トッペイのみんなちがってみんないい

透析しながら考えた事、感じた事。内部障害者として、色々な障害者,マイノリティの人とお互いに情報発信したい。

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夏の日にクリスマスの友情の話を/絵本『魔法の夜』

2009-08-05 01:56:27 | 絵本・児童文学
魔法の夜 (講談社の翻訳絵本)
ドミニク マルシャン
講談社

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 不思議と心が温まる話です。クリスマスの晩に起こった話ですが、夏の日に、こうした話を読みのも一興かも知れません。

 凍てつくような風の吹くクリスマスの夜。当てもなく歩く老人の姿。家路を急ぐ町の人々には彼の姿などは、目に入りません。帰る家もない老人は、したすら寒さの中を歩き続けます。すると、彼の足跡を追って白い小さない犬がついてきました。犬の首輪には、金色の星が光っていました。もみの木の下で、老人は犬にパンを分け合いました。そして、犬に物語をいくつか聞かせ、静かに歌を歌いました。でも、寒さは厳しくなるばかり。老人と犬は、古い小屋に駆け込みます。
 小屋の中で犬が口をききました。「ぼくは、じつは魔法使いなのです。ぼくのようにあわれなものにも、とても親切にしてくれたので、お礼にあなたの願いをかなえてあげましょう。」
 ここで、読者は色々と自分だったらどんな願いをするか、考えるでしょうね。お金持ちになること? 若くなること?
 でも、老人が望んだことは、犬の友達が欲しかったこと。彼の放浪はあまりに淋しかったのでしょう。一緒にそばにいてくれる犬の友達が欲しかったのです。
 魔法使いは考え込みました。そして、魔法の力を持つ金色の星のついた首輪をはずしました。
 夜が明けて、老人と犬の歩く姿。

 魔法使いは、自分の大切な魔法の力を捨てて、老人の友人になることを決めました。この選択が、とても胸を打ちます。

 フランスの歌手、ドミニク・マルシャンが1972年にこの物語を歌にしました。その時、彼は20歳でした。「リトンという男の話をするたびに……」という歌は、まだ、聴いたことがありません。是非、いつか、聴いてみたいと思っています。この歌に出てくるリトンという老人は、実在し、フランスを犬のショピンを連れて放浪していたそうです。そして、寒い夜にドミニクのもとに身を寄せたということです。そして、歌が生まれたんですね。ドミニクは、1989年に37歳の若さで世を去りました。そして、この絵本の出版により、ドミニクの歌が新しい形でよみがえったのです。冬の風景の中を、犬を連れた老人の姿が心に焼きついたようです。

「アカ」という言葉は死語になったのか

2009-08-05 01:24:56 | 日記
 今の若い人には、「アカ」という言葉の持つ意味は分からなくなっているのだろう。「主義者」という言い方もそれに近い意味で使われた。当初は、戦争に反対するコミュニストを指して使われていた。当時の治安維持法の下で、当然、言論の自由などない時代に、弾圧対象として彼らをそう呼んでいた。しかし、この概念はやがて、国体に反する考え方をする者に対しても使われるようになった。要するに当時の戦時下の体制に反対する者は、そう呼ばれたのである。

 戦後、しばらくしてからも、ある年代の人びとはこの言葉を使った。否定的な使い方をしたのである。

 僕が行っている透析施設に、独り暮らしの老人が通ってきていた。毎朝、彼が吉野家から朝定食を食べてから出てくるところに、よく出くわした。
 ある時、透析を待つ間に、日本の戦争責任と教科書問題の話になった。普段は、当たり障りのない話をすることが多いのだが、その日は、どうした具合か、そんな話になった。僕は、侵略戦争であることを普通に話したつもりだが、突然、興奮しだした。彼に言わせれば、日本が世界に追い込まれて仕方なく行った防衛戦争だというのだ。いわゆる靖国史観とでもいうものか。別に、個人的にはどう思うと自由だし、患者同士なので、それ以上論争する必要がないと思っていたら、「あんたはアカだ」と言い出した。それを聞いて、まだ、この言葉を使う人がいるんだと呆れた。要は、自分の考えに沿わなければ、「アカ」と言うことで、それ以上論争も思考も停止されるという免罪符を得ると思う心情なのだ。確かに、ある時代、相手のことを「アカ」といえば、相手の口を封じ込めることができる時代があった。その時代は不幸な時代であったが。その後、彼は、遠くの老人施設に入所させられた。孤独な人だと思った。家族がいても独り暮らしをし、結局は行く着く先の淋しいことだ。

 ドイツでも、ナチスが政権をとる過程で、同じような展開がみられた。当初はヒトラーを礼賛していたが、後に、批判するようになったマルティン・ニーメラー牧師は収容所に送られた。幸い、収容所から生還できた。彼の「彼等が最初共産主義者を攻撃したとき」という詩が「アカ」攻撃に通じるものを示唆してくれる。

 彼らが(ナチ党が)最初、共産主義者に攻撃を加えようと向かって来る時に、声を上げなかった。なぜなら、私は共産主義者ではなかったから。
 それから、彼らが社会民主主義者を刑務所に入れた時も、私は声を上げなかった。なぜなら、私は、社会民主主義者ではなかったから。
 次に彼らが労働組合員に向かって来る時も、私は声を上げなかった。労働組合員ではなかったから。
 それから彼らがユダヤ人に向かって来た時も、私は声を上げなかった。ユダヤ人ではなかったから。
 そして彼等は私に向かって来た。でも、その時は、私のために声を上げてくれる人は誰もいなかった。

 原詩には、病人や障害者もナチスの攻撃の対象として描かれているという。事実、ナチス政権の下、精神病患者、知的障害者等も多数収容所送りや、「処分」の対象となった。同性愛者も収容所に送られた。

 日本における「アカ」の対象も、当初の共産主義者から自由主義者まで拡大していった。「横浜事件」は、いまだ、解決されていない。

 しかし、この「アカ」という言葉は死語となっていると思っていた。しかし、その精神は今も生き続けていることを最近痛感した。

 僕が書いたブログの内容に対して、ある御仁が気に障ったようで、何かとコメントをしてきたのである。その時に、あなたの文章は、共産主義者のもののようだ、理由はわからないが、と言ってきたのである。相手のことを、共産主義者といえば、口を封じることができると思うあの「アカ」の精神がいまだ健在だったのである。

 そして、捨て台詞を残していった。それがコメントの文章の落ちになっていた。この落ちは、那智の滝落ちと呼んだ方がよいだろう。