。好意を受けたら感謝してお返しをするから、人間関係が円滑になる訳で、感謝もしない、お返しもしない人だったら、こちらから付き合いを断る。これは人情の自然に沿った考え方であり、行為である。

人は自分の希望でこの世に生まれ出てきた訳じゃない 自分の力でどうにもならぬ事を体験したときに人はここに思い当たる。経験しなかったら分からないだろう。
生きているということは、生かされていると大きな力の支えがあると言うこと。
7、日常生活で実感する神仏の力
ノーベル賞受賞の学者が参画したヘッジフアンド、ロングターム・キャピタル・マネージメントがつぶれた。計算されしつくされた、人知の限界を示すものとして注目される。この世には人知を超越した何ものかが存在すると実感したのは私一人ではない筈。この世には人知や努力だけでは、どうにもならない事がある。この真理を実感できるのは人生の1/2以上生きて経験を積まないと分からないこと(理解できないこと)ではないだろうか。つまり40歳以上にならないとこの辺の感覚は出て来ない。

ちょっとしたことだが目に見えない大きな力が働いていることを実感できる瞬間がある。自分の命にしたがって、人生を誠実に生き、まじめに考えた人にのみ訪れる神仏の力の実感である。 見えない大きな力(今仮にこの力を神仏を言っておこう)に支配されていることだけは事実である。 何故か、それは個人が実感することであるから。 絶体絶命と言う場面におかれたときに、一番実感できるのでは?。

8 心の闇(これから21世紀に向かって構築すべき価値観を模索している状態)に乗じて、つけ込むかのようにいろいろな宗教教団が、雨後の筍のように出現している。
多くの中でどれが本物か見分けるのに困る。

本物かインチキか見分けるものさし
1、教祖の人柄、や教祖を取り巻く人達の価値観、宗教観 これに尽きると思う。
2、教団組織への加入、脱退の自由があるか。巧妙な脅しはないか、脱退金の徴収や、不幸が生じるなどの脅迫的なことはないか。
3、金品の強要はないか。金がかからないか。自ら進んで自発的に行う寄進は当然認められる。ようは金を要求されないかどうかである。このうち1つでも疑問に思うことがあれば、その教団のメンバーに加わることは慎重に考えるべきだ。

9、他力と自力 他力か自力かそんな論争は無益である。電車に乗るためには、駅まで自分の力でいかないと、乗ることはできない。さらに電車にのって運んでもらって初めて目的が達成されるのである。それを自分の力だとか乗り物の力だとか言ってみても始まらない。ただ二つの力が合わさって目的が達成されることだけは確かである。どちらに比重を置くかと言うことに関しては人それぞれである。

10いま考える、 物が豊かになれば、心は貧しくなる。物欲に支配されて振り回され心はやせ細る。 物欲は無限、止まることを知らない。これを追いかけると餓鬼道に陥り、自己破滅につながる。

心が基準。心ですべてのものを決めて行く。心がやせ細っては始末が悪い。心を肥やすには 生きる大欲と日常生活の少欲、知足少欲、物欲に振り回されない考え方、生き方が大切。豊かな物に囲まれて生活していても、心が貧しいと、人間らしい心を持ち合わせていないと、それは人間性の喪失につながる。つまり心が貧しければ、人間は人間でなくなると言うことだ 。

科学技術の発達に惑わされて失っている人間性の回復を図る努力が必要になる。
物の世界を追い詰めて、その結果大きな転換期を迎えた。
今こそよく考えなければならない時である。

初めに 神や仏がこの世に存在するかどうかは論理の世界で証明は出来ない。神仏の存在はそれを信じるかどうかにかかっている。信じる人にとっては神仏は存在するのであるが、信じない人にとっては神仏の存在はない。それが現代の常識になっているが、果たして神仏の存在は信じる、信じないで決められるものだろうか。

科学と言う名の下に、人間の思考で解決出来る、あるいは理解出来ることのみが、真実であろうか。 我々がこの世で生活して経験することではあるが、この世の中には人間の力や知恵を超越したものが、存在することをなんとなく実感することがある。偶然として片付けるには、あまりにも不合理で説明がつきにくく、我々はこういうものを、人間を超越した摩訶不思議なものとして神、仏の力のお陰、または御利益という。

人は何か一つのことを徹底的に追求しているときに神仏の世界が有るかどうかと言うことに突き当たる。結果的には神仏の世界を発見する。
フランスの大統領、ミッテランは真の科学者は科学を通して神を発見した、がそこまで到達してない科学者は科学によって神を遠ざけた(見つけることが出来なかった)と喝破した。

人間は自分のからだですら、自由に呼吸を止めたり、心臓の鼓動や胃腸のはたらきをとめることは出来ない 無量寿経のなかで、釈迦が弟子に仏の功徳を説く。
仏が説法をした国や場所では天下は和らぐ。
日、月は清く明るく、雨風は時におうじて適当に降り、災害や疫病は起こらず、国は豊かにして民衆は安らか暮らし、兵や武器は無用。人々は互いに徳を高めて、仁を尊び礼儀と謙譲の道を守ったと。
これからの世に、何か役立つヒントになることがあれば幸いだ。

風邪10-3

2008年03月12日 | Weblog
今年の冬は事のほか寒かった。風邪をひくまいと,冬の間、自宅に引きこもっていたが、とうとう風邪を引いてしまった。

熱が38度5分まで出た。体の節々が痛いし、だるいしとてもやりきれない。医者に行って薬を貰ってきたので大部楽にはなったが、まだ正常には戻っていないから、とても出歩く気にはなれない。

こんな風邪はここ数年経験したことがない。完全に風邪に負けている

そう言えば、ここ1週間ほどはよく眠れなかった。夜中に目が覚めたり、5時過ぎに目が覚めたりして、どうも体のコンデションが良くない。そんな風にして体力が消耗している中で、風邪の菌が忍び込んで、体を犯していく早さは、まるで台風並だった。

喉が痛いなーと思ったら、1晩たたないうちに、もう胸まで侵入。咳はでるは、体の節々は痛むはで、風邪に追いまくられた。風邪を撃退する抗体は手も足も出ないような形だった。

この冬は意識して気をつけたつもりであるが、かかるときはかかるのだろう。気をつけたからといって、病気は防げるものではない。そうはいうものの、やはり御身大切の心がけを忘れないでこの冬を乗り切ろう。

熱が下がって、果物が喉を通るようになると、腹が減ってくる。じっと寝ていると、退屈さに我慢ならならないようになってきて、早速ペンを走らせて、気を紛らわせる。何を書いても良いのだが、日記という形でその日、その時の出来事や心に浮かんだこと等を紙の上に、とどめておくことは、後日それを読み返して、あのときはああだった、こうだったと振り返るのも1興である。そして願わくば、出来事の単なる時系列化ではなくて1つのことについて出来るだけ深く考えて書いてみたいものである。後日のために。