トッペイのみんなちがってみんないい

透析しながら考えた事、感じた事。内部障害者として、色々な障害者,マイノリティの人とお互いに情報発信したい。

古典の中の老い 「恋重荷(綾鼓)」

2008-07-01 02:55:27 | 文学
 古典を読むと、昔の日本人の考え方を知る事が出来る。現代に通じるような感覚の発見もある。今回は、謡曲の中に現れた「老いらくの恋」、それも身分違いの恋を鑑賞してみた。金春流「恋重荷」(こいのおもに)が、テレビで放送された時の録画を観てみた。世阿弥の作と伝えられることがあるが、「綾鼓」(あやのつづみ)を元に作られたという事なので、はじめにテキスト(日本古典文学全集・謡曲集二・小学館)で「綾鼓」を読んでみた。

 ただ、読む前に疑問が一つあった。作品が書かれた室町時代は、平均寿命が短かったはずだ。30歳位か。その当時の老人とは、現代人と比べると年齢が若かったのかもしれない。しかし、文学作品なので、能が演じられる際の老人の姿からも、今回はあまり問題にしなかった。文字通り、「老人」と解釈して良いのだろう。

 さて、「綾鼓」は宝生・金剛・喜多の各流にある。ただし、喜多流は土岐善麿による昭和27年の新曲である。底本は宝生流「寛政版本」。

 舞台の場所は、筑前の国にある斉明天皇の行宮。そこで働いている身分の低いお庭掃きの老人が、女御に一目惚れしてしまい、「しづ心なき恋」となってしまった。女御がこの事を聞き知って、恋には身分の上下を問わないのが習いなので、かなわぬ恋は承知の上で、かわいそうに思って、諦めさせようと策略をめぐらす。有名な桂の池のほとりの桂の木の枝に鼓を掛けて、老人に対してその鼓を打って、その音が聞こえたら姿を見せようと、従者に言わせる。ところが、その鼓は皮の代わりに綾(絹織物)を張ったものなので、音が出るはずがない。
 「さなきだに闇の夜鶴の老いの身に、思ひを添ふるはかなさよ。時の移るも白波の、鼓は何とて鳴らざらん。」
 悲しんだ老人は、池に身を投げて死んでしまう。従者は、女御に老人の死を伝える。そして女御に、老人の執心を恐れて、お忍びで池のほとりを見るように勧める。池のほとりで、女御は鼓の音の幻聴を聞く。そこに、怨霊となった老人が現れ、綾の鼓を打てと女御を責めつける。
 「一心に相手を怒り憎しむ。この邪淫による恨みは晴れることが無い。我が身は今や、水中の魔境に住む鬼の身となった。何故、私の真実の恋をもてあそんだのか」。女御に「さあ早く綾の鼓を打ちなさい」と鞭を振り上げ責め続ける怨霊。鳴らぬ鼓に、ただ「悲しや悲しや」と叫ぶ女御の声がするだけだが、怨霊は責めることを止めようとしない。まるで地獄の責め苦もかくや有らんとの責め様。やがて、「恨めしい、恨めしい女御である」と言って、恋の淵に入ってしまった。

 恐ろしい老人の恨みである。かなわぬ恋、それも老いらくの恋であったが、憎しみは策略をめぐらせた女御に向かう。女御は、老人に悟らせるために綾の鼓を使ったのだが、実は老人をからかったのではないかとの解釈もある。古も、恋に年齢や身分の関係が無かったという事は、現代にも通じることなのだろう。

 さて、類曲の「恋重荷」は、観世・金春両流にある。ただし、金春流は、近年の復曲である。録画で鑑賞した。シテ(老人)は櫻間金記氏。
 こちらでは、老人は菊守(菊の下葉を取ったりして、菊の世話をみる)の山科荘司である。やはり女御に思慕するが、老人への課題が「荷を持って庭を百巡り千巡りすること」になっている。しかし、その荷は、綾錦で包まれた巌(そびえたった大きな石)だったから、老人には持ち上げることもできなかった。その事で死ぬことになった老人が、怨霊となって女御を責める所は「綾鼓」と同じなのだが、そのすぐ後で、態度を一変させて女御を許すばかりか、以後は彼女の守り神になる事を告げる。2作品で、どちらの結末が良いのかは、個人の好みであろう。しかし、憎んではいたものの、責めているうちに愛情が復活するという男心も、現代の視点から見てもありうることなのかもしれない。それも、今後は神となって彼女を守るというお人よし加減もありなのだろう。
 「綾鼓」と「恋重荷」は、両作品を比べて鑑賞するのが面白い。

 


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