1日1日感動したことを書きたい

本、音楽、映画、仕事、出会い。1日1日感動したことを書きたい。
人生の黄昏時だから、なおそう思います。

「ブラームス交響曲全集」(サイモン・ラトル指揮 ベルリンフィル)

2009-08-31 19:50:03 | 音楽
 今日も、サイモン・ラトル指揮 ベルリンフィルハーモニー管弦楽団の「ブラームス
交響曲全集」を聴いています。最近一番のお気に入りCDです。
 ベルリンフィルの演奏、安心して音楽に身をゆだねることができる心地よさがあり
ます。クライマックスのパンチ力と重厚さもさすがなのです。いま、交響曲第一番の
最終楽章のホルンのソロが響いているけど、ソリストの力量も、やっぱりすごいと思
いました。

 有名な話だけれど、ブラームスはこのホルンの主題をクララ・シューマンに送った
のですよね。次のような言葉をつけて。

「今日、このように羊飼いの角笛が吹かれていました。山高くから、谷深くから、
あなたに千回もの挨拶を送ります。」

 うーーん、ロマンチックやね。


明日香村

2009-08-30 18:38:22 | 日記
 今日は、サイモン・ラトル指揮、ベルリンフィル演奏の「ブラームス交響曲全集」
を聴きながら、明日香村に行ってきました。サイモン・ラトルの「ブラームス交響
曲全集」は、僕の今一番のお気に入りCDです。



 香具山と耳成山が見えます。



 7世紀につくられた亀形石造物。



 酒船石。



 飛鳥寺。



 飛鳥大仏(釈迦如来坐像)。609年につくられたそうです。火災などにあって
当時のものは一部しか残ってないそうです。長い顔は、飛鳥時代の仏像の特徴です。



蘇我馬子の墓だとも言われている石舞台。





これは、飛鳥資料館でみつけた飛鳥時代の噴水、石人像。
うしろからギュッと抱きしめているのです。いかんといてって
言ってるんかな・・・

明日香村、おもしろかったです。暑かったけど。涼しくなったら
レンタサイクルでもう一度、ゆっくり回ってみようと思います。

「星空ファミリーコンサート」

2009-08-29 23:38:56 | 日記
 服部緑地の野外音楽堂で開かれた大阪センチュリー交響楽団の「星空ファミリーコ
ンサート」に行ってきました。三女が、センチュリーユース・オーケストラの一員として、
ビオラで参加です。



センチュリーユース・オーケストラ。グリーグのピアノ協奏曲を演奏。



こちらは、大阪センチュリー交響楽団。グラズノフの舟歌などを演奏。



そして、アンコールのラデッキー行進曲に合わせて、手拍子をする観客の皆さん。

今年で14回目の「星空ファミリーコンサート」。後ろの方から、去年のアンコールも
この曲やったねという楽しそうな声が聞こえてきました。

大阪センチュリー交響楽団が、大阪府民の方に支えられて、これからも発展していく
ことを、心より祈っております。


失業率 過去最悪の5.7%に

2009-08-29 10:04:39 | 経済指標メモ
 総務省が発表した7月の完全失業率は、先月から0.3%悪化し5.7%になりました。
バブル崩壊後に記録した5.5%をうわまわる過去最悪の数字です。失業者数は、
359万人で昨秋から100万人の増加。有効求人倍率も0.42倍と過去最低となりました。
 「雇用調整助成金」の対象者は、243万人。25歳~34歳の失業率は7.1%、35歳~
44歳の働き盛りの失業率も4.9%。いずれも、ほんとうに厳しい数字です。
 今後も、ソニーが国内外で16,000人以上、東芝も国内の非正規社員を3,900人、
三越も1,000人の従業員を削減するなど、人員の削減はまだまだ続きます。

みずほ総合研究所
「失業率の悪化は来年半ばまで続く可能性がある」

 明日は、総選挙。一生懸命マニフェストを読んで、雇用対策でもっともまともな
ことを主張している政党に、一票を投じます。



 

トヨタ・GMの米合弁 工場存続訴え従業員らデモ(2)

2009-08-29 09:36:17 | 経済指標メモ
 昨日の神戸新聞の夕刊。トヨタが米ゼネラル・モータースとの合弁工場(NUMMI)
の生産を、2010年3月に打ち切ると発表しました。従業員4700人は、解雇する見通し
とのこと。
 そして今朝の日経新聞。生産打切りに対する全米自動車労組(UAW)の声明が
載っています。

 「トヨタの判断は不合理だ」
 「政府の新車買い替え制度で利益を得たトヨタが、米工場を閉じるのは遺憾だ」

 トヨタにとっては、初の主力組み立て工場の閉鎖。トヨタの経営陣は、「生産性
が低いNUMMIを残せば、他の工場にメスを入れられない」と主張しているそうです。
ここでの労使の交渉が、今後のトヨタの工場のあり方を大きく左右してくことは
間違いありません。引き続き注視していきたいです。


4ヶ月、3週と2日

2009-08-28 12:38:12 | 映画
ルーマニアの映画です。1987年、チャウシェスク時代のルーマニアでは、妊娠4カ月以上
の妊娠中絶には5年から10年の実刑が課せられるなど、妊娠中絶がきびしく禁止されていました。

闇の医者に頼って妊娠4カ月の胎児を中絶をしようとする女学生と、彼女を必死で支えるルームメイトの物語です。

人間のエゴ、身勝手さ、他人を利用しようとする心、そして差別と偏見と。
人間がもつ「悪」に直面しながらも、必死で友人を支えようとする女学生の姿が
とても痛ましい作品です。

あまりに重たい映画でした。
昨日見たのだけれど、見終わった後は、しばらく立ち上がることができなかった。
この映画は、安直な感想のはるかむこうにある。





「ハイファに戻って/太陽の男たち」(ガッサーン・カナファーニー)(2)

2009-08-27 17:12:32 | 
  「太陽の男たち」を読みました。著者のカナファーニーは、1936年生まれ。1948年、ディルヤーシン村の虐殺事件がおこるのですが、カナファーニーと彼の家族も、イスラエルの軍隊によって故郷を追われ、難民となってシリアに逃れたそうです。カナファーニーの作品には、故郷を追われ、難民として生きざるをえなかった自らの境遇が深くきざみこまれてます。

 「太陽の男たち」は、イラクのバスラからクゥエートに密入国しようとする三人のパレスチナ難民の物語です。子供にわずかばかりの教育をさずけるために。父に去られ一人で暮らす母親の生活を支えるために。そしてなによりも人間としての尊厳をもって生きるために。三人がなぜクゥエートに向かうのかを通して、カナファーニーは、パレスチナ難民がおかれている境遇を明らかにしていきます。

 三人は、灼熱の砂漠の中を、焼けるように熱くなった給水車のタンクの中に身を隠して、国境を越えようとします。

 「ずんぐりと大きな車は彼ら自身のために道を進むばかりでなく、彼らの夢想、家庭への思慕、あるいは彼らの執念、希望、悲惨、絶望、力強い意欲や底なしの挫折感、そして過去や未来にまでもたえず道を切り拓いていた」

 悲惨と絶望と底なしの挫折感を抱えながら、未来へのわずかな希望を支えにタンクに身をひそめる3人の姿は、難民キャンプで暮らすパレスチナ民衆の姿そのものなのでしょうね。

 この小説は、3人の死を目撃した運転手の次の言葉で終わります。

 「なぜおまえたちはタンクの壁を叩かなかったんだ。」

カナファーニーが伝えたかったもの・・・
難民キャンプやガザで暮らすパレスチナ民衆の沈黙の言葉。

「ハイファに戻って/太陽の男たち」(ガッサーン・カナファーニー)

2009-08-26 17:06:09 | 
 「ハイファに戻って/太陽の男たち」(ガッサーン・カナファーニー)を読みました。先日読んだ岡真理の「アラブ、祈りとしての文学」で紹介されていた小説です。今日は、やはりこの一冊。朝から、深い感銘を受けています。

 ガッサーン・カナファーニーはパレスチナの作家です。PFLP(パレスチナ解放人民戦線)のスポークスマンとしてパレスチナ解放運動で重要な役割をはたしましたが、72年7月爆弾によって暗殺されました。

 物語は、1948年、イスラエルの軍隊によって、先祖から受け継いだ土地を追い出されたパレスチナ人の夫婦が、20年ぶりに故郷ハイファを訪れるところから始まります。二人には、イスラエルの軍隊に追われた時に、幼い息子を置き去りにしてしまったという癒すことのできない過去があるのです。
 20年ぶりに訪れた家には、ナチの大量虐殺を生き延びたユダヤ人の夫婦が住んでおり、そこで二人は、イスラエルの守備隊に入隊しパレスチナ民衆を弾圧する側に回った息子と再会します。

 「人間は、それ自体が問題を体現している存在なのだ」これは、再会した息子の言葉ですが、カナファーニーは、故郷を追われたパレスチナ人夫婦、イスラエルに移住してきたユダヤ人夫婦、イスラエル人として生きるパレスチナ青年の存在を通して、パレスチナが、そして世界が抱える問題へと肉薄していきます。彼らの言葉一つ一つが、とても重たいのです。

 「あなたはハイファを出るべきでなかった、子供を置き去りにすべきではなかった。武器を持って戦うことができないひきょう者だ。」という息子の言葉に、主人公サイードは、たしかに自分はひきょう者だが、そう非難することがパレスチナの民衆から土地を奪い、虐殺した行為を正当化することにはならないと答えた後で、次のように語ります。

 「もしそうでないなら、アウシュヴィッツで起こったことは正しいことになります。」


 「祖国というのはね、このようなすべてのことが起こってはいけないところなのだよ。」という主人公サイードの言葉。そして「祖国とは未来なのだ」との叫び。

 文学を読むとは、祈るという行為なのだという岡真理の言葉が心にしみる短編でした。パレスチナの人々が、「このようなすべてのことが起こってはいけないところ」に住み、「全世界の誤り」が正される日が来ることを、心より祈りたいと思います。


「ファン・ゴッホ 自然と宗教の闘争」(圀府寺 司)

2009-08-25 17:27:11 | 
 「ファン・ゴッホ 自然と宗教の闘争」(圀府寺 司)を読みました。著者は、日本のゴッホ研究の第一人者です。ゴッホが描いたモティーフ別(教会、農作業、太陽、ひまわり、糸杉、オリーブの木、種をまく人、掘る人など)の作品リストの考察を通して、一生涯をかけてゴッホが悩みぬいた課題を明らかにしようとした本です。実証資料が豊富で、とても読み応えがありました。

 ゴッホの画家への道は、牧師であった父との決別から始まりました。それは、伝統的なキリスト教の価値観からの決別をも意味しました。その背景には、資本主義の浸透によって崩壊していく教会を中心とした共同体の崩壊があったと思います。

 筆者は、次のようなゴッホの言葉を紹介しています。
 
「それでもやはり、ぼくには、何というか、宗教とでもいうべきものがどうしても必要だ。だからぼくは夜、星を描きに外に出る。」

「ぼくは人生においても絵画においても神様などなしにやっていけるが、ぼくのような苦しみの多い人間は、自分よりも大きい何かなしにはやってゆけない。それは、僕の生命であり、想像する力だ。」

 キリスト教の価値観と決別した後に、ゴッホが依拠しようとした「宗教」とは何なのか、「自分より大きい何か」とはいかなるものであるのか、筆者は、モティーフ別の作品リストを元にこの問題を考察していきます。

 ゴッホがゴーギャンたちとの共同体をつくるために、88年にアルルに移るまでは、農作業をしている人の背景に教会がたくさん描かれていたそうです。「教会」とは、もちろんキリスト教的価値観の象徴なのですが、アルル以降、教会の代わりに、教会のある位置に「太陽」が描かれるようになるそうです。「太陽」とは、ゴッホにとっての新たな神であり、「自然」の象徴でした。筆者は、ゴッホの絵において、「自然」が宗教の代替物の役割を果たしたと主張しています。

「ファン・ゴッホは自然に、星空にしがみつき、南仏の太陽という新しい神のもと、『黄色い家』という新しい共同体を作り上げようとしたのだ。」


 筆者が巻末につけているモティーフ別の作品リストを見ていると、なにか切ない気持になってきます。死をイメージする糸杉は1888年以降に、聖書の主題と密接に関連するオリーブの木は1889年以降に描かれるようになります。また、楽園のイメージの対極にある苦しみを象徴する「掘る人」は、「黄色い家」の希望に燃えていた1887年と1888年には描かれず、1889年から再び描かれるようになります。

 「黄色い家」という共同体への夢が破れ、苦しみの中で、天へとのぼる糸杉を眺めているゴッホの姿が、とても痛ましく思える一冊でした。



新型インフルエンザが

2009-08-24 19:41:26 | 日記
 新型インフルエンザが、わが社のすぐそばにやってきているような・・・
そんな雰囲気なのです。
 家族の方が新型インフルエンザになって、検査をしてみると本人も陽性ということで、
念のために一人、先週から休んでもらっているのだけど、今日は、保育園に通って
いるお子さんがインフルエンザということで、女性の方が一人休まれました。
 お二人とも、本人が熱を出しているというのではないのだけれど、しばらくは
休んでもらおうと思っています。
 会社の入り口には、アルコール消毒液をおいてるんだけれど、うがいも励行せんと
あかんやろな・・・てなわけで、しばらくは、疲れをためないように規則正しい生活
を送ることにします。

「秋深き」

2009-08-23 11:41:56 | 映画
 「秋深き」を見ました。原作は織田作之助です。こんな映画に最近の僕はメロメロ
になってしまうのです。上町台地に谷町9丁目、生国魂神社に天満宮。これも大阪テ
イストたっぷりの映画です。

 大きなオッパイが大好きな中学教師を八嶋智人、北新地のホステスを佐藤江梨子。
新地のクラブに毎日通いつめて、必死の思いでプロポーズをして・・・。
 愛する女性のことを一途に想い、一緒になった後も、他の男とつきあっているのでは
ないかと、勝手に嫉妬し、自らが作った幻想に苦しむ、そんな男の姿を、八嶋智人が
好演しています。わかるは、この気持ち。痛いほどに。ほんまに、ようわかる、

 佐藤江梨子も、がんばってました。これまでいろいろ苦労してきて、やっとつかんだ
平凡なあたりまえの生活を、細やかな配慮で守っていこうとする女性の姿をこちら
も好演。

他者を思いやる一途な気持ちと、親しい人に手紙で近況を伝えるような細かい配慮と。
人を愛する上で、どちらもとても大切なもんなんやろね。



「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」(若松孝二)

2009-08-22 11:27:00 | 映画
 「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」(若松孝二)を見ました。重たかった。
ほんとうに。山岳アジトで命を失われた二十歳代の若者たちのご冥福を祈りたいと
思います。

 この映画をみながら、先日見た「大阪ハムレット」の、生活臭あふれるオカンの姿を
思いだしていました。

 世の中の不平等と搾取をなくすために革命を行うのだという観念に取りつかれた若
者たちと、昼は病院で働き夜はスナックでバイトをしながら子どもたちとの生活を
必死でやりくりしているオカンと。この映画には、生活の臭いがまったくないのです。

 映画は、リーダーであった森恒夫の「今僕に必要なものは真の勇気のみです。
跳躍のための」という言葉で終わります。

 どこへ向けた跳躍? 

必要だったものは、観念の極北から、ひたむきに生きるという行為=生活へ向けた
跳躍やったんやろな・・・きっと。



トヨタ・GMの米合弁 工場存続訴え従業員らデモ

2009-08-21 22:46:53 | 経済指標メモ
 職場を守るということで、もう一つ。今日の日経の夕刊。トヨタ自動車が清算する
方針を固めた米ゼネラル・モーターズ(GM)との米合弁会社「NUMMI」の従業
員らが20日、カリフォルニア州フリーモント市でデモを実施し、工場存続を訴えたと
いう記事が載っています。
 デモには、NUMMI従業員や家族ら約200人が参加しました。全米自動車労組
(UAW)支部長のセルジオ・サントス氏は、次のように語っています。

「州政府などに(工場存続に向けた)優遇措置を働きかけている。今後も高品質のト
ヨタ車を生産し続けたい」

 高品質のトヨタ車を生産し続けたいという労働者の当たり前の気持ちに、トヨタは
真摯に耳を傾けるべきだと思う。


正社員の離職10万人超

2009-08-21 22:22:52 | 経済指標メモ
 今日は、少し飲みすぎ。ブログをパスしようと思ったのだけれど、この記事だけはメモ
しておきます。
 今朝の日経新聞。金融危機が深まった昨年の9月以降、上場企業が正社員を対象に
募集した希望退職に23,000人の方が応じたという記事が載っています。企業倒産に
よる失職も85,000人。合計で10万人をこえる方々が、職場を去っていかれました。
もちろんこれは、氷山の一角。
 職場を離れざるを得なかった一人一人の方の境遇を考えると、とてもせつない思い
になります。

日経新聞
「円高などを背景に世界的な生産体制を見直す事業構造改革は今後も続く可能性が
あり、国内の雇用環境は厳しさが続きそうだ」

 職場を守ることが、いまほど大切な時はないと、せつに思います。

「アラブ、祈りとしての文学 」(岡真里)

2009-08-20 19:42:10 | 
 「アラブ、祈りとしての文学 」(岡真里)を読みました。筆者はアラブ文学研究家です。今年読んだ本で、ベストワンだと思う。もう少し詳しい感想は、時間があるときに改めて。ナクバによって故郷を追われた80万人のパレスチナの人びと。シャティーラの難民キャンプで虐殺された数千人のパレスチナ難民。イスラエルのガサで第二次インテファーダで殺されていった3000名以上のパレスチナ住民。パレスチナの人々の悲劇を目撃してきた著者の「文学に何ができるのか」という問いと、絞り出すような答え(「祈りとしての文学」)がとても重たい一冊でした。

 「パレスチナ人が、あるいはイラク人が圧倒的な暴力の只中で傷ついているこのとき、日本で小説を読んだり、それについて研究したりすることにいったいいかなる意味があるのか。私は問わずにはいられなかった。」

 「アフリカの飢えている子供たちを前にして文学に何ができるのか、というサルトルの問いに、私たちはこう答えることができるのかもしれない―小説は、祈ることができる、と。だが、祈りとして書かれた小説が、今まさに餓死せんとしている子供たちを死から救うのかと問われれば、祈りが無力であるのと同じように、小説もまた無力であるに違いない。」

 「祈ることが無力であるなら、祈ることは無意味なのか、私たちは祈ることをやめてよいのか。しかし、いま、まさに死んでゆく者に対して、その手を握ることさえ叶わないとき、あるいは、すでに死者となった者たち、そのとりかえしのつかなさに対して、私たちになお、できることがあるとすれば、それは、祈ることではないだろうか。だとすれば、小説とはまさにその祈りなのだ。死者のための。ひとが死んでなお、その死者のために祈ることに『救い』の意味があるのだとしたら、小説が書かれ、読まれることの意味もまた、そのようなものではないのか。」

 「薬も水も一片のパンも、もはや何の力にもならない、餓死せんとする子どもの、もし、その傍らにいることができたなら、私たちはその手をとって、決して孤独のうちに逝かせることはないだろう。あるいは、自爆に赴こうとする青年が目の前にいたら、身を挺して彼の行く手を遮るだろう。だが、私たちはそこにいない。彼のために祈ること。それが私たちにできるすべてである。だから、小説は、そこにいない者たち、いなかった者たちによって書かれるのだ。もはや私たちには祈ることしかできないそれらの者たちのために、彼らにささげる祈りとして。」

 文学それ自体は現実を変えはしないけれど、文学は私たちのなかの何かを根源的に変える力を持っている・・・これも、著者の言葉。たしかに、ぼくも、そう思う。