「ハイファに戻って/太陽の男たち」(ガッサーン・カナファーニー)を読みました。先日読んだ岡真理の「アラブ、祈りとしての文学」で紹介されていた小説です。今日は、やはりこの一冊。朝から、深い感銘を受けています。
ガッサーン・カナファーニーはパレスチナの作家です。PFLP(パレスチナ解放人民戦線)のスポークスマンとしてパレスチナ解放運動で重要な役割をはたしましたが、72年7月爆弾によって暗殺されました。
物語は、1948年、イスラエルの軍隊によって、先祖から受け継いだ土地を追い出されたパレスチナ人の夫婦が、20年ぶりに故郷ハイファを訪れるところから始まります。二人には、イスラエルの軍隊に追われた時に、幼い息子を置き去りにしてしまったという癒すことのできない過去があるのです。
20年ぶりに訪れた家には、ナチの大量虐殺を生き延びたユダヤ人の夫婦が住んでおり、そこで二人は、イスラエルの守備隊に入隊しパレスチナ民衆を弾圧する側に回った息子と再会します。
「人間は、それ自体が問題を体現している存在なのだ」これは、再会した息子の言葉ですが、カナファーニーは、故郷を追われたパレスチナ人夫婦、イスラエルに移住してきたユダヤ人夫婦、イスラエル人として生きるパレスチナ青年の存在を通して、パレスチナが、そして世界が抱える問題へと肉薄していきます。彼らの言葉一つ一つが、とても重たいのです。
「あなたはハイファを出るべきでなかった、子供を置き去りにすべきではなかった。武器を持って戦うことができないひきょう者だ。」という息子の言葉に、主人公サイードは、たしかに自分はひきょう者だが、そう非難することがパレスチナの民衆から土地を奪い、虐殺した行為を正当化することにはならないと答えた後で、次のように語ります。
「もしそうでないなら、アウシュヴィッツで起こったことは正しいことになります。」
「祖国というのはね、このようなすべてのことが起こってはいけないところなのだよ。」という主人公サイードの言葉。そして「祖国とは未来なのだ」との叫び。
文学を読むとは、祈るという行為なのだという岡真理の言葉が心にしみる短編でした。パレスチナの人々が、「このようなすべてのことが起こってはいけないところ」に住み、「全世界の誤り」が正される日が来ることを、心より祈りたいと思います。
ガッサーン・カナファーニーはパレスチナの作家です。PFLP(パレスチナ解放人民戦線)のスポークスマンとしてパレスチナ解放運動で重要な役割をはたしましたが、72年7月爆弾によって暗殺されました。
物語は、1948年、イスラエルの軍隊によって、先祖から受け継いだ土地を追い出されたパレスチナ人の夫婦が、20年ぶりに故郷ハイファを訪れるところから始まります。二人には、イスラエルの軍隊に追われた時に、幼い息子を置き去りにしてしまったという癒すことのできない過去があるのです。
20年ぶりに訪れた家には、ナチの大量虐殺を生き延びたユダヤ人の夫婦が住んでおり、そこで二人は、イスラエルの守備隊に入隊しパレスチナ民衆を弾圧する側に回った息子と再会します。
「人間は、それ自体が問題を体現している存在なのだ」これは、再会した息子の言葉ですが、カナファーニーは、故郷を追われたパレスチナ人夫婦、イスラエルに移住してきたユダヤ人夫婦、イスラエル人として生きるパレスチナ青年の存在を通して、パレスチナが、そして世界が抱える問題へと肉薄していきます。彼らの言葉一つ一つが、とても重たいのです。
「あなたはハイファを出るべきでなかった、子供を置き去りにすべきではなかった。武器を持って戦うことができないひきょう者だ。」という息子の言葉に、主人公サイードは、たしかに自分はひきょう者だが、そう非難することがパレスチナの民衆から土地を奪い、虐殺した行為を正当化することにはならないと答えた後で、次のように語ります。
「もしそうでないなら、アウシュヴィッツで起こったことは正しいことになります。」
「祖国というのはね、このようなすべてのことが起こってはいけないところなのだよ。」という主人公サイードの言葉。そして「祖国とは未来なのだ」との叫び。
文学を読むとは、祈るという行為なのだという岡真理の言葉が心にしみる短編でした。パレスチナの人々が、「このようなすべてのことが起こってはいけないところ」に住み、「全世界の誤り」が正される日が来ることを、心より祈りたいと思います。