トッペイのみんなちがってみんないい

透析しながら考えた事、感じた事。内部障害者として、色々な障害者,マイノリティの人とお互いに情報発信したい。

無常観を感じされる二つの作品 その2

2010-05-27 01:40:32 | 演劇・舞台
 最近は、しばらく遠ざかっていた劇場に再び足を運ぶことが多くなった。人生の秋を感じるようになったからだろう。

 4月14日に、文学座の「わが町」の公演に行ってきた。ソーントン・ワイルダーの作品で、森本薫の訳によるものであった。この作品は、翻案されたり、一部が上演されることが、今までもあった。実際、同時期に、別の劇団が上演している。訳者も違うので、当然、演出方法も違うのだろう。僕も、高校生の時に、この作品の上演を演劇教室で見た記憶がある。特別な舞台装置のない上演で、その当時のアメリカの衣装をつけた女性が傘をさして登場した場面しか記憶にない。

 初演は1923年だったのだろうか。演劇の古典といってもいいのかもしれない。ワイルダーの上演方法も、幕が無く、舞台装置がないという、当時としては、斬新な手法を用いたという。現代では、そうした上演方法も珍しくは無いのであるが。

 物語は、ニューハンプシャー州にある小さな町グローヴァーズ・コーナーズという、ごく平凡などこにでもあるような町の、ごく普通の人々の生活を、時間を追って描いている。おそらくは、架空の町であろう。エミリとジョージは、お隣同士。両親も、町の人々も、身近な付き合いをしている。平凡な住人達といっていいのだろう。しかし、表面だけを見ても分からない深層部をそれぞれの人々は持って生きている。それも、今を生きる私たちも同様な事である。子どもだった二人も、高校卒業を間近に、愛し合い、若すぎるともいう年齢で結婚に至る。町に人々の祝福の結婚式の場面は、歌を踊りの入った明るい演出であった。小さな町の、大きなイベントであった。

 狂言回しの作者の分身ともいえる男が、物語を進行させていく。彼は、過去を振り返るように、時の流れと共に、町の人々の様子を説明していく。彼には、未来が当然のように見えるが、登場する町の人々は、時間の流れに沿ってしか行動しないし、未来を知ることは当然出来ない。その時間、その空間を、他の人々との関係性を持って生きていく。

 今回の上演では、第3部が重要な意味を持った。雨の墓場、そこには、使者たちがたたずんでいる。ジョージの母親も、エミリの弟もそこにはいた。アメリカ人の感覚として、そうした描き方は普通でないように思えた。キリスト教では、最後の審判の日まで眠りに就く訳だし、天国を信じている限り、墓場に思いが残っているというのも、不思議な感覚である。狂言回しの男によれば、時と共に、肉体が朽ち、記憶を浄化されて魂の存在と化すという。死者たちは、墓場で、静かに生きている町の人々を見つめ続けている。
 そこへ、傘をさした葬儀の一団がやってくる。誰の死だったのだろうか。たたずむ死者たちの下に、エミリがやってきた。エミリは、過去に戻りたかった。もう一度、人生をやり直したかった。他の死者たちは、止めるように忠告した。しかし、エミリは過去へと旅立つ。そこでは、その時代のエミリを演じるしか他なかった。自分では、それから先に何が起こるのか分かっているのだが、その時に生きた姿と同じことをしなくてはならかなかった。
 よく、もう一度人生をやり直せたら、あなたは何をするかという設問を立てることがある。確かに、自分の未来がわかるのならば、あらたに未来に作り替えることができるかもしれない。しかし、そうだとしても、果たして、変えることができるのであろうか。人生は、悲しいことと楽しいこと、不幸な事と幸いな事が連鎖している。その流れの一つでも変えれば、その後の楽しいこと、幸福な事も消え去ってしまう。
 エミリの苦しみは、同じ体験を繰り返すことしか許されていなかったこと。だから、再び、丘の上の墓場の死者たちの中に帰ってきた。
 彼らは、死して後、生きていることがどんなに素晴らしいことであったかを知ることになるのだ。生きている時に、普通の人が普通に暮らすことがどんなに意味のあることであるのかを。生きている我々は、生きている間、この世界がどんなに素晴らしく美しい所かということに気付いてないらしい。

 絵本「百年の家」と演劇「わが町」は、どちらもアメリカ人が書いた作品であったが、我々日本人が見た場合、そこに無常観を感じざるを得ないのだ。そして、これらの作者も又、西洋文明に中に行きながら、無常観のようなものを感じていたのではないかと思うのである。

 そう言えば、両方の作品の女性の葬儀の日は、どちらも雨が降っており、葬儀の参列者たちが傘をさしていたのは、偶然の一致なのだろうか。

 死者たちが、肉体が朽ちても、その残された記憶からこの世を見る視点、また、すっかり破壊に向かった百年の家が、重いだけはその場に残って今の家の建った場所を見ているという視点が、無常観を感じさせるのである。


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