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透析しながら考えた事、感じた事。内部障害者として、色々な障害者,マイノリティの人とお互いに情報発信したい。

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手の記憶のバトン・自由と友情のために/絵本『彼の手は語りつぐ』

2009-08-02 02:03:50 | 絵本・児童文学
彼の手は語りつぐ
パトリシア ポラッコ
あすなろ書房

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 この国は、いまだ、人権が尊重されない国。憲法を変えようとする人も、憲法が国民の人権を守るために、国家に多くの制限をかけたものであることを無視している。そして、国民には、権利ばかりを主張しないで、義務を果たせと、見当違いの意見を主張している。立憲主義の意義を理解しようとしていない。マスコミも、小泉劇場の時の対応を見てもわかるように、ジャーナリズムの精神は瀕死の状態である。現在も、劇場型の政治報道に明け暮れている。国民の人権が侵害されても、案外、鈍い反応しかしない。その癖、自分たちが批判されると、言論の自由を言いだす。この国は、政治に関するビラを配っても逮捕される国である。そのことに対して、マスコミはほとんど無視する態度をとる。

 こうした状態が起こるのは、権利を勝ち取ったという歴史を共有する人間が少ないからだろう。日本でも、国家権力相手に闘った人たちはいるが、大多数とは言えない。マスコミも、戦前の大本営発表の出先機関であった時の反省が段々と薄れていく。報道すべきことは無視され、ワイドショーの延長のような状態が続いている。

 今は、某知事や市長を改革派のごとく描きだす。それを、国民は、観客として見ている。昨日のテレビの朝のワイドショーも、その知事のちょうちん持ち的内容であった。

 この絵本には、南北戦争に参加した二人の少年が登場する。二人とも北軍に参加した。白人のシェルダン(セイ)は、冒険気分で志願するが、足を負傷して、もう2日も草原に横たわっていた。権利のために闘うことのなかった多くの日本人や、今のマスコミの事を思う。15歳の少年には、戦争は、格好いいものに思えたのだろう。戦争ごっこの延長にしか思えなかったのかもしれない。今は、敵地の中で死にかけている。そこへ、同じ北軍の黒人の少年兵がやってきた。ピンクス(ピンク)だ。味方の軍からはぐれてしまった。セイは黒人を間近で見るのは初めてであった。ピンクは、セイを運びながら、敵地を移動した。セイが気がついたのは、ベッドの上であった。ピンクが以前働いていた農場に着いた時、母親がまだそこに残っていたのだ。二人とも具合が悪かった。でも、ピンクは、また、軍隊に戻るという。彼にとっては、南北戦争は、自分の自由をかけた戦いだったのだ。ここに滞在中、ピンクは元の主人の書斎にセイを連れて行って、本を読んだ。黒人であったが、白人の主人がピンクに読み方を教えたのだ。シェルダンは、白人だったが字が読めなかった。
 母親は、彼らに再び戦場に戻ってもらいたくなかった。「ねえ母さん、この戦争でおれたちが勝たないことには、この国の病気は決して治らないんだ」、ピンクは奴隷制を病気と呼んでいた。
 セイが本当は、戦場に戻りたくなかったのは、恐怖から軍隊を脱走したからだった。足は味方から撃たれたのだ。
 ある日、南軍がやってきた。母親は二人を地下室に隠した。一発の銃声が聞こえた。しばらくして外に出ると、母親が死んでいた。
 結局、2人は味方の軍に合流する前に南軍につかまってしまう。捕虜収容所に入れられる時、2人は別々にされた。その時、ピンクはセイに手を握ってくれと言った。セイは、以前、リンカーンが兵士を慰問しに来た時に、大統領と握手をしていたとピンクに話したことがあるのだ。「おれの手を握ってくれ。リンカーンさんと握手したその手で。セイ、もう一度だけ」

 セイは数ヵ月後、アンダーソンヴィル捕虜商用所から解放された。体重は35kgほどまで減っていた。シェルダン・カーティスは故郷に戻り、やがて、結婚して7人の子どもをもうけ長生きした。
 ピンクス・永リーは、アンダーソンヴィルに到着した数時間後に縛り首にされ死んだと言われている。そして、その死体は、石灰の採掘跡に投げ込まれたという。

 シェルダンは、その話を娘のローザに語った。そして、この家で、この実話が次の世代へと語り継がれていった。この絵本の作者であるパトリシア・ポラッコも、父親のウィリアムからこの話を聞かせてもらった。そして話の最後はいつも作者の手をとって「この手はね、エイブラハム・リンカーンにふれた手なんだよ」と言った。

 自由のための闘ったピンクは家族を持つこともなく死んでいった。彼の記憶は、シェルダンの家族によって伝えられていった。そして、この本によって、多くの人の記憶に残るようにとの作者の思いが込められた。

 黒人初のオバマ大統領の誕生。まだ、アメリカでは権利のための闘いが続けられている。日本でも、憲法のいうように、われわれの不断の努力が必要なのである。