かぜねこ花鳥風月館

出会いの花鳥風月を心の中にとじこめる日記

2022年は、富士山展望の稜線を歩ければいいな

2021-12-31 12:05:02 | 日記

このところ、朝のBSプレミアムで、「グレートトラバース3 15min.」を流してくれているが、南アルプスを行く田中陽希さんは、必ずといっていいほど、富士山が見えると立ち止まり、眼を輝かせ、しばしのあいだ相好を崩している。

そうなんだ、富士山を展望するなら、近からず、遠からず、南アの前衛峰や天子山塊の奥にすっきりとしたコニーデ姿の富士山を西方向から望める南アルプスの山頂や稜線からがいいんだ。

グレートトラバースの撮影スタッフのおかげで、オイラも燃えるような黎明の富士や、逆光に青々と冴える朝の富士に息をのんでいる。

オイラは、十年ほど前に登った北岳山頂や間ノ岳に到る稜線から朝のブルー冨士にしばし見とれていた記憶はあるものの、それ以前に歩いた時は、それほど富士に愛情を注いでいなかったので、見えてはいたんだろうが、残念ながらほとんど記憶にない。

それもあり、来年から2,3年をかけて、南アルプス北部や南部の山々を再び歩いてみて、その時々の富士を眺め、撮影し、ささやかなアルバムにしてみようという気になった。

南部の山小屋は来年も休業するかもしれず、今朝のグレートトラバースでは、田中陽希さんが「隣のヒトのいびきで一睡もできなかった」という体験もしてたので、基本はテントをザックに入れて、山小屋は、悪天時の避難小屋というポリシーで、南に向かおう。(オイラは、いびきはあまりかかないが歯ぎしりをするといわれたことがある。)

そのためには、1月1日は酒浸りになるとしても、2日からは、坂道や神社仏閣の階段も取り入れた南アルプス対策コースを設定し、歩きかつ走ろう。目標は、月間500キロといこうか。三日坊主とならないように、Runkeeperさんのお世話になりながら、トレーニング記録もつけて、このブログにも書き留めよう。

まずは、正月二日、午前8時から午後2時ころまで、箱根駅伝をR1のラジオで聴きながらといこうか。

 【今朝のグレートトラバース3(上河内岳・茶臼岳)からいただいた映像 】


長町大橋からオオハクチョウの個体数を数えてみたら、28羽となっていた。この写真をスマホで撮ったあと、さらに曇天の寒空から3羽の家族が舞い降りてきた。したがって、2021年の年末時点で、31羽ほどの個体が北の大地から飛んできてくれたことになる。上流の工事の影響はなく、昨年とほぼ同様の個体数だと思われる。

パン切れなどの餌ヤリビトが絶えないからなのだろうか、ここにやってくるハクチョウは人懐っこい。河原に這い上がってきて、エサをねだるしぐさをしたり、ヒトがいる近くでも河原の草を食んだりしている。都会の方が、キツネやタヌキといった天敵が少ないので、むしろ人里離れた湖や沼よりも安全だという「家訓」を守りながら、これら家族は、この川に毎年やってくるのだろう。

きのう、地元のTV番組を見ていたら、グルメと称される伊達政宗のお膳には「ハクチョウ」の一皿も載っていたのだという。よって、近世以前に本州に渡って来たハクチョウの祖先たちは、ヒトも天敵だったわけで、はたして広瀬川のこの辺りにやって来たのか大いに疑問だ。

  

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よみがえる伊藤新道を歩ける日が来るのかな

2021-12-30 11:09:08 | 日記

年末、グレートトラバース特集や黒部源流紀行など山岳関係の特番を楽しんでいるが、12月28日NHKBS1で放送があった-「黒部の山賊」北アルプス秘境の山小屋に生きる-は、北アルプスの三俣山荘や雲ノ平山荘の主人たちの熱意が感じられて、とても興味深く視聴させていただいた。

番組後半は、この山荘を60年前に建てた伊藤正一さん(1923-2016)が、昭和31年に完成させた「伊藤新道」の再興の様子が描かれていた。

伊藤新道は、三俣山荘に到る最短ルートとされていたが、残念ながら架けられていたつり橋の崩落などで昭和58年頃に廃道状態なっているが、現三俣山荘のオーナーで正一さんの長男の伊藤圭さんが、親が開いた新道を何としてでも再興したいと、道の整備やつり橋の再建などに取り組んでいる。

「道を整備しても登山者が歩かないとすぐ廃れていく」と登山者の増加を期待しているが、ふもとの登山道に沿って流れる湯俣川に架かっていた五つのつり橋が、現在1つのみ再建されたばかりであり、まだまだ、一般登山者が通行できる状態ではなさそうだ。

だが、毎年小屋閉めの際には、スタッフ一同この伊藤新道を下るのを恒例としているようで、番組では、圭さんの中学生の長男や小学生の長女も加わって楽しく湯俣川を渡渉していたみたいで、増水さえしていなければ、それほど通行困難な道ではないのかもしれない。

ただ、登山口の高瀬ダム近辺まで、現在バスが走っておらず、タクシーだと信濃大町から1万円以上かかるということで、今は選択肢に入らないが、つり橋の再建やオンデマンド型の乗合タクシーなど、利便性と安全性が整えば、あるいは、オイラの目の黒いうちに、この温泉があり、美しい沢があり、上部の展望もよいという黒部源流への最短ルートを歩ける日が来るのかもしれない。圭さんがんばってね。

伊藤新道今昔

2018年8月、前日雲ノ平のテント場のテントが大雨でずぶ濡れになったので、オイラはこの三俣山荘に一泊お世話になり、ついでに小屋の周囲のハイマツに濡れたテントや寝袋を広げて乾かしたことを懐かしく思い出した。

この番組の前半では、小屋明け直後に、小屋のスタッフが周囲のハイマツに色とりどりの布団を干している様子が描かれていたが、当時も小屋の布団が干してあったので、オイラもそれを真似て寝袋などを干したことを思い出した。

「ハイマツには申し訳ないが、三俣山荘の周りのハイマツって人の背丈より低く、しっかり密生しているので、ものを干すのにいいんだよね。」

昨年・今年と全国の山小屋は、さらに厳しい経営環境に陥っているという。そんななかでも、番組の若き主人たちは、さまざまなアイデアで復興を果たそうとしているが、ぜひ熱い思いを実らせてほしいな。

「伊藤新道再興基金」なんてクラウドファンディングあったら、つり橋の単管1本分でも寄付したい気持ちになっている。(セコイか)

 

 

 

    

     三俣山荘前から眺めた槍穂の夕景がわすれられない。(2018.8)

 

 

   

     槍をバックに、山小屋の布団たちが干されていた。気持ちよさそうだった。

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クリスマスは終わっていないよ

2021-12-28 20:55:14 | 日記

朝のNHKFM「古楽の楽しみ」でバッハの「クリスマスオラトリオ」をやっているというので、録音して、午後にウォーキングをしながら聴かせていただく。

今朝は、六部からなる大曲の第二部からで、冒頭は、有名なパストラーレ(シンフォニア)。

Sir.J.エリオット・ガーディナー指揮のイングリッシュ・バロック・ソロイスツメンバーの古楽器演奏になるもので、何年に録音したんだろう、まるで羽が生えた天使になって羊飼いたちのいる牧場を浮遊しているような感覚。これまで聴いてきた、カール・リヒターの甘美なまでの静けさとは、また別世界の音楽を聴いているかのようだが、あまりの浮遊感にこの1年の鬱屈はどこかに消えていったようだ。

12月25日の「クリスマス」が過ぎると、わがニホンジンは、もうそんな日があったなんてすっかり忘れて、やれ紅白だ、正月だ、箱根駅伝だと忙しくお楽しみの矛先を変えるのを恒例としているのだが、ヨーロッパのヒトビトの教会のクリスマスのミサは正月を迎えても続いている。

バッハのこの「クリスマスオラトリオ」も、12月25日からはじまって、新年1月6日まで、6回ある降誕を祝う祝日や日曜日までに、それぞれ演奏するために6部構成としたのだという。

そして、クリスマスって、もともとはイエス様の生誕を祝うというものではなく、農民たちの冬の祭りだったとも聞く。北半球に生きる者、特に農民にとっては、葉が落ち草が枯れ、1年でいちばん日の短い冬至あたりを「受難」ではあっても、ここからスタートするという意味で「生誕」ととらえ、少しずつ光がさしはじめ陽気がもどって草の芽がはい出てくる春を「復活」と感じたことは容易に想像できるのであって、イエス様の誕生日を「冬至」あたりに設定したのは、多くの信者を集めようとした教会関係者のアイデアだったのだろう。(あくまで、個人的見解です)

バッハの「クリスマスオラトリオ」、六部構成のうち三部は、「イエス様の降誕と羊飼いたちとの出会い」、あとの三部は「イエス様の命名と東方の博士たちの来訪」となっているが、あとの三部は、あのマタイ受難曲のコラールが使われるなど、のちのちのイエス様の「受難」を想起させる不吉な影が差し始めくるようで、「生誕と受難の不可分」という聖書の教えを、バッハが忠実に音楽的に表現したのだろう。

音楽演奏では、日本は「第九」、イギリスは「メサイア」が年末の恒例だが、ドイツにあっては、年々「クリスマスオラトリオ」の演奏が主流となっているのだという。同じ北半球の住民として、もっと日本でも「クリスマスオラトリオ」が演奏されてもいいんではないか。大作だが、上の大作に負けず劣らず美しく荘厳だ。

ヒトとして生まれ、春夏秋冬を目の当たりにする者にとっては、「生と死」を「生誕と受難、そして復活」という西洋的発想で癒されても、「輪廻転生」や「永遠回帰」という東洋的発想に癒されてもいいのだと思う。

要は、古来ヒトビトは、宇宙の「生成~消滅~生成~消滅・・」という次第に明かされてきた物理的現象を直感したにすぎないのだろうから。今の科学者たちは、宇宙空間の、何もなかったような「ブラックマター」から星が発生したのだという。そこいらへんが、われらが「カミ」と呼んでいる実態なのだろうが、まだまだ謎は解明されるのだろう。

それはともかく、オイラは、2021年の冬、も少し、この美しい「クリスマスオラトリオ」を聴き続けていよう。鬱が晴れれば、それでいいのだ。

      

 この冬も、数羽にすぎないが、遠い北の大地から「ホシハジロ」が渡ってきた。前のシーズンと同じ個体あるいは縁者だと思うが、渡り鳥たちは、どうしてGPSも羅針盤も持たず、着の身着のままで高度何千メートルを飛んできて、凍えることもなく、正確に前の年のこの町を流れる川面にピンポイントで降りてくるのだろう。どの科学者も、その能力を解明していないことは事実だ。その意味で、渡り鳥たちを、尊敬してやまない。

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摂氏零度の街をスロージョグ

2021-12-27 18:31:53 | 日記

「寒すずめ 羽に零度の 気を入れて」

最低気温氷点下4度、最高気温零度の年末寒波の日。朝、ベランダに玄米を少し撒いてやったが、スズメたちは、雪のためエサに事欠くのか、昼間も近くで騒いでいたので、また少し米を撒いてやったらあっという間に完食して飛び去って行った。

 

下駄箱から、ほったらかしにしていたアシックス製「スノーターサー」を取り出して、勇気を出して凍った道路を少しスロージョグしてきた。靴底にクルミの殻を混ぜているという「スノーターサー」は、はたして頑張ってくれた。

 

     

少しスピードを上げても、体が温まらないので、8キロほど走ったふりをして雪の街から早々に退散した。広瀬川の水面をシベリア生まれの水鳥たちが元気に泳いで、何事もないようなそぶりであった。キミタチハエライヨ。

 

     

くしゃみをしながら、ヒトの負けだと思った。マスクが、ハナミズでビショビショとなっていた。

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比叡山を駆け下りながらワルターの第九を聴いていた日

2021-12-26 19:14:19 | 日記

年の暮れの風物詩である全国高校駅伝を毎年TVで見て応援している。いつ頃だったか、この駅伝を現地で応援しようと、青春18キップか夜行バスを利用して京都まで出かけたことがあった。

せっかくだから駅伝のコースを知っておこうと考えて、午前中の女子駅伝が始まる2時間ぐらい前に、スタート会場となっている西京極の陸上競技場をスタートし、コース沿いの歩道をジョギングしながら、女子の折り返し地点となっている10キロ過ぎたあたりで待機して、選手たちが走ってくるのを待った。

女子駅伝の応援を終わったら、さらに10キロ先の男子折り返し地点となっている国際会議場までジョギングして、男子選手が駆けてくるのを待って、最後の選手まで応援した。

国際会議場には地下鉄駅があったので、それで駅方面に戻ればいいものの、当時は時間と体力があったからか、ラジオのイヤホンでレースの行方を聴きながら、折り返して京都駅方面までジョギングした記憶がある。仙台育英高男子が優勝した2007年頃だったかな。(不明)

京都には、正月休みや春の18キップ利用期間などを利用して何度か訪ねている。古寺巡礼が中心だが、全国のトレランにチャレンジしていた頃には、これに合わせて、トレーニングもかねて「京都1周トレイル」コースを歩いて、走った。

コースは、京都市街を東~北~西方向に馬蹄形に取り囲む尾根上に整備されていて、京都エキナカの観光案内所で手に入れた地図を片手に、オイラは四度に分けて全コースを踏破した。東山の大文字や北山の神社仏閣もコース上に現れ、1000年の歴史の重みを感じながら原生の森も残されていて、とても気持ちよく辿れて、京都市民をうらやましく思いながら歩いた。

いつ頃の年の瀬だったか、京都駅からバスでお気に入りのお寺「大原三千院」までバスで行って、参拝したあと、大原から京都1周トレイル「北山・東部」の地図を片手にコースを時計回りに10数キロ歩き、比叡山延暦寺を詣でた時があった。雪は降らなかったが、凍えるような山上には終日深いガスが立ち込め、霧の中から時おり姿を現す堂宇や杉木立のシルエットに、ただならぬ神さびた気配を感じた。

延暦寺の梵鐘を高らかに打ち鳴らし、東日本大震災の犠牲者に手を合わせたあと、延暦寺の表参道(本坂)を小走りに滋賀県坂本方面に下った。

この下る間、オイラはウォークマンにつないだイヤホンから流れる「第九」を聴いていた。フルトヴェングラーでもカラヤンでもなく、その当時気に入っていたブルーノ・ワルターの「第九」だった。第三楽章の静謐が比叡の深い森にマッチし、その後に訪れる歓喜の歌を一緒に口ずさみながら、山を下る間ずうっと興奮していた。精神医学上は「躁状態」だったのかもしれない。あのように興奮して聴いた第九は、あれ以来二度とやってこない。

あの明智光秀さんの城のあった坂本の街は、比叡山の玄関口でもあるが、下りてから蕎麦の街でもあると知った。古い街並みの老舗の蕎麦屋で、冷たい蕎麦と熱い蕎麦湯で割った焼酎をいただき、その年の年越しそばとした。

 

     

 

 

 

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