1日1日感動したことを書きたい

本、音楽、映画、仕事、出会い。1日1日感動したことを書きたい。
人生の黄昏時だから、なおそう思います。

「アラブ、祈りとしての文学 」(岡真里)

2009-08-20 19:42:10 | 
 「アラブ、祈りとしての文学 」(岡真里)を読みました。筆者はアラブ文学研究家です。今年読んだ本で、ベストワンだと思う。もう少し詳しい感想は、時間があるときに改めて。ナクバによって故郷を追われた80万人のパレスチナの人びと。シャティーラの難民キャンプで虐殺された数千人のパレスチナ難民。イスラエルのガサで第二次インテファーダで殺されていった3000名以上のパレスチナ住民。パレスチナの人々の悲劇を目撃してきた著者の「文学に何ができるのか」という問いと、絞り出すような答え(「祈りとしての文学」)がとても重たい一冊でした。

 「パレスチナ人が、あるいはイラク人が圧倒的な暴力の只中で傷ついているこのとき、日本で小説を読んだり、それについて研究したりすることにいったいいかなる意味があるのか。私は問わずにはいられなかった。」

 「アフリカの飢えている子供たちを前にして文学に何ができるのか、というサルトルの問いに、私たちはこう答えることができるのかもしれない―小説は、祈ることができる、と。だが、祈りとして書かれた小説が、今まさに餓死せんとしている子供たちを死から救うのかと問われれば、祈りが無力であるのと同じように、小説もまた無力であるに違いない。」

 「祈ることが無力であるなら、祈ることは無意味なのか、私たちは祈ることをやめてよいのか。しかし、いま、まさに死んでゆく者に対して、その手を握ることさえ叶わないとき、あるいは、すでに死者となった者たち、そのとりかえしのつかなさに対して、私たちになお、できることがあるとすれば、それは、祈ることではないだろうか。だとすれば、小説とはまさにその祈りなのだ。死者のための。ひとが死んでなお、その死者のために祈ることに『救い』の意味があるのだとしたら、小説が書かれ、読まれることの意味もまた、そのようなものではないのか。」

 「薬も水も一片のパンも、もはや何の力にもならない、餓死せんとする子どもの、もし、その傍らにいることができたなら、私たちはその手をとって、決して孤独のうちに逝かせることはないだろう。あるいは、自爆に赴こうとする青年が目の前にいたら、身を挺して彼の行く手を遮るだろう。だが、私たちはそこにいない。彼のために祈ること。それが私たちにできるすべてである。だから、小説は、そこにいない者たち、いなかった者たちによって書かれるのだ。もはや私たちには祈ることしかできないそれらの者たちのために、彼らにささげる祈りとして。」

 文学それ自体は現実を変えはしないけれど、文学は私たちのなかの何かを根源的に変える力を持っている・・・これも、著者の言葉。たしかに、ぼくも、そう思う。