かぜねこ花鳥風月館

出会いの花鳥風月を心の中にとじこめる日記

バードウォッチング・ウォーキング10k

2021-11-30 11:37:08 | 日記

きのうは、広瀬橋のハクチョウさん一家はどうしているだろうかと、トレランザックに双眼鏡とカメラをいれてウォーキングにでる。さすがにG3Ⅹとモナークを手にしてランニングとはいかないので、小走りに歩き野鳥に出会ったら足を止めるというストップアンドゴーのスタイル。

広瀬橋で一昨日出会ったのは4羽のハクチョウだったが、なぜか幼鳥1羽と成鳥2羽と1羽いなかった。一昨日と同じ家族だと思うがどうしたんだろう。気になってしょうがない。こうなると、今日も現地を周ってくるしかないのか。

   

今日も対岸の遠いところにいたが、カメラに撮ってくちばしを確認したら、この家族は「コハクチョウ」ではなくて「オオハクチョウ」だった。くちばしの黄色が半分以下なのが「コハクチョウ」、半分を超えているのが「オオハクチョウ」と図鑑に教えられている。

きのうは、オオハクチョウさんたちのほかにも、マガモ、コガモ、オナガガモ、キンクロハジロ、カワアイサなど北国からやってきた水鳥たち、同じく冬鳥のオレンジ色のお腹をしたジョウビダキの♂くんにも出会えた。

ジョウビダキ♂

 

休んでいるゴイサギさんはずんぐりむっくりと可愛いが、たくさんの子供たち(ゴマサギ)と木の枝に休んでいた。彼らは、図鑑によると東北以北は夏鳥に分類されているが、南に引っ越さないのかな、これから旅するのかな。旅の途中で疲れているのかな。観察しておこう。

ゴイサギ成鳥

ゴイサギ幼鳥背中

コガモ♂

カワアイサ♂ カワアイサ♀ 

マガモ♂  キンクロハジロ♀ 

 

チュウサギさんやアオサギさんなどの留鳥は、小魚の狩りに夢中。寒さに耐えられる体力づくりにいとまがないのだろう。

アオサギ♂♀同色 

 


深田日本百名山登頂の思い出  88 荒島岳(あらしまだけ・1523米)

2007年という年は、百名山の登り残しの「追い込み」で集中的に出かけていたが、おもに青春18きっぷ・深夜バス・レンタカーの組み合わせをアシに使っていた。

小石の記録では、荒島岳登山は2007年10月7日。登山口としたのは、JR越美北線勝原(かどはら)駅だった。福井県は当時住んでいた仙台からは遠すぎるし、わざわざ荒島岳一座に登るだけに出かけるはずはないと、小石を探したら伊吹山が2007年10月6日と分かった。

「そうか、伊吹山を登ってから、線路を繋いで比較的近い?福井県の荒島岳に行ったのか、でも18キップの時期でもないのにアシはどうしたんだっけ」

と考えてみたら、

「あ、そうか、JRがこの頃、3日間在来線乗り放題の鉄道記念日記念切符を販売していたな!。」

とギモンが解決した。でも、各駅ばかりで3日間で帰ってくることは厳しい、どうして帰ったのかは不明だが、おそらく金沢か新潟に出て深夜バスでもどったのだろう。

伊吹山と荒島岳の小石にはそれぞれ「98」「99」とも記されていた。荒島岳は、百名山全山踏破に「王手」をかけた記念すべき山だった。

山頂の石仏群と黄金色に輝く越前の田園風景と山並みを眺めながら、晴れ晴れとした気持ちで荒島岳山頂にしばらくの間座っていたことを思い出した。

    

 

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帰ってきたコハクチョウ一家

2021-11-29 07:58:23 | 日記

広瀬川の広瀬橋のたもとには、毎年20~30派のコハクチョウさんたちがやってきて市民に親しまれているが、もうすぐ師走だというのに姿がみられなかった。今年は、お隣の宮沢橋の架け替え工事が行われていて、北側の河原の仮設道をダンプカーがひっきりなしに走っているのが原因ではないかと、案じていた。

きのうは、日暮れまじかに広瀬川河畔をスロージョグしていたが、はじめ広瀬橋を渡ったときも姿がなかったので、「ああ、やっぱりこないのか・・」と思いつつその場所を過ぎて、上流に向けて1キロばかり川面を眺めながら走り、同じコースを引き返し広瀬橋近くに戻ってきた…その時

上空から大きな羽を広げたハクチョウ4羽がゆっくり体を旋回させて、静かに川面に降り立ったではないか。「そうか、ハクチョウが狭い水面に降り立つときは、こんなに静かな舞い降り方をするのか」と驚いたが、やっと戻ってきてくれたことをしみじみと喜んだ。あるいは、すでにやってきていてどこか餌場に行ってきたのかもしれないが、オイラは、4羽のコハクチョウさん一家が、遠いシベリヤからこの地にいまたどり着いたのだと、勝手に断定した。

3羽の羽根が白く、1羽だけが灰色。どういう家族構成なのだろう。両親と昨年生まれた姉と、今年生まれた弟なのだろうか。コハクチョウの♂♀の区別が分からないので、勝手にそう考えることにしよう。

この後、次々と後続の家族がやってくることを祈りながら、継続して観察してみよう。

今日は、バードウオッチング・ウォーキングといこうか、NAHAマラソン記録中なので、10kは歩こうぜ

 

 

   

 


深田日本百名山登頂の思い出    87 白山(はくさん・2072米)

深田さんの「ふるさとの山」でもあり、オイラにとっては、一度しかその山頂を踏んではいないが、いつも心から離れず、地図にあるいくつものコースを眺めながら、どこを歩こうかと想像をめぐらしている「憧憬の山」。

深田さんの言葉を借りれば、「匐松と高山植物に覆われた頂上には幾つかの旧火口があって、そこには紺青の水が湛えられ、それに配する雪渓や岩の布置が、天然の庭園ような趣である。しかも夏期登山者で賑わう頂上附近を少し外れると、原始のまま静かな気持ちのいい場所が、ほとんど汚されずに残っている。」

オイラは、1987年頃の和歌山勤務時代、職場の旅行が能登半島だったため、帰りに金沢で降ろしてもらい、ひとり夏期登山者の賑わう白山に登り、深田さんの表現にいささかの間違いのないことを知った。

今年、コロナ禍がなければ、南竜ヶ馬場にテントを張ってゆっくり星を眺めていただろうに。

仙台から高速バスに乗って目覚めれば金沢駅にワープできる。来年、「憧憬の山」再訪できるかな。

 

       

          乗鞍山頂から眺めた白山(2019.9)

 

    

    

 

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グレートトラバース3最終章ありがとう(涙)

2021-11-28 14:30:14 | 日記

 

昨夜BSプレミアムで放映された「グレートトラバース3 日本三百名山全山人力踏破【最終回 2万キロ踏破!大雪山から利尻】」を録画で視聴。

最後の利尻山が8月2日だという。オイラが石垣島に滞在していた2018年1月1日からだから、なんと3年8か月も要したことになる。当初は、2年の予定だったはずだが、田中さんの骨折やコロナ禍などの停滞だけではなく、やはり美しい山岳映像を視聴者に届けようとする制作スタッフが天候の具合を見計らいながら、かつ田中さんの安全をも考慮しながら余裕をもって日程を調整したことが、当初の計画を大幅に上回る結果になったのだと思う。利益優先の民放では決して成し遂げられなかったろう。(再三言うが、NHKのまわしものではありません。)

ほんとうに、301座の山の姿と登山道の様子を美しい映像で提供してくれた。オイラは昭文社「山と高原地図」やgoogle Earthなどを開きながら田中さんの歩みをなぞりながら放送を見た。家に居ながらにして301座を歩かせていただいた。ありがとう。グレートトラバース15minも含めてたくさん録画もさせていただいたので、これからも「生きる勇気の触媒」として繰り返し楽しませてもらおう。もちろん田中さんの「超」がつくほどの偉業と人間性にも拍手だが、カメラマンたちの仕事ぶりにも拍手だ。田中さんの歩き姿は、彼と同じようなスピードで、それもほぼ後ろ向きの姿勢で歩かないとあの映像は取れないのだと思う。皆、田中さん以上の山岳エキスパートなんだろう。田中さんもカメラマンも大きな事故もなく撮影を終えられて安心した。くり返しになるが、田中さんと番組スタッフの皆さんありがとう。

 

NHKグレートトラバース3

 

 

 


深田日本百名山登頂の思い出       82 塩見岳(しおみだけ・3047米)

                    83 悪沢岳(わるさわだけ・3146米)

                    84 赤石岳(あかいしだけ・3120米)

                    85 聖岳(ひじりだけ・3011米)

                    86 光岳(てかりだけ・2592米)

 

86座の光岳をのぞく南アルプス南部の山々に登ったのは、皆昭和50年代で、塩見岳は前期のように北部からの縦走で昭和51年(1976年)7月、悪沢岳は翌52年(1977年)7月、昭和55年(1980年)8月、聖~赤石~悪沢縦走で頂上を踏んでいる。

二度以上登って上書きされていないが、何分古いので断片的な記憶しかない。その断片。

① 悪沢岳初登頂は、当時南アルプス南部の入山口の主流であった転付峠(でんつくとうげ)越で二軒小屋に下りマンノー沢ノ頭を経由しテント泊した。デンツクゴエは名にしおう急登の道で、今は利用する登山者も激減したようで、「山と高原地図」では道の荒れていることを示す破線ルートとなっているのが隔世の感がある。

② 当時のオイラの南アルプスの登山スタイルは背負子(しょいこ)に40~50リットルザックと食料を入れた一斗缶を横付けにして歩いていた。その方が、縦走などで荷が重くなる場合は、背負い心地がいいと確信していたのだろう。ザックには一眼レフカメラを入れて、三脚も持参していた。何キロぐらい背負って歩いていたかは記憶にないが、今より格段に重かったのだろう。

③ 二度目の悪沢だったか、めずらしく千枚小屋に泊まったら「冷ややっこ」が夕食に出てきて驚いたことをいまでも鮮明に覚えている。どうやって山の上に揚げたのか聞いておくべきだった。あんなに冷えて美味しいヤッコには、その後出会っていない。

④ 殆んどのヒトがそうだろうが、当時オイラは行動中にビール一口でも飲むとガクンと力が落ちて、とても登ってはいられなかった。悪沢からの帰り、千枚岳山頂で二人の年配者に出会ったが、彼らは「飲まないと山は力が出ない」といって日本酒だったかカップでグイとやって、そのまま悪沢方面にスイスイと歩いて行った。(今のオイラだったらできそうだ。年を食うとカンゾウがマヒするのだろう。)

 

光岳は、2007年7月29日に登頂している。前々日、オイラは富士吉田市の「富士登山競争」を初完走して、ご機嫌をそのままに静岡駅前のビジネスホテルに泊まり、早朝の畑薙ダム行の長距離バスに乗ろうとしていた。ところが、事故か何かでそのバスが運休となっていたことを知り、急きょJR飯田線平岡駅に回り、最終バス停から易老渡という登山口まで4,5時間ヒグラシの蝉しぐれのやまみちを歩き、テント場に着いた時には薄暗くなっていた。翌朝3時前には出発。コースタイム15時間の行程を午後2時ころまでには下りてきたので、元気がありすぎた。

南アルプス南部、聖岳の姿を見ただけでも震えが来るくらいの神々しさを感じる。あまりにも堂々とした山容だ。テントかツェルトを担いで、もう一度懐かしい南部の山々をコースタイムの倍という計画でゆっくりと歩こう。

  飛行機の窓から見えた南部の山々。中央が赤石岳かな。(2018.2)

 

 

 

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トレランは卒業したけれど、グレートレースを見るのが好き

2021-11-27 10:21:27 | 日記

NHKBS1で昨夜放映されたグレートレース「頂上決戦夏の陣~奥信濃100」を視聴。

こうした大会、コロナ禍で多くが中止や延期となっていたが、スタート時やエイドの場などでのマスク着用義務など感染対策を徹底しながら少しずつ開催されはじめてきたようで、久々国内のレースを見たような気がする。

数えてみたら、オイラは2003年頃の「ハセツネ」からはじまっって30回を超えるトレラン大会に参加してきたが、完走できない体になってしまって(そう言い聞かせて)2019年2月の「石垣島オーシャンビュー」を最後に卒業した。

だが、卒業後もNHKさんが放送してくれる「グレートレース」を見ることは大好きなのであって、マラソンや駅伝の比ではない。

なぜ好きなのかと問われれば、もちろんトップアスリートのスピードに驚嘆したり、体力消耗による急激なペースダウンや故障による上位選手の抜きつ抜かれつというスリルを味わうことも楽しいのであるが、よおく考えると、森や草原、岩場や谷間という自然の美しい風景が次々に移り変わっていく映像を見たり、アスリートの荒い息遣いや踏みしだく落ち葉の音などの音響を聴いていると(イヤホン効果)、いつの間にか自分もそのレースに参加しているような錯覚に陥り、そのような臨場感が楽しくてならないのだ。十数年という短い期間で、後ろの方から数えたほうが早い鈍足アスリートではあったが、30数回のレース経験がそのような錯覚に陥らせているのかもしれない。とにかくトレランは、フルマラソンやウルトラマラソンに比較しても濃密な体験だったので、熱いICチップのようなものが脳内に埋め込まれているんだと思う。

このレースでは、83歳のレジェンドも参加していて、何と時間内完走していた。頭が下がる思いだが、人間その気になれば死ぬまで続けられるんだなと、叱咤を受けた気分になった。トレラン復帰とは考えないが、山は死ぬまで歩こうか、すくなくとも83歳まではいける、とつぶやく。

NHKグレートレース

 

      

                  残照のごとく燃え盛れ

 

 

 


深田日本百名山登頂の思い出        77 甲斐駒ヶ岳(かいこまがたけ・2967米) 

                     78 仙丈ケ岳(せんじょうがたけ・3033米)

                     79 鳳凰山(ほうおうざん・2841米)

                     80 北岳(きただけ・3193米)

                     81 間ノ岳(あいのだけ・3190米)

 

同じ山に二度、三度と登ると登頂の記憶が上書きされて、古い登頂の記憶が薄ボケてくることもあるようだ。

南アルプス北部の山で、いちばん最初に登ったのは昭和51年(1976年)5月の鳳凰山とメモ書きにある。たしか大学の友人S君と登ったのかもしれないが、どこから登ってどこに下ったのか思い出せない。ただし「青木鉱泉」と「夜叉神峠」という固有名詞は頭から離れていなかったので、どちらかを登山口、下山口にしたのだろう。

鳳凰山には、二度目の沖縄暮らしの2013年ころ、夜叉神峠~南御室小屋テン泊~鳳凰三山~広河原テン泊~北岳肩の小屋テン泊~北岳・間ノ岳往復~白根御池小屋テン泊という山旅で歩いていて、そちらの記憶の方が鮮明だ。お天気に恵まれた、富士山展望の日々であった。

昭和51年(1976年)7月には、1コ下のいとこJ君と北岳~間ノ岳~塩見岳とテント縦走をしているが、なぜか熊野平小屋のテン泊地のハイマツ地帯(道の真ん中にあった〇〇こ)と三伏峠からの下山中に出会った沢で水浴びした記憶だけが残っている。

北部の山の百名山で残っていた仙丈ケ岳と甲斐駒ヶ岳には、平成12年(2000年)5月、職場の後輩Ⅿ君と北沢峠の山小屋を起点として残雪の中を登っている。心配した甲斐駒ヶ岳の雪はそれほどでもなく快適に登った。今から思えば、Ⅿ君との山行は、いつも営業山小屋だったな。当時独身貴族だったⅯ君に見得を切っていたのかもしれないし、長身のⅯ君をわが小テントに押し込むのは忍びないと思っていたからか。

百名山ではないが、北岳、間ノ岳とともに白根三山に数えられる農鳥岳は、これも沖縄暮らしの2014年頃、身延~奈良田~大門沢~農鳥岳~農鳥小屋素泊まり~間ノ岳~仙塩尾根~仙丈ケ岳~下山中登山道脇テン泊~北沢峠から徒歩で広河原~甲府という山行で登った。そろそろ体力が衰え始めたようで、農鳥岳小屋にテン泊する予定だったが、コースタイム10時間に疲れ切ってあたりも暗くなり小屋に泊まることにしたが、小屋のオヤジに「こんな遅くまで歩いていたのか」と叱られた。このコースは、大門沢小屋にまずは一泊するのが常識だろう。

翌日の仙塩尾根コースも、夜明け前に小屋を出ても仙丈ヶ岳までだけでも10時間のコース、仙丈小屋や馬の背ヒュッテにテン場はなく、暗くなったので、少し下った草むらにテントを張ったが、少し傾斜があり寝心地が悪いこともあり、夜明け前の午前三時ごろには下り始めた。だが、ヘッドランプの灯りだけで藪沢の渡渉地点を探すのにエライ苦労した記憶がある。何事も無茶はいかん。

来年から2~3年かけて、オイラは南アルプスを「復習」しようと思っている。まず、一度だけしか登っていない南部の山々が目標だが、北部の山々には必ず帰ろうと思っている。北岳のキタダケソウも宿題として残っている。南には、体力が必要だ。だから、もう一度走り始めた。

    

              蓼科山から眺めた南アルプス北部の山々

     

 

     

    

    

 

 

 

 

                     

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遊び仲間たちとのお別れ

2021-11-25 10:41:53 | 日記

こないだ帰郷した娘に尻を叩かれたこともあり、そろそろ「断捨離」をはじめようか、という気持ちになってきた。手始めに、今朝は、昔の遊び仲間「釣り竿5本」「キャンプ用大型クーラーボックス」「歩くスキーセット」「山スキーセット」「トライアスロン用自転車のフレームなど」に粗大ごみ券を張って、指定された粗大ごみ置き場に運んでいった。

釣りは、1987年に和歌山の田辺に暮らしていた時に覚えて病みつきになり、磯釣り竿、投げ竿、ルアー竿、船竿など次々とをそろえて、和歌山では、磯ではグレ(メジナ)やチヌ(クロダイ)、砂浜ではキス釣りに執着した。1990年以降仙台に暮らしてからは、防波堤でスズキやメバル、乗合船でカレイやヒラメ、ボートでアイナメ、砂浜でスズキやイシモチなど現を抜かした。釣り道具は、2001年の沖縄転勤の際にも持って行ったが、それっきりほとんど使わなかった。なぜかというと、ダイビングを覚えてからは、お魚が可愛すぎて、釣ってさばいて食べようという気にはならなくなったから。まあ、お刺身や焼き魚と人一倍魚介好きのオイラの言える立場ではないが、しかしながら現実としてオイラの釣り人生は10年ちょっとで終わった。

学生時代に覚えたスキーは、北海道に暮らし始めるとゲレンデから林道や登山道を歩くスキー(クロスカントリーほど本格的ではない)移っていき、山岳会に所属した旭川、八戸時代は、山スキーに埋没していったが、温暖地和歌山に移動した時点で、スキーの世界とはお別れをしてしまった。今朝別れたスキー板くんたちとは遊びもしないのに30年以上も部屋に放置されていたことになる。可哀そすぎます。

大型のクーラーボックスは、車を所有していた時代に娘らとキャンプに行くために買ったものだが、2,3度使用しただけで20年以上も使われずに釣り道具などのガラクタ類を入れていたもので、それでも使い古したように汚れていた。

トライアスロン用の水色のカーボン製フレームは2001年に、宮古島で購入したもので、トライアスロンの練習に周囲100k程度の宮古島を何度も何度も一緒に走った仲間。沖縄本島、石垣島を含めて6年間苦楽を共にした仲間で、2003年落車事故にあっても、オイラが鎖骨を折ったのに、どこにもゆがみなくその後もがっばってくれたやつ。捨てるにに忍びないとフレームだけ部屋に横たえていたが、やはり使う当てもないので捨てることにした。さようなら。

釣りにスキーに家族キャンプにトライアスロンにと今日お別れしたグッズ・ギアたちとは、短くもオイラの青年期や壮年期をおおいに楽しませてくれたものたちだ。今度は思い出の小部屋にしまっておこう。

 

         


深田日本百名山登頂の思い出  76 恵那山(えなさん・2190米)

恵那山頂から下山中に「あ、頂上の小石拾ってくるのを忘れた!」と悔やんだ思い出がある。よって恵那山をいつ登ったのか不明であるが、頂上の小石は、集中して百名山歩きをしている2007年に集めていたので、その年だったかもしれない。

恵那山登山に選んだルートは、あのウェストン卿も歩いた前宮ルートという一番長いルート。あのころネットで、恵那山神社を登山口とする上川(かおれ)道とも称されたクラッシックルートが整備されており、素晴らしいルートだという情報を仕入れていたので、オイラもこの道を選んだ。

岐阜県中津川の駅前から恵那山神社のあるウェストン公園前までバスに乗り、ウェストン卿の像に挨拶してから登り始める前宮コース。地図だと往復13時間は要すると記されているが、たしかオイラは8時ごろの朝一のバスに乗って、夕方5時ごろ、暗くならないうちには帰りのバスに乗ったのだから9時間以内で往復してきたことになる。あの頃は、富士登山競争にも100kマラソンにもチャレンジしていた時期でもあり、体力には自信があったのだろう。今のオイラからは想像もできないオイラが存在したことになる。

ともかくも、頂上まで1合目から20合目までの標識があり、古いモニュメントや古木を目にした神さびた静かな山道で、1日誰にも会わず、頂上の展望もきかないながら、充実した山歩きだったので、オイラの選択に誤りがなかったのだろう。

2015年9月はじめ、木曽町のウルトラマラソンを終えた翌々日、オイラは妻籠~馬籠~中津川までという中山道の宿場町を繋ぐウォーキングをしたが、東に鎮座する恵那山の堂々とした姿に、何度立ち止まったことだろう。そしてあの上川道の静かな古道を思い出してもいた。

       

          前宮ルート、この地図には全部が載っていません。

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