1日1日感動したことを書きたい

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人生の黄昏時だから、なおそう思います。

「ファン・ゴッホ 自然と宗教の闘争」(圀府寺 司)

2009-08-25 17:27:11 | 
 「ファン・ゴッホ 自然と宗教の闘争」(圀府寺 司)を読みました。著者は、日本のゴッホ研究の第一人者です。ゴッホが描いたモティーフ別(教会、農作業、太陽、ひまわり、糸杉、オリーブの木、種をまく人、掘る人など)の作品リストの考察を通して、一生涯をかけてゴッホが悩みぬいた課題を明らかにしようとした本です。実証資料が豊富で、とても読み応えがありました。

 ゴッホの画家への道は、牧師であった父との決別から始まりました。それは、伝統的なキリスト教の価値観からの決別をも意味しました。その背景には、資本主義の浸透によって崩壊していく教会を中心とした共同体の崩壊があったと思います。

 筆者は、次のようなゴッホの言葉を紹介しています。
 
「それでもやはり、ぼくには、何というか、宗教とでもいうべきものがどうしても必要だ。だからぼくは夜、星を描きに外に出る。」

「ぼくは人生においても絵画においても神様などなしにやっていけるが、ぼくのような苦しみの多い人間は、自分よりも大きい何かなしにはやってゆけない。それは、僕の生命であり、想像する力だ。」

 キリスト教の価値観と決別した後に、ゴッホが依拠しようとした「宗教」とは何なのか、「自分より大きい何か」とはいかなるものであるのか、筆者は、モティーフ別の作品リストを元にこの問題を考察していきます。

 ゴッホがゴーギャンたちとの共同体をつくるために、88年にアルルに移るまでは、農作業をしている人の背景に教会がたくさん描かれていたそうです。「教会」とは、もちろんキリスト教的価値観の象徴なのですが、アルル以降、教会の代わりに、教会のある位置に「太陽」が描かれるようになるそうです。「太陽」とは、ゴッホにとっての新たな神であり、「自然」の象徴でした。筆者は、ゴッホの絵において、「自然」が宗教の代替物の役割を果たしたと主張しています。

「ファン・ゴッホは自然に、星空にしがみつき、南仏の太陽という新しい神のもと、『黄色い家』という新しい共同体を作り上げようとしたのだ。」


 筆者が巻末につけているモティーフ別の作品リストを見ていると、なにか切ない気持になってきます。死をイメージする糸杉は1888年以降に、聖書の主題と密接に関連するオリーブの木は1889年以降に描かれるようになります。また、楽園のイメージの対極にある苦しみを象徴する「掘る人」は、「黄色い家」の希望に燃えていた1887年と1888年には描かれず、1889年から再び描かれるようになります。

 「黄色い家」という共同体への夢が破れ、苦しみの中で、天へとのぼる糸杉を眺めているゴッホの姿が、とても痛ましく思える一冊でした。