トッペイのみんなちがってみんないい

透析しながら考えた事、感じた事。内部障害者として、色々な障害者,マイノリティの人とお互いに情報発信したい。

先週の『式能』行ってきました

2010-02-28 23:40:37 | 演劇・舞台
 昨年から、しばらく遠ざかっていた都心での、観劇を始めるようにしました。
能も、学生時代は、水道橋の宝生能楽堂が学校の近くにあったので、よく、観に行っていました。昨年は、初めて国立能楽堂で、能を拝見しました。

 今年は、今までに一度は行きたいと思っていた式能に行きました。江戸時代の様式に則って、5流翁付き5番立能という形式のものです。一度に、能の世界を続けてみることができる良い機会でした。(第50回記念式能 2月21日㈰)
 今回は、1部、2部通して観ることになりましたので、午前10時の翁から、5番能の半能『石橋』の終演午後7時頃までの、長い時間の観能になりました。

 翁は、金春流でしたので、下掛りとして、千歳は狂言方が勤めました。翁は、能の最初の姿を残している大変神聖な曲です。観能も翁から始まると、観客が清められるような感じが強く感じられます。

 翁の後は、直ぐに『竹生島』へと続きます。翁の後は、神能が続けて演じられます。『竹生島』では、弁財天が登場し、女人禁制との関係が論じられて、興味深いものです。

 続く狂言も、『福の神』で、大変お目出たいものです。福の神が、「早起き・慈悲・夫婦愛・隣人愛」が、幸せになるための人間の元手になるとおっしゃることはもっともなことです。でも、自分へもお神酒やお供えを十分にするようにと言うのは、御愛嬌です。

 修羅能は、短い曲の『俊成忠度』(宝生流)です。歌の師である藤原俊成のもとに、現れた忠度の霊が、帝釈天と阿修羅の軍の間の戦に巻き込まれますが、歌の徳により、その苦しみから救われます。阿修羅といえば、去年の国宝阿修羅展の事が思い出されます。あの少年、或いは少女のイメージは、この神様との永遠の戦いには、相応しくないようです。しかし、光瀬龍『百億の昼と千億の夜』、及び、その漫画化である萩尾望都の同名コミックでは、そのイメージが生かされているようです。これは、観能に関係のないお話でした。

 狂言『蝸牛』で第1部は終了しました。

 第2部は、『雪』から始まりました。この曲は金剛流のみに伝わるものです。「雪踏拍子」の小書で舞われる舞は、音を立てずに足拍子を踏む演出です。雪の精故の演出でしょう。内容は、僧侶の下に現れた雪の精の迷いなのですが、精霊なので、何故、自分がこの世界に出現したのかも、定かではありません。能としては、余り面白味がない作品です。

 次は、野村萬さんの『見物左衛門』。ドラマの進展の全てを、一人で演技します。

 『自然居士』(喜多流)は、当日では、一番ドラマティックな曲でした。居士ですから、半俗半僧の姿で現れます。能では『花月』も青年の姿で現れますが、清らかさと同時にある種の色気を感じてしまいます。曲の内容は、自然居士に亡き両親の為の供養を頼みに来た少年が、供物として、わが身を人買い上人に売ることで、小袖を買って居士に差し出します。この事を知った居士が、人買い商人から、少年を取り返すという話です。ワキ方、アイの狂言方も、ドラマに積極的に参加していきます。人買い商人から、少年を返す代わりに、自然居士に芸尽くしをさせる所が、後半の見所となります。
 7日の説法の満願の日に、説法の途中で止めてまで少年の救出に急ぐ居士の姿は、仏教者の慈悲の心を表わしたものです。

 狂言『千鳥』の後に、最後の曲、半能『石橋』(観世流)です。シルクロードを通って、日本に、ライオンが獅子として伝えられ、多くの芸能の基になっています。当然、実物は見られることはなかったのでしょう。
 この曲では、文殊菩薩の霊獣として描かれています。能の中でも、舞のための曲という特殊な位置にあるもので、祝言能として理解していいのでしょう。
舞の形も、他の能とはかなり変わっています。今回は、「大獅子」という演出で、白頭の親獅子と、赤頭の子獅子の合わせて4人による舞が舞われます。我が子を千尋の谷に落とすという獅子の伝承が舞われます。


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