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日々雑感

心に浮かんだこと何でも書いていく。

何の意味があって

2008年03月29日 | Weblog
京都山科にある醍醐寺の広い境内をつっ切って、山道を登っていく。目指すは、西国33ヵ所観音霊場上醍醐寺の観音にお参りして、納経帳にサインしてもらうことである。

醍醐寺に着いたのが午後2時半過ぎ。閉門が5時だから、2時間半で、この山道を登り降りしなくてはならない。

上醍醐寺への参拝はかなりきついものがあると聞いていたが、山道の登りには予想外にきついもので、途中何回も四つばいになって犬のような歩き方をした。休んでいては閉門までには帰着できない。

非情にも時間は刻々と過ぎ去っていく。途中で降りてくる人には何人がであったが、お寺までの距離を聞くとと、まだかなりの山道を登らなければならないという話が多かった。
そのために、余計に気はあせった。 上り坂ばかりで平たんな道は1カ所あったぐらいかな。という感じである。

坂道を登りながら考えた「智に働けば、角がたつ。情に棹させば、流される。とかく、この世は住みにくい」夏目漱石の小説草枕の一節が頭をよぎるが、とてもそれを味わうような余裕のある行軍ではない。心臓は常時、パクパク音を立てているし、息切れがひどい。
それでも、2時間半という時間制限の中で、集印しなくてはならないという絶対的な命令がある。

生まれて初めて醍醐寺を訪れるわけだから、門を閉められたら、外へ出る場所が分からない。何が何でも、閉門時間の5時までには、この門を無事通過しなくてならないのである。

こういう状況の中では、観音様にお参りするという目的は、どこかほかへ飛んでしまって、ただただ納経帳に集印することに、目的は変わってしまっている。

わずか4、500mの高さの山だと思うが、時間をかけて、というならまだしも観音お参りを含めても、2時間半しかない時間制限の中では、目的の変質もそれはやむをえないと自分では言い訳をした。

観音お参りをしているのではない。上醍醐寺に、お参りしたという証拠づくりをしているだけである。つまり、集印ラリーをするのが目的になってしまった。

観音様は、このような参拝人の心を見通して、いったい何を思い、なさるのだろうか。お参りの心を失った参拝者は、観音様にとってどんな意味があるのだろうか。

口では、ご宝前で般若心経を唱えではいたが、心は果たして閉門時刻までに門を通過することができるかどうかで、いっぱいである。とてもゆっくり観音様と対面するような時間的な余裕も、心の余裕もない。

時計を見ると、残り時間は、40分しかない。この40分で、門まで到達しなければいけないと思うと、歩いていては、とても間に合いそうもない。幸い、下り坂だから、小走りに走った。

門の近くまでくると、係の人が門を閉めようとしている。思わず大声で待ってくださいと叫んで声をかけた。門番は、こちらを向いて、手を大きく振り早く早くと催促している。時計を見ると、5時10分過ぎである。つまり10分遅れているわけだ。そこからは、門まで、走りに走った。息も絶え絶えだったが、とにかく門の外へ出ることができた。

西国33ヵ所の観音お参りのいちばんの難所はどこかと聞かれたら、僕は、いの一番に上醍醐寺の観音様お参りだと答えるだろう。今でもいったい何をしにお詣りに行ったのだろうかと思う。お詣りなんて心を込めるから、それなりの充実感があるのに、タッチ・アンド・リターンのお詣りなんておそらく意味はなかろう。
しかし集印帳だけは一箇所も抜けてはないし、額だってちゃんと上醍醐寺の朱印が押してある。
生涯の悔いごとではあるが、集印完了の安堵はまた別なところにある。

放送の良識

2008年03月29日 | Weblog
何故そのようなことが起こるのか、わけのわからない殺人事件が二つも連続して起こった。

一つは、荒川沖駅で起こった殺傷殺人事件であり、もう一つは、岡山駅で起こった線路への突き落し事件である。

犯人はどちらも「殺すのは誰でも良い。」とうそぶいて、何の落ち度もない人を一人ずつ合計二人の命を奪った。

人間が持つ心の闇の深さは、計り知れないものがある。テレビは、コメントとして、いつもその道の専門家の意見を求めて、放送する。が、これは果たして意味のあることだろうか。事はもう済んでしまっているのだ。そこには、殺人という厳然たる事実だけがあって、これをいかにコメントしてみても、現実には何の役にも立たない。おそらく、人間の心のそこに潜む悪魔の分析までにはいたるまい。

さらに不可解なのは、被害者の告別式や葬式の模様を放映することである。著名人ならいざ知らず、被害者やその家族は放映されることを望んでいるのであろうか。

一般の視聴者は、殺人と知っただけでも、犯人に対して怒り、被害者の身の不運を嘆き、遺族の悲しみに共感して、嘆き悲しんでいるのに。それに追い打ちをかけるような葬式の悲しい場面を放映する。
いったいこれはどういう目的があって、放映するのだろうか。

被害者やその家族と共に、その無念さの悲しみを静かに共有したい僕は、この種の放映は人の道に反すると思う。
見る人にマイナス感情を与えて、さらに追い打ちをかけることが、果たしてテレビの役割であろうか。

これは放送倫理以前の問題である。いわゆる良識という類のもので、マスコミはこの種の事件の報道のあり方を再検討すべきではないか。

この世で、楽しくて楽しくて仕方がない日々を送っている人はいざ知らず、思うようにならない人生の苦悩を背負って、まじめに生きている大多数の人々に、さらに気分的に、重荷を負わせるようなマイナス感情を与える放送は、人々を決してハッピーな気分にしないし、悲しみや苦悩というマイナス感情に、追い打ちをかけて、何の意味があるのだろうか。

重大な事件であれば、隅から隅まで放送すべきだというものでもない。当然そこには、人間の良心的なチェックが働いて、不要なものはカットするのが、マスコミ人に良識だと思う。