能楽は、ユネスコによる人類の無形文化財に指定されている。このすぐれた伝統文化を、多くの人に触れてもらおうという催しが今年も開催された。
都民芸術フェスティバルの一環として、「君にもできる 能の世界 ~体験と観賞~」で、ワークショップと観賞の会が開かれている。
昨年は、八王子のいちょうホールで開かれたが、今年は、国分寺市立いずみホールで開催された。1月16日㈯。
透析終了後、すぐに中央線に乗って会場へ急ぐ。開場30分前に着くが、ロビーでは、狂言のワークショップが開かれていて、その様子を列から見ることができた。大人より子どもの参加が多かったようだ。こうした体験から、能楽に親しむ子どもが増えることが、今後の伝統芸能の発展のためにも必要な事であろう。
開演前の舞台では、仕舞のワークショップが行われていた。また、別室では、囃子方の部も開催されているはずであった。
演目は、入門編ということで、解説の後、狂言1番と、短い能が1番演じられた。
狂言は和泉流の「盆山」である。盆山というのは、今の盆景のようなもので、お盆の上に石を置いて小さな山を築き、その景色を楽しむことが、昔、多分、室町時代あたりに流行した。ある男が、たくさんの盆山のコレクターである知り合いの盆山をこっそり盗み出そうとする。夜中に忍び込んだのはいいが、知り合いに見つかってしまう。知り合いは、盗人の正体をすぐに見破ったが、からかってやろうと、隠れているのは犬だとか猿だとかいって、男に動物の物真似をさせる。そして、最後に物真似をさせようとしたものが、意外なもので、よく考えれば陸地にいないはずの鯛であった。この辺が、狂言の持っている可笑しみの本質が垣間見られるのである。不条理な事が、いともたやすく話の展開の取り入れられているが、観客の方もそれを取り入れ、自然と笑ってしまうのである。さて、鯛の泣き真似とは如何?
シテは三宅近成、アドは、高澤佑介
能は、「猩々」。元々は、前場があった能であったが、現在は半能形式で演じられる。したがって、短い曲で、入門編には相応しいのかもしれない。なお、昨年の八王子の公演では、「高砂」が半能で演じられている。
中国のお話で、揚子江に臨む里に住む、貧乏だが親孝行のワキの高風が、夢の中で酒を作り市に出て商えば、金持ちになるというお告げを受ける。実際に、そうすることで、高風は金持ちとなった。高風が市で、酒を売っていると、男がやってきて酒を飲むが、いくら飲んでも顔色一つ変えることがなかった。不思議に思った高風が、男の素性を訪ねると、自分は揚子江に住む猩々であると言って姿を消した。その時に、酒壺を胸に抱いて水中に入った。ここまでが、本来は、前場として演じられていたのが、後に、後場だけ演じられる半能形式になったようだ。
さて、猩々というのは、人面獣身の想像上の霊獣で、酒を好み、人の言葉を解するとされる。面(おもて)は、笑みをたたえた朱色である。頭という赤一色の長い毛のかつらを付け、装束も赤を基調にしている。酒に酔った時の赤と、おめでたい色としての赤を表現している。
高風が、酒を用意して、猩々の登場を待つ。月が出ている夜のことであった。そこへ、猩々が現れ、酒を飲み、舞を舞う。すっかり酔った体で、高風に汲めども酒が尽きることのない壺を渡して消えていく。夢かと思い、傍らを観ると、壺が置かれていた。
親孝行の男に対する猩々のご褒美といったところであろうか。
祝言能として演じられるそうだ。
以前、猩々がたくさん出てくる演出のものを観た事がある。『大瓶猩々』かもしれない。
猩々が、とても愛らしく見える舞であった。
今回は、小書無し。金剛流、シテ 工藤寛
今年は、同じ都民芸術フェスティバルの式能を拝見に行く予定だ。今まで、なかなか行く機会がなかったのだが、今回は、チケットも求めた。翁付きの能5番、狂言4番の江戸式能の形式で、午前中に始まり、夜まで続く。体調を整えておかなければなるまい。
都民芸術フェスティバルの一環として、「君にもできる 能の世界 ~体験と観賞~」で、ワークショップと観賞の会が開かれている。
昨年は、八王子のいちょうホールで開かれたが、今年は、国分寺市立いずみホールで開催された。1月16日㈯。
透析終了後、すぐに中央線に乗って会場へ急ぐ。開場30分前に着くが、ロビーでは、狂言のワークショップが開かれていて、その様子を列から見ることができた。大人より子どもの参加が多かったようだ。こうした体験から、能楽に親しむ子どもが増えることが、今後の伝統芸能の発展のためにも必要な事であろう。
開演前の舞台では、仕舞のワークショップが行われていた。また、別室では、囃子方の部も開催されているはずであった。
演目は、入門編ということで、解説の後、狂言1番と、短い能が1番演じられた。
狂言は和泉流の「盆山」である。盆山というのは、今の盆景のようなもので、お盆の上に石を置いて小さな山を築き、その景色を楽しむことが、昔、多分、室町時代あたりに流行した。ある男が、たくさんの盆山のコレクターである知り合いの盆山をこっそり盗み出そうとする。夜中に忍び込んだのはいいが、知り合いに見つかってしまう。知り合いは、盗人の正体をすぐに見破ったが、からかってやろうと、隠れているのは犬だとか猿だとかいって、男に動物の物真似をさせる。そして、最後に物真似をさせようとしたものが、意外なもので、よく考えれば陸地にいないはずの鯛であった。この辺が、狂言の持っている可笑しみの本質が垣間見られるのである。不条理な事が、いともたやすく話の展開の取り入れられているが、観客の方もそれを取り入れ、自然と笑ってしまうのである。さて、鯛の泣き真似とは如何?
シテは三宅近成、アドは、高澤佑介
能は、「猩々」。元々は、前場があった能であったが、現在は半能形式で演じられる。したがって、短い曲で、入門編には相応しいのかもしれない。なお、昨年の八王子の公演では、「高砂」が半能で演じられている。
中国のお話で、揚子江に臨む里に住む、貧乏だが親孝行のワキの高風が、夢の中で酒を作り市に出て商えば、金持ちになるというお告げを受ける。実際に、そうすることで、高風は金持ちとなった。高風が市で、酒を売っていると、男がやってきて酒を飲むが、いくら飲んでも顔色一つ変えることがなかった。不思議に思った高風が、男の素性を訪ねると、自分は揚子江に住む猩々であると言って姿を消した。その時に、酒壺を胸に抱いて水中に入った。ここまでが、本来は、前場として演じられていたのが、後に、後場だけ演じられる半能形式になったようだ。
さて、猩々というのは、人面獣身の想像上の霊獣で、酒を好み、人の言葉を解するとされる。面(おもて)は、笑みをたたえた朱色である。頭という赤一色の長い毛のかつらを付け、装束も赤を基調にしている。酒に酔った時の赤と、おめでたい色としての赤を表現している。
高風が、酒を用意して、猩々の登場を待つ。月が出ている夜のことであった。そこへ、猩々が現れ、酒を飲み、舞を舞う。すっかり酔った体で、高風に汲めども酒が尽きることのない壺を渡して消えていく。夢かと思い、傍らを観ると、壺が置かれていた。
親孝行の男に対する猩々のご褒美といったところであろうか。
祝言能として演じられるそうだ。
以前、猩々がたくさん出てくる演出のものを観た事がある。『大瓶猩々』かもしれない。
猩々が、とても愛らしく見える舞であった。
今回は、小書無し。金剛流、シテ 工藤寛
今年は、同じ都民芸術フェスティバルの式能を拝見に行く予定だ。今まで、なかなか行く機会がなかったのだが、今回は、チケットも求めた。翁付きの能5番、狂言4番の江戸式能の形式で、午前中に始まり、夜まで続く。体調を整えておかなければなるまい。