1日1日感動したことを書きたい

本、音楽、映画、仕事、出会い。1日1日感動したことを書きたい。
人生の黄昏時だから、なおそう思います。

口上が長すぎて

2011-06-19 17:58:14 | 日記
昨日は、韓国からのお客さんを奈良に案内したあとで、大急ぎで神戸文化ホールへ。無農薬・無肥料りんごの生産者木村秋則さんのお話と、映画「降りてゆく生き方」を見に行きました。

「降りていく生き方」は、リゾート開発に成功すれば高額の報酬を得ることを約束された、定年まじかのおちこぼれ「企業戦士」が、限界集落で無農薬・無肥料で米を作っている人たちや商店街を守っていこうとする人たちとの出会いを通じて、成長・効率・競争重視の社会から「降りて」、人と自然といのちを大切にする生き方に目覚めていくというお話です。この映画は、自主上映のみで、映画館やDVDでは決して見れないそうです。

始まったのが午後4時15分。木村さんの講演は1時間。映画は1時間45分。休憩が15分。しかし終わったのは午後の9時。映画が終わったあとに、映画上映にかける主催者の皆さんのお話が延々と続きました。講演と映画と休憩で3時間だから、1時間45分もあったのですね。あと口上の長さに、正直、うんざりしてしまいました。前向きのコメントを書きたいと思ったけれど、うんざり感で、木村さんの講演も映画の印象も、どこかへ飛んで行ってしまいました。これからも全国で自主上映が続くのだろうけれど、もう少しあっさり終わられたほうがいいと思います。映画へかける思いは、一言で伝わってくるものです。

ミヌォン(民願)

2011-06-18 22:29:56 | 韓国語
민원(ミヌォン)。今回韓国の方とお話していて、はじめて聞いた言葉です。漢字で書くと民願と書きます。民衆運動を指す言葉です。「済州島の海軍基地建設は、민원のために、工事をしては中断し、しては中断ししている。」というような使い方をされていました。

プサンにあるカンチョン港で、わが社の製品が7月から採用されうということで、輸出の準備をしていたのですが、민원のために急遽延期になりました。あわびを養殖されている漁民の方が、防波堤の建設に反対しておられるそうです。「민원が強いのは、韓国の伝統です」韓国の方は口々に語っておられました。日本の植民地支配に対する抵抗運動から、独裁政権下での民主化を求める闘いまで。確かに、分かる気がする。

今日は、雨の中、韓国からのお客さんをつれて、東大寺と







春日大社に行ってきました。



東大寺大仏殿の屋根を見られて、新羅時代のお寺によく似ていると言っておられました。
火曜日から土曜日まで。長い一週間が終わりました。明日は、家で、ゆっくりしよう。


「観念的生活」(中島義道)

2011-06-17 07:49:35 | 
哲学者中島義道の日常生活が、日記形式で語られていきます。この本を読むと、存在、真理、自我、時間、善悪など、基本的な問題について、哲学者というのは、こうも毎日考え続けているのかと驚いてしまいます。「人生にはまったく何の意味もないのだ。ただそれだけのことである」といった中島義道ならではのニヒリスティックな発言は、まぁ、御愛嬌といったところでしょうが。

筆者は、なぜ哲学に首を突っ込むようになったかについて、次のように書いています。これが、この本のエッセンスだろうと思います。

「そもそも哲学なんぞに首を突っ込んだのは、世の中に存在しているものすべてが不思議だったからである。中でも『この私が存在している』ということが不思議でしょうがない。私のあり方こそ存在論の要である。このことはハイデガーを待つまでもなく、誰でも知っている。それは、一方で、最も確実に存在するかのように思われるが、他方、ちょっと探りを入れるともしかしたら存在しないのではないかと思われるぐらい儚げなものである。もし、この私が存在しないものであったら、どんなに人生は楽なことであろう。だが、サルトルがどんなに饒舌に語っても私は完全な無ではないから(無という名の有であるから)やっかいなのである。こうした感覚をもてない人は、たぶんいくら頑張っても哲学者にはなれないのではないか。こんなに至近距離で存在するものの存在の仕方が摩訶不思議だからこそ、すべての存在するものや存在することに対して懐疑の目を向けたくなるのである。」

僕は、いくら頑張っても哲学者にはなれないと思う。


文化の違い

2011-06-16 07:55:33 | 日記
韓国からお客さんが4名来られて、熊本にある工場を案内してきました。
いまから、関空までお見送り。
火曜日から、ずっと食事を一緒にしてきたけれど、文化の違いを
一番感じたのは、韓国の方は、お匙(スッカラク)がいるということでした。
うなぎの肝吸いを食べる時も、あさりの酒蒸しを食べる時も
「お匙をもらってください」と言われました。
お吸い物は、お匙を口にまで持って行って食べておられました。
日本人は、器を口にまで持って行って、お吸い物を食べるけれど
器は机の上に置いたまま。食文化の違いですよね。

さてと、明日から別の方2名が、いらっしゃいます。
どんな文化の違いを感じるのか。ちょっと楽しみ。
仕事は、ハードやけれど。

あたまが、韓国語でパンクしそうになっています。
それでも、韓国語がうまくならない。テグとミリャンと江原道の
出身者の方々なので、うまく聞き取れないのも
方言のせいかも知れないと思いつつ・・・自信喪失です。

「恋する宇宙」

2011-06-13 20:10:32 | 映画
アスペルガー症候群の男性アダムと、同じアパートに住む女性ベスの物語。



宇宙のことを話しだすと止まらない、場の空気が読めない、他者の言葉にこめられた感情を理解できない、相手の目を見つめて話すことができない。同居していた父に先立たれ、会社も首になってしまったアスペルガー症候群のアダムを、ベスは理解し、支えて行こうとするのですが・・・・

部屋の天井にうつるプラネタリウムを眺めたり、セントラルパークのアライグマを二人で見に行ったり。ハッピーエンドを予感させるシーンがいくつかでてくるのですが、ハッピーエンドでは終わらないところに、この映画を作った人たちの、健常者と障害者がともに暮らしていくことは、ほんとうに難しいのだという思いがこめられているのでしょう。

この映画を見るまで、アスペルガー症候群についてほとんど知らなかったので、とても勉強になりました。しんみりとした、これもいい映画だったと思います。

話しかわるけれど、明日から土曜日まで、立て続けに韓国からお客さんがやってくる。今週は、ほんとうに忙しい。体、もつかな・・・

「地のはてから(上)」(乃南 アサ)

2011-06-12 16:44:31 | 
上巻は大正5年(1916年)から昭和3年(1928年)まで。北海道の過酷な自然の中で、ひたむきに生きる少女が主人公の物語です。



借金取りに追われ、福島から、開拓農民として知床に渡った両親に連れられて、少女は北海道にやってきます。木を伐採し、笹の根と戦い、ようやく開墾した畑で作った作物が、バッタの大群によって一瞬にして食い荒らされてしまう。前半は、飢餓線上を生きる開拓農民たちの過酷な生活が描かれていきます。

少女の一家も、事故で父親を失い、母親が再婚。再婚した家でも、火災によって義理の父が死んでしまうなど、不幸が重なります。そして、少女は、12歳の時に、口減らしのために、小樽に奉公に出されてしまいます。

関東大震災(1923年)、治安維持法制定(1925年)、小樽高等商業学校での軍事教練反対運動(1925年)、小樽港湾労働者7千人のゼネスト(1927年)、日本共産党、労働農民党などの関係者約1600人が検挙された3.15事件など、しのびよる軍国主義と排外主義の空気の中で、人は平等には生まれてこないということを、少女は、身をもって知るというのが上巻のストーリー。

「人はまず舞い降りた場所で、まるで違ってしまうのだ。そうして皆が違う流れに運ばれる。」

小樽は、戦前、日本の労働運動と在日朝鮮人の数少ない共同闘争が行われたところです。小樽高等商業学校での軍事教練反対運動は、軍事教練の目的に、「無政府義者ハ不逞(ふてい)鮮人ヲ煽動(せんどう)」とあったことから、小樽総労働組合、在日朝鮮人らによる大規模な反対運動が展開されました。また、小樽の労働者たちは、1929年に朝鮮で行われた元山ゼネスト(1929年)に対して、連帯ストを行ったともいわれています。

このような小樽で、14歳になった主人公は、どのように生きていくのか、下巻が楽しみです。

「When the Heart Emerges Glistening」(Ambrose Akinmusire)

2011-06-11 21:22:55 | 音楽
土曜日は、いつもの通りジャズ鑑賞。今日、何度も聴いたのがこのCDです。



「When the Heart Emerges Glistening」。「心がキラリト光る時」とでも、訳すのだろうか?邦題は「うちなる閃光」となっています。Ambrose Akinmusireは、今年29歳のジャズトランペッターです。このCDの13曲中11曲が、彼の作曲によるものです。

Confession(告白)、With Love(愛とともに)、Regret(後悔)、 Suicide Manifesto(自殺のマニフェスト)など、曲名にはスピリチュアルな単語が並びます。また、ドラムとAkinmusireの朗読だけの「My Name Is Oscar」という曲は、警官に射殺されたオークランドの黒人男性を描いたものです。

人種差別への怒り、心の葛藤、そして愛。Akinmusireのトランペットには、ジャケットのように、じっと目を閉じて、自らの心の中をみつめるような静けさがあります。29歳というと、上原ひろみと同世代。これからも注目していきたいアーティストです。

「わたしが死について語るなら (未来のおとなへ語る) 」(山折哲雄)

2011-06-10 20:11:30 | 
筆者は、親鸞の研究などで有名な宗教学者です。この本は、未来のおとなである子供たちに向けて書かれました。筆者は、子供たちに死を語る意味について、次のように書いています。

「本当はいちばん感受性が強い時期、子ども時代から思春期にかけて、『生きる』だけではなく『死』についてきちんと教えることがなければなりません。なぜなら、子どもたちは大人が思っているよりもずっと、『死』について考えているからです。」

「私は、いくら大人が子どもに対して、『生きる力』が大切だと言っても、それだけではなぜそうなのか、子どもたちに納得してもらうことはできないのではないかと思います。人間はいずれ死んでいく生物でもあるということを同時に言って聞かせなければ、生きていることのありがたさ、かけがえのなさのような感覚を教えることはできません。生きることの重大さは、いつも人間は死の危険にさらされているからこそ自覚されるものです。だからきちんとについて『死』教えないかぎり本当の『生きる力』は身につかないと思います。」

死が身近にあるインドのガンジス川での火葬の話、筆者自身が実感した死の話、宮沢賢治や金子みすずなど文学に描かれた死、日本人の心の底に流れる「無常感」などが語られていきます。

筆者は、この本の後半に、尾崎放哉の次の俳句を紹介しています。

咳をしてもひとり

この俳句を書いた時、尾崎放哉は結核に冒されていて、余命いくばくもないことを知っていたそうです。この俳句にうたわれた「ひとり」について、筆者は、次のように書いています。

「ひとりでもすっと立っている。そういう人間は見ていてとても魅力的なものです。」

「そもそも『孤独』だって悪いことばかりではありません。人間はひとりで生まれ、ひとりで死んでいく。本質的に孤独な存在なんです。今はひとりきりで死んでいったひとのことを『孤独死』と呼び、非常に気の毒な人生を送った人として扱っている傾向がある。もちろん気の毒な境遇のまま亡くなった人だっているでしょうが、だからといって避けなければならない悪い生き方だときめつけることはできない。そこで腹をくくっている人もいるかもしれない。これでいい、と思って孤独のうちにこの世を去る人だっていると思うのです。」

「一面では、社会は決して『平等』なものではないと理解することです。口先だけで『個性』『個性』というよりも、その前にまず『ひとり』で立つことをめざす、そういう志をもつことです。」

この本を書いたとき、筆者は78歳でした。以降、自らの死を見つめる筆者の想いが静かに、正直に語られていきます。

「『ひとり』で立つことができれば、『死』はそれほど怖いものではないのかもしれないと思うけれど、あらためて自分に問うてみると、そのことにほとんど確信が持てない、仲間がほしいと思う自分がいる。」

「(散歩をしているときに、いつのまにか自然と一体になっている自分を感じたときから)人間というものは、自分を取り巻いている自然と溶け合って一つになるような気分になったとき、静かに自分の死というものを受け入れることができるのではないか、と考えるようになったのです。」

「死んだときは『散骨』をしてほしいと望んでいます。」

「死ぬことは自然に帰ることだと思っているからです。散骨する先は一ヶ所とはきめていまぜん。妻と私のどちらか生き残った方が、ゆかりの場所をたずね歩き、灰にしたのを一握りずつまいて歩く。遺灰になったものはじつに清らかなものです。やがて土に帰っていくことでしょう。」

こども向けに発行されたこの本は、内容はほとんどそのままに年長者向けに編集しなおされて発行されました。筆者は、宮澤賢治の次の言葉でこの本を締めくくります。

「われら、まずもろともにかがやく宇宙の微塵となりて無方の空にちらばろう」(宮沢賢治「農民芸術概要綱要」)

老いをむかえる僕の心に、深く染み入る言葉でした。




*インドのガンジス川での火葬の話については、だいごろうくんのとても素敵な紀行文があります。


「ゴールデンスランバー」

2011-06-09 20:01:59 | 映画
体調いまいち。気分ももうひとつ。なんか、すっきりしたい・・・



そんな昨日に見たのがこのDVD。「ゴールデンスランバー」は、伊坂幸太郎の作品の中で、僕の一番好きな小説です。

仙台市内に打ちあがる花火、下水道、広瀬川、そして耳に聞こえるビートルズのゴールデンスランバー。本では味わえない映像の楽しさを、満喫することができました。おもしろかったです。あー、すっきりした!! 

「コルトレーン ジャズの殉教者」(藤岡靖洋)

2011-06-08 20:28:37 | 
この本の裏表紙に、筆者はコルトレーン研究家であると紹介されています。この本を書くのに、筆者は、全米の資料館、図書館での調査、実地検証、親類縁者、関係者へのインタビューを、すべて自分の足で行こなったそうです。

コルトレーンの生涯、マイルスやモンクらとの出会い、彼の残した作品、「シーツ・オブ・サウンド」と言われる独特の演奏スタイル、人種差別に反対する想いなどが、丁寧に語られていきます。

コルトレーンは、1965年に発売した名作「至上の愛」のジャケット内側に自筆の解説文を書いています。

「何があろうと、すべては神と共にあり、神は寛大で慈悲深いこと・・・、神のなさることはすべて『愛』からであり、我々すべては『神の愛』に包まれているということを、それこそが『A LOVE SUPREME:至上の愛』であると。」

これ以降、コルトレーンは「神」に傾倒していき、演奏もスピリッチュアルになっていきます。なぜコルトレーンがそうなっていったのか、筆者は、コルトレーンがつきあった4人の女性を紹介しながら、その理由を明らかにしています。

そして筆者は、次の文章でこの本を締めくくります。

「『私は聖者になりたい』と来日記者会見で語った言葉は、その信念から発せられた言葉である。平和を求め、混沌とするこの世界に、自らの言葉で『神の愛』を伝える、その決意を胸にコルトレーンは、己の身を捧げ、使命に殉じていった。『平和と愛』を希求する、その純真さ、ひたむきさは、未来永劫語り継がれるべきものであると、筆者は信じる。」

筆者のいう通りなんだろう。しかし、この文章を読んで、これからコルトレーンを聴くのが、とてもしんどい気持ちになりました。これが率直な感想です。しばらくは、聴かないだろうな・・・。


「ジョセフ・クーデルカ プラハ侵攻 1968 」

2011-06-07 20:11:25 | 
この本を見ると、写真という媒体が持つ迫力に言葉を失います。




1968年、自由を求めて立ち上がったチェコの民衆の闘いは、ソビエト軍の戦車によって圧殺されてしまいます。ジョセフ・クーデルカは、素手で戦車に立ち向かう民衆の姿を、命を賭して撮り続けました。この本は、自由を求め立ち上がったチェコの民衆の歴史に残る記録です。



哀しみと



自由を求める切なる願いと



自由を蹂躙するものたちへの怒りと。

この3枚の写真を見るだけで、余分な感想はいらないと思う。

「酔いがさめたら、うちに帰ろう」

2011-06-06 19:16:38 | 映画
昨日、芦雪は大酒のみだったという話をしたけれど、大酒のみというとこの映画。

吐血、暴力、腎臓がん、生きているのが不思議だと医者から宣告されているアルコール依存症の戦場カメラマンが、離婚した妻や、子どもたち、母親に支えられながらアルコール依存症を克服していくお話です。

アルコール依存症を克服しようとする人々の精神病院でも生活も、くわしく紹介されています。

「病気の中でただひとつ誰からも同情されないものがある。それが依存症だ」これは、医者の言葉。人間生きていくうえで、家族の支えがとても大切だと思った作品です。ラストの忌野清志郎の歌も心に染みました。しんみりとした良い映画でした。


「長沢芦雪  奇は新たなり」

2011-06-05 21:45:34 | 美術館
今日は、ミホミュージアムで開かれている








長沢芦雪の展覧会、「長沢芦雪 奇は新たなり」に行ってきました。先週、先々週と日曜日は二週連続雨。気がつけば、最終日になっていました。午前中は予定があったので、昼から大急ぎで会場へ。



芦雪は、ぼくの大好きな画家の一人です。



一枚一枚の絵から、新しい表現を求め格闘した芦雪の姿がよく伝わってきました。




今日、一番美しいと思ったのはこの作品。「富士越鶴図」。なんとなくユーモラスな鶴の表情がとても印象的でした。



芦雪の書く、子犬や子どもたちや動物は、とてもやさしくて、幸せそうな目をしています。今日、初めて知ったのだけれど、芦雪は、長男と長女をともに2歳で亡くしているのですね。芦雪の心の悲しみが、子どもたちの目に表れているのかもしれないと思いました。絵を売って稼いだ金で、一晩中酒を飲み続けたと紹介されていたけれど・・・酒も飲みたくなるだろう。

「ふしぎなキリスト教 」(橋爪大三郎 大澤真幸)

2011-06-04 19:27:33 | 
社会学者橋爪大三郎と同じく社会学者である大澤真幸の、「近代社会の元の元にあるキリスト教」についての対談です。

大澤は、この対談の目的を次のように書いています。

「日本は、キリスト教ときわめて異なる文化的伝統の中にある。つまり、日本は、キリスト教についてほとんど理解しないままに、近代化してきた。それでも、近代社会というものが順調に展開していれば、実践的な問題は小さい。しかし、現代、われわれの社会、われわれの地球は、非常に大きな困難にぶつかっており、その困難を乗り越えるために近代というものを全体として相対化しなければならない状況にある。それは、結局は西洋というものを相対化しなければならない事態ということである。
 こういう状況の中で、新たな社会を選択したり、新たな制度を構想すべくクリエイティブに対応するためには、どうしたって近代社会の元の元にあるキリスト教を理解してゆかねばならない。」

この本は、ユダヤ教とキリスト教はどう違うのかと言う大澤の問いに対して、「ほとんど同じです。イエス・キリストがいるあどうか、そこだけが違う」という橋爪の答えから始まります。

ユダヤ教の歴史、なぜ一神教が生まれたのか、イエス・キリストとは何か、そしてキリスト教がその後の歴史・文明にどのようなインパクトを残してきたのかということが考察されていきます。

そして最後には、資本主義も、人権や自由や民主主義といった価値観も、カントやマルクスやヘーゲルらの思想・哲学も、そして音楽や絵画などの芸術も、キリスト教に深く根ざしていることが明らかにされます。

多神教の伝統を持つ私たち日本人が、一神教であるキリスト教やイスラム教をなぜ理解できないか、とてもよくわかったように思いました。

両氏とも対談していてとても面白かったと書いています。確かにおもしろかったと思います。



個人レッスン(5)

2011-06-03 21:41:58 | 日記
今日は、朝鮮語の個人レッスンの日。

僕からは、会社の経営状態や、韓国での仕事の話をしました。今週は、いろんなトラブルがあったので、ネタにはことかかなかったです(^^;。先生からは、地域で参加されているボランティア活動の話をうかがいました。

前回、韓国のポハン港の現場に行ったときに驚いたことだけれど、現場には緑色のヘルメットをかぶった方がたくさん働いておられました。元請の職員の方は白のヘルメット、下請けの職員方は黄色のヘルメット、緑色のヘルメットをかぶっているのは、ベトナムからの出稼ぎ労働者の方々でした。現場にある宿舎に寝泊りして、とてもきつそうな仕事をされていました。もちろん賃金も、とても安いのだと思います。この話をしたとき、先生もすこし驚いておられました。

今回も、あっと言う間の2時間でした。

次回は、ぼくのほうからお願いして、在日朝鮮人の方々が抱えておられる問題について、先生のお話を聞くことになりました。次回も楽しみです。

もっと朝鮮語がうまくなりたいなぁ・・・今日も強く思いました。